二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑/佐治晴夫、松岡正剛

なんで、いままで、この本を読まなかったんだろう。そんな後悔をしてしまうくらい、読んでよかったと思える本でした。 松岡さんの対談は、これまで内田繁さんとの『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』や茂木健一郎さんとの『脳と日本人』を読みましたし、佐治晴夫さんの対談も養老孟司さんとの『「わかる」ことは「かわる」こと』を先日紹介したとおり、どれも面白く、とても興味を惹かれる内容でした。 でも、この本はそのどれにも増して、素敵な一冊でした。20世紀の終わり(この本の元になった対談は1997年の3月から1998年の3月の1年間で6回に分けて行われています)に1日の終わりに位置する「トワイライト」を1つのキーワードにして行われた対談は、佐治晴夫と松岡正剛という2人の人間による声の重なり以上の、ポリフォニックな多声の響きを感じる、対話によるオーケスレーションになっています。 宇宙のはじまり、生命の進化、意識の謎から、恋愛や感性のトキメキ、数学の美しさや失望の香ばしさなど、幅広い話題を絶妙なオーケストレーションで1つに紡いでいく流れは、読んでいて引き込まれてしまいます。 恋愛はシュレーディンガーの猫?例えば、恋に関する話題でも、 松岡 「箱を開けるまで、それがどうなっているかわからない」という、あるいは「『ただいま』と言ってドアを開けるまで、中の人が病気なのか元気なのかわからない」という、それと同じような状態になっているので、「恋」というのは上出来なのではないですか。つまり…

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日本民藝館手帖/日本民藝館 監修

ちょっと行って確かめてきました。「美しい品物だけを列べ」てあるかどうか。 この民藝館は美しい品物だけを列べようとしております。ものの存在価値は美的本質によるものであって、他の要素はこれに比べては二次的なものと考えられます。 柳宗悦「日本民藝館の使命」 日本民藝館 監修『日本民藝館手帖』 日本民藝館は、民芸運動の主唱者であった柳宗悦により、1936年(昭和11年)に駒場に創設された、日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工などを集めた美術館です。展示されている品々は、それまでの美術史が正当に評価してこなかった、無名の工人の作になる日用雑器、朝鮮王朝時代の美術工芸品、木喰の仏像などで、柳本人が日本各地を歩き回って蒐集したものです。 日本民藝館:http://www.mingeikan.or.jp/home.html それではどんな美が最も正しい美であるか。 私達は健康な美、尋常な美の価値を重く見たいのであってかかる美が最も豊かに民藝品に示されていることを指摘したいのであります。 柳宗悦「日本民藝館の使命」 日本民藝館 監修『日本民藝館手帖』 日本民藝館は、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動などとも共鳴した柳らの民芸運動の拠点でした。

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最近買った本(柳宗悦さんとか柏木博さんとか)

久しぶりに最近買った本の紹介。久しぶりなのですこし前に買ったものも含めて。 ものづくりまずは、ものづくりに関連した本4冊。基本的に、このほかの本もそうですけど、日本のものづくりに偏った読者をしていますね、最近は。 柳宗理 エッセイ/柳宗理日本民藝館手帖/財団法人日本民藝館 監修道具と暮らす室内と家具の歴史/小泉和子    

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「わかる」ことは「かわる」こと/養老孟司、佐治晴夫

考えない、行動しない、他人の心を想像しない。だから、わからないし、変わらない。 養老 つまり、その人の行動なり、考えなり、世界観なりがその段階で変わっていない。言ってみれば、小手先を変えればすむと思っているということです。 佐治 「わかる」ということが、「わ」と「か」を入れ替えて「かわる」ということになっていない、ということですね。 養老孟司、佐治晴夫『「わかる」ことは「かわる」こと』 佐治さんが<知るというのは「わかる」の「わ」と「か」を入れ替えて「かわる」ことだと思っています。>といい、養老さんが<変わらないけど頭に入っているものを「ただの知識」というんです。>と受ける。ともに還暦を過ぎた解剖学者と理論生物学者による対談は、宇宙のこと、音楽のこと、生物のこと、意識・言葉のこと、教育のこと、学習のこと、そして、男と女のこと、脳のこと、数学のことと話題は多岐にわたります。 しかし、そこに通底しているのは、137億年の宇宙と生物の歴史を汲んだ「わかる」ということ、「考えること、行動すること」、そして、「かわる」ことに対する2人の共通した思考だという気がします。

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かくれ里/白洲正子 & 白洲正子と歩く京都/白洲正子ほか

最近、僕のなかで熱い人は誰かと問われれば、間違いなく白洲正子さんをあげたいと思います。 白洲さんの魅力は、なんといってもモノを見出す眼力でしょうか。すでに亡くなられていますが、京都を中心に西国を歩きまわってみつけた物事を記したその本の魅力はいまだからこそ、より輝くのではないかと思います。 天才と呼ばれた青山二郎や小林秀雄にかわいがられた白洲さんのの本は以前に『お能・老木の花』を紹介しましたが、今日は白洲さんの代表作の1つでもある『かくれ里』と、白洲さんが綴った京都に関する文章を引用しながら京都と白洲さんの魅力をまとめた『白洲正子と歩く京都』という2冊の本を紹介したいと思います。

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京都の意匠&京都の意匠Ⅱ/吉岡幸雄+喜多章

『京都の意匠―伝統のインテリア・デザイン』と『京都の意匠Ⅱ―街と建築の和風デザイン』を読みました。 ここに収められたものは、京都に生まれ育った私の、50年余りにわたる「眼」の記憶である。 京都の街を遊行していて、印象にのこったさまざまな意匠を拾い集めたものである。 著:吉岡幸雄、写真:喜多章『京都の意匠―伝統のインテリア・デザイン』 と語る京都在住の吉岡幸雄さんが「建築空間を写して今や第一人者と信じる写真家、喜多章氏と5年間にわたって京の街を行脚し、カメラに納めてもらったこの写真」とともに、京都の意匠を自身の体験などを交えて紹介する素敵な本です。 そのサブタイトルどおり『京都の意匠―伝統のインテリア・デザイン』では玄関・窓・引手・釘隠し・欄間などの住宅建築の室内の意匠を中心に、『京都の意匠Ⅱ―街と建築の和風デザイン』では門・塀・垣・屋根・看板・暖簾・路地などの外部空間に面した意匠を中心に扱っています。 古い町屋や文人宅、寺社建築などの意匠を紹介した写真や文章は、これまで読んだ『ふすま―文化のランドスケープ』や『庭と日本人』、『茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン』などで言葉を中心に想像してきた世界が具体的に展開されていて、非常に興味深く写真をのぞきこんだりしてしまいました。

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近代デザイン史/柏木博編・著

どうしてこんなことになってしまったのか? 下記で紹介してきたような本を読むと、かつての日本にはいまのものづくりとは異なる、暮らしのデザイン手法、ものづくりの方法が確かにあったことがわかります。しかし、それがいつしかすっかり失われてしまいました。 茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン/内田繁普通のデザイン―日常に宿る美のかたち/内田繁ふすま―文化のランドスケープ/向井一太郎、向井周太郎庭と日本人/上田篤鯨尺の法則―日本の暮らしが生んだかたち/長町美和子デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く/内田繁/松岡正剛 編著玩物草子―スプーンから薪ストーブまで、心地良いデザインに囲まれた暮らし/柏木博 もちろん、それが失われた時期はわかっています。何がそれにとって代わったのかも。しかし、問題はどうしてこれほどまで極端な変化が可能だったのかということ。あるいは具体的にその変化はどのようにして成し遂げられたのかということでしょうか。 近代デザインの出発は、誰もが他からの強制(力)を受けることなく、自らの生活様式を決定し、自由なデザインを使うことができるのだという前提を条件のひとつにしていた。 柏木博「近代デザインに向かって」 柏木博編・著『近代デザイン史』 そう。出発点はここにあったのかもしれません。 日本においては8世紀以降、中国をお手本とした律令格式がありました。そこには衣服や色づかいなどのデザインに関する規制(約束事)が含まれていました。江戸期において規制の内容そのものは変わっ…

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ふすま―文化のランドスケープ/向井一太郎、向井周太郎

日本のデザイン・ものづくりに関する興味がとまりません。知れば知るほど、その考え方が新鮮に映ります。そして、何より僕が興味をもつのは、西洋のものを静的にとらえる発想にくらべて、日本のデザインがものを固定しようとしないところ。ものも人も変化するものとして捉える発想は、今後ますます必要となるであろうインタラクション・デザインを考えるにあたってのヒントに満ち溢れているように感じます。 そんな僕の日本デザイン・日本のものづくりに対する関心をより大きくしてくれたのが、今日紹介する『ふすま―文化のランドスケープ』。 「ふすま」は平安時代の寝殿造りの住居に由来します。そのことを想い起してみますと、「ふすま」によって柱間が仕切られていくという住居の形式が、平安時代から千年以上も経た今日にもおよんでいることにあらためて気づかされます。少なくとも、私の世代の子どもの頃、ついこの間までは、このような「ふすま」という間仕切りによる住居の形式が一般的であったといえます。 向井一太郎、向井周太郎『ふすま―文化のランドスケープ』 すでに「「自分探し」より大事なのは「もう一人の自分」をみつけること」でも一部を紹介しています。著者はインデストリアル・デザイナーである向井周太郎さん。第一部は、ふすまを中心に据えて日本の建築、すまい、暮らしのデザインの在り方や思想を考察した内容になっており、第二部では、その向井さんが父親であり、吉田五十八や村野藤吾などの有名な建築家の建築のふすまづくりなどを手がけた経師・表具師であっ…

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玩物草子―スプーンから薪ストーブまで、心地良いデザインに囲まれた暮らし/柏木博

近代のデザインを中心にデザイン史を研究している柏木博さんの『玩物草子―スプーンから薪ストーブまで、心地良いデザインに囲まれた暮らし』を読んでいると、結局、デザインの仕事にかかわっている人というのは、モノが好きな人なんだろうなと感じます。 敬意をふくんだ愛情をモノに対してもてるほど、デザインの仕事が好きになるのではないか、と。 気に入ったものを購入したら、それを手入れすることも楽しいものです。道具は、それを用いたらもとの位置に戻したり手入れしたりすることもふくめて、すべてが使う行為なのです。 柏木博『玩物草子』 「モノが好き」というのは、クルマとかデジタル家電(デジもの)とか、そういう特定のモノが好きというのとはちょっと違う気がしています。

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庭と日本人/上田篤

この本を見つけたのは偶然でした。 たまたま、その日は出かけた際に電車のなかで読む本をもっていなかったのでした。 そして、移動中、本を読むのを我慢するのはいやだったのです。 そして、品川駅構内の本屋で見つけたのがこの一冊。 あまり期待していなかったんですが、読んでみるととても参考になりました。 ずっと疑問に思っていた、 日本人はなぜ家にあがるとき、靴を脱ぐのか? に対する答えが見つかった気がしたからです。

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デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く/内田繁/松岡正剛 編著

「携帯電話が入らないのは衣服のデザインの問題なのか?」や「包むデザイン:身体を包む衣服、都会に包まれる衣服」で、衣服のデザインについて書きはじめてちょっと気づいたことがあります。 それは、もしかするとWebの話やIT、科学や経済、ライフハックやAV機器について語る際には饒舌なブロガーも実は、ファッションあるいは生活雑貨のように個人に根ざした感覚的な要素が多分にあって、理屈や論理で語れないものを前にすると途端に寡黙になってしまうのでは?ということです。 ちなみにここで「ファッション」と記述していますが、それは必ずしも流行服の意味で使っているのではなく、衣服全般の意味で使っています。衣服と書くよりも、ファッションと書いたほうが、機能的な側面よりも、趣味的なもの、個人的なセンスに関わるものという雰囲気が伝わりやすいのではないかと考え、この語を用いています。 普段どんなに、好きなことをやるとか、自分しかできないことをやればいいとか、一見感覚的にも思えることを書いていても、結局はそれも道徳的あるいは倫理的な感覚のもとで書かれたものでしかないのではないか。社会の枠組みと照らし合わせることでようやく語ることが可能な、後出しじゃんけん的な言説なのではないかと気づいたわけです。 カウンター的な表現はあっても、もっと個人の趣味や感覚に根差した好悪のようなものが表出していないのではないか。そう思ったんですね。そして、それはちょっと論理に偏りすぎているのではないか、と。

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お能・老木の花/白洲正子

僕は、能を見たことはありません。 この本を読もうと思ったのは、最近、能を見てみたいなと思いはじめたからです。能を見たいと思ったのは「「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史/竹内整一」で紹介された能の謡曲の世界に興味をもったからでした。 お能がいつ、どこで、どうして発生したかと言うことは、おそらくだれにもはっきり言えないと思います。舞踊の歴史は人類とともに古いのです。お能はその長い長い舞踊史をつづるクサリの一部です。(中略)お能はこの多種多様のクサリのなかからいつのまにか生まれ出たのです。ただひとつはっきり言えるのは、「お能は純粋に民族的のところから発生した」ということだけです。 白洲正子「お能」 『お能・老木の花』 能の前身は猿楽だといわれることもありますが、実際にはさまざまな舞踊を取り込む形で、足利時代に世阿弥が<おとなの芸術>に仕上げたものです。 世阿弥の時代から600年、能は変わることなく日本の舞台芸術として受け継がれています。 <変わることなく>が可能なのは、能が型を第一にするからなのだそうです。能を舞う(演じるとは言わないそうです)能楽師は、型に忠実であることを第一に考え、芝居のように演じる人物になりきって表現するようなことはしないそうです。無心で型を舞うことではじめて能が表現できる。能楽師は芸術家というより、職人であるという言葉は非常に納得のいくものでした。

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鯨尺の法則―日本の暮らしが生んだかたち/長町美和子

失礼な話、あんまり期待しないで読みはじめたのですが、とてもおもしろく素敵な本でした。 文章もすごく読みやすいし、写真もきれい。しかも、内容がすごく僕の興味をそそるものでした。 着物地は洋裁のように端切れを裁ち落として捨ててしまうようなもったいないことはしない。(中略)着物は直線裁ちでできているからこそ、そして一定のサイズがあるからこそ、リフォーム、リサイクルが簡単にできる。着る人の身体の凸凹に合わせて立体裁断される洋服だったらこうはいかない。 長町美和子『鯨尺の法則―日本の暮らしが生んだかたち』 僕はこの本で読んではじめて知りましたが、着物をつくる際には、あまった部分の生地も切ったりせずに「おはしょり」して内側に縫い込んだりするそうです。だから、体格の違うほかの人用に仕立て直す場合でも<ほどいて洗い張りして縫い直せば>リサイクルできるそうです。古くなっても<染め直したり、痛んだ裾を裁ち落としたりして、蘇らせることができる>そうです。

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茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン/内田繁

デザインと人びとの生活というものを考えるうえで、日本に昔からあるデザインについて知ることは1つのヒントになります。 個別のもののデザインではなく、あるカテゴリーのもののデザインの変遷を考える場合、ヘンリ・ペトロスキが『失敗学―デザイン工学のパラドクス』で書いているような、失敗から学ぶ積み重ねによってデザインが改善・洗練されていくということがあり、何よりその改善・洗練はその時代の人びとの生活にフィットしていくという方法でよくなっていきます。 個別のものの完成度としてではなく、カテゴリー単位でのデザインの意味を読み解こうとする場合、ある程度の歴史を重ねるうえでつくられてきたものの形について考えることは、いまのデザインを考えるうえでも非常に有効だと感じています。

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フラジャイル 弱さからの出発/松岡正剛

僕らは普段やたらとほとんど根拠もないままに、何かが役に立つとか立たないとか、勝ち組だとか負け組だとか、あれは間違ってるとか悪いとか、自分はダメだとか弱い人間だとか、そんなことばかりを気にして生きています。そして、いつでも役に立つほう、正しいほう、強いほう、勝ち残ったほうをほとんど無条件によいものだと信じています。知識を得るのにも、仕事をするのにも、量より質だとか信じているのか、ほとんど独断的ともいえる"選択と集中"とやらでみずからが関わる領域を狭めています。 一方、生物進化論の分野でも、自然淘汰を核とするダーウィニズムが幅を利かせ、変化する環境に適応した種が生き残りつづけることで進化が進んできたことを示唆しています。環境において強さをもつものが生き残ってきたとでもいうように。 そこで止めておけばいいものを、人間は自然淘汰のダーウィニズムを社会組織論にも拡張してしまいます。強い組織、環境に適応できた組織だけが持続可能性をもつかのように。 強いものが弱いものを虐げ、弱いものが強いものに反抗するという図式も一見あるように見えます。しかし、その強さと弱さは本物なのか。いや、それ以前に強いとか弱いとかというのはいったい何なのか。僕らがほとんど無条件に受け入れがちな強さ/弱さの上下関係は果たしてそのまま受け入れるのが正しいのか。 そんなことを考えさせる一冊が、この松岡正剛さんが"弱さ"に焦点をあてた『フラジャイル 弱さからの出発』。 「壊れ物注意!」を意味するステッカーに見られるこの言葉…

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脳と日本人/松岡正剛、茂木健一郎

この本で松岡正剛さんと茂木健一郎さんは二人でとんでもないキャッチボールをしている。おそろしく遠く離れたところから来るとんでもない変化球をおたがい難なく受け取りあっています。まったくアクロバティックな対談集です。 その本のなかで茂木健一郎さんが「文脈から外れた活動がなければ、ひらめきもないし、創造性もない」と言うとき、僕は以前書いた「ボキャブラリが少なければ他にどんなすごい技術を身につけても仕事はできないのかもしれない」あたりの話を思い出しつつ、とにかく知識はいくらあっても足りるということはないもんだなと、心から思います。 情報や言葉に対する関心の弱さある方が「Webをやってる人は勉強熱心」と言ってくれましたが、そのなかにいる僕としては、いやいやまだまだぜんぜん足りないと感じています。 とにかく最近不満に思うのは、Webをやってる人が「情報」や「言葉」というものに対して不勉強なことです。情報を入れる器をつくるのが仕事であるはずなのに、内容物である情報や言葉というものに対する関心が弱すぎるように感じるのです。何よりもったいないなって思うのです。 それはどう文章を書いたらWebでうまく伝わるかとかそういうことではなく、情報というのはそもそも生命にとって何なのかとか、日本語で書かれた文章というものは果たしてセマンティックWebが考えているような統語論中心の意味論でセマンティックになりえるのか、そうではなく語用論のようなよりコンテキスト重視の発想が必要ではないのかとか、そういうことが…

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「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史/竹内整一

視野が狭い人が多くなっているのではないでしょうか。 一手先までしか読めない人。自分の専門分野のことしかわからない人。他人の気持ちが想像できない人。 とにかくすぐ目の前のことしか考えられないし、自分の狭い視野の外にあることを想像しようとしないし、想像できるよう努力したりもしません。 いまできることベースでしか考えることができず、わからないことがあったら単にギブアップするだけで、たとえ1ヶ月くらい猶予があってもその間にわかるために関係する本を10冊読むとか、片っ端からネットや人から情報を集めてのりきろうという努力もしようともしません。 さらにやっかいなのは、自分の「できない」はすぐに認めるくせに、他人の「できない」は見逃さないし、できる人にはただひたすら頼るばかり。 なぜ自分で考える、自分で行動する、ただ、ひたすらに。ということがもっと軽快にできないのかと首をひねりたくなるシーンはあります。 食品偽装と、浄土と穢土また、きたないときれいがともに存在することが許せなくて、潔癖症になってしまっているのではないかと感じます。 浄土と穢土。 きたないことを許せないがために逆にきれいなものまで失われていくのではないでしょうか。 食品偽装の問題があまりに多すぎるのは誤魔化すほうだけでなく、誤魔化さなくてはならない状況をつくってしまっていることそのものにそもそも問題があるのではないかと感じます。賞味期限や食材の表示の偽装をうんぬんいうと同時に、そもそも、賞味期限、ブランド化した…

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最近買った本 1/16

相変わらず本を買ってるし、読んでもいるのだけれど、まったく読んだ本の書評を書く時間がとれません。 せめて最近購入した本の紹介でも。 買って読了したもの茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン/内田繁 日本の伝統/岡本太郎 前に『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』も読んだけど、『茶室とインテリア』も面白かった。 『日本の伝統』は、批評の視点がすごく西洋的に感じました。  

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複数の「古代」/神野志隆光

712年に成立した『古事記』と、720年に成立した『日本書紀』。ほぼ同じ時期に成立し、内容も神武天皇以下歴代の天皇について述べ、おなじような話を扱う部分が多い2つの「古代」を扱う書物。この2つの書物を前に、著者は「『古事記』と『日本書紀』はひとつの歴史を語るものとして見るべきであろうか」と疑問を投げかけます。 この問いに、著者が提示している答えは、NO。 著者は『古事記』と『日本書紀』という2つの書物は、それぞれ異なる「古代」を記述したものだという考えを、『古事記』や『日本書紀』に関する知識がそれほどない僕が読んでも理解できるよう、わかりやすく提示してくれています。

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