正確にいうと、まったくモノを作らない社会ではなくて、いまのような大量生産がなくなり、ひとつひとつのモノが大切に使われ、ひとつひとつのモノが時間をかけて丁寧に作られる社会だ。
なんとなくだが、そのためにはまずモノがただになる必要があるだろうと思っている。モノの価値を金銭で示すことを放棄することが必要だろうな、と。
同時にモノの個人所有という考えもあらためなくてはならないだろう。共有財産として、金銭価値よりも有限な地球の資源としての価値のほうに重きをおく形にシフトしていく必要があるだろう。
金銭的労働をなくす
モノが無料になることでとうぜん交換価値というのはなくなる。そもそもモノを個人や特定の私的団体が所有するという考えをなくし、地球全体の資源(この言葉にすでにモノを金銭化する意味が含まれているが、ほかに適切な言葉が思い当たらない)というのだから交換はなくなり、単なる移動となる。もちろん、小売業という商売は成り立たない。モノに値段がないのだから製造業も同様だ。そのとき、サービスだけが金をとっても仕方ないので、これも廃業。ようするにお金ねために働くというワークスタイルの変更が必要だ。
創造性の浪費
基本的には耐久性のあるものは、どうにか所有という考え方や金銭と切り放せないかと思う。仕事をしたら金をもらえるのではなく、もっとシンプルに人の必要に応えられるというだけにして、無駄な仕事を大幅になくせるといい。
困ってる人を助けるとか、自分やそのまわりの人の衣食住をまかなうとか、芸能などの遊びにせいを出すとか。
金を稼ぐためにいらない仕事をつくり、そのために不必要なモノを大量に作っては浪費することはない。そんないらないモノを売るために、どうしたら買ってもらえるかに頭を悩まし、いらない情報をたくさん作ってドキュメントやコンテンツにする必要はないだろう。
そんなところにクリエイティビティを使うのはもったいない。
食料
コストを下げるために大量につくらなくてはならない。だったら、すべてのモノ、すべての労働を無料にすればコストはかからない。労働時間という個人の時間的コストをどう考えるかだが、基本的に自分自身や他人のために必要なモノだけ生産するということになれば、いまも無料で行われている家事労働に近いものにならないだろうか。
ひとつ気になるのは食料だ。農業や漁業などの仕事をどうするかと、その配分がどうするのが最適かのイメージが浮かばない。エネルギーもそうかもしれないが、基本的に消費されるのが前提で、大事に使おうと心掛けたところで消えてなくなるのが必然的なモノの扱いがわからない。
と、そんな夢物語を時々考えてしまう。
それも大量生産品のあまりの粗雑さを悲しく感じてしまうせいかもしれない。
まあ、おかしな夢想だ。
この記事へのコメント
會澤賢一
初期の共産主義(純粋なエッセンスとしての共産主義)には、似たようなものが出て来ます。しかし、過去実践において失敗していますね。
共産主義は“ともに作り出す”社会ですが、記事の中では逆に“作り出さない”ことからスタートしているのがおもしろいなぁと思いました。
所有という概念は、自己顕示欲とつながるのだろうというのが私の考え方です。自分を表現するために、手っ取り早いのが「他の人が持っていない(もしくは持てない)ものを自分は持っている」という優越感。自己認識というかという部分に直結するのだろうと思うのですね。
自分を他人と比べるというのが、唯一自分を確認する手だてとする人がたぶん多数。思考実験の中で、自分を見つめるというのはなかなか難しい。人は生まれたら必ず死ぬ。その中で何かを残そうとか、何とかして自分は生きていたという証を見つけたいとかいう所。「寄る辺」をものや地位といった所に見いだそうとすると、記事の内容の社会って実現(まぁ実現前提の話ではないでしょうが)難しい。
ボランティア活動に生き甲斐を見いだしたリタイヤ社長を知っていますが、基本生活が確保された上での話。出たり入ったりしているベーシックインカムってのが基本になければならないけど、“作り出さない”社会においては、ベーシックインカムも成立しない。
でも、リラックスした社会になるでしょうね。いいなぁ。
イッペイ
確かに社会主義的な考えかもしれないのですが、少し捕え方が違いますから新しい考え方の一つかもしれないですね。
しかし、何かの天変地異などで文明が崩壊し人口が激減し情報が遮断されれば、今の人類の大多数はその生き方に賛同するのだと思います。
しかし、発展途上国の連中が生活や経済の向上心のを棄て、先進国の一部のバカどもが支配欲を棄て去らない限り夢想で終わるのでは?
毎回楽しみに拝見させて頂いています。頑張ってください。
んー
また、所有権というよりも、もっと一般的な私権の範囲の拡大が、物を交換するだけにとどまらず事や時間をも交換するようになってしまったことによる現代の窮屈さに対する提言ではないだろうか。
社会主義の生まれた時代は土地や生産資源などの独占、及び商品化された労働者といった具体的な実体を相手にしていましたが、現代ではいつのまにか観念上のものまでも取引されることにより、すべてはただ自分のものを増やすことだけに執心する生活を誰もがするハメになっています。
ベーシック・インカムの考えも見直されてきていますが、その昔にケインズが提案したバンコールという社会にとって好ましい選択肢も、自分の利益を最大にすることに価値をおいた人たちの前でかき消されてしまったこともあるので、大多数の人がよくてもなかなか、そうもいかないというのが実情なんでしょうね。
そういえば、社会に必要なものは1人2時間/日で足りてしまうという計算ができたとある経済学者がおっしゃってたそうです。
sloslo
http://d.hatena.ne.jp/sloslo/20100409
無駄な物を加える社会を止め、リデュース&ノンアドの社会へ 2
http://d.hatena.ne.jp/sloslo/20100417
はじめまして。
僕もたまたま同じような記事を書いて、検索していたところ、こちらのページを発見しました。
僕の主張は棚橋さんの「モノを作らない社会」とは
若干違っており、「新製品のサイクルスピードを減らす&モノに過剰な機能を加えない」です。
そのような理想の社会を勝手に”リデュース&ノンアドの社会”と名付けてブログを書いております。
僕と棚橋さんの理念は違いますが根底にはやはりベーシック・インカムの考えがあると思います。
よかったらブログ覗いていってください。
iwasaki
生活にものは必要なので、ものを作らないのではなく、金銭のためのものつくりをしないということかと思います。
生きるに困らない土台があって、皆に不安がなくなれば、もう実現したようなものかと思います。
しかし、金銭のためのものつくりをしないようになることで、生きるに困らない土台が実現できるのかとも思います。鶏が先か卵が先かのような話かと思います。
それが実現した社会での労働の動機は、他人の必要に応える喜び、あるいは自分の必要をまかなうこととなり、おかしなものつくりは淘汰されることと思います。
今のような工業的生産は一部を残して少なくなるでしょうね。
しかし一部は工業的生産が残って、金銭授受がなくともそこで働く人がいるのではと思います。