いわゆる狭義の人間中心設計、ユーザビリティの分野では、"Context of Use"(利用状況)を大事にします。
でも、僕自身は利用状況というコンテキストだけ重視しても人間中心のデザインにはならないと思っています。
会話のコンテキストのなかのモノ
そのことは僕の新しい本『デザイン思考の仕事術』皆さん、自分自身のことを考えてみれば、わかると思いますが、モノの良し悪しを判断するのに友人・知人の評価やネット上のレビュー、はたまた、マス媒体の記事などなどに登場する数々のコトバを当てにして評価していますよね。それって自分自身の利用のコンテキストのなかでモノの価値を判断しているわけではありません。
では、そこで得られるモノの価値を無視していいかというとそうはいかないはずです。それはつまりブランド認知というものを無視していることにもなるわけですから。
コトバのなかのモノの価値
例えば、モノを売ることを考えたら、マーケティング・コミュニケーションにおいていきなりマスを相手にするのは賢くないことは、まともなマーケターならわかってるはずです。最終的に売りたいのはマスであっても、コミュニケーションのターゲットは話題をつくることができるインフルエンサー的な人に向けたほうが賢いわけです。前に「マーケティングの顧客セグメントとペルソナ」というエントリーでも書きましたが、ここでペルソナという利用ユーザーのターゲットとコミュニケーションのターゲットにズレができるケースは多々ありますし、そもそもペルソナという利用者のモデリングが有効でない商品カテゴリーはいくらでもあるわけです。もはや利用品質の面では製品間の違いがわからないような飲料や食品、日用品などはそれにあてはまる。
そういうケースでは、むしろマーケティングコミュニケーションに役立てるために、会話のコンテキスト、社会のなかでの噂というコンテキストで、コミュニケーションのデザインを考えたほうがよいと思っています。その意味でインフルエンサーがマスコミュニケーションのターゲットになりうるし、そのためにインフルエンサーからうわさが広まっていくためのコミュニケーションデザインを考えたほうが得策である場合が多いと思っています。
実際のマスへの伝道はその人たちにマスの人たちにもわかりやすい言葉に翻訳してもらったうえで伝えたほうがいい。いわゆるマーケティング的な情報に直接触れるよりも、知人など身近な人を介したコトバのほうが説得力もあるし、警戒心も薄れますから。この利用前のコンテキストというのを無視してはダメです。
僕は、本来の人間中心のデザインとは、こういったマーケティングコミュニケーションの世界も視野にいれたものである必要があると考えます。モノさえつくればOKだと思っているのはとんでもない勘違いです。
コトバとモノ
繰り返しになりますが、モノが会話などのコンテキストのなかにどういうコトバでどうやって登場するかによって、モノの評価などは簡単に変わります。それは個々人の利用というコンテキストのなかにあるのではなく、もっと大きな社会のなかでの利用のコンテキスト、社会におけるコトバのコンテキストのなかにあるわけです。それは狭義の人間中心設計が無視しているところであり、従来のマーケティングが相手にしてきた領域です。僕はそれを統合的に広義の人間中心のデザインとして統合していく必要を感じています。
その意味では、僕らは、いまだに18世紀ヨーロッパを対象に『言葉と物―人文科学の考古学』
クリッペンドルフの4つのコンテキスト
さらにいうと、モノのコンテキストというのは、自分で利用するときのコンテキスト、コトバのコンテキストだけではありません。クリッペンドルフは人工物がかかわるコンテキストを以下の4つに分類しています。
- 個々の人間の使用におけるコンテキスト
- 言語や人間のコミュニケーションあるいは社会における使用のコンテキスト
- 人工物のライフサイクルにおけるコンテキスト
- 他の人工物とのあいだのエコロジーにおけるコンテキスト
の4つがそれです。
これがわかってないと、いわゆる人間中心のデザインは非常に狭いものになってしまいます。
従来の人間中心設計的な考え方は、見事にその罠にはまってしまっています。そこには白川静さんや杉浦康平さん的世界もないし、これまでのクリエイティブの世界の人々が活躍してきた世界観も見殺しにしてしまっているし、民藝的な世界も、エコロジカルな世界も拾えていない。そんな狭い箱のなかに閉じこもってデザイン云々をいっててよいのかしら?というのが僕の疑問。
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