近代視覚表現技術とともにあった「想像力」の危機
視覚表現技術をどう進化させるか?という課題が、ひとの想像力をこの時代にあったものに拡張するうえで、重要なポイントの1つだろうという思いを最近より強く感じています。
そんなことをあらためて考えるようになったのは、前回の「反-知の形式としてのバロック的想像力を再獲得する」という記事でも紹介した高山宏さんの『魔の王が見る―バロック的想像力』という本のなかでこんな記述を目にしたからでもあります。
前回の記事中でも取り上げた17世紀初めのヴンダーカンマー(驚異博物館)の流行の時代を、高山さんは「想像力」の時代でもあると読み解きながら次のように書いているんです。
事物の集積に未曾有の関心をもった17世紀初めのそうした「エキセントリック・スペース」の流行を背景にしてみてはじめて、人間は自らの身体と精神と頭脳の構造に目を向けることができたのではないかとさえ思われる。自らの内部に生じつつある事態を客観視できないわれわれ人間は、それが外部に投影されスクリーン上に映しだされる文字通りの「像(イメージ)」を見ながら、おそらくは自らの内なる世界を眺めているような気分になったのではなかろうか。
高山宏『魔の王が見る―バロック的想像力』
これはなかなか興味深い指摘です。
大胆にいえば、高山さんが言っているのは、外の像が先で、内面の像が後だということです。外に像を投影する表現技術が向上したことで、人間は自分たちの内面の想像力云々について考え、語ることができるようになったというわけです。
スクリー…