というか、人間相手に、何故、難しい事をやろうとするのか分からない。
それはユーザー中心のデザインというものに関わっている人が「人間」という生物の行動や認知の特性や「ユーザー」という個体の趣味・嗜好やその時々の目的を理解するのは、そう簡単なことではないと考えているからだと思います。
シンプルと簡単は違う
couldの長谷川さんが「UCDではないもの」で言いたいのはそんなことじゃないと思います。ましてや長谷川さんは「難しい」なんて一言も言っていないのですから。
「難しい」と感じたのは三宅さんなのであって、そう感じること自体は別にいいのですが、それを誰にとっても「難しい事」であるかのように考えてしまうのはちょっと思い違いがあるように感じます。
そもそも「シンプル」と「簡単」をごちゃまぜにしていないでしょうか。
簡単にやれることがシンプルなわけではありません。
こちらとあちらの複雑な関係をシンプルに構造化しなおすから結果シンプルになるのです。
また、論理がシンプルさを生み出すこともありますが、かならずしもそれがいつでもシンプルとは限りません。相手によって、あるいは、時と場合によっては、論理より雰囲気のほうがシンプルな伝達につながることがあります。
このこと自体、いわゆるコンテキストへの配慮というもの自体がUCDのキーコンセプトの1つであったりします。
臨機応変さと自分の基盤
自分のなかで完結するのではなく相手があってのことなのですから、状況に応じた臨機応変さが必要なはずです。もちろん、その際には自分の基盤となるものはなくてはいけません。自分なりに定義したUCDが見えていたほうがいい。ただし「自分の基盤は考えながらつくる」ものです。相手との交流で基盤はどんどん変化していいものだと僕は思います。
また別の機会に書こうと思っていますが、変化を主と見るか固定化を主と見るかの違いには敏感であったほうがよいと思っています。
そういう異なる文脈があるのを無視して、<「雰囲気」で発註者を「説得」しようとするデザイン屋には うんざり。>などと書くのは考えが浅すぎないでしょうか?
いつでも「雰囲気」ばっかりなのは僕もうんざりですが、「雰囲気」を認められない偏った思考にもおなじように感じます。
配慮に多すぎるということはない
「UCD という言葉自体には大した意味は無い。」むろん、そのとおりです。ただ、それはどんな言葉にもいえます。言葉に意味=価値をこめるのは、その言葉を使う個々人の仕事です。責任です。どんな言葉だろうが、責任をもってつかえば価値が生まれるし、そうでなければただの空虚な言葉です。
言葉は頭を整理する道具ですが、音だけを気分で使っていると、頭の方がそれに馴れてきて、聞き馴れぬ言葉を聞いても、「それ何?」と問いかけなくなります。(中略)その記号の意味を問う、という自然な心の働きがなくなってしまいます。
別にUCDに意味を感じないのなら、別のデザイン方法を用いればいいだけだと思います。
結局、UCDもデザインの方法の1つであり、デザインの道具なのですから、その道具が自分にあうなら使えばいいだけだと思います。職人は自分にあった道具を選べばいい。だからといって、他人の道具を否定する必要はないでしょう。
繰り返しますが、こちらとあちらの複雑な関係にあるデザイン問題を、シンプルに構造化しなおし結果としてシンプルなデザインができるのです。
結局はどれだけあちら(=相手)のことをわかろうとするか、そして、それに対して配慮できるかがUCDです。
相手は、得体の知れないところが多い生物であり、人間であり、そして、独自の人生をもった個体です。
いったいどこの誰がそういう相手を理解するのに足る論理をもっているのですか? 理解には論理以上にその都度その都度の配慮が必要でしょう。
インタラクションであり、コミュニケーションです。
そして、どれだけ配慮をしても多すぎるということはないはずだと僕は考えます。
主人の覚悟、客の覚悟
茶の湯で客をもてなす主人のように、覚悟も作分も手柄も必要なはずです。意志、工夫、技量です。もうひとつ知っておくべきは招かれる客側にも、おなじくらいの作法が必要だということです。
UCDは別に客の言いなりになるための手法ではありません。
主人とともに時を過ごそうという覚悟をもった客と対話を通じて、ともに納得のいくものをつくりだすための手法です。
文句しかいえない客にだす茶はないのです。
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