よく「すべて」やることはできないから○○なんだよ(○○にはネガティブな考えが入ります)という方がいらっしゃいますけど、どうしてそんなに「すべて」を気にするのかなと思ったりします。
もちろん、「すべて」をやることなんてできません。それはちょっとどうしようもないほど難易度が高いので、もはや、それをどうこう考えるのも無駄なくらい。「すべて」が何を想定されているかわかりませんが、そして、きっとその「すべて」は実際のすべてとは大きくかけ離れた容量しかもっていないだろうなと想像することはできますが、いずれにせよ、やっぱり人間ですからそもそもが有限ですし、向き不向きもありますし、時と場合によっていろんな事情がありますから、小さいほうの「すべて」を満たすことを考えるのもむずかしい場合があります。
でも、僕はそれでいいと思うんですよ。
捨てる勇気が大切だと思う。特に「すべて」を気にされる方は完ぺき主義の傾向があると思うので、意識的に捨てる勇気をもつことが肝要です。
構成要素の重要度を検討する
まぁ、上の文脈とはまったく違う話(どう違うかというとこのコメントにはネガティブさはないという点) ですが、「企画設計=デザインとは」のコメントとしていただいたfinさんの「阻害要素の重み付け」という話も「捨てる勇気」とは無関係の話ではありません。問題を解決するにあたって、当然それを妨げる阻害要素を洗い出すように心がけていますが、阻害要素をすべて除去することは難しいかと。(中略)ですから、阻害要素の重み付けってすごく重要だと考えていますが、hirokiさんはこのあたりのノウハウってお持ちでしょうか?
finさんがいうように、むずかしいすべてはあきらめ捨てる勇気をふるうためのメソッドとして重み付けは大事です。
コメントの返信としては、
- ペルソナの手法の1つであり、『ペルソナ戦略―マーケティング、製品開発、デザインを顧客志向にする』でも紹介されている「ペルソナ・フィーチャー・マトリックス」を使うことがあります
- 僕自身は手法を知ってるだけで使っていませんが、製品開発、マーケティングの分野での伝統的な手法としては「品質機能展開(QFD)」がありますよ
と答えました。
こうした手法を使うかどうかは、重み付けにどの程度の客観的論理性が必要なのかで異なると思いますが、ただ客観的論理性が必要ない場合でも、構成要素に重み付けを行い、一部を意図的に捨て去ることで、残った要素で課題を実現可能にするためには、重み付けを行う主観的な論理性(好きな順番とか)は必要になるでしょう。
客観的論理性と主観的論理性
特にビジネスシーンなどの客観的論理性による重み付けが求められるシーンとは異なり、個人の場合の重み付け~選択と集中には、客観的論理性というものが使いにくいケースが多いと思います。自分自身の選択の問題になってしまうので、結局、客観的論理性より主観的論理性が必要になってきて、ただ自分自身の主観的論理性が明確にできていない場合、いつまでも構成要素を必要なものと捨てるものに分けられず、右往左往して何も進展しない状況が生まれがちです。
このあたりは客観的論理性で他人を納得させることより、主観的論理性で自分自身を納得させるほうがはるかにむずかしかったりもします。
手に余る問題を抱えて
ここで思うのは、もしかすると最初に書いた「すべて」をやるのはむずかしいから云々と文句をいう人は、この選択における主観的論理性の欠如あるいはあいまいさで捨てるべきものを捨てることもできずに停滞してしまっている状態をどうしたらいいかと困っているのかもしれないな、ということです。確かに捨てるべきものを選べず何も捨てられず、手に余る問題を抱えて何も進展させることができない状態、何か価値あるものを生み出すことができずにいる状態におかれれば、僕でも困ります。イライラしたり愚痴をこぼしたりするしかないと思います。実際、仕事をしてれば日常的にそういう状態に知らず知らずに陥ってしまっていることはあります。
でもね、そういうときこそ、捨てなきゃいけないんです。「すべて」やろうとしている自分のおろかさに気づいて、捨てるべきものを見つけなきゃ、前には進めないんです。
そして、たいていは捨てるものを間違って損することより、結局何も捨てられずに一歩も前に進めなかった場合の損のほうが大きいんです。テンパってるときはなかなかそのことに気づくことができませんが、それでもなんとかして気づかないと損するのは自分です。
不足の美、侘びのこころ
たぶん、そもそも完ぺきを目指そうとする姿勢に問題があるんです。僕ももともとは完ぺき主義寄りの人間です。ただ、自分で助かってるなと思うのは、すべてを完璧にこなそうというのではなく、自分が得意な分野に集中して完ぺきを求める傾向がある点でしょうか。その意味では「すべて」やらなきゃパニックに陥るケースは限られているので助かってるかな、と。
でも、本当は、完ぺき=すべて満たされている状態って、そもそも目指すほどの価値がないんじゃないかなと思うんです。
不足しているくらいのほうが価値があるはずだと思います。
何かがちょっと不足しているもののほうが愛嬌があったり、かわいく思えたり、味わいを感じたりします。
人でもものでも、完ぺきにバランスがとれたものより、どこかバランスが崩れてるくらいが魅力的に感じられるのではないでしょうか。
味の出たジーンズ、天然のはいった女の子、欠けたりゆがんだりした茶碗、苔むした萱葺きの屋根、楷書より草書。
もしかすると、これは日本人に特有の感覚なのかもしれませんが、完ぺきにつくりこまれた状態より、すこし抜けたところがある状態のほうを好む傾向が人にはあるように感じます。侘びですかね。
商品の機能に関しても、いろいろゴタゴタついてるよりはシンプルですこし何かが足りないくらいのほうが選ばれるのもそれに関連しているのかなと思います。
デザインにおいても、人生においても
このあたりデザインでもおんなじで、2人の著名なデザイナーがともにこんな風に言ってます。最小限で生きることは、とてもリッチなことだと思います。
ものがない、ただ空いた空間にいるということは
けっこう贅沢なことです。
「もの」においては、機能であれ装飾であれ、足していくのは簡単だ。しかし何を切り捨て、何を省いていくのかを決めることは一般に難しい。これは仕事全般にもいえることだし、人生でも同じかもしれないが、デザインワークの中で、付け加えるのではなく、何を省いていくかという課題は、普遍性を帯びてデザイナーに突きつけられる。
結局は「すべて」が含まれた状態を求めるアプローチのほうがおかしくて、本来は「最小限」必要なものは何かを見つけるアプローチを行うことが大事なのかもしれません。
そのためには何を切り捨てるかという課題は、常にデザインにも人生にもつきまとうのかもしれません。
といっても、デザインと人生をくらべれば、はるかにデザインのほうがこの課題をこなすのは簡単です。先にも書いたとおり、客観的論理性が使えますし、そもそも「企画設計=デザインには学べば覚えられるやり方がある」からです。この方法を学ぶことで課題解決はずいぶんとラクになります。
それに比べて人生は・・・。
まぁ、むずかしいといっても、それでも課題を解決するしか前に進む道はないのですけど。
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