つまり、自然を観て絵を描く。体験したことを元に文章を書く。相手の良さを引き出すプロデュースをする。こうした創造的活動には、抽象化の力があることが前提になるのです。
最近、この「抽象化」ということを考えています。
抽象化にはまず自分が実際に観たり触れたりする現実の文脈から要素を抜き出せないといけません。要素を抜き出し、必要な要素だけに単純化し、単純な要素だけで事象を組み立てる力が抽象化です。
例えば、街できれいな女性を見かけたとしましょう。
あとで、その女性のことを思い出すとき、僕らはその女性の姿すべてを思い出すわけではありません。自分が「きれいだ」と感じた要素を抽象化した形で記憶しているはずです。
あるいは、似顔絵を描くとき。似顔絵もまた、その対象となる人のすべてを写し取るわけではありません。その人らしさを抽象化して、描くことで似顔絵になる。
逆に、抽象化の程度がすくなくて、あまりにリアルな画像は不気味に思えたりします。リアルな人形が不気味に感じられるのもそのせいでしょう。
手続き記憶と文脈からの意味の切り出し
こんな風に、抽象化の力というのは誰しもが基本的には備えている能力です。ただ、その能力の使い道や使おうとする意思によって、それが創造性の助けになるかどうかに差が出てきます。
日常の文脈、現代の文脈、専門分野の文脈からどれだけ意図的に自由たりえるか?
それによって抽象化の能力を実際に自分の思考や創造的作業の助けにできるかどうかというところに違いが出てきます。
手続き記憶というのがあります。長期記憶の一種で、技能や手続き、ノウハウを保持する記憶といわれます。特徴は言葉にするのがむずかしいことで、それは手続き記憶が特定の文脈での記憶を要素化せずに丸ごと覚えるような性質の記憶だからです。
この手続き記憶は鳥類にも一部あるといいます。ただし、鳥類にはとうぜん抽象化のような思考はできません。
また、ネアンデルタール人は記憶を文脈から切り放して抽象化する力が弱かったために、現状の環境から問題を取り出しそれを改善しようとする能力が発達せず、ホモ・サピエンスにとって代わられたと、スティーヴン・ミズンが『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化』
抽象化に慣れない人
ところが、現代人でもたまに手続き記憶で生きてるの?と感じる人がいます。例えば、昨日の夜、何食べた?と、食べたメニューを訊ねているのに、昨日は18時頃、会社を出て…、スーパーに寄ったら○○が安くて…、といった具合に、昨夜の食事に関する一連の流れを説明しだし、メニューだけを抽象化して取り出して言うことができない人に、ごく稀に遭遇します。
もちろん、ネアンデルタール人が抽象化できないのとはわけが違いますが、やはり文脈から切り離して抽象化するということに慣れていないから、そういう説明になるのだろうと思うのです。
自分の目の前の現実の文脈から要素を切り出して、その一部を抽象化して思考を組み立てるという行為を、意識して普段からやろうと心がけているかそうでないかによって、創造的思考が生まれてくる頻度、確率は大きく違うはずです。
常識が頭に浮かんだら疑え、と僕は思っていますが、結局それも文脈からの切断~抽象化の話です。
名言もまた文脈から切り出されている
すこし話題を変えましょう。twitterに名言botがあります。僕はフォローしてませんが、たまにフォローしている方がリツイートしてくれるので存在は知っていました。
名言に関しては、『超訳 ニーチェの言葉』
でも、名言って、別にそうした名言だけを集めた書籍やbotに頼らなくても、実は普通に本などを読んでいれば、見つけられるし、つくることができます。
僕はブログによく読んだ書籍の引用をしていますが、その多くは僕にとっては名言です。具体的にどういう手順で引用しているかというと、まずは読んで気になった部分に蛍光ペンなどで線をひく。それをあとで読み返して、引用したいと思うものをブログに載せる。それだけで名言ができる。その僕にとっての名言がたまにTumblrになどにさらに引用されたりするのを見かけるので、やっぱり名言になっているんだろうと思います。
ようするに、これは何をしているかというと、書籍の文脈から、あることばの塊を切り出しているわけです。僕はそれをブログのなかの別の文脈に置き換えたりしているので、そこでは抽象化の思考も働いてるわけです。
この通常の文脈から切り出せるかというところにまず1つ目のポイントがあります。
抽象的に言い切る
もう1つ別の名言の作り方があります。それは自分の日常で感じたことを、その現実の文脈は濁した抽象的な表現で、かつ断定的な言い方で、twitterにつぶやいてみる、という方法です。これはいま僕がはまっている方法で、これがあるから抽象化ということを最近よく考えるのです。
実際に、それが名言になっているかはみなさんそれぞれの判断に完全にゆだねますので、興味のある方は僕のつぶやきの痕跡を見ていただくとして、ここで大事なのは文脈から切り離したあと、単純化や歪曲を含む抽象的な表現への置き換えを行えるかどうかだと思うのです。
僕は仕事で、たくさんの人がある製品などを使う際の行動やその背景に関するインタビューに携わります。そこでおもしろいのは話を聞くだけでは同じように感じられていたAさんとBさんの行動が、あとできちんと行動における関係性を図にしてモデル化する作業をしてみるとまるで違っていることに気づくことが少なくないことです。
これはつまり話だけを聞く際の抽象化と、図にしてモデル化する際の抽象化の視点が変わるから生じる違いです。これがあるからこそ、話を聞いていたときには気付かなかった発見がモデル化することで得られるのです。これはワークモデル分析という手法ですが、詳しくはこちらで。
発見とは、いかに目の前の文脈から切り出して抽象化できるかという形態形成プロセスの1つのバリエーションにほかなりません。それには当たり前を疑う、という文脈外しが意識的にできる自在性を普段から鍛えていないと、なかなか発見の効率を高めることはできないでしょう。
だからこそ、日常の文脈、現代の文脈、専門分野の文脈からどれだけ意図的に自由たりえるか?が問題になる。
さて、みなさんはそういう訓練をしているでしょうか?
僕はその訓練のためのツールの1つとして、twitterって使えるなって感じてます。
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