漢字―生い立ちとその背景/白川静

本当に人間について知りたければフィルードワークだけでは足りません。だって、フィールドワークできない場所でも人間は生きていたのだから。そう、もはや僕らが足を踏み入れられない過ぎ去った過去にも。 過ぎ去った過去における人間を知る(特に人間中心のデザインの観点から)という意味では、例えば、『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』で紹介されている深澤直人さんの「アクティブ・メモリー」という用語がおもしろいです。 アクティブ・メモリーとは、特定の個人における経験的な記憶を指すのではなくて、誰もが共通に知っているものの形を通じて身体に意識されないような形で残っている記憶を指します。例として出されるのは、毎日触っている電車のつり革の形は意識としてはよく覚えてはいなくても、ある日その形が微妙に変化したらきっと握った感触から、あれ?と感じるだろうというようなことが含まれます。 アフォーダンス理論とも関連するこのアクティブ・メモリーという外部環境と身体的記憶との関係性は、外部環境から人間の身体側へと記憶が書き込まれるという方向だけでなく、人間の身体行為が外部環境に及ぼす行為の痕跡としても現れたりもします。先の本では、バス停の前のガードレールが何人もの人が座った影響で曲がっている写真などが紹介されています。 この人間が外部環境に残す痕跡にも大きく分けて2つのものがあります。 1つはガードレールの湾曲のように人間が無意識のうちに残してしまう痕跡。もう1つは言うまでもなく、人が意図して残すデザイン…

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誰も知らない 世界と日本のまちがい/松岡正剛

水村美苗さんの『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』がネット界隈で話題となっています(こちらやこちらで)。水村美苗さんの本は10年くらい前に『続 明暗』や『私小説 from left to right 』といった小説を読みましたが、その後、すっかりご無沙汰になっていましたが、これだけ必読と言われれば読まない方がおかしいと感じたので購入しました。 それこそ、昔、英語と日本語が入り混じる形で著された『私小説 from left to right 』を読んだ僕としては、ここで書かれていることが、おそらく「質の劣化と文脈からの逸脱」や「勤労・勤勉が可能な社会」で書いてきた僕自身の問題の系とも重なる問題だとも感じたので。

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江戸の恋―「粋」と「艶気」に生きる/田中優子

さて、この3連休、たまっていた書評を書いてしまおうと、 カムイ伝講義/田中優子初期万葉論/白川静外は、良寛。/松岡正剛ポストメディア論―結合知に向けて/デリック・ドゥ・ケルコフ と続けてきましたが、5冊目はこの本『江戸の恋―「粋」と「艶気」に生きる』。1冊目とおなじく田中優子さんの本です。 この本で田中優子さんの本を紹介するのは6冊目となります(たぶん、当ブログで紹介している著者のなかでは、松岡正剛さんの本に次いで多いのではないかと思います)。 というわけで、これまで田中優子さんの本は6冊読んだわけですが、僕はこの本が一番好きです。 世の中には、自分の知らなかった生き方や、考えてもいなかったような人がいる(いた)のだなあ-私は江戸時代を知れば知るほど、その時生きていたさまざまな人に出会い、心がゆさぶられる。「視野」は、空間だけでなく時間(歴史)のほうにも広く取ることができる。それが何とも、面白い。 田中優子『江戸の恋―「粋」と「艶気」に生きる』 僕が田中優子さんの本を読ませてもらって、いつもありがたく思うのは、その著作を通じて「世の中には、自分の知らなかった生き方や、考えてもいなかったような人がいる」ことを教えてもらえるからです。田中さんのいうとおりで<「視野」は、空間だけでなく時間のほうにも広く取ることができる>し、それは必要で、かつ面白い。 田中さんは「江戸時代ほど、我々の持っているイメージと実態が違う時代はないだろう」と書き、その時代を語るには「切り口…

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ポストメディア論―結合知に向けて/デリック・ドゥ・ケルコフ

「音を表わす書記法はすべて水平に書かれ、形象を表わす書記法は、中国の表意文字やエジプトの象形文字も、垂直に書かれる。さらに形象に基づく文字体系では、縦行は右から左へ読み進むのが一般的である」。 本書『ポストメディア論』は、『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』や『グローバル・ヴィレッジ―21世紀の生とメディアの転換』などの著作で知られるメディア論の父、マーシャル・マクルーハンの後継者であり、トロント大学マクルーハン・プログラムのディレクターをつとめるデリック・ドゥ・ケルコフによって1995年に書かれたもの。マクルーハンの後継者というポジションを示すかのように『ポストメディア論』と題された、この本はテレビやインターネットなどのテクノロジーによって拡張された人間の知覚やそれらのメディアの上で形成された集団的な意識を論じています。 「初期万葉論/白川静」、「外は、良寛。/松岡正剛」と続けてことば-文字をテーマとして扱った本を続けて紹介してきましたが、冒頭に引用した文が示すとおり、この本も人類にとっては初歩的かつ根源的なメディアである言語-文字を扱っています。そして、その本のなかでケルコフは次のように述べています。 言語は、人間心理を起動させるソフトウェアである。したがって、言語に大きな作用をもたらすテクノロジーはなんであれ、身体・感情・心など、私たちの行動全般に影響をもたらす。 デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』 言語に関するテクノロジーがいかに人間に…

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外は、良寛。/松岡正剛

ひとつ前のエントリーでは、白川静さんの『初期万葉論』を紹介しました。そこでは、初期万葉の時代において文字を得た日本は、社会も、歌も大きく変容したことが示されていました。ことばは文字となり、ひとつのことばが終わった瞬間です。 一方、はるか時代が下った江戸時代、ちょうど琳派の酒井抱一(1761~1828)やその弟子の鈴木其一(1796~1858)が生きた時代に、良寛(1758~1831)という越後の寒い北の地で歌を書いた人がいました。 「良寛は書くことで、書くことを捨てている人です」と松岡正剛さんはいいます。 文字というものは、もちろん言葉を情報保存するためにつくられた記号でわるわけですが、文字がコミュニケーションの維持・強化・洗練から離れて、書としてリリースされていくときには、文字が犯してきたコミュニケーションの中での罪を捨てるためにあるようなところもあります。 松岡正剛『外は、良寛。』 とも書いている。言葉を固定して保存するはずの文字が、書として刻まれると同時に自ら文字を描く指先と筆記具によってマスキングされて消える。もちろん、痕跡としての線は残るのだけれど、文字を書いている瞬間、僕らは確実に文字を自らマスキングしている。松岡さんは良寛の書にそういう感覚を受けるのだといいます。

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初期万葉論/白川静

白川静さんといえば漢字研究が有名ですが、ご自身によれば、もともとは『万葉』について考察する準備として中国の古代文学を志し、その結果生まれたのが「字統」「字訓」「字通」の字書三部作であり、数多くの漢字研究・中国文学研究の著作でした。その意味で本書『初期万葉論』は、白川さんにとってはようやく辿りついた本来の研究対象だったといえるのでしょう。 さて、その『初期万葉論』ですが、ひとことでその論旨を要約してしまえば、 初期の万葉歌に叙景の名歌を認め、『人麻呂歌集』的な相聞歌を人麻呂の呪的儀礼歌に先行させるような史的倒錯を、許すべきではない。 白川静『初期万葉論』 ということになるでしょう。

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カムイ伝講義/田中優子

仕事で人間中心設計などというものに関わっていると、どうしても、人間の認知や理解、あるいは、身体的な可能性/不可能性について考えずにいることはできません。 人は何をどこまで知覚でき、認知し理解できるのか。そうしたことがデザインを考える上でのベースに考えるのが人間中心設計だからです。 ただ、人間の可能性について考えようとするとき、現在の人間の知覚可能性、認知可能性をベースに考えてしまうのはどうなんだろうとも思います。 一般に人間中心設計のベースのひとつとなっている認知科学の領域での研究結果は、あくまで現代の人間の知覚や認知を対象にしているところがあります。しかし、『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』のなかで松岡正剛さんが紹介してくれている、こんな感覚の相違が現代の僕らとすこし前の人びとのあいだであるのを知ると、現代の人間の認知できる範囲のみを「人間の認知可能性」と扱うのもどうかと思えてくるのです。 京都の染め物屋の例なんですが、染めた物を乾かします。いまはどうかわかりませんが、「風が吹いているから乾く」とは思っていないんです。実は母もそれを知っていました。だから、洗濯物は「今日は風があるから干そう」ではなくて、「何々の風が今日はあるから色物の乾きがいい」とか「ネルは、比叡山からおろしてくる風のときには、いくら晴れているからといって乾かない」とか言ってましたね。結局、いまや僕も含めて、みんなも風が読めないと思うんです。洗濯物は太陽があって風があればすんでしまうという感じでね…

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いまなぜ白洲正子なのか/川村二郎

「いかにかすべき我が心」。 この本は、自身の将来に悩める女性にはうってつけの一冊ではないかと思います。 「あんたねえ、好きなことを何でもいいから1つ、井戸を掘るつもりで、とことんやるといいよ。途中で諦めちゃあ、ダメよ、わかる? とことん掘るの。女が好きなら、女でもいいよ。あんたなんか、ケツの毛まで抜かれちゃうだろうけどさ、だけど、とことんやれば、地下水脈に当たるわ。地下水脈は四方八方に通じてるでしょ。地下水脈に当たると、突然、ほんとうに突然、いろんなことが、わかるのよ。掘り方がわかんなくなったら、あたしから盗めばいいのよ」 川村二郎『いまなぜ白洲正子なのか』 いや、女性だけでなく、「いかにかすべき我が心」と悩み続けている男性にも。

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知の編集工学/松岡正剛

そろそろ、この本のことも紹介しておこう。 あまり自身の仕事そのものに関しては書かない松岡正剛さんが、ご自身の仕事の根幹をなす「編集」について、「編集工学」という方法について書いた本です。 情報が情報を呼ぶ。 情報は情報を誘導する。 このことは本書がたいそう重視していることだ。「情報は孤立していない」、あるいは「情報はひとりでいられない」ともいえるだろう。また、「情報は行先をもっている」というふうに考えてもよいかもしれない。 松岡正剛『知の編集工学』 確かにこの言葉には「編集」というものの主要な性質が凝縮されているように思います。情報を収集し選択し分類すること、対称性、類似、相違、順番などで情報を並べ、要約、モデル化、列挙、言い換え、引用、図解、例示、強調などの方法を用いて編集を行う際、情報同士が呼び合ったり誘導したりするモーメントをいかに見出し、うまく活用するかは「書くスピード、理解のスピード」なんてエントリーを書いたばかりの僕からみても、ひとつのポイントだと思うからです。 連想ゲームのような現代の遊び、連歌や俳諧、茶の湯や香道のような中世~近世にかけて行われてきた遊びにも、こうした「情報が情報を呼ぶ」性質が用いられていますし、そもそも僕らが普通にものを考えるときにもこの「情報が情報を呼ぶ」性質を使わなければ思考は展開していきません。言葉そのものがほかの言葉と連動することではじめて機能するネットワーク性をもつのであって、その意味で僕らは誰もがつねに編集をしているんですね。 …

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江戸を歩く/田中優子

この本を読んで、「江戸」というのは特定の時代を指す言葉であると同時に、特定の地理的場所を指示していた言葉であることに、あらためて気づかされました。 いまは東京と呼ばれている場所が、かつて江戸と呼ばれた場所でもあるということは、もちろん知識としては知っていたわけですけど、自分のなかで普段暮らしている東京と浮世絵などに描かれた江戸が地理的におなじ場所として重ね合わせられていたかというとそうではありません。かつて江戸と呼ばれた場所があるのを知りつつも、それがいま自分が歩いているこの場所にあったことを実感したことはなかったと思います。

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江戸百夢―近世図像学の楽しみ/田中優子

『江戸の想像力 18世紀のメディアと表象』、『江戸はネットワーク』に続いて、田中優子さんの『江戸百夢―近世図像学の楽しみ』を読みました。 この本で、田中優子さんは、応挙の写生、琳派のリアルから東照宮の幻想まで、そして江戸にとどまることなく同時代のベルニーニのエクスタシーからフェルメールが描いたデルフトの新興市民まで、タイトルどおり100枚の絵図を通じて、前近代にあった近世の世界を読み解いています。まさに図像学=イコノロジーです。サブタイトルに「近世図像学の楽しみ」とありますが、本当に楽しめました。 「百」の世界、尽くしの世界この本の魅力はなんといっても、その100枚の絵(写真含む)です。 そして、その1枚1枚の絵に寄り添うように書かれた田中優子さんの近世の世界を切り拓く文章。 「百」のついている世界は、「集まる」世界だ。蝶は博物学的写生帖の中では一匹ずつ描かれるが、「百」の世界ではすべてが同空間に舞う。 田中優子『江戸百夢―近世図像学の楽しみ』 円山応挙の『百蝶図』に寄せられたこの文章は、そのまま田中優子さんのこの本にもあてはまりそうです。100枚の絵図は百科事典のように分類されるのではなく、ただ集められ「同空間に舞う」。 「百」の世界は「尽くし」と呼ばれる。蝶を尽くす。数え尽くし、描き尽くす。ここには「集団」という概念がない。一匹一匹が異なっている。尽くしの方法とは、すべての「種」を集め尽くすことであり、ヒエラルキーはない。 田中優子『江戸百夢―近世図像学…

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宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き/杉浦康平

文字、絵、物の形。それらが一体となり、触感、匂い、味覚や音さえも感じられるような表現が必要じゃないのか。マンガや絵本では絵と文字が一体になっている。過去にさかのぼれば江戸時代の黄表紙などでは文字はマンガのような吹き出し表現すら介することなく絵と共存していました。 テキストが物を表象する。そういうシニフィアンとシニフィエのような従属的関係ではなくて、かつての象形文字や、オーラル・コミュニケーションでの言葉のように、言葉そのものが触感、匂い、味覚をまとって表出されるような表現を開発していく必要があるのだろう、と思うのです。 空気が読めない? いや、そもそも空気が書き表せていない「自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない」の前篇・後篇、そして、それに続く「自分が見たこと・聞いたことをちゃんと言葉にできるようになるために」。あるいは、そのすこし前に書いた「近代以前の文字はどう読まれ/見られていたのか?」や「「言葉と意味、ボタンと機能」について考えるためのメモ」。 そうしたエントリーを通じて考えてきたのも、ひとがまわりにある様々なモノや自分以外の他人に対して接する際の言葉というものが、機械を操作する際に目的の機能を選択するボタン(あるいはメニュー)のようなものになってしまっているような気が強くするからです。 このボタンをこうなるはずだ。あれ、ボタンを押したのに反応がない。 それとおなじように、こう言ったのに、なんであの人はちゃんとやってくれないのだろうと人間に対しても、…

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江戸はネットワーク/田中優子

「名と自由」や「「連」という創造のシステムを夢想する」でもすでに紹介している田中優子さんの『江戸はネットワーク』。 第1章 人びとで賑わう第2章 遊女は慈悲に生きる第3章 連に集う者 の3つの章で構成される本書は、第1章では昨日の「「連」という創造のシステムを夢想する」でも取り上げた江戸期(特に平賀源内や大田南畝が活躍した天明期)の連の場や江戸の市場を取り上げ、3章ではその連で中心的な役割を果たした山東京伝や蔦谷重三郎、平賀源内を大田南畝などを個別に取り上げる。あいだにはさまった2章では、遊郭、遊女と江戸期の男女関係や家の問題を扱っています。 今日は、この2章にすこし触れながら「社会における生産の単位」について考えることで本書の紹介とさせてもらおうと思っています。

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定信お見通し―寛政視覚改革の治世学/タイモン・スクリーチ

世界は設計されている。 もちろん、設計どおりに用いられているかは別にして。ただ、設計どおりに用いられないことがあるのは世界の設計に限ったことではありません。複雑な機能をもった製品なら、多くの機能が設計されていても利用されません。世界の設計もそれと大差ないでしょう。 重要なのは、使っている意識もなく使われている部分がもっともうまく設計されている点であるということ。気づかれないことで設計そのものが機能するということは大いにあります。ただ、その逆に誰もが目を向けることではじめて機能する設計もあります。 設計には「魅せる設計」と「意識もされずに使われる設計」があるということなのでしょう。そして、この両方の設計がうまくバランスされたとき、そのデザインは見事に機能します。目の前の問題を解消して、利用者の生きる環境を安定させることになります。

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『ペルソナ作って・・・』読者からの反響5

昨日までの殺人的な忙しさの山も越えたので、久しぶりに『ペルソナ作って、それからどうするの?』の読者からの反響をご紹介。 これまでの反響はこちら。 『ペルソナ作って・・・』発売4日目までの反響『ペルソナ作って・・・』読者からの反響その2セミナーのリフレクション&『ペルソナ作って・・・』読者からの反響その3『ペルソナ作って・・・』読者からの反響4 5月30日に発売されたので、そろそろ3ヶ月になるんですね。ネット界隈での反響はここに紹介してるくらいですけど、リアルではいろんな人から買いましたという声をかけていただき、ありがたい限りです。 昨日も、仕事関係であの本をきっかけに、ユーザーインターフェイスの未来みたいなお話や、あの方法っていわゆるモノのデザインだけじゃなくて普通に仕事をしていく上での考え方にも使えますね、というわけで、これをベースにしたカリキュラムをつくりましょうなんてお話もあって、いろいろまわりが動き始めています。 このあたりはまた何か具体的な動きがあったら随時ご報告。

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17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義/松岡正剛

あー、この本が売れてる理由がよくわかりました。本屋でたまに見かけて、なんでずっと平置きされてるんだろ?とかなんとなく思ってたんですけど、読んでみて理由がわかりました。 松岡さんの本では一番読みやすく、かつ松岡さんが他の本で言っていることがわりと集約されてるんですね、この本。 この本、買ったのは結構前なんです。この続編にあたる『誰も知らない 世界と日本のまちがい』を読んだのが今年のはじめ。それを読み終わるかどうかという時期にこの本も買っていたはずなんですね。でも、買っただけでなんとなく読まなかったんですけど。 それがこのあいだ、『山水思想』を読んでみて続けて、松岡さんの本を読みたいなと思い、読みはじめたんです。 この本は帝塚山学院大学・人間文化学部向けに行われた講義を再編集して収録されたモノ。5回の講義の体裁でまとめられてますが、ほとんど通勤などの電車のなかで読むだけでも3日で読み終えることができました。 あまり日本についても世界についても知識がない学生向けにていねいに説明されているので、大人が読んでも読みやすい。しかも、ある程度、松岡ワールドが要約されている感じがまたよいな、と。

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山水思想―「負」の想像力/松岡正剛

「日本画の将来はどうなるんだ」 「ぼくはもう一度、雪舟から等伯への道程をたどってみたかった」 そんな1970年に亡くなった日本画家・横山操の最期の言葉を出発点として『山水思想―「負」の想像力』という本は、「雪舟から等伯への道程」を追いながら、中国から渡来した水墨画がいかにして日本の水墨画となったのかを問います。そして、そもそも中国における水墨画において「山水」とは何であり、日本はそれをどう日本の山水に変換したのかと、日本における山水画の変遷を辿ります。 とはいえ、ここでの「日本画」の「画」の部分は何に置き換えて読んでもいいと思います。日本デザインでも、日本製品でも、日本のITでも、日本の技術でも、日本のブランドでも。いや、そう置き換えて読むことができるかどうかがこの本を読む上でのポイントの1つでしょう。 そう。松岡さんがこの本で試みているのは、日本がこれまで海外の思想や表現などの情報をどのような「方法」でローカライズすることに成功し、失敗してきたか、そして、その「方法」とはどんなものだったのか、ということなのです。 山水という方法松岡さんがそこに見出すのは日本文化独自の「方法」です。 表題であるにもかかわらず、NHKブックスという性格からか、『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』では、いまひとつぼんやりと描かれていた「日本という方法」がよりはっきりと描き出されているのが本書です。 中国山水の日本化に成功した日本の「方法」が、いや山水画に限らず、中…

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日本という方法―おもかげ・うつろいの文化/松岡正剛

日本人は方法が得意じゃない。 そう言ったのは、今日の「ペルソナ/シナリオ法による商品・サービス開発」セミナーでの山崎さんでした。 約5年前での海外セミナーでのこと。出席者にペルソナという手法について訊くと、ほとんど全員が知っていて、半数が何らかの形で使ったことがあると答えたそうです。とうぜん、日本では昨年あたりからようやくペルソナに注目が集まってきたばかりで、まだ実際に使っている人はそれほど多くないはずです。 それなのに、5年前の段階で、ペルソナがどういう手法かという議論ではなく、自分たちでどう取り入れるかという議論を他の人間中心設計の手法と同様に議論していたことに驚いたという話でした。 確かに、そう言われると、いまの日本人は既存の方法をうまく活用するのがうまくないと僕も感じます。 それは人間中心設計の手法に関してだけでなく、これまで僕が仕事で活用させてもらったシックスシグマの手法や、バランストソコアカードの手法、マーケティング関連の手法、どれをとってみても、興味があるとか、話を聞いてみたいという人は数多くいるものの、実際にそれらの手法を自分たちで使ってみようという人はあまり見かけてきませんでした。 方法に興味は示すものの、それを活用するのが苦手なのが、いまの日本人かもしれません。

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対称性人類学/中沢新一

この本で、著者である中沢新一さんは「科学の思考と神話の思考とのあいだには、どうやら根本的な違いなどは存在しない」と言っています。 科学の思考も、神話の思考も、その思考の道具に使うのは「二項操作」「二項論理」であることが、まず最初に示されます。ただ、おなじ二項操作/論理という道具を用いて、一方の科学の思考が二項の「違い」に着目するのに対して、後者の神話の思考は二項の「同じ」に着目する。中沢さんは、前者を「非対称性の論理」と呼び、後者を「対称性の論理」と呼んでいます。 それなしにはバランスのとれた健全な発達をとげることのできない1つ前のエントリー「アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮/田中純」では、言語や数字を中心とした近代の論理が抑圧する多様性・多義性を、イメージを媒介に拾い上げようとしたアビ・ヴァールブルクのイコノロジー研究を紹介しました。そのヴァールブルクの研究は、彼が遺したワールブルク研究所を経て、スタフォードらのイメージング・サイエンスにつながっていきます。差異に着目する思考としての科学に対して、イメージを媒介に魔術的な力を取り込もうとするこれらの取り組みは、中沢さんのいう神話的思考の「非対称性の論理」と非常に関連性が強い。また、それはカリグラファーであり、仏教にマンダラというイメージを持ち込んだ空海にも通じるように思います。 中沢さんは、非対称性の論理も、対称性の論理もともに人間の心が生み出す力であると言います。そのうえで非対象性の思考によってできたものばかりがあふれる現在の…

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アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮/田中純

言葉による意識的かつ論理性をもった思考は、基本的に分類的/分析的に俎上に並べた事物の差異に着目して、事物の「違い」により「分ける」ことで「分かろう」とする。それに対して『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』などの著書を通じてバーバラ・M・スタフォードが提唱している「絵そのもので考える」思考法は並んだ事物の類似に着目して、イメージ感の「同じ」により分野を超えた「つながり」を見てとることで半意識的に分かろうとする方向性をもちます。 前者が「分ける」ことで領域を分断して細分化するのに対し、後者は「つなげる」ことで領域を横断して異なる分野での交流を可能にします。また、前者が意識的で、あいまいな意味づけを嫌ってそれを排除し、可能な限り一義的な意味と表象の連結を目指すのに対し、後者は半意識的な思考であり、表象の意味するあいまいさを受け入れることで、イメージのもつ両義的・多義的な意味をそのまま読み取ることを目指す点でも異なります。 いまの情報デザインに対する危惧「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」でも書いたように、1660年代に英国王立協会が設立され、普遍言語といわれる言語のラディカルな改革運動をはじめ、実質上の初代総裁であった数学者のジョン・ウィルキンズによって0と1とバイナリー(二進法)によって何でもあらわせるというアイデアが提出され、ちょうと海を挟んだ大陸側でライプニッツが同じことを同時に考えていた頃から、現在のコンピュータ技術にいたるまで情報のデザインにおいては、あいまいさ…

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