
さて、話はいきなり変わりますが、すこし前ですが、こんな記事を読んで、なるほどと思いました。
小説家の平野啓一郎さんとプロダクトデザイナーの山中俊治さんの対談です。
その中で、平野さんがこんなことを言っています。
読者の声を小説のインターフェースにどう反映させるかを考えたときに、僕はコンピューターのインターフェースの感覚が、今の読者の中にはすごくあるんだと感じます。銀行のATMが使いにくかったら、ユーザーはすごく怒るし、パソコンが使いにくかったり、アプリのユーザービリティーが低いと、みんなすごくストレスを感じる。今、小説の読者の中にも、同じような問題があって、小説が読みにくいこと、あるいは分かりにくいことに読者は、かなり強いフラストレーションを感じます。
平野さんは「小説の売り上げと部数が低下している」要因を、普通ならマーケティングの問題として捉えるところを、この引用にあるようにデザインの問題として捉えているんですね。
この発言が僕には妙に納得がいったのです。
わかりやすいインターフェイス
僕自身、マーケティングではなく、デザインという視点から物事を捉えているのも、まさにこの平野さんと同じ感覚があるからだったりします。いまの時代、モノが売れる/売れないというのは、マーケティングの問題だけでは捉えられなくなっていると感じています。そして、それはデザインのなかでもインターフェイスの問題であり、かつ、インターフェイスの「わかりやすさ」あるいはインターフェイスに対してスッと共感して入っていけるかということだと思っています。
最近、コミュニケーションが「書き言葉」的なものから「話しことば」的なものに移りつつあるということを書いていますが、この話もそうした流れのなかにあると僕は捉えています。しかも、「書き言葉」か「話しことば」かというどちらかによったものというより、その2つのせめぎ合いの中で、わかりやすく共感できるインターフェイスというものがメディアとして求められているのだろうな、と。
そうした流れの中で、平野さんが言う小説をはじめとして、抽象的な現代美術やパワポ(もっとひどいとWord)で作られたビジネスドキュメントだったり、具体例のすくない講演のプレゼンテーションなどは古臭く「わかりにくい」ものとして嫌われる。そうした古臭いメディアというのは、結局、専門性がありすぎるのですね。これがひとつ嫌われるものの特徴で、実は専門性こそ、書き言葉文化の方向性のひとつなんですね。
それに対して、新しいメディア=表現方法というのは、例えば、テレビのテロップであり、ジョブスのプレゼンテーションであり、要点をいくつかの箇条書きにしたブログ記事(○○をするための△つの方法といったようなタイトルがつく)だったりで、さらっと聞くことができ、かつスッと頭に入ってくるものなんですね。
そうした新しくとっつきやすいインターフェイスをもったものが人びとにすっと入り込んで共感をあたえるものだと思います。そして、それはおしゃべり社会化する、ある意味、体験的な社会ゆえのひとつの傾向なんだろうな、と感じています。
おしゃべりとUI
そもそもUIというのは対話型です。それはもともと話しことば的なものであるがゆえに、極度に「使いやすさ」や「わかりやすさ」が期待されるものであるのだろうと最近気付きました。まず、ここであらためてポイントとして確認しておきたいのは、会話は記録できないということです。
いや、おしゃべりは記録できない、といったほうがいいでしょうか?
もちろん、議事録をつくったり、おしゃべりの光景を録画して残すことはできます。ただ、それがおしゃべりの記録といえるかというと、どうもそうはなりません。議事録や録画にはおしゃべりの場に参加していた人が感じていた「もの」が残りません。
そして、おしゃべりの場合、記録可能な言葉そのものより、その感じていた「もの」のほうが大事だったりします。つまり、おしゃべりというのは、きわめて体験的な性格をもっているといえると思います。
このおしゃべりとおなじものがUIのユーザー体験にはあります。
記録ができない参加によって感じたもの。それが大事なのはUIのユーザー体験でもおなじです。
UIのデザインのむずかしさもここに起因するものが多いと感じています。UIを用いるユーザー体験は記録できないのだから、直接的にそれを表現することはできません。実際にはインタラクティブなものを、インタラクションを欠いた静的な表現や、ユーザー不在の状態で記述しなくてはいけないので、そこはデザイナーの想像力が求められます。また、記録や表現が困難なので、UIのユーザー体験を他人に伝えるのはそもそもむずかしい。頭のかたいひとには、UIのユーザー体験なんてものがあることさえ、そもそもわからないかもしれません。そういう人にユーザー体験の大事さをわかってもらうのは、きわめて困難です。
視聴覚表現の人を魅了する力/騙し欺く力
こうしたあたりに、UIやおしゃべり的体験空間において、テキスト的な表現とは異なる「わかりやすく」スッと入ってくる視聴覚的表現が求められてきます。そして、時にそうした表現技術は人を欺くことになる。
例えば、バーバラ・M・スタフォードは『アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』
スタフォードはその啓蒙の時代を、詐欺やだましから大衆の目を覚まさせる時代であったといいます。
合理的リクレーションは即ち視覚を介する教育であった。啓蒙の娯楽は目が、欺きのないパターン、精神を形成してくれる形態に適当に淫することを許した。国境を越えてアピールするこの大衆教化の形式はあたらしい感覚テクノロジーの助けを借りる。そしてまさにここに問題が生じたのだ。光学的にやりとりされる情報というものは、手品師、おもわく師、策士、にせ医者、興行師、器具制作者といった、要するに怪しげな眷族が次々繰りだす十八番でもあったのだ。こうして合理的リクレーションは幻想的な、あるいは「非」合理なリクレーションに対峙する計算ずくの対蹠者という存在でもあった。バーバラ・M・スタフォード『アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』
視聴覚的に工夫されたわかりやすく体験的な表現に参加することで、人は教育されることもあれば、手品のように欺かれたり、時には財産や健康を失うような詐欺にあうケースもあります。そうした視聴覚的技術に対して、賛否両論あったのが、まさにおしゃべり社会と印刷社会がぶつかりあった18世紀のヨーロッパでした。
哲学は書き言葉が生まれてはじめて可能になった。ソフィストの商業的な詭弁とともに。
同じことは古代においても、やはり問題視されたことがありました。例えば、ソクラテスは、ソフィストたちの詭弁を激しく非難しました。しかしソクラテスは、ソフィストたちは単に詮索好きなだけでなく、押し売りまがいの振る舞いに及ぶセールスマンであり、皮肉な目をして暴利をむさぼる承認でもある、と断じた。そして、民主主義によって知識のたたき売りが行われていると考えるエリート主義の哲学者たちの先頭に立って、ソフィストのように書き言葉を信頼しすぎると、人間の記憶力が弱まると主張し、生き生きとして官能的ですらある男同士の口承による関係に立ち戻るべきだと、主張した。イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発明」されたか』
たtだし、こうした事柄自体が古代から続いた話しことば社会であったギリシアにアルファベットが登場して書き言葉社会に移行しつつあったからでもありました。
ソフィストは、上手に話すための教育や説得の技術を体系化することで、民主主義の課題に取り組み、文書を使った学問の最初の実践家となった。ホメロスを慎重に順序立てて学ぶには、言葉を正確に捉えなくてはならず、そのため、文法や修辞や今日言語学ないし文献学と呼ばれるものが重んじられるようになった。したがってソフィストは、書かれた言葉、なかでも書物に大きく依拠した。イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発明」されたか』
哲学的な思考は書き言葉が生まれてはじめて可能になった思考法だということを忘れてはいけません。ホメロスを順序立てて学ぶのに、言葉を正確に捉える必要があるように、哲学のように分析的な思弁を行なうためには、言葉を正確に記憶し客観的に扱える状態が必要です。しかし、それは声とともに消えてしまい、記憶することそのものが課題となる話しことば社会においてはきわめて困難で不必要な思考方法だったのです。
ウォルター・J・オングも『声の文化と文字の文化』
『パイドロス』や『第七書簡』のなかで、プラトンは、書くことに深刻な留保を表明していた。書くことは、知識を処理する手段としては機械的で非人間的であり、〔書かれたものは〕尋ねられても即座にこたえられず、記憶力をそこなわせるものだ、というように。しかしそれにもかかわらず、われわれがいまや知っているように、プラトンがそれを求めて戦った哲学的思考とは、この書くことに全面的に依存していたのである。ウォルター・J・オング 『声の文化と文字の文化』
プラトンは書き言葉に対して嫌悪を抱きつつも、もはや書き言葉で考えることを避けられない哲学の人だったのです。それは師であるソクラテスが非難したソフィストの詭弁と基本的に変わらず、18世紀の教育的視点での視聴覚表現と手品師の手業との対と本質的におなじものだったのです。
記憶しにくいのであれば参加させよ
まさにおなじ状況にあるのが対話型のUIです。同じ機能を実現するインターフェイス要素も、その要素ひとつひとつのスタイルや関係性を整理したレイアウトによって、伝わる意味は異なり、使いやすくもなれば使いにくくもなります。まさに、手品や詭弁のスキルによって、わかりやすさを実現するのが、ある意味、UIデザインのひとつのスキルになるともいえます。それはUIが評価されるあの会社のトップのプレゼンテーションスキルが評価されるのとも無関係ではないでしょう。それはソクラテスが嫌った詭弁のワザを少なからず必要とするのです。
同じく紛れもなく話しことば社会であった日本の古代世界の最後期となる万葉の時代。
歌にうたわれた「見れど飽かぬ」などの見るが、対象のパワーと一体化するという呪的操作であることを指摘した白川静さんにあらためて感服します(cf. http://gitanez.seesaa.net/article/108969676.html)。流れ消えることば社会においてまだ印刷革命以降のように視覚がほかの五感から切り離されていない状態の統合的な視覚というものがもつ役割はまさにそういうものだと感じます。
ギリシアの哲学者ソクラテスが詭弁を嫌ったのは、すでにギリシア社会が完全な話しことば社会ではなくなりつつあったからでもあると思っています。書き言葉がすでに生まれていたからこそ、プレゼンテーション技術のまやかしが視覚化されたのだと感じますし、哲学そのものが可能になったのだとも思います。それ以前の完全な話しことば社会であれば、万葉の時代のように、そもそも詭弁をほかとわける違いは明らかではなかったと思うのです。
最近考えるのは、ロジックを理解して憶えることと、丸暗記的に記憶すること。ものの覚え方にはその2つの方法があるということです。とうぜん、応用力もあって覚えられる容量も増すのは前者ですが、後者には前者にない脊髄反射的でスピーディーな自動性が期待できます。見たら即、考えずに行動できるような反応です。それは昨日僕が体験したように祭りの場に参加するだけで血が躍るような反応でしょう。
「無文字社会に生きる人びとに目を向けると、文字通り、リテラシー=読み書き能力が人間の思考や社会生活を変えるのだということに気づかされる」で書いた、行動と思考が分離していないというのは、そうした丸暗記の脊髄反射能力を多用することにほかなりません。そして、それが話しことば社会の情報と人間の関係のしかたです。
ただ、おなじ書き言葉文化の人間でも、アルファベットを使う人たちと、表意文字である漢字も用いる僕らでは、行動と思考の切り離され具合が違います。アルファベットは形から意味は切り離されてるけど、漢字には意味と対応した部分が色濃く残るのでしょう。そのため、僕らのほうがまだ思考と行動の切り離され度合いが少なく、脊髄反射的に反応してしまう部分を残しているのかとも思います。逆にいえば、それがネックで複雑な構造の論理的思考が苦手だということでもあるのでしょうけど。
いっしょになる=客観的ではない
といった感じで、今日も雑多に、内容とは反してわかりやすさに対してほぼ考慮することなく、さらには特に結論も終わろうとしていますが、こんな風に人が世界を認識し世界とコミュニケートする際に用いるメディア=インターフェイスという観点から、共感や理解というものを捉えていくことが今後より求められてくるだろうという風には感じています。みなさんもちょっとこういう視点でいまの社会の流れやらを注目してみるといいと思いますよ。
最後にオングのことばをもうひとつ。
声の文化にとっては、学ぶとか知るとかいうことは、知られる対象との、密接で、感情移入的で、共有的な一体感をなしとげる、ということを意味する。つまり、「それといっしょになる」ということである。ウォルター・J・オング 『声の文化と文字の文化』
共感、感情移入と参加、話しことばという関係から、いまのメディアや社会に目を向けてみましょう。
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