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<title>DESIGN IT! w/LOVE</title>
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<description>地味に地道にデザインと日本について。今宵も長文したためています。</description>
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<title>【参加者募集】5月12日開催「デザイン思考ワークショップ」</title>
<description>恒例の「デザイン思考ワークショップ」を5月12日の土曜日に開催することになりました。内容はこれまで同様で、WebディレクターやWebデザイナーの方などを中心に​、ペ​ルソナやシナリオ、プロトタイピングなどの手法を用いて​、ユーザー視点からWebデザインを考える方法を体験的​に学んでいただくワークショップとなります。興味のある方、友人・知人・同僚などをお誘いの上、ぜひご参加ください。以下、詳しい内容になりますが、すでに内容をご存知の方はこちらからお申し込みください。ワークショッ..</description>
<dc:subject>デザイン</dc:subject>
<dc:creator>HIROKI tanahashi</dc:creator>
<dc:date>2012-04-24T12:05:15+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
恒例の「デザイン思考ワークショップ」を5月12日の土曜日に開催することになりました。<br /><br />内容はこれまで同様で、WebディレクターやWebデザイナーの方などを中心に​、ペ​ルソナやシナリオ、プロトタイピングなどの手法を用いて​、ユーザー視点からWebデザインを考える方法を体験的​に学んでいただくワークショップとなります。<br />興味のある方、友人・知人・同僚などをお誘いの上、ぜひご参加ください。<br /><br />以下、詳しい内容になりますが、すでに内容をご存知の方は<a href="https://www.q-pass.jp/surl/4tdZ" target="_blank">こちらからお申し込み</a>ください。<br /><br /><h4>ワークショップ内容</h4>参加者を2～3つのグループに分けたグループワークの形式で、Webサイトをデザインする作業を以下のステップで行なっていただきます。<br /><br />　09:30　開場～受付開始<br />　10:00　60分　説明／講義／質疑応答<br />　11:00　60分　KJ法①（調査データの読み込み、情報の抽出）<br />　12:00　60分　昼休み<br />　13:00　60分　KJ法②（情報の統合、図式化）<br />　14:00　60分　ペルソナの作成<br />　15:00　60分　シナリオの作成<br />　16:00　30分　シナリオに基づく画面遷移の検討<br />　16:30　60分　ペーパープロトタイプの作成<br />　17:30　30分　チームごとの発表<br />　18:00　まとめ～終了<br /><br />以下、先日、昨年の7月30日に行なった同内容のワークショップからすこしその雰囲気を写真で。<br /><br />KJ法を使ったユーザー分析はこんな感じでやります。<br />この膨大なデータからユーザーモデルであるペルソナを作成するのが醍醐味であり、このメソッドの肝になる部分です。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20110804a.jpg" width="400" height="300" border="0" align="" alt="20110804a.jpg" /><br /><br />ペルソナを作ったあとシナリオを考えます。<br />その際、こんなフロー図でユーザーの理想の行動をまとめるチームもありました。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20110804b.jpg" width="400" height="300" border="0" align="" alt="20110804b.jpg" /><br /><br />最後はペーパープロトタイプを使っての発表。<br />ただし、発表の前に自分たちでも作ったプロトタイプを使って、ユーザー体験をシミュレーションしてみることが、ユーザー視点に立ったデザイン思考の頭の使い方。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20110804c.jpg" width="400" height="300" border="0" align="" alt="20110804c.jpg" /><br /><br /><h4>開催日時</h4>2012年5月12日（土）10:00-18:30<br />※開場～受付開始は9:30より行なっております。<br />※作業の進み具合によっては、終了時間が１時間ほど伸びる場合があります。<br /><br /><h4>会場</h4>新宿伊藤ビル４F会議室（東京都新宿区新宿5-18-16）<br /><a href="http://success-bm.com/s-i-b/rental/" target="_blank">http://success-bm.com/s-i-b/rental/</a><br /><br />こんな昔の学校の教室風の会場です。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20110804d.jpg" width="250" height="333" border="0" align="" alt="20110804d.jpg" /><br /><br /><h4>参加費</h4>9,000円／１名<br />※当日現金でのお支払いになります。<br />※基本的には企業単位での参加は受け付けておりませんので、請求書発行はいたしません。<br /><br /><h4>主催、お問い合わせ</h4>お問い合わせは、棚橋（gitanezあっとgmail.com）宛にお願いします。<br /><br /><h4>お申し込みに関しての注意事項</h4>先着順で締め切りますので、お申し込みはお早めに。<br />友人などと参加する場合でも、お申込は参加者１人ずつ行なってください。<br /><br /><h4>お申し込みは以下</h4>お申し込みページ　<a href="https://www.q-pass.jp/surl/4tdZ" target="_blank">https://www.q-pass.jp/surl/4tdZ</a><br /><br />それでは、皆様のご参加お待ちしております。<br />ご友人など、お誘いの上、ご参加いただければ幸いです。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4534045727" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<a name="more"></a>

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<title>笑い vs. イノベーション</title>
<description>「笑う」という態度を保てるのは強い。最近になって、そんなことを強く感じるようになりました。お笑い番組などをみたり馬鹿話にげらげら笑うというのではなく、目の前で起きていることを肯定的に受け入れて笑えるような笑い。目の前で起こる事柄を否定する怒りや不満の表情に対して、多少の問題があってもそれを受け入れて肯定できる笑い。そういう笑いができる精神性や社会性の強さについて考えるようになっています。そんなことをあらためて考えていたので、実際、ある機会に「笑顔」のもつ魅力や強さについてお話..</description>
<dc:subject>ソーシャルイノベーション</dc:subject>
<dc:creator>HIROKI tanahashi</dc:creator>
<dc:date>2012-04-23T20:28:02+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
「笑う」という態度を保てるのは強い。最近になって、そんなことを強く感じるようになりました。<br /><br />お笑い番組などをみたり馬鹿話にげらげら笑うというのではなく、目の前で起きていることを肯定的に受け入れて笑えるような笑い。目の前で起こる事柄を否定する怒りや不満の表情に対して、多少の問題があってもそれを受け入れて肯定できる笑い。そういう笑いができる精神性や社会性の強さについて考えるようになっています。<br /><br />そんなことをあらためて考えていたので、実際、ある機会に「笑顔」のもつ魅力や強さについてお話させていただいたりもしました。<br /><br /><img border="0" alt="" src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20120423.jpg" width="500" height="374"><br /><br />そういう考えが頭にあったからでしょうか。昨日までニューカレドニアに１週間ほど行っていたのですが、そこでも目に焼き付いたのはメラネシアの人びとの笑顔でした。<br />フランス領であるニューカレドニアでは、フランス人を中心にヨーロッパの人びとも数多くいて、リゾート地ゆえの笑顔が見られたのですが、それ以上に生活臭あふれるメラネシアの人びとの笑顔のたくましさは魅力的に思えました。<br /><br />旅行中、離島であるイル・デ・パンに向かうために国内線を利用する機会があったのですが、ゆるーい土地柄を反映してか、8時半のフライトが４時間ほど出発が遅れました。そのときも待合室で不満そうな顔でぐったりとする日本人観光客に比べ、遅れをものともせずに、顔見知りの人たちと楽しそうにおしゃべりをするメラネシアの人びとの笑顔は対照的でした（もちろん、地元民であるメラネシアの人びとが遅れて待たされることに慣れているのだとしても）。<br /><br /><a name="more"></a><h4>どんなことにも笑う人びと</h4>また、たとえば、すこし前に会社のブログのほうに書いた記事「<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/04/12.html" target="_blank">ピダハンの社会を鏡として、これからの「ソーシャル」を考える</a>」でも紹介していますが、ダニエル・Ｌ・エヴェレットという言語人類学者が自身が30年以上生活をともにしたブラジル・アマゾンの少数民族ピダハンの独特の言語と文化を紹介した非常に興味深い１冊、<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622076535/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622076535">『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4622076535" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />の中でも、やはり「笑い」に関する、こんな記述があります。<br /><br /><blockquote>ピダハンはどんなことにも笑う。自分の不幸も笑いの種にする。風雨で小屋が吹き飛ばされると、当の持ち主が誰よりも大きな声で笑う。魚がたくさん獲れても笑い、全然獲れなくても笑う。腹いっぱいでも笑い、空腹でも笑う。（略）このみなぎる幸福感というものは説明するのが難しいのだが、わたしが思うにピダハンは、環境が挑んでくるあらゆる事態を切り抜けていく自分の能力を信じ切っていて、何が来ようと楽しむことができるのではないだろうか。<br /><div style="text-align:right;">ダニエル・Ｌ・エヴェレット<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622076535/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622076535">『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4622076535" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />読んでいただいたとおりで「どんなことにも笑う」という場合の「どんなこと」に含まれるなかには、必ずしも笑えない事柄がいくつか含まれます。「自分の不幸」や風雨で自分の住居が飛ばされること、漁がうまくいかなかったこと、空腹であることなどは、僕らの感覚では笑って受け入れるものではなく、不満に感じたり嘆いたりするような事柄です。つまり、そうあることを否定したくなる出来事です。にもかかわらず、ピダパンは僕らが「そうあることを否定したくなる出来事」に対しても笑うというのです。<br /><br /><h4>楽だから笑うのではなく、楽しいと受け入れられるから笑える</h4>著者自身も「だからといってピダハンの生活が楽なわけではない」と書いていますが、先の<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/04/12.html" target="_blank">会社のほうのブログ記事</a>にもすこし詳しく紹介したように、ピダハンは幼児や赤子でさえ、一個の人間として成人した大人と同様に尊重し、それゆえに「優しく世話したり特別に守ってやったりしなければならない対象」と見なすことはなく、自分自身で自分の始末をつけることを当たり前と考える社会です。その社会では、小さな子どもが鋭利な刃物をおもちゃとして振り回したり、燃えさかる火の近くで遊んだりといった危険な状況においても親は注意することもなく、子ども自身に始末をつけさせるように、子どもの頃からすでにその生活は楽なわけではありません。<br /><br />もちろん、子どもだから生活が楽なわけではないというのではなく、大人になっても病気になっても見てくれる医者もなくお腹が空いても狩や漁で食べ物にありつけなければ食べるものもないような生活環境では決して楽に生活ができる状況ではないからです。<br /><br />それでもピダハンはいつでも笑っていると著者は言います。<br /><br />それは生活が楽だからではなく、楽しいからなのでしょう。<br />楽しく生きるために「ピダハンは何であれ上手に対処することができる」力を、子どもの頃から自分のことは自分で始末をつける術を学ばせてもらうことで、誰もが身につけているからなのでしょう。<br />楽だから笑うのではなく、楽しいと受け入れられるから笑えるということなのだと思います。<br /><br /><h4>笑いは安定につながり、不満はイノベーションに導く</h4>目の前で起こっている事柄を笑って受け入れられる強さ。それは一方で社会における文化の変容を疎外する要因となり、社会の文化的進歩を拒む姿勢にもつながります。<br />実際、著者が描くピダハンの人たちも、著者ら西洋人が持ち込む文化や道具や機械を受け入れることなく、昔ながらのピダハンの生活文化に固執する／維持しようとする姿勢をみせます。西洋人のエンジンのついたボートや薬を借りることはあっても、決して自分たちでそれを作れるようになることは望まないといいます。<br /><br />笑って目の前の事柄を強く受け入れるということは、ヘンリー・ペトロスキーが<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4791763343/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4791763343">『失敗学―デザイン工学のパラドクス』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4791763343" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />（書評は<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/51398867.html" target="_blank">こちら</a>）のなかで「新しい事物や、事物についての考えは、現存する事物に対するわれわれの不満から、また、われわれがかくなされてほしいと思うことを満足になしとげてくれる事物がないことから、発している。より正確に言えば、新しい人工物や新しい技術の発展は、既存の事物や技術が、約束通りに、または当初希望され想像されえた通りに働いてくれないことから生じるのである」と書いた社会にイノベーションをもたらすデザイン的発想が必要とする不満や苛立ちを欠いているということでもあるのです。<br /><br /><blockquote>もちろん、このように安定してしまっていると、創造性と個性という、西洋においては重要な意味をもつふたつの大切な要素は停滞しがちだ。文化が変容し、進化していくことを大切に考えるのなら、このような生き方はまねできない。なぜなら文化の進化には対立や葛藤、そして難題を乗り越えていこうとする精神が不可欠だからだ。<br /><div style="text-align:right;">ダニエル・Ｌ・エヴェレット<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622076535/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622076535">『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4622076535" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />笑って目の前で起こる出来事を受け入れる強さほど、イノベーションを生み出す発想や行動を原動力となる不満や苛立ちとは相容れないものはないように感じます。それが社会的課題を解決するためのイノベーションであろうと、それは笑いではなく、不満や苛立ちを糧にしか生み出せないものなのだろうと思うのです。<br />もちろん、社会的イノベーションが目指すものが笑いのある社会であったとしても…。<br /><br /><h4>笑い vs. イノベーション</h4>目の前にある事実を受け入れられず不満に思うからこそ、その状況を変革するためのイノベーションの実現を目指して頭をひねる。もちろん、それはひとつの方法です。<br />でも、状況のほうを不満に感じて変えようとするのではなく、大らかな気持ちで状況を受け入れて笑ってみせることで自分たちの置かれた状況を好転させるというのも立派な方法ではないでしょうか。<br />いや、方法というよりも１つの生きる姿勢といったほうが良いかもしれませんが…。<br /><br /><blockquote>しかしもし自分の人生を脅かすものが何もなくて、自分の属する社会の人びとがみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどうよくすればいいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば。<br /><div style="text-align:right;">ダニエル・Ｌ・エヴェレット<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622076535/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622076535">『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4622076535" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />著者の描くピダハンたちは、どんなにその生活が貧しく、過酷でも、外の西洋人や、すこし西洋の文化を受け入れたまわりのアマゾンの住民たちよりも、自分たちの生活こそが優れていることをすこしも疑いません。それはピダハンたちが「外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子」であまり笑っていないのを知っているからなのでしょう。だからこそ、どんなことにも笑える自分たちの生活文化こそが、どんな苦境も乗り越えて受け入れられる強さをもてる優れた生き方だと信じられるのでしょう。<br /><br />デザイン思考でイノベーションにつながる発想を生み出すことを仕事にしている僕ですが、その反対側にある、このピダハン的な笑いのもつ力に最近魅了されるのです。<br /><br />自分自身で笑えるか、イノベーションという外側から来るものに笑わせてもらえるようになるか。<br />どちらか１つを選択するのはむずかしくとも、ずっと悩み続けてもよい問題だろうと思うのです。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4622076535" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br /><br /><strong>関連エントリー</strong><br /><ul><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/51398867.html" target="_blank">失敗学―デザイン工学のパラドクス／ヘンリ・ペトロスキ</a></li></ul>

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<title>モナドの窓／ホルスト・ブレーデカンプ</title>
<description>普段、人間観察をしていて感じることの１つに「考えることが苦手な人というのはそもそも表現することが苦手な人である場合が多い」というのがあります。表現のための素材としての言葉や情報を知らなかったり、素材はもっていてもそれを組み合わせて別のアイデアを生み出すための組み立て方、つまり編集術が拙かったりすると、自分自身が考えていることがうまくイメージできなくて、自分の考えを展開させて論理立てて構築していくことができなかったりします。意外とみんな気づいていないのかな？と思うのは、考えるこ..</description>
<dc:subject>本</dc:subject>
<dc:creator>HIROKI tanahashi</dc:creator>
<dc:date>2012-03-05T21:36:57+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
普段、人間観察をしていて感じることの１つに「考えることが苦手な人というのはそもそも表現することが苦手な人である場合が多い」というのがあります。<br />表現のための素材としての言葉や情報を知らなかったり、素材はもっていてもそれを組み合わせて別のアイデアを生み出すための組み立て方、つまり編集術が拙かったりすると、自分自身が考えていることがうまくイメージできなくて、自分の考えを展開させて論理立てて構築していくことができなかったりします。<br /><br />意外とみんな気づいていないのかな？と思うのは、<strong>考えることとはすなわち書く/描くこと</strong>だということです。<br />書く/描くためには書こう/描こうという気持ちだけではなく、具体的に書く/描くための表現技術が必要です。表現するとは、他人に対して何かを伝えるために表現する以前に、自分が理解するために必要なものです。表現できないばかりに理解できず、表現できないばかりに考えを展開できないことというのは多々あります。<br /><br />江戸時代までの人びとが使った表現の方法に「列挙」という方法がありますが、これは様々なものを並び上げ、数え上げる方法で、<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/106544299.html" target="_blank">絵画の分野では「百○図」や「○○尽くし」といった絵として表現される</a>ものです。ただ、この<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/108574017.html" target="_blank">列挙の方法には実はいまの僕らにとっては当たり前な接続詞が使われず、接続詞によって表現可能な関係性が表現できない</a>のです。<br />だから、列挙の表現を用いていた人びとには、理由や原因と結果だったり、所有や被所有という関係だったり、逆説や反論のような論理的な関係を考えることができませんでした。<br />そうした論理的思考を欠いた状態では、とうぜん科学的思考は不可能です。科学的思考を可能にするためには、論理学を可能にする表現がすでに存在する必要がありました。絵画でいえば、「百○図」のような絵ではなく、前後や距離感の関係が描かれた遠近法的絵画表現が存在しているように。<br /><br />１つ前の「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/253529323.html" target="_blank">「電子書籍」という概念を越えてテクストの新しい形を模索すること</a>」で話し言葉、手書き文字による写本、印刷された書籍、電子書籍やWebページを含むインターネットを通じてアクセスされるデジタルドキュメントという流れのなかで、いかに人間の思考スタイルや社会の様式が変化してきたかに焦点をあてたのもまさにおなじことです。<br />デジタルドキュメントがあってはじめて可能な表現方法は、印刷本の時代とは別の思考を可能におり、その思考が確実に社会のあり方を変化させています。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20120224a.jpg" width="500" height="375" border="0" align="" alt="20120224a.jpg" /><br /><br />その思考とメディアの関係を明らかにした１人がメディア論のマクルーハンですが、それよりもはるか以前の17世紀後半から18世紀のはじめにかけて、すでにそのことに気づいてみずから実践的に思考や知的作業のための新しいメディア開発に注力していた人がいました。<br /><br />17世紀後半から18世紀初頭にかけてデカルトやニュートンの同時代人として活躍した哲学者にして数学者であるゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツがその人です。<br /><br /><strong>“ライプニッツによれば「マテリアルのイメージ、あるいは痕跡」を伴わない、かくも抽象的な思考は、存在しない。”</strong><br /><br />思考が必ず伴う「マテリアル、痕跡」の存在をライプニッツは決して見失わず、さまざまな痕跡の種類によって可能な思考が異なることを自覚していました。<br />本書は、そんなライプニッツが生涯を通して追求した、新しい知的メディア研究に関するプロジェクト「自然と人工の劇場」について論考した一冊です。<br /><br /><a name="more"></a><h4>ヴィジュアルシンキング：ロジカルシンキングが失った思考＝表現のスタイル</h4>従来、ライプニッツといえば、ニュートンとは別に微積分法を発明／発見したことや、二進法を用いた論理計算を考案したことで知られており、また、そうした面から評価を受けてきました。<br />“分析哲学、形式論理学、デジタル計算、サイバネティクスによる世界解析、これらの先駆者としてのライプニッツ”というのがごくごく一般的なライプニッツに対する見方です。<br /><br />しかし、本書ではライプニッツのそうした数学的、論理計算的な影に隠れて、これまで光が当てられてこなかったヴィジュアリストとしてのライプニッツに焦点があてられます。<br />計算や文字による記述のみでは思考不可能な領域について思考を及ばせるための方法として、ヴィジュアリストであるライプニッツが生涯をかけて追いかけた「自然と人工の劇場」という知的システムの実現というプロジェクトをめぐる彼の履歴に注目するのです。<br />その注目こそが、計算や文字による思考を越えた、これからのヴィジュアル思考の方向性を模索する試みだろうと僕は考えます。もちろん、17世紀後半から18世紀前半にかけてライプニッツが模索したヴィジュアルシンキングがそのまま現在に通用するというのではなく、いまのロジカルシンキングが失った思考＝表現のスタイルに目を向けることで、これまでの思考＝表現の限界から抜け出す可能性が模索できるのではないかと思うのです。<br /><br /><h4>「自然と人工の劇場」</h4>それは実際、ライプニッツ自身がみていた可能性でもありました。<br /><br /><blockquote>しかし、自然と人工の劇場の光のもと、合理計算をひたすら人間のための使命となした哲学者が返す刀で数学化の限界を示し、ものそのものへと眼差しを神の視形式のなぞりと解している。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />そう。ライプニッツは数学化を人間のための使命と考え、その具体的な方法（微積分法や論理計算など）を発明しつつ、その限界を理解し、その限界を超える可能性が「ものそのものへの眼差し」の先にあると考えました。<br /><br /><blockquote>ライプニッツにとっては宇宙の中で無限の状態にあり永遠に分割可能な被造物と物体は、計算できるものではなく、認めるものなのだ。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />計算ではなく、認める方法。<br />計算とか理解というのは、現実の世界をあれこれ人間的なはかりを使って切り刻み、自らが扱いやすい部品に加工した上でそれを再び組み合わせながら、論＝ストーリー、ヴィジョンを想像する方法です。つまり抽象化による思考です。<br />それに対してライプニッツは目指したのは切り刻んだり加工することなく生のままの世界を認めたまま思考する方法でした。そのための装置として「死んだ書庫世界」に対するものとして、構想したのが「自然と人工の劇場」でした。<br /><br /><blockquote>ライプニッツはクンストカマー、珍奇コレクション、絵画キャビネット、解剖学劇場、薬剤局、薬草園、動物園を数え上げ、１つのアンサンブルを考えている。これを総じて自然と人工の劇場として定義するのである。硬直した、それゆえひそかに死んだ書庫世界と対照的に、この劇場をもって「万物の生きた印象と知識」を可能ならしめようというのだ。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br /><br /><h4>「生きた印象と知識」のための劇場</h4>17世紀、18世紀のヨーロッパにおけるクンストカマーや珍奇コレクションといえば、このブログではおなじみのバーバラ・M・スタフォード女史が「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/221193830.html" target="_blank">アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育</a>」や「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/101906145.html" target="_blank">ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識</a>」のなかで繰り返しテーマとしている、いまだ美術も民族学も生物学も歴史学も１つの博物学という名の下にいっしょくたにされ、画家の描いた絵も、遠い国のめずらしい祭祀用の道具も、めずらしい貝や鉱物も化石もおなじテーブルの上に載せられて陳列された時代の知の劇場でした。<br />そう。こんな挿絵のように。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20120224c.jpg" width="500" height="375" border="0" align="" alt="" /><br /><br />そうしたクンストカマーや珍奇コレクションを含む劇場＝テアトルムという概念はライプニッツの時代にはまさに、現在でいう美術館の展示室や動物園、植物園、商品陳列台などはもちろんのこと、解剖台やサーカス小屋、賭博場などの物理的な施設、百科全書などのメディア、それからきっといまなら様々なウェブページや検索結果のサマリーなどまでも含めた、情報を陳列してみせる場所だったのです。<br /><br /><blockquote>今日の語法では「劇場」は芝居の上演される建物であり、演目そのものを指すが、17世紀の語法からすればそれらはあまりに狭い。テアトルムとは、物なり、イデーなりを徹底して見せるための場であり、その手段についての表記であった。それは田舎のひなびた場所に発し、建物を経て、絵画収集や、概念・百科全書・あらゆる書物の感覚的明示化までをカヴァーし、これらは1つの問題を、あるいは1つの対象を記述によって、または図によって、眼に見えるものにしようとするものだった。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />いまのことばでいえば、文字どおり、総合的な意味での「情報アーキテクチャー」がライプニッツの時代のテアトルム概念であり、ライプニッツが追求したのもこの「情報アーキテクチャー」を設計する手法であり、それを用いて可能になる知的作業に関するものでした。<br /><br />そして、それは現在僕らが知っているよりもはるかに豊穣で、いかがわしさを許容した新たな科学の方向性だったのです。<br /><br /><blockquote>それに劣らず驚嘆すべきは、ライプニッツの願望の強さ。劇場と賭博宮殿をたんに実演と娯楽のメディアにとどまらず、認識の中心手段として投入したいのだった。「表象の新たな手法」とは、遊戯と娯楽に立脚した諸科学改革を追求するのものだった。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />「遊戯と娯楽に立脚した諸科学改革」というのは、デザイン思考やゲームストーミングなどのコラボレーションの場における創造的作業に近いものを感じないでしょうか。計算できるものではなく、認めるものを対象とした知的作業を可能にする「表象の新たな手法」としてライプニッツが求めたのは、遊戯性や娯楽性などももった「生きた印象と知識」を大事にすることだったのです。<br /><br /><blockquote>「生きている」とはライプニッツにとって、硬直した書法を触覚的視覚的方法によってはみ出していく一切のことだ。彼がおよそ1671年にマインツで自然と人工の劇場を定義したとき、彼の願いは「生きた印象と知識」を生み出すことだった。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />彼はそれを「硬直した書法」に対置したのです。<br /><br /><h4>記号術</h4>しかし、ここで僕らはライプニッツが「硬直した書法」を否定したと考えるのは間違いです。<br />何よりライプニッツは微積分法を発明すると同時に、微積分の思考を展開するための書法として微積分記号を同時に発明した人物でもあり、さらに現在のコンピューティングにもつながる二進法を用いた論理計算の創始者なのですから。<br /><br /><blockquote>あらゆる記号を数学言語に移す、そのための計算法を使うならば、「人類は」新たな道具を手に入れるだろう。「その道具は精神の能力を、メガネが視力を促進するより、はるかに高めてくれ、理性が視覚器官に優越するのと同じ度合いで、顕微鏡や望遠鏡にもまさるだろう」と。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />ライプニッツは人間の思考を高める１つの結合術的書法の１つとして記号術を推奨し、そのためにいくつかの記号を考案しています。それは「硬直した書法」であるとはいえ、やはり「マテリアルのイメージを伴わない抽象的な思考は存在しない」と考えたヴィジュアリストであるライプニッツらしい、具体的なマテリアル＝痕跡を用いた思考方法の考案だといえるのです。<br /><br />実際、記号というヴィジュアル表現以外にも、ライプニッツは生涯かけて無数のスケッチを残しています。<br />そのスケッチは下の図のように拙い絵ではありましたが、自分の思考を自分よりも絵画表現に長けた画家に伝えるための表現としては十分なものでした。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20120224b.jpg" width="500" height="375" border="0" align="" alt="" /><br /><br />具体的なマテリアルあるいは紙の上の痕跡として、思考を表現することが思考の可能性を広げることにライプニッツほど意識的だった人はそれほど多くないのではないかと思うのです。<br />「硬直した書法」によるシステマティックな思考である記号術さえも、十分すぎるほどヴィジュアルシンキングであることを彼は決して見逃しませんでした。<br /><br /><blockquote>ライプニッツが信頼するのが、一義的に指標化された、ヴィジュアルとして納得できる「形象（フィギュア）」の客観性だったのだ。彼はこれら形象（フィギュア）のことを「書かれた、印とされた、あるいは造形された指標」と定義している。ライプニッツ思考理論の鍵が、これである。紙上に、あるいは他のメディア上に形作られるこうした記号の世界がなければ、諸客体の間をつないでいくシステムマティックな思考は想定できない、と彼は言うのだ。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />ずっと後の時代になって、マクルーハンがアルファベットがその後の西洋的な思考＝表現のスタイルを大きく革新する記号の役割を果たしたことに気づいたのと同様か、それ以上の嗅覚をライプニッツはもっていたのだと思います。そして、その嗅覚がライプニッツに様々な計算のための記号術を考案させます。<br /><br />ただ、そんな人工的な記号以上のものが存在することもライプニッツは忘れません。<br /><br /><blockquote>「もしもわれわれが、囲いの中で野生動物を、あるいは解剖学教室で骨格を見るごとく、事物そのものを常に眼前に見ることができるのなら、われわれはそれらを記号で表象する必要はさほどないだろう」。表象願望はそのとき記号の層を突っ切って、生き物や対象物に肉薄する。これらは自分で自分を指す記号なのであるから。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />「自分で自分を指す記号」を用いた思考を可能にするためにこそ、「自然と人工の劇場」は必要だったのです。<br /><br /><h4>影絵を通して</h4>ライプニッツの試行錯誤のみならず、17世紀後半から18世紀のヨーロッパは、様々な視覚表現が模索された時代でした。それは先にも書いたとおり娯楽や遊戯であると同時に、新しい思考＝表現を模索する試みでもありました。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20120224e.jpg" width="500" height="375" border="0" align="" alt="" /><br /><br />その時代に注目集めた光学的アイデアの１つに影絵がありましたが、これも他の視覚表現同様にエンターテイメントであり科学でした。<br /><br /><blockquote>射影計算においてライプニッツの見据えていたことは、1688年起草と思われる自然科学研究システム化のテクストをまって、まさに霹靂のごとくに明らかとなる。そのマルジナリアにはこう公理化してあった。「平面図は無限に多数の立面図を」持っている。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />ライプニッツはこの影絵の影が、人間が見ている物体に他ならないと考えます。<br /><br /><blockquote>「もし物体が現象であるのなら、そしてわれわれの現れ方から判断されるものであるのなら、物体はリアルではないだろう。なぜならそれは別の者には別の現れ方をするのだから」。こうしたプラトンの影絵批判を想起させるアプローチは、種々の現れ方の集合である世界に対して根底的拒否を意味しかねない。つまり、人の目に映るものはリアルとは言いかねるので、本当の認識に達するには別の手段を講じなければならない。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />そう。人間がみているのは事物そのものではなく、その影であると。<br />それはプラトンがイデアを想定して、その模倣である絵などの描写を否定したのと同じように、あるいは、デカルトがすべてが夢であり、それを夢だと疑うことだけが存在を証明するものであると考えたのと同じ捉え方でした。<br /><br />しかし、ライプニッツの思考はそこから別の方向に向かうのです。<br /><br /><blockquote>ところが、現れ方が種々に変わっていくことこそ、ライプニッツに反対の結論を引き出させる。「であればこそ、物体、空間、運動、時間のリアリティは、本質的に神の現象であるという点、あるいは視の科学の対象であるという点に存在するように思われる」。物体、空間、運動、時間といったこの世のあらゆる形態は、決していかがわしい詐欺師の眼くらましではなく、神のエマナツィオン（流出）なのだ。このエマナツィオンこそ、科学としての光学にふさわしい対象なのである。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />そう。人間が見ている影という現象は、神の現象にほかならないと考え、その神の流出である視覚表現について模索することこそが真実に近づく道であると。<br />ここにこそライプニッツのヴィジュアリストとしての真骨頂があると思います。<br /><br /><blockquote>ライプニッツは分かっていたのである。思考とは具象化である。それが紙面の端っこに描き込まれた結び目の図であれ、あるいはまた、解読不能、シュールにさえ見えるスケッチであれ。そう見えるのは、まさにライプニッツにとっては思考を解き放った遊び場だったからなのだ。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />そのスケッチはまさに解読不可能。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20120304.JPG" width="384" height="512" border="0" align="" alt="" /><br /><br />だが、その解読不能なスケッチは、普段、解読可能なわかりやすい視覚表現ばかりに囲まれて、理解できない謎から遠ざけられて生きている僕らにはむしろ清々しささえ感じる自由な謎として、新しい可能性の光を放ってみえるのではないでしょうか。<br /><br />僕らはもっと自分たちの思考を閉じ込めているマテリアルに敏感になり、そこから解き放たれるためのマテリアルを見つける努力をしなくてはいけないのだと思います。<br />この本を読んで、よりいっそうその思いを強くしました。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4782801688" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br /><br /><strong>関連エントリー</strong><br /><ul><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/221193830.html" target="_blank">アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育／バーバラ・M・スタフォード</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/101906145.html" target="_blank">ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識／バーバラ・M・スタフォード</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/103289897.html" target="_blank">アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮／田中純</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/177783640.html" target="_blank">メディア論―人間の拡張の諸相／マーシャル・マクルーハン</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/109005867.html" target="_blank">ポストメディア論―結合知に向けて／デリック・ドゥ・ケルコフ</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/147940623.html" target="_blank">官能の庭／マリオ・プラーツ</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/137770164.html" target="_blank">薔薇十字の覚醒―隠されたヨーロッパ精神史／フランセス・イエイツ</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/131661010.html" target="_blank">記憶術／フランセス・A・イエイツ</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/135216018.html" target="_blank">円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」／M.H. ニコルソン</a></li></ul>

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<item rdf:about="http://gitanez.seesaa.net/article/254917034.html">
<link>http://gitanez.seesaa.net/article/254917034.html</link>
<title>記事紹介「フロー化するテクスト体験（動画で見る「新しい知の織物の形」）」</title>
<description>１つ前に書いたエントリー「「電子書籍」という概念を越えてテクストの新しい形を模索すること」の続編ともいえる話を、会社のほうで書いているブログ「Think Social Blog」のほうに書きました。→ フロー化するテクスト体験（動画で見る「新しい知の織物の形」）ルネサンス以降、近代の歴史において中心的テクストとして君臨してきた印刷本の観念の形を越えて、さらに印刷本の影響から免れることができていない従来のWebページや電子書籍なども越えて、新しい参加型テクスト体験を可能にする新..</description>
<dc:subject>情報社会</dc:subject>
<dc:creator>HIROKI tanahashi</dc:creator>
<dc:date>2012-03-01T12:34:08+09:00</dc:date>
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１つ前に書いたエントリー「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/253529323.html" target="_blank">「電子書籍」という概念を越えてテクストの新しい形を模索すること</a>」の続編ともいえる話を、会社のほうで書いているブログ「<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/" target="_blank">Think Social Blog</a>」のほうに書きました。<br /><br /><a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/03/01.html" target="_blank"><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20120301.png" width="500" height="438" border="0" align="" alt="" /></a><br />→ <strong><a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/03/01.html" target="_blank">フロー化するテクスト体験（動画で見る「新しい知の織物の形」）</a></strong><br /><br /><blockquote>ルネサンス以降、近代の歴史において中心的テクストとして君臨してきた印刷本の観念の形を越えて、さらに印刷本の影響から免れることができていない従来のWebページや電子書籍なども越えて、新しい参加型テクスト体験を可能にする新たな知の織物＝テクストの形を求めているのではないかと思います。それはかつて建築空間がテクストメディアそのものであったように、空間的で、リアルタイム的で、動的なアクションをともない、参加者とのインタラクションが可能な形のテクストになるでしょう。<br /><br />以下では、そんな新たな参加型テクスト体験を予感させる新しいテクストの形をいくつか事例を動画の紹介も交えてみていくことにします。<br /><div style="text-align:right;"><a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/03/01.html" target="_blank">フロー化するテクスト体験（動画で見る「新しい知の織物の形」）</a></div></blockquote><br />といった観点から、プロジェクション・マッピングやKinect、3Dインフォグラフィック事例を紹介しつつ、読書という傍観者的なテクスト体験から、テクストへの積極的な参加を可能にする新しいテクストの形について考察を行なっています。<br /><br />サービス経済、参加型の経済モデルへの変化と同時進行で進展する、そうした新しいテクストの形の模索について、議論のきっかけになればと思っております。<br />ご一読いただき、議論に参加いただければ幸いです。<a name="more"></a>

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<item rdf:about="http://gitanez.seesaa.net/article/253529323.html">
<link>http://gitanez.seesaa.net/article/253529323.html</link>
<title>「電子書籍」という概念を越えてテクストの新しい形を模索すること</title>
<description>最近、会社のほうで進めているプロジェクト「Think Social」では、デザインシンキングのアプローチを用いて行なうサービスデザインをテーマとして扱っていますが、その一方で、やはり個人的な関心としては、人間の知の在り方や価値観を左右する人工物全般としてのメディアに強い関心があります。例えば、電子書籍的なものもその一部。ただし、世間的には、講談社が今後の書籍の刊行を紙と電子版を同時に行なうという方針を発表したニュースが取りざたされたり、『WIRED』創刊時の編集長ケヴィン・ケ..</description>
<dc:subject>情報社会</dc:subject>
<dc:creator>HIROKI tanahashi</dc:creator>
<dc:date>2012-02-23T08:44:49+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
最近、会社のほうで進めているプロジェクト「<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog" target="_blank">Think Social</a>」では、デザインシンキングのアプローチを用いて行なうサービスデザインをテーマとして扱っていますが、その一方で、やはり個人的な関心としては、<strong>人間の知の在り方や価値観を左右する人工物全般としてのメディアに強い関心があります</strong>。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/text_layout.jpg" width="500" height="375" border="0" align="" alt="text_layout.jpg" /><br /><br />例えば、<strong>電子書籍的なもの</strong>もその一部。<br />ただし、世間的には、<a href="http://www.jiji.co.jp/jc/c?g=soc_30&k=2012022000779" target="_blank">講談社が今後の書籍の刊行を紙と電子版を同時に行なうという方針を発表したニュース</a>が取りざたされたり、『WIRED』創刊時の編集長ケヴィン・ケリーがインタビューで「<a href="http://wired.jp/2012/01/28/future-of-reading-kevin-kelly/3/" target="_blank">10年後には「本」そのものは基本的にすべて無料になる</a>」というようなことを言ったりするなど、相変わらず電子書籍の話題には事欠かないのですが、僕自身はどうもこの電子書籍関連の話題に不満をもっています。<br />というのは、どうも現在の電子書籍に関する議論は、次の引用にあるような蓄音機が出始めたころのトンチンカンな話に似ていると感じるのです。<br /><br /><blockquote>はじめ蓄音機がどんなに的はずれな受け止め方をされていたかは、ブラスバンドの主宰者であり作曲家であるジョン・フィリップ・スーザの発言によく表れている。彼はこんな意見を述べている。「蓄音機が出てきたことで、声の訓練はすたれてしまうでしょう！　そうなったら、国民の喉はどうなります。弱くならないでしょうか。国民の胸はどうなります。縮んで、肺活量が減ってしまわないでしょうか。<br /><div style="text-align:right;">マーシャル・マクルーハン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018977/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018977">『メディア論―人間の拡張の諸相』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4622018977" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />先のケヴィン・ケリーのインタビューにも「<a href="http://wired.jp/2012/01/28/future-of-reading-kevin-kelly/2/" target="_blank">テキストが登場したときも人は文句を言ったものだ。人びとの記憶力が悪くなると言って。そして次第に詩の朗読は廃れていった</a>」という話が出てきますが、普通の人は、新しいメディアの形態が登場したときにどうしても古いメディアの価値観でそれを判断してしまう傾向があります。<br />同じようなことは印刷本が登場した時にもやはり起こっています。<br /><br /><blockquote>活字による印刷がおこなわれるようになって、最初の2世紀は、新しい書物を読んだり書いたりしなければならないという必要よりは、古代および中世の書物を見たいという欲求のほうに、むしろ動機があった。1700年にいたるまで、印刷された書物の50％以上が古代あるいは中世の書物であった。<br /><div style="text-align:right;">マーシャル・マクルーハン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018977/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018977">『メディア論―人間の拡張の諸相』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4622018977" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />すでに書かれた手書きの本を印刷するという可能性以外に、最初から印刷本として出版するための新しい書籍を企画し著作するという可能性に気づいたのは、印刷術が使われるようになって200年も経ったあとのことだというのです。<br />それとおなじことがいま「電子書籍」という語で称される概念に対して起こっているように感じるのです。<br /><br /><a name="more"></a><h4>検索と発見を目的とするアプリケーションのデザイナーとして、僕らはこれからの学習やリテラシーのあり方を決めることになる</h4>もちろん、一般の人はそれでいいのでしょうけど、知のインターフェイス、メディアを企画設計するデザイナーがそれではあまり視野狭窄すぎます。紙に印刷された状態から自由になり、物理的な購買や所有からも、さらには著者／読者という区別からも、固定された版があり、その版の同一性により複数の本の同一性が生じ得ることからも自由になった新しい知のメディアが本来もつ可能性を、きわめて狭隘な古い書籍イメージのなかに閉じ込めて殺してしまってはいけません。<br /><br />そうではなく、僕らは以下でピーター・モービルが言うのと同じような意味で、これからの人間の知的生活、世界に対峙し思考するあり方そのものを作り上げていくデザイナーであることを自覚しつつ、電子書籍のみならずインターネットでつながったこの世界そのものをデザインしていかなくてはいけないと思うのです。<br /><br /><blockquote>検索と発見を目的とするアプリケーションのデザイナーとして、僕らはこれからの学習やリテラシーのあり方を決めることになる。<br /><div style="text-align:right;">ピーター・モービル<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4873114764/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4873114764">『検索と発見のためのデザイン―エクスペリエンスの未来へ』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4873114764" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />そう。古い書籍の形態をただ電子版に置き換えたり、インターネットにつながった状態でコピーや共有ができるだけのことを「新しい」と誤解したりするのではなく、それによって人びとにとっての「知」の価値がどう変化するのか、印刷された書籍というメディアにアーカイブされてきた知が諸行無常なスピードで新しいデータフォーマットとそれを読み取るデバイスが生まれては消えていくメディア環境でどう蓄積され、アクセシブルな状態を保つようにするのか、などを意識しつつ。<br />それが人間の知の在り方を再定義するプロジェクトであるという意識をしっかりともった上で。<br /><br />というわけで、今回はそうした印刷本が実はどれだけ歴史のごく一部の特殊なメディアであり、その特殊なメディアがいかに僕らのような印刷本の時代を生きてきた人間の生活や思考の在り方に影響を与えてきたのかということを、あえて様々な書籍からの引用を中心に、明示的にも編集的な手法をつかって綴っていこうと思います。<br /><br /><h4>印刷本は史上初の大量生産物であったが、それと同時にやはり最初の均質にして反復可能なものでもあった</h4>まずは僕らが当たり前だと思っていることが印刷本以前には決して当たり前ではないどころか、思いつきもしない事柄であったという点をいくつか見ていきたいと思います。<br /><br />最初に指摘するのは、印刷本以前は、まったくおなじ本が複数存在するということはなかったという点です。<br /><br /><blockquote>マーガレット・ミードが報告しているところによると、同じ書物を太平洋のある島に持っていったら、大変な興奮を生じたという。現地人たちは本を見てはいたのだが、それぞれ一冊しか見ていなくて、その一冊一冊がみな違うものだと考えていたのである。<br /><div style="text-align:right;">マーシャル・マクルーハン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018977/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018977">『メディア論―人間の拡張の諸相』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4622018977" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />これは20世紀を代表するアメリカの文化人類学者マーガレット・ミードの報告ですので、とうぜん、20世紀の話です。ただ、印刷本以前の中世においては、ヨーロッパにおいても状況は変わらなかったはずで、同じ本を元にした写本でも、とうぜん筆記者が違えば書かれた文字は異なりますし、同じ文章を1枚のページにどう配置するかも違えば、そもそも1冊の写本にどの文章を含めて1冊の本を成すのかも違います。<br />「印刷が出現する以前の読者、つまり本の消費者は、文字どおり本の製作者として製作過程に加担していたといえる」とマクルーハンが<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018969/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018969">『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4622018969" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />のなかで指摘しているように、写本の時代においては、本の読者は同時に写本を作るという意味で本の作者でもあったわけで、自分が必要とする本にどの文章を含めて1冊にするかは作り手次第でした。ですから、同じ文章が1冊に含まれた本は必ずしも複数存在したわけではなく、現在のように1人の作者によって書かれた、１つの話が1冊に収まっているということは必ずしも当たり前ではなかったのです。<br /><br />複数の均質な本が反復可能になり、大量生産された複製品である本を個々人がそれぞれ所有するようになったのは印刷術が発明されて以降だということを忘れてはいけません。<br /><br /><blockquote>印刷本は史上初の大量生産物であったが、それと同時にやはり最初の均質にして反復可能なものでもあった。<br /><div style="text-align:right;">マーシャル・マクルーハン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018969/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018969">『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4622018969" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />それまで本のみならず、同じものを異なる人びとがそれぞれ所有するということがなかったということを。「所有」という消費の在り方自体が印刷とともに生まれたという意味では、それは単に書籍の歴史の問題ではなく、新しい消費主義的で、資本主義的な経済モデルのはじまりであり、マーケティングを介して同じ商品をそれぞれが所有する社会のはじまりだという意味で、書籍の問題は扱う必要があると思うのです。<br /><br /><h4>書物は、必ずしもテクストと同じものではない。「テクスト」とは、人間が文字による作品を作る材料である</h4>さて、話をすこし戻して、写本の時代においては本の消費者は本の製作者と同じだったという件ですが、では実際には誰が写本の製作者兼消費者だったのでしょうか。<br />中世において書籍という知の利用者は大きく分けて２つでした。１つが古代の終わりから生まれてきた修道院。もう１つが中世においては新しい知の組織である大学でした。この２つの組織に集う人びとが写本の製作者兼消費者でした。<br /><br />特に修道院以上に大学では、印刷以前の段階でテクストがとにかく不足していました。そこで学生たちは書き取りの作業を通じて写本の製作にあたっていたのです。<br />ただ、学生たちの書き取りが単なる僕らの時代のような意味での本の製作であり消費であったかというとそうではありません。モノとしての本を所有するという発想がなかった時代です。学生たちは本を所有するために書き取りを行なったのではないのです。<br />書き取りを通じて朗読法を学び、朗読を通じて書かれたものを記憶することが学生たちの目的だったのです。学生たちが所有したとすれば、それは本という物質ではなく、書かれた中身としてのテキストを記憶という形で所有したのでしょう。<br /><br /><blockquote>書物は、必ずしもテクストと同じものではない。「テクスト」とは、人間が文字による作品を作る材料である。私たちにしてみれば、テクストは必ず書物の形をとっているので、書物とテクストの区別があやふやになり、失われてさえいる。しかし、記憶文化の中では、「書物」は「テクスト」を覚える手段のひとつにすぎず、忘れがたい言行を記憶に供給し、また記憶に合図を送るものだった。したがって、書物は、それ自体が記憶を助ける手段だった。<br /><div style="text-align:right;">メアリー・カラザース<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4875022883/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4875022883">『記憶術と書物―中世ヨーロッパの情報文化』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4875022883" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />僕らはあまりにも自分の手元に所有できる本に慣れすぎています。検索すればいつでも見つけることができるWebページという情報があるのを当たり前に感じすぎています。<br />なので記憶するということが、自由に扱える記録がない状況ではどれだけ重要なことかがいまひとつピンときません。忘れそうなことは手帳やノートに書いたり、ホワイトボードに書いて写真に撮ったり、録画や録音したりすることが自由な状況では、あとで思考などの作業に使う素材としての「テクスト」の破片を記憶しておく必要はありません。<br /><br />でも、自由に扱える記録のための道具がなかったらどうでしょう。カメラやWebや書籍はおろか、紙や鉛筆もなかったら。<br /><br /><blockquote>声の文化のなかで生きる人が、ある１つの複雑な問題を考えぬこうと決心し、とうとう１つの解答をなんとか表現できたとしよう。そして、その解答自身もわりに複雑で、たとえば、2、300語でできているとしよう。この人はこんなに骨身をけずって練り上げた言語表現を、あとで思い出せるように、どうやって記憶にたくわえておくのだろうか。<br /><div style="text-align:right;">ウォルター・J・オング<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4938661365/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4938661365">『声の文化と文字の文化』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4938661365" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />自分で自由に扱える「所有」物としての紙や鉛筆などの記録ツールがなく、それでも人がなにかを考え、日々を工夫して生きるために効率的に記憶をたくわえ、扱えるようにしなければいけないのだとしたら…。いったい、何がそのために使われるでしょうか？<br /><br /><h4>思想が書物になるのには、わずかの紙とわずかのインクとペンが一本あれば充分だということを思えば、人間の知性が建築を捨てて印刷術を選んだからといって、どうして驚くことがあるだろう</h4>個々人がそれぞれ所有でき自由に記録に使える道具がないのなら、社会的環境で共有されているものを使って記憶をたくわえ扱えるようにするしかありませんでした。<br /><br />「テキスト」がまだ書籍にならない時代、あるいは書籍に触れる機会がほとんどなかった時代、人間が「テキスト」の記憶のために用いたメディアは建築でした。<br /><br /><blockquote>この術は、記憶の場としてその時代の建築を使い、そこにおくイメージとしてその時代のイメジャリーを用いる都合上、他の技芸同様、古典時代、ゴシック時代、ルネサンス時代といった時代区分をもっている。<br /><div style="text-align:right;">フランセス・A・イエイツ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4891762527/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4891762527">『記憶術』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4891762527" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />残念ながら僕らは建築が読み物であることをすっかり忘れてしまっています。<br />だから、発想の道具として建築空間がとても大事であることを忘れて、創造的な発想が求められるオフィス空間を記憶の蓄積にはまったく適さない、無機質な空間としてデザインしてしまっています。まるでそこで過ごす人びとに何も考えなくてよいと言っているように。<br /><br />建築のレイアウトのなかに記憶の手掛かりをおいていく。その記憶の方法は後の写本のレイアウトにも活かされます。<br /><br /><blockquote>12世紀の初めに、サン・ヴィクトルのフーゴーは、若い学生たちに記憶の仕方を教えるときに、写本のページのレイアウトや装飾が記憶に役立つことを明快に説明している。<br /><div style="text-align:right;">メアリー・カラザース<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4875022883/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4875022883">『記憶術と書物―中世ヨーロッパの情報文化』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4875022883" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />まあ、レイアウトと記憶という点では、ユーザーインターフェイスをデザインする際でも、それに一貫性をもたせることで無意識的に記憶が働き、使い勝手がよくなるようにすることにもつながっているので、この点は単純に過去の話ではないという点も理解しておいたほうがよいでしょう。<br /><br />でも、ポータブルで私有が可能な書物の登場によって、土地に固定され個々人が自由に使うのもむずかしい建築というテクストメディアが滅ぼされてしまったのは致し方ないのかもしれません。<br /><br /><blockquote>「これがあれを滅ぼすだろう。書物が建物を」<br />ヴィクトル・ユゴーのこの名言は、『ノートルダム・ド・パリ』に出てくるパリのノートルダム大聖堂の司教補佐クロード・フロロの言葉です。おそらく建築物は死にませんが、変貌するある文化の象徴という役割を失うでしょう。「それに比べて、思想が書物になるのには、わずかの紙とわずかのインクとペンが一本あれば充分だということを思えば、人間の知性が建築を捨てて印刷術を選んだからといって、どうして驚くことがあるだろう」。<br /><div style="text-align:right;">ウンベルト・エーコ、ジャン＝クロード・カリエール<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4484101130/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4484101130">『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4484101130" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />ただし、テクストメディアの建築が滅びることで、あるテクストの読み方、鑑賞の仕方が失われてしまったというのも確かでしょう。<br />それは<strong>演劇的、詩の朗読的な場においてテクストを参加的に鑑賞するという方法</strong>だったはずです。<br /><br /><blockquote>当時の人々の心の中では、実際の舞台と実際の劇場は、夢想の中で次のような広く流布していた類比と結びついていた。それは、世界と劇場との類比であり、また世界と舞台の上で演じられる役としての人間生活との類比である。「全世界はひとつの舞台だ」という台詞も、別にシェークスピアの編み出した標語ではなく、一般の心の中にごくふつうに存在していた認識だった。<br /><div style="text-align:right;">フランセス・イエイツ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4875021208/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4875021208">『薔薇十字の覚醒―隠されたヨーロッパ精神史』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4875021208" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />この参加型のテクスト鑑賞法に関しては、再び書物的な世界から<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/218454085.html" target="_blank">おしゃべり化する社会</a>に移行するなかで、勉強会やコワーキングのような形で復活しはじめているのかなとも感じるのですが、それはまた別の機会に。<br /><br /><h4>活字というばらばらなものを組み上げるこの組み立て工程こそが均質で、かつ科学実験が再現可能なように再現可能な製品を可能にした</h4>とはいえ、印刷された本を誰もが所有可能になり、その自分で自由にできる本をもって、テクストを編集的に読むという作業が可能になったことで、人の思考方法そのものに変化が生じます。<br />最初に敏感にそれを感じとったのは芸術家たちで、「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/138298834.html" target="_blank">主観と客観の裂け目の発見（デザインの誕生３）</a>」で取り上げたような遠近法という見るものと見られるものの関係を、中世神学の時代までとは逆転させ、人間を見る者の地位に立たせ、それにより主観と客観の裂け目が生じたのも、見る対象としての文字が印刷された本の登場とは無縁ではありません。<br /><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/137839391.html" target="_blank">ディゼーニョ・インテルノ</a>という「内側にあるもののデザイン化」というデザイン的思考法を、マニエリストのフェデリコ・ツッカーリが1607年の「絵画、彫刻、建築のイデア」に記述できたのも、印刷術によって主体として客体としての物体を見るのと同じように、文字としてのテクストを読むことが一般的になりはじめていたからです。<br />それまではテクストは誰かに見られるのと同じように、外から浴びせられるという形で、人は主体の側には立っていなかったのですから、これは大きな逆転です。<br /><br />こうした見るものと見られるものの反転以外にも、目に見えて、かつアーカイブされた状態におけるテクストを繰り返し利用できるようになったことは、人間の思考を大きく変えました。<br /><strong>デザイン的思考ができるようになっただけでなく、それは近代科学的思考も可能にした</strong>のです。<br /><br /><blockquote>正確に反復できる視覚情報があらたに生まれ、そのことによって生じた帰結の１つが近代科学である。正確な観察は、近代科学とともに始まったわけではない。はるか昔から、たとえば、猟師や多種の職人が生き残るためには、正確な観察がつねに欠かせなかった。近代科学をそれ以前のものと区別するのは、正確な観察をことばによる正確な表現と結びつけたということ、つまり、注意深く観察された複合的な事物や過程を、正確なことばで記述したということである。<br /><div style="text-align:right;">ウォルター・J・オング<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4938661365/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4938661365">『声の文化と文字の文化』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4938661365" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />再現性のある、ことばによる正確な表現が、その人自身のなかや、他の人たちとのあいだで、正確に観察した結果を繰り返し吟味し、ほかの正確な観察の結果と比較したりということを可能にしました。<br />これによって複雑な論理的思考をひとりがじっくりと組み立てることも、その組み立てられた論理を他の人が再度バラバラに分解して吟味し、批評という形で同じ素材を用いて別の構造を提示することも可能になりました。そうした<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/218009872.html" target="_blank">科学的方法も、正確にことばで表現された同じ情報を自由に個々人が利用できるようにした印刷術の賜物</a>なのです。<br />そして、それが科学的方法と同時に、大量生産的商業モデルを可能にします。<br /><br /><blockquote>活字というばらばらなものを組み上げるこの組み立て工程こそが均質で、かつ科学実験が〔他者の手によっても〕再現可能なように再現可能な〔活字を崩しても再びそっくりそのままに組みこむことができる〕製品を可能にしたのである。<br /><div style="text-align:right;">マーシャル・マクルーハン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018969/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018969">『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4622018969" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />複製再現可能な部品を用いて、これまた再現可能な製品を作成し、個々人がそれぞれを所有できるようにするモデル。それはかつて教会に集まってみんなで声を出して読まれていた書物が、個室に閉じこもって各自が黙読するようになった読書習慣の変化とともに起きたのです。<br /><br /><blockquote>迷誤をうむ危険な源であるから、教会の指導なく読むことまかりならぬとするカトリックの書物観を嘲るかのように、ルター派もカルヴァン派も個人的読書の習慣を奨励した。<br /><div style="text-align:right;">バーバラ・M・スタフォード<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801041/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801041">『アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801041" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />そう。ひとりの読書を可能にする量産された本は、ひとりでこもるための個室の誕生や、さらに個室それぞれに置くことが可能な商品としての個室用テーブルとともに、人間の知に対する態度や方法を変えたのです。<br />人はそのときはじめて個室のなかで孤独になり、はじめて主体的な個人として、個人所有可能な商品を購入する消費者になったのです。<br /><br /><h4>ピューリタニズムは、データを集積すればリアリティに近づくという思い込みになってあらわれる。つまり、日々のデータを累積することを考え始めた</h4>個室とそこに置かれた個室用テーブルの登場によって、ピューリタンたちは日記をかきはじめ、テーブルの上にさまざまな蒐集品を並べて分類するということをはじめました。<br />活字を並べて、新しい思想やアイデアを表現できるようになったように、日記帳の上に日々の出来事を書きとめたり、テーブルのうえに様々なものを並べて分類することで、新しい何かが生まれるという考えを当たり前にもてるようになったのがこの時からなのです。<br /><br /><blockquote>ピューリタンはデータが好きだ。「つくられたもの」という意味しかない「ファクト（fact）」という言葉が「事実」という意味になった1630年代から、ピューリタニズムは、データを集積すればリアリティに近づくという思い込みになってあらわれる。つまり、日々のデータを累積することを考え始めた。<br /><div style="text-align:right;">高山宏<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061598279/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4061598279">『近代文化史入門 超英文学講義』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4061598279" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />この事物やデータを収集して分類すれば新しい何かが生まれるという意味で知をアーカイブして、それにアクセスできるようにすることが価値があるとされるようになったことで、書籍にテキストをレイアウトしていくように、物理的な空間に様々なものを並べてテキスト＝織物とすることが盛んに行なわれるようになります。<br />それが博物学であり、そのための空間である博物館でした。<br />それは当初、博物館というひとかたまりの中に絵画もあやしげな剥製も異文化の呪術器もごちゃまぜになっていたところに、徐々に分類の意識が芽生えて博物館、美術館といった具合に用途が細分化されていきます。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/monado2.jpg" width="500" height="375" border="0" align="" alt="monado2.jpg" /><br /><br />これが書籍同様のテクストの１形態であり、かつ文字のみのテクスト以上に生きた世界を表現できると考えたのがライプニッツで、彼は生涯をかけて次のような複合的な博物館のアンサンブルをもって世界をテクスト化する「自然と人工の劇場」というプロジェクトを追いかけたのです。<br /><br /><blockquote>ライプニッツはクンストカマー、珍奇コレクション、絵画キャビネット、解剖学劇場、薬剤局、薬草園、動物園を数え上げ、１つのアンサンブルを考えている。これを総じて自然と人工の劇場として定義するのである。硬直した、それゆえひそかに死んだ書庫世界と対照的に、この劇場をもって「万物の生きた印象と知識」を可能ならしめようというのだ。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />「万物の生きた印象と知識」をもって思考することで、遊びのある思考が可能になると考えたライプニッツの考え方は今後ますます重要になってきているように感じています。<br />ホルスト・ブレーデカンプの<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />に関しては、次回以降あらためて書評という形で扱ってみようと思います。<br /><br /><h4>知の生産や保存や伝達が、経済や文化や技術の広範な変化を受けて、根本から問い直されるのははじめてではない。わたしたちは今、どうすれば文化の再生産を確かなものにできるのだろう</h4>ただ、いまの僕らの視点からすれば残念ながら、このライプニッツの同時代であったデカルトたちは、ライプニッツがこうした文字情報以外の情報も駆使して知を編集しようとしたのに対して、文字中心の知的空間の構築を目指します。<br /><br /><blockquote>大雑把にいうと、びっくりさせてくれるものをとにかくたくさん集めて、その物量で「どうだ、オレの方が偉い」などといっていた「驚異」の文化が、1753年に消滅したということである。そして、国家管理になったときに、王立協会の生物学者たちがそれを管理することになった。そう、「人が話す言葉はシンプル・イズ・ベスト」などといっている連中が、一角や二角のサイを扱うようになる「差異の世界」である。フーコーが「類似」の世界と呼んだ魔術的世界がここで終わる。<br /><div style="text-align:right;">高山宏<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061598279/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4061598279">『近代文化史入門 超英文学講義』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4061598279" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />ここでの言葉優先社会への改革が最近まで続いた僕らの社会の思考の土台を作ったのだといってよいのだと思いますし、その意味では僕らの当たり前はこの時歴史的に作られた選択肢の１つに過ぎないということを今だからこそ思い出すべきではないかと思うのです。<br /><br /><blockquote>知の生産や保存や伝達が、経済や文化や技術の広範な変化を受けて、根本から問い直されるのははじめてではない。わたしたちは今、どうすれば文化の再生産を確かなものにできるのだろう。<br />（中略）<br />知の総体を組織化して伝達するには、どのような制度を作らなくてはならないのか。<br /><div style="text-align:right;">イアン・F・マクニーリー＆ライザ・ウルヴァートン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4822248259/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4822248259">『知はいかにして｢再発明｣されたか―アレクサンドリア図書館からインターネットまで』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4822248259" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />僕らはいま単純にビジネス的視点や紙の書籍と比べた際のユーザビリティの視点などの狭い視野で電子書籍的なものを吟味するのではなく、ここで言われているような「知の総体を組織化して伝達するには、どのような制度を作らなくてはならないのか」という視点でそのデザインを吟味することが必要なのです。<br />その意味では「新しいテクストの形」を考えることと、「新しい社会の形」を考えることは同じだろうと思っていて、それが実は冒頭で書いた「<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog" target="_blank">Think Social</a>」と同時に、このようなテクストに関する論考をしている理由だったりします。社会こそ人が織り紡いでいるテクストなのですから。<br /><br />と、まあ、編集という印刷術以降に可能になった方法によって思考され記述されたテクストに関するテクストでした。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4484101130" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4938661365" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4622018977" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4622018969" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4873114764" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4782801041" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4822248259" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4875021208" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4061598279" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4782801688" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4891762527" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4875022883" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br /><br /><strong>関連エントリー</strong><br /><ul><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/221193830.html" target="_blank">アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育／バーバラ・M・スタフォード</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/101906145.html" target="_blank">ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識／バーバラ・M・スタフォード</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/210740520.html" target="_blank">知はいかにして｢再発明｣されたか／イアン・F・マクニーリー＆ライザ・ウルヴァートン</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/177783640.html" target="_blank">メディア論―人間の拡張の諸相／マーシャル・マクルーハン</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/221235964.html" target="_blank">声の文化と文字の文化／ウォルター・J・オング</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/153912015.html" target="_blank">江戸の本屋さん―近世文化史の側面／今田洋三</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/137770164.html" target="_blank">薔薇十字の覚醒―隠されたヨーロッパ精神史／フランセス・イエイツ</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/131661010.html" target="_blank">記憶術／フランセス・A・イエイツ</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/135216018.html" target="_blank">円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」／M.H. ニコルソン</a></li></ul>

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<item rdf:about="http://gitanez.seesaa.net/article/252679176.html">
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<title>マーケティングからソーシャリングへ</title>
<description>最近、このブログを書くよりも会社のほうのブログ「think social blog」やthink social Facebookページに考えていることを書く機会が増えています。→ Think Social Facebookページthink socialはその名のとおり、社会を考える場としてのメディアという側面と、新しい社会を実現しようと頑張っている人たちのお手伝いをデザイン思考やサービスデザインという観点からさせていただくデザインエージェントという2つの側面をもっています。そ..</description>
<dc:subject>デザイン</dc:subject>
<dc:creator>HIROKI tanahashi</dc:creator>
<dc:date>2012-02-17T11:49:02+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
最近、このブログを書くよりも会社のほうのブログ「<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/" target="_blank">think social blog</a>」や<a href="http://www.facebook.com/think.social.desgin" target="_blank">think social Facebookページ</a>に考えていることを書く機会が増えています。<br /><br /><a href="http://www.facebook.com/think.social.desgin" target="_blank"><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/thinksocial.jpg" width="200" height="300" border="0" align="" alt="thinksocial.jpg" /></a><br />→ <a href="http://www.facebook.com/think.social.desgin" target="_blank"><strong>Think Social Facebookページ</strong></a><br /><br />think socialはその名のとおり、社会を考える場としてのメディアという側面と、新しい社会を実現しようと頑張っている人たちのお手伝いをデザイン思考やサービスデザインという観点からさせていただくデザインエージェントという2つの側面をもっています。<br />そうした姿勢でいまはヘルスケア（医療、健康）に関するサービスの支援を商用、公共のもの問わずに力をいれています。<br /><br />参照：<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/02/15.html" target="_blank">ヘルスケアサービスの事例にみるコデザインにおける視覚表現の重要性</a><br /><br /><a name="more"></a><h4>課題やテーマを共有できる、人びとが共感でつながった場をつくる</h4>さて、そんな形でthink socialの活動、特にFacebookページでのコミュニケーションをはじめてから、ソーシャルメディアというのが共感のメディアであるということをあらためて実感していたりしています。<br />同じような関心や問題意識をもった人たちが、Facebookページのオーナーの発信することばに共感するから、そこに話題ができるのであって、何か自分たちの売りたいものの認知を広げたいというブランドのわがままだけで診断アプリをばらまいても共感も話題も生まれません。もちろん、自分たちが売りたいものの宣伝をしてるだけではダメです。<br />自分たちのことを知ってもらいたいという自己中心的な思いだけでは、この時代、誰かとつながっていくことはできなくなっています。<br />そうではなく、誰かとともに課題やテーマを共有するために、何かを発信し行動することが大事なんだと思う。<br /><br /><h4>マーケティングからソーシャリングへ</h4>そういう意味で、マーケティングの時代ではなく、ソーシャリングの時代ではないかと思います。<br />ソーシャリングは僕が勝手に作った造語ですけど、ひとりでは解決できない課題、閉ざされた組織の中だけでは手に負えないテーマを、ほかの人びとや組織と共有することで、おなじ課題を抱えたコミュニティの一員として共同で課題の解決に向けて取り組んでいくことと定義できるのではないかと思います。<br />そんなソーシャリングがいま従来のマーケティングにとって代わろうとしているのではないだろうか？と思っています。<br /><br />そんなソーシャリングの時代にはその活動が社会的な意味で共感され尊敬されない企業はもはや生き残れなくなってくるでしょう。しかも、ソーシャルメディアという最もその傾向が色濃くでやすいメディアにおいて、ユーザーとともに場をつくる、話題をつくることができない企業は社会におけるブランド価値をどんどん失っていくことになるかもしれません。<br /><br /><h4>サバイバルの条件が変わった</h4>もちろん、企業だけではなく、個人の側でも同じです。ソーシャぬリング化する社会において、経済モデルはより参加型の経済モデルとなり、自身が利用する商品やサービスに対して積極的な態度がとれない人は社会的な信頼や地位を保ちにくくなるのでしょう。消費者はただ提供される商品を無自覚に消費するのではなく、より積極的に商品やサービスの社会的な価値について判断し、そのデザインにも参加する存在に変わっていくはずです。<br /><br />そうした環境におかれた際に、社会的に共感してもらえ、信頼され、尊敬もされるような活動や発言をしていけない人は、生きること自体がむずかしくなってきてるのかもしれません。<br />あきらかに社会におけるサバイバルの条件が変わってきていますね。<br /><br />個体としての人や組織の持続可能性ではなく、人や組織が生きる土台としてのコミュニティや社会そのものをいかに持続可能なものにしていくか？という視点に立って行動できるかどうかに、サバイバルの条件が変化してきているのだと思います。<br />そして、そのためにどう他の人びとや組織と関わりあい、その関わりを成り立たせるために、どんなシステム、ツールが必要か？を問う視点がより重要になってきているのだろう、と。<br /><br /><h4>議論ができる社会のために</h4>そんな関心から僕はthink socialという活動をはじめました。<br />そこでは、これからの社会について考え、実際に新しい社会を生みだすための議論が必要だと感じています。<br /><br />僕は、ひとつの場の創造性が発揮されるかどうかのひとつの基準に、その場において会話が成立するかどうかがあると思っています。会話というのは単に人が集まるだけでは生まれませんし、そこに共通のテーマや関心がなければなかなか議論は成立しません。<br /><br />なので、いまthink socialで扱っているサービスデザインの現場でも、本来形の見えないものをデザインするサービスデザインの分野でも、スケッチやプロトタイプなどを作成して、それを使ったシミュレーションを行なうことでサービスの流れを視覚化し、メンバー間でイメージの共有をすることで議論が生まれるような工夫がされたりします。<br />ただ、もちろん、視覚化だけでは議論は生まれなくて、メンバーそれぞれに自分も意見を言わなくてはいけないし、他人の意見を理解しようという姿勢がないと議論が生まれず、場の創造性が発揮されなくなります。<br />これは僕がたびたび実施しているデザイン思考のワークショップの場でもよく見られる傾向で、グループワークをしていても会話ができないチームはアイデアがなかなか生まれてこなかったりします。<br /><br />そういう意味では、ソーシャリングの時代に新しい社会を自分たちが積極的に参加することで生みだすための議論を行うには、もっともっと、ひとりひとりが自分ごと捉えて、自分で意見を言えるようにする日頃の勉強が必要です。<br />そういう個々人の努力がない限り、グループワーク、コデザインでの創造を基本とするデザイン思考での創造は、この国で発揮されることは非常に少ないままになるかもしれませんと危惧しています。<br /><br />そんな悲しい事態にならなくするためにも、ひとりひとりが言葉を紡ぐ努力をよりいっそうしていかなくてはならないのだと感じます。もちろん、それには僕自身がもっといろんな人に、これからの社会の課題をいっしょに考えられるような話題を投げかけられるようになっていかないといけないなと考えています。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4798122971" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

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<item rdf:about="http://gitanez.seesaa.net/article/250703977.html">
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<title>Think Social -Experience Design Agent-</title>
<description>ひさしぶりの更新ですが、告知です。本日、会社の方で、Think Socialという名前で新しいFacebookページをスタートしました。→ Think Social Facebookページ上記のFacebookページでは、会社のブログでも最近取り上げているサービスデザインやコミュニティデザイン、エクスペリエンスデザインなどに関する最新情報、イベント情報をお届けしていければと思います。あわせて会社のほうで担当しているブログの更新情報もお届けいたしますので、よろしければ「いいね！..</description>
<dc:subject>その他</dc:subject>
<dc:creator>HIROKI tanahashi</dc:creator>
<dc:date>2012-02-06T11:03:27+09:00</dc:date>
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ひさしぶりの更新ですが、告知です。<br />本日、会社の方で、<strong>Think Social</strong>という名前で新しい<a href="http://www.facebook.com/think.social.desgin" target="_blank">Facebookページ</a>をスタートしました。<br /><br /><a href="http://www.facebook.com/think.social.desgin" target="_blank"><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/thinksocial.jpg" width="200" height="300" border="0" align="" alt="thinksocial.jpg" /></a><br />→ <a href="http://www.facebook.com/think.social.desgin" target="_blank"><strong>Think Social Facebookページ</strong></a><br /><br />上記のFacebookページでは、<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/" target="_blank">会社のブログ</a>でも最近取り上げているサービスデザインやコミュニティデザイン、エクスペリエンスデザインなどに関する最新情報、イベント情報をお届けしていければと思います。あわせて<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/" target="_blank">会社のほうで担当しているブログ</a>の更新情報もお届けいたしますので、よろしければ「いいね！」していただけると幸いです。<br /><br /><div class="fb-like-box" data-href="http://www.facebook.com/think.social.desgin" data-width="500" data-show-faces="true" data-stream="false" data-header="true"></div><br /><br /><br /><a name="more"></a><h4>Think Socialって何？</h4>ところで、Think Socialって何？という方が多いと思うので、そこから。<br />Think Socialは、<strong>サービス体験のデザインから新しい社会を考える、ソーシャル時代のサービスデザインエージェント</strong>です。Socialとついているからといって、ソーシャルメディアに関連したサービスを提供するわけではありません（その点はお間違えのないよう）。<br /><br />では、Think Socialは何をするか？ということですが、まずはミッション。<br />使い捨てられるモノをデザインするのではなく、未来へとつながっていくコトをデザインするのが私たちのミッションだと考えています。<br />自分たちがよりよく生きるために、いろんな人びとと関わりあい、たがいに影響を求めながら、積極的に消費を含めた自らの生活行動に責任をもとうとする人びとのために、彼らのニーズを支援するプラットフォームを、企業や公共機関とともに、そして、彼ら自身といっしょに作り上げていくことが私たちの仕事であると位置づけています。<br /><br />会社のブログで最近書いている、以下のようなあたりが直結する領域です。<br /><ul><li><a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/02/02.html" target="_blank">参加のデザイン（Co-design、Co-production）</a></li><li><a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/02/03.html" target="_blank">自分（たち）の課題を見つける</a></li><li><a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/01/27.html" target="_blank">サービスデザインのプロセス</a></li><li><a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/01/26.html" target="_blank">エクスペリエンスジャーニーマップ／カスタマージャーニーマップ</a></li></ul><br /><br /><h4>Think Socialの思い描くヴィジョン</h4>従来のライフスタイルやワークスタイルのように、外から与えられる商品やサービスを一方的に受け取ることによって、自分たちのニーズを満たす消費中心の経済モデル。<br />そのモデルではマーケティングによって満たすべきニーズそのもの、解決が必要な問題そのもの、あるいは、さらに自分がやるべき仕事まで、外から一方的に与えられ、本当に暮らすため、働くために必要な問題の解決や満たすべきニーズが置き去りにされてしまう傾向があるのではないでしょうか。<br /><br />僕らはもうひとつのありうべき経済モデルである、健全で生産的な社会と、健康で長生きできる人生を求めて、人と積極的にかかわり合い、影響を求め、自らの消費そのものに積極的にかかわろうとする人びとたちによる参加型の経済モデルのためにデザインをはじめたい。<br /><br /><strong>自分たち自身で課題を見つけ、また、その課題をサステナブルな方法で解決していく。<br />そんな参加型の経済モデルを生きる人びとの未来を描いていく。それが僕たち、Think Socialの目指すヴィジョンです。</strong><br />そのために、積極的に社会に参加する人びとの課題発見の支援、課題解決方法をいっしょになって考えていき、かつ考えたプランを実行可能にし、かつ彼ら自身の手で活動が持続可能な場を生み出していくサポートができればと思います。<br /><br /><h4>Think Socialのサービス領域</h4>具体的なサービス領域としては、以下の３つの軸で展開します。<br /><ol><li>サービス＆エクスペリエンスデザイン</li><li>Web＆UIデザイン（戦略立案、コンセプトデザイン、制作）</li><li>デザインリサーチ（民族誌的ユーザー調査、ユーザーテスティング）</li></ol><br />３つのいずれの領域においても、「デザイン思考」や「人間中心デザイン」のプロセス・方法を中心に用いながら、民間企業のサービスだけでなく、医療機関や公共サービスの利用体験を革新するためのデザイン、あるいは、Webサービスの体験価値を向上するための支援を行ないます。<br />とにかく、まずはいろんな分野の方からお話させていただくことが仕事かなーと思っています。いっしょにお話をする中で、お話しさせていただく方々自身が<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/02/03.html" target="_blank">自分（たち）の課題を見つける</a>お手伝いをするのが僕らの仕事かなと思っています。<br /><br /><h4>Think Socialのサービス領域</h4>Think Social Facebookページでは、はじめにもすこし書きましたが、その他にも以下の情報を発信していく予定です。<br /><ul><li>サービスデザインやコミュニティデザインなどに関する最新情報</a></li><li><a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/02/03.html" target="_blank">自分（たち）の課題を見つける</a>上記の領域に関連したイベントや書籍の情報</li><li>僕が会社で担当しているブログ「<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/" target="_blank">Think Social Blog</a>」の更新情報</li><li>ブログ「<a href="http://www.coprosystem.co.jp/tipsblog/" target="_blank">Tips*Blog</a>」（Web・モバイルに関するデザイン事例や役に立つTipsを配信）の更新情報</li></ul><br />今のところ、上記の情報発信を行っていく予定ですが、私たちが求めているのは、積極的なコミュニケーションですので、うまくコミュニケーションが盛り上がるような仕組みも考えていければと思っています。ですので、皆さんもぜひいろんな感想やご意見をください。<br /><br />また、<a href="http://think.coprosystem.co.jp/" target="_blank">Think Social Webサイト</a>も現在3月末の公開に向けて準備中です。こちらでも今後、サービスデザインやコミュニティデザイン、エクスペリエンスデザインなどに関する理論、ノウハウ、事例をなどを紹介していく予定です。<br /><br />まだまだ準備段階の部分が多いThink Socialですが、当ブログと合わせて、今後ともよろしくお願い申し上げます。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4255006229" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4798122971" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

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<item rdf:about="http://gitanez.seesaa.net/article/247475298.html">
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<title>過去についての知識は馬鹿や間抜けや敵が書いたものに由来している</title>
<description>今、『薔薇の名前』や『フーコの振り子』などの小説でも知られるイタリアの中世学者・記号学者であるウンベルト・エーコと、フランスの劇作家・脚本家であるジャン＝クロード・カリエールという、いずれも勝るとも劣らぬ大読書家にして蔵書家の２人による対談集『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』を読んでいます。いや、正確には「今読んでいる」というより、思い出したときに手に取ってはすこしずつ読み進めているという感じでしょうか。その意味では、本って、自分が好きな時にゆっくりしたペースで読めば..</description>
<dc:subject>情報社会</dc:subject>
<dc:creator>HIROKI tanahashi</dc:creator>
<dc:date>2012-01-20T20:15:02+09:00</dc:date>
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今、『薔薇の名前』や『フーコの振り子』などの小説でも知られるイタリアの中世学者・記号学者であるウンベルト・エーコと、フランスの劇作家・脚本家であるジャン＝クロード・カリエールという、いずれも勝るとも劣らぬ大読書家にして蔵書家の２人による対談集<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4484101130/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4484101130">『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4484101130" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />を読んでいます。<br />いや、正確には「今読んでいる」というより、思い出したときに手に取ってはすこしずつ読み進めているという感じでしょうか。<br />その意味では、本って、自分が好きな時にゆっくりしたペースで読めばいいのだというのをあらためて思い出させてくれる本です。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20120120.jpg" width="400" height="300" border="0" align="" alt="" /><br /><br />さて、その本のなかでウンベルト・エーコがこんなことを言っています。<br /><br />「<strong>じっさい、過去を再構築するとき、ただ１つの情報源に依拠するのは望ましくありません</strong>」と。<br />さらにエーコは「<strong>時間がたつと、ある種の文書はどんな解釈も撥ね返すようになります</strong>」と続けます。<br /><br />そして、そのことを説明するのに、こんな例を出します。<br /><br /><blockquote>20年前、NASAかどこかの米国政府機関が、核廃棄物を埋める場所について具体的に話し合いました。核廃棄物の放射能は１万年—とにかく天文学的な数字です—持続することが知られています。問題になったのは、土地がどこかに見つかったとしても、そこへの侵入を防ぐために、どのような標識でまわりを取り囲めばいいのか、わからないということでした。<br />2、3000年たったら、読み解く鍵の失われた言語というのが出てくるのではないでしょうか。5000年後に人類が姿を消し、遠い宇宙からの来訪者たちが地球に降り立った場合、問題の土地に近づいてはいけないということをどうやって説明すればよいでしょう。<br /><div style="text-align:right;">ウンベルト・エーコ、ジャン＝クロード・カリエール<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4484101130/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4484101130">『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4484101130" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />ある意味では、いまの僕らにとっても気にかかる内容です。<br />でも、ここでの問題は核廃棄物の是非ではなく、情報の伝達可能性に関してです。<br /><a name="more"></a><h4>今を未来に伝えられるか？　今僕らは過去を知ることができるか？</h4>僕らはついつい過去に書かれて今なお残っているものだけを頼りに、それが過去の真実であるかのように誤解してしまいます。<br /><br />でも、想像してみましょう。<br />いまから何百年もあとの人びとが、いま僕らがせっせとTwitterに投稿している内容をみて、僕らが生きているいまという時代を想像したらどうでしょう。<br />そのとき、僕らの生きた時代はどれほど残酷で悲惨な時代だと思われるのでしょうか。あるいは、なんて能天気な時代な人たちだと思われるのでしょうか。<br /><br />ソーシャルメディアではポジティブな発言をしましょう、と言ったところで、大部分は、愚痴や、誰かの悪口や、悲惨なニュースや、それまでは気にも留めていなかった有名人の訃報を嘆いたつぶやきだったりします。そうした情報だけを頼りに後の人びとは僕らの時代をどうイメージするのか？<br />そもそもそれが何を指すのかすっかりわからなくなっている名詞なども出てくることでしょう。<br /><br />そういう時代間のギャップを越えて、僕らは何かを伝えられると信じられるでしょうか？　そして、それが信じられないくせに、どうして過去をいまの地続きであるかのように安易な妄想をしてしまうのでしょうか。<br /><br /><h4>過去についての知識は馬鹿や間抜けや敵が書いたものに由来している</h4>エーコはこんなことも言っています。<br /><br /><blockquote>我々は過去についての大部分を書籍から得ることがいちばん多いんですが、そういった知識が伝わってくるのは、馬鹿や間抜けや狂信的な敵のおかげなんです。<br /><div style="text-align:right;">ウンベルト・エーコ、ジャン＝クロード・カリエール<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4484101130/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4484101130">『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4484101130" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />僕ら自身が自分の認めたものや良いと思っているものに対して言葉を費やすより、不満に感じたり敵視したり批判したい対象についてに対してのほうが言葉を費やせるように、過去の人びとだって同じ傾向があったのではないでしょうか。<br /><br />実際、大読書家の２人が指摘しているのもそうした例が少なくないということです。<br />例えば、エーコが紹介するのは、現在生きている僕らが知っているストア派についての情報の大部分が、ストア派の思想に反駁していたセクストゥス・エンピリクスの文章によるということです。<br />また同じように、ソクラテス以前の哲学的断片に関してはアエティウスの文章を通して知るしかないのですが、エーコ曰く「アエティウスというやつは正真正銘のバカ」だそうで、彼の言うことがソクラテス以前の哲学者の精神に完全に忠実とは思えないことや、はたまたガリア人について、ガリア戦争を開始したローマのガイウス・ユリウス・カエサルが彼らの敵として目で書いたことを通して見ることができないことなどを指摘しています。<br /><br />あるいは、エーコの対談相手であるジャン＝クロード・カリエールによれば、新約聖書に魔術師シモンという人物が登場するそうですが、このキリストと同時代を生きた人物は『使徒行伝』にしか登場せず、シモンを異端視している使徒たちの言動のみによって伝えられている人物です。使徒たちは、シモンがイエスの不思議な力をお金で聖ペテロから買おうとした「聖職売買（シモニー）」の廉でシモンを告発しています。ところが、このシモンという人は弟子が大勢付き添ってもいたし、奇跡を行なう人と呼ばれていた人で、少なくとも使徒たちがいうようなとんでもないペテン師ではなかったようです。<br /><br /><h4>偉大な過去と低俗ないま</h4>僕らは、本というと、正しいことや優れたことや美しいことや役に立つことばかりが書かれているように誤解しています。<br />確かに、現在のビジネスとてしの出版や過去の様々な権力の検閲などを考えると、悪い本とか間違った内容の本、無意味な本や役に立たない本などは存在するのがむずかしいと思われるかもしれません。<br /><br />しかし、この本を読んでいると、まったくそんなことはなく、歴史的にも常に無意味な本を書く、馬鹿や間抜けや狂信的な敵が存在していたことがわかります。そして、一部の過去に関しては、先にも書いたようにそうした人びとが書いたことしかすでにわからなくなっていることもあるのです。<br />Twitterや2chなど、日頃から身近なところに、バカなこと、間抜けなこと、誰かを敵視した批判や愚痴を吐き出しつづけている自分たち自身のことを忘れて、僕らは過去の記述の性善説をある程度信じてしまっています。すくなくとも自分たちと同じ時代を生きている同胞が書くもの以外の、過去の「偉大な」書物に対しては盲目的に書かれた内容を真実と捉えてしまう傾向があります。<br /><br />でも、そういう偉大な過去を信じて、いまをともにする同時代を低く見積もってしまうのはそもそも人間の性なのかもしれません。２人が紹介してくれているように、ベートーヴェンの交響曲第三番が「猥雑な騒音」「音楽の最期」と同時代の人びとに評されたり、シェイクスピアやバルザック、ヴィクトル・ユゴーも大勢の非難を浴びたりしていたというのですから。<br /><br /><blockquote>人類はまさに途方もない存在です。火を発見し、都市を建設し、見事な詩を書き、世界を解釈し、神話の神々を絵に描きました。しかし同時に、同胞を相手に戦争を繰り返し、互いに騙しあい、環境を破壊しつづけてきました。知的で崇高な美徳と低俗な愚行を合わせて評価すれば中くらいの点数になります。<br /><div style="text-align:right;">ウンベルト・エーコ、ジャン＝クロード・カリエール<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4484101130/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4484101130">『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4484101130" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />エーコとカリエールの２人は、様々な珍説、愚説を礼賛します。<br />それはこんな風な崇高な美徳と低俗な愚行を合わせをもつ人間のオマージュとして、書物という存在を愛しているからなのでしょう。<br /><br />それはネットより、印刷された書物のほうが偉大だと考える、あまりに杜撰なメディア論とは違い、はるかに「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」の愛に満ちた理解であると言えるように思います。<br />そんな２人が対談している本だからこそ、ゆっくりとした読書体験を与えてくれているのかもしれません。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4484101130" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br /><br /><strong>関連エントリー</strong><br /><ul><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/213217609.html" target="_blank">人間や社会にどんな知的ソフトウェアがインストールされているかを知り、それが変更されると何が変わるかを想像できるようにすることの必要性</a></li></ul>

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<item rdf:about="http://gitanez.seesaa.net/article/247005228.html">
<link>http://gitanez.seesaa.net/article/247005228.html</link>
<title>サービスデザインのためのデザイン思考のディスカッションの場の創出に向けての第一歩</title>
<description>昨日、会社のほうのブログに「デザイン思考と参加型社会」という記事を更新しました。『COURRiER Japon 2012年01月号』に掲載されたインタビュー記事の中で、IDEOのCEOであるティム・ブラウンは従来の消費中心の経済モデルに対して、「人とかかわり合い、影響を求め、積極的に自らの消費にかかわろうとする消費者中心の経済」としての「参加型経済モデル」をもうひとつの経済モデルと言っているのを読んだのをきっかけに書いたものです。ソーシャル化し、社会の持続可能性や個人・企業双..</description>
<dc:subject>デザイン</dc:subject>
<dc:creator>HIROKI tanahashi</dc:creator>
<dc:date>2012-01-19T10:16:32+09:00</dc:date>
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昨日、会社のほうのブログに「<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/01/18.html" target="_blank">デザイン思考と参加型社会</a>」という記事を更新しました。<br /><br /><a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/01/18.html" target="_blank"><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20120119.png" width="400" height="348" border="0" align="" alt="" /></a><br /><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B0065LRMZE/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B0065LRMZE">『COURRiER Japon 2012年01月号』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=B0065LRMZE" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />に掲載されたインタビュー記事の中で、IDEOのCEOであるティム・ブラウンは従来の消費中心の経済モデルに対して、「人とかかわり合い、影響を求め、積極的に自らの消費にかかわろうとする消費者中心の経済」としての「参加型経済モデル」をもうひとつの経済モデルと言っているのを読んだのをきっかけに書いたものです。<br /><br />ソーシャル化し、社会の持続可能性や個人・企業双方の社会性がより問われるようになった社会において、「意味のあるモノやサービスとはどんなものか？」を考える場合、必要だが人びとが愛着も持てずに使い捨てるしかない商品を次々に売りつけるだけの従来的なマーケティングを行なう商品やサービスに対して、ビジネスとしての持続性があるか？と疑問を投げかける必要があることをティム・ブラウンは指摘しています。<br /><br /><a name="more"></a><h4>持続可能なサービスのデザインという視点へ</h4>その「参加型経済モデル」においては、企業は消費者にモノとしての商品を売るだけの関係性から、消費者が積極的に参加できるプラットフォームとしてのサービスを提供することで、消費者とインタラクティブな関係性をもつことが必要になってきます。<br />そのとき、サービスシステムをビジネスとしても持続可能なものとして構築するためには、これまで以上に「デザイン思考」のアプローチが求められる。<br /><br /><blockquote>アウトプット要求がユーザーの期待どおりでも、サービス要求の面でユーザーに努力を強いる場合（長時間待たされる、担当者の説明や利用画面がわかりづらいのを我慢しなくてはいけない、など）、サービス全体のシステムはうまく機能しません。<br /><br />同じことはマンジーニが指摘する「アクセスの多様性」についても言え、同じ機能に異なる様々なデバイスからアクセスできるようにしなければ、多様なユーザーの利用や様々なシーンでの利用を期待することはできません。ロンドンのサービスデザインコンサルティング会社であるEngineは、サービスデザインにおける主要な５つの要素の１つに「システム」を上げていますが、そのシステムを期待どおりに機能させ、目的を達成できるようにするためには、デザイナーはユーザーが努力せずともサービスを利用できるよう、ユーザーのサービス利用コンテキストを把握する必要があるのです。いつ、どんな時に、ユーザーはどんなことをサービスに期待するのかをエスノグラフィーなどを通じて把握し、その情報を元にカスタマー・ジャーニー・マッピングのようなツールを用いてサービス利用プロセスをモデル化した上でシステムデザインに落とし込むことが必要でしょう。そうしたデザインプロセスがあってこそ、Zipcarのような利用の円滑さやアクセスの多様性に配慮されたサービスがデザインできるのでしょう。<br /><div style="text-align:right;"><a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/01/18.html" target="_blank">デザイン思考と参加型社会：市場のお手入れ</a></div></blockquote><br />顧客がサービスを利用する際のプロセス全体を旅と見立て、そのサービス利用のすべてのタッチポイントでの体験価値を高めることでサービスの利用価値をあげていく。ただ、サービスデザインにおいては単純に顧客価値を高めるためだけでなく、サービスプロバイダーがサステナブルにサービス提供ができるようビジネスとしてのサービスの持続性を考え、サービスシステムのデザインをする必要がある。この両方をともに満たすためにも、従来のデザイン思考とビッグデータの活用などの統計的思考の組み合わせが必要になっているのだと僕は考えています。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20120118.jpg" width="500" height="375" border="0" align="" alt="20120118.jpg" /><br /><br /><h4>「ユーザーの旅をいかに満足度の高いものにするか」という問題をデザイン思考で解決する</h4>このあたりの話は、その前に書いた連載としての「<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/01/17.html" target="_blank">Webサービスとペルソナ（後編）</a>」という記事でも書いています。<br /><br /><blockquote>今回あらためて「Webサービスとペルソナ」というテーマでブログを書こうと思ったのも、その「体験」の重要性がより高まってきている傾向が見られるからです。Webやネット上の話だけではありません。世界的な規模で市場動向がよりサービスの体験を価値が重視される傾向になっており、さらに、その体験価値の高いサービスを生み出す際にデザイン思考に期待される傾向が見られるのです。<br /><br />先日、ホームページのコラム（→「<a href="http://www.coprosystem.co.jp/seminar_knowledge/column/20120116.html" target="_blank">エスノグラフィーと体験のデザイン</a>」）にも書きましたが、欧米ではデザイン思考をよりビジネスに結びつける方向性としてサービスデザインに対する注目が集まっています。サービス利用時に限らず、その前後も含めて、様々なタッチポイントでサービスを体験するユーザーの旅をいかに満足度の高いものにするかを目的として行なうサービスデザインにおいては、物理的なモノのデザイン以上に人間中心のデザインのアプローチが求められているのです。<br /><div style="text-align:right;"><a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/01/17.html" target="_blank">Webサービスとペルソナ（後編）：市場のお手入れ</a></div></blockquote><br />と、こんな観点からデザイン思考と持続可能型の参加型社会の関係を考えてみているので、興味のある方はぜひあわせて読んでみて下さい。<br /><br /><ul><li><a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/01/18.html" target="_blank">デザイン思考と参加型社会</a></li><li><a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/01/17.html" target="_blank">Webサービスとペルソナ（後編）</a></li></ul><br /><br />持続可能なサービスのデザインのために、これからいろんな方とデザイン思考のアプローチに関してなどのディスカッションを出来る場が増えてくるとよいなと思っています。<br />みなさん、よろしくお願いいたします。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=B0065LRMZE" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

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<title>ビジュアル・シンキング、タンジブル・シンキング</title>
<description>今日、会社のほうのブログにも「発想のための「レシピ」や「方程式」は存在しない。」という記事のなかで紹介しましたが、クーリエ・ジャポン1月号に掲載され、Webでも公開されて一部で話題になっているMIT石井教授のインタビューが発想とヴィジュアライズの強い結びつきという観点からなかなか興味深かったです。→ 「MITメディアラボ石井裕副所長インタビュー（前編）: クーリエ・ジャポンの現場から」そのインタビューのなかで、石井教授は「発想において「レシピ」や「方程式」のようなものは存在し..</description>
<dc:subject>デザイン</dc:subject>
<dc:creator>HIROKI tanahashi</dc:creator>
<dc:date>2012-01-16T21:34:22+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
今日、会社のほうのブログにも「<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/01/16.html" target="_blank">発想のための「レシピ」や「方程式」は存在しない。</a>」という記事のなかで紹介しましたが、クーリエ・ジャポン1月号に掲載され、Webでも公開されて一部で話題になっているMIT石井教授のインタビューが<strong>発想とヴィジュアライズの強い結びつき</strong>という観点からなかなか興味深かったです。<br /><br />→ <a href="http://courrier.jp/blog/?p=9690" target="_blank">「MITメディアラボ石井裕副所長インタビュー（前編）: クーリエ・ジャポンの現場から」</a><br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20120116a.jpg" width="500" height="375" border="0" align="" alt="" /><br /><br />そのインタビューのなかで、石井教授は「<strong>発想において「レシピ」や「方程式」のようなものは存在しません</strong>」と言っている一方で、ご自身の発想の方法について、例えば、語っています。<br /><br /><blockquote>いい問いを発することは答えを出すことよりもはるかに大事です。なかでも最も重要な問いが「なぜ？」です。「なぜ？」という問いを何度も何度も繰り返していると、答えは哲学の境地にまで辿り着きます。<br /><br />自分のアイディアを撃ち落とすための「問い」というミサイルをとにかくたくさん用意する。そして、どのミサイルからも撃ち落とされないようにアイディアを高めていく、といった訓練を日々ずっとやっていますよ。<br /><div style="text-align:right;"><a href="http://courrier.jp/blog/?p=9690" target="_blank">MITメディアラボ石井裕副所長インタビュー（前編）: クーリエ・ジャポンの現場から</a></div></blockquote><br />そうなんです。アイデアが必要なのであれば、疑問を生み出すことが大事だと僕も思います。<br />このブログを以前から読んでいただいている方であれば、「なぜ？」を繰り返し発することでアイデアを生み、さらに自分のアイデアを生むものであるということが「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/145343749.html" target="_blank">なぜ？を問う力</a>」や「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/30175189.html" target="_blank">想像力とは間違いを創造的に活用することに他ならない</a>」、「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/244370242.html" target="_blank">僕たちはいつも間違えてる、だから…</a>」などのエントリーで、繰り返し何度も書き方を変えて書きつづけている「自分の間違いに気付くことで、新しい知を得る」ための「当たり前に対する疑い」ということと同じであることにわかっていただけるのではないかと思います。あっ、「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/126575856.html" target="_blank">好奇心＝「わからない」をつくること</a>」なんてエントリーもありました。<br /><br /><a name="more"></a><h4>ビジュアル・シンキング、タンジブル・シンキングとしてのプロトタイピング</h4>そして、“自分のアイディアを撃ち落とすための「問い」というミサイルをとにかくたくさん用意する”ための具体的な方法の１つがプロトタイピングなんですね。<br /><br />僕が<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/137535522.html" target="_blank">文庫版の解説</a>を書かせてもらった<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4582766935/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4582766935">『フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4582766935" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />で知られるヘンリー・ペトロスキーさんの<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4791763343/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4791763343">『失敗学―デザイン工学のパラドクス』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4791763343" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />では、次のようなIDEOの信条も、まさに自分たちの仮説としてのアイデアを撃ち落とすミサイルの必要性を認めてのものです。<br /><br /><blockquote>もし「プロジェクトが、明らかにものになりそうもないものを含めて、大量の原型を生み出していないなら、何かがひどく間違っている」のだ。だから、IDEOの信条は「早いうちに何度も間違えろ」である。<br /><div style="text-align:right;">ヘンリー・ペトロスキー<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4791763343/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4791763343">『失敗学―デザイン工学のパラドクス』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4791763343" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />間違えたアイデアを撃ち落とすミサイル。でも、その間違えを「なぜ？」というミサイルで撃ち落とそうとすれば、撃ち落とすターゲットが視認でき、触知できる必要がある。だからこそ、スケッチをしたり、プロトタイプを作ったりして、見える形に、触れる形にすることが大事なのです。<br /><br />その視覚化や触覚化の重要性を、とうぜん「タンジブル・ビッツ」というインターフェイス概念を発明した石井教授は心得ています。<br /><br /><blockquote>ビジュアル・シンキングはこうしたプロセスにおいて欠かせないものです。ビジュアルにして考える。さらにアイディアをプロトタイピングを通して実体化する、タンジブルにすることが重要です。アイディアを考えること、見ること、描くことは三位一体です。同じように、考えることと、モノをつくる、触れてみることも三位一体です。ビジュアル・シンキング、タンジブル・シンキングの方法論を常に使っています。<br /><div style="text-align:right;"><a href="http://courrier.jp/blog/?p=9690" target="_blank">MITメディアラボ石井裕副所長インタビュー（前編）: クーリエ・ジャポンの現場から</a></div></blockquote><br />描きながら考える、作りながら考えるというのは、デザイン思考の方法の根幹にあるものだと僕は認識していますが、それはまさにここで言われているようなビジュアル・シンキング、タンジブル・シンキングにほかならないと思います。<br /><br /><h4>思考が生い育つ原材料としてのイラスト、素描</h4>このビジュアル化の重要性を知っていたのは、石井教授やIDEOだけではありません。いま読んでいるホルスト・ブレーデカンプの<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />という本では、17-18世紀の数学者・哲学者であるライプニッツが思考と視覚表現の関係性を非常に重視していたことが指摘されています。<br />ライプニッツと言えば、二進法による普遍言語の追求や微積分法とその記法の発明が知られていますが、この本によればライプニッツは同時に芸術家の直観的判断力に対して、それ以上の期待をしていたことがわかります。<br /><br />そして、そのライプニッツが先の石井教授やIDEOと同様に、思考をする際、非常にビジュアライズを重視していたのです。<br /><br /><blockquote>ライプニッツは絶えず書きつづけ図を描いて、自分の考えを外に出し、目に見えるものとした。自分の素描の下手さをものともせず、試行錯誤する思考の確たるドキュメントを紙上に残した様のなんと恬淡としていることか、夥しい技術上の素描が証すところである。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />この本にはライプニッツの自筆のスケッチがいくつか掲載されていますが、そこにはまさに描くことで考えるライプニッツがいます。<br />決して「うまい」とも「ていねい」ともいえないライプニッツの素描は、その自由さにおいてこそ、それが思考と結びついていたのだという様が見てとれます。<br /><br />それは単に思考を表現したものではなく、表現以前に思考をするための素材、材料なのです。<br /><br /><blockquote>ライプニッツが一見イラストしたにすぎないようなものも、思考が生い育つ原材料の一部をなす。図解はアイデアの表現にとどまらず、決定的要素である。それはアイデアを展開する一撃であり、メディア（媒質）なのである。<br /><div style="text-align:right;">ホルスト・ブレーデカンプ<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801688/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801688">『モナドの窓』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801688" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />「図解はアイデアの表現にとどまらず、決定的要素」。これはまさにプロトタイプを作る際の基本的な姿勢とも通じる話です。<br /><br /><h4>捨てることを前提にしないでプロトタイプを作るつもりなら、それは思考の拒否</h4>プロトタイプもまた表現ではなく、考えるための原材料です。<br /><br />プロトタイプを作成する際の基本は、あとで使うことなんて考えてはならず、必ず作ったプロトタイプは捨てることを前提にするというものですが、まさにそれはプロトタイプが「原材料」であって、成果物ではないからです。それは「なぜ？」を代表する問いのミサイルによって破壊され、乗り越えられるべきアイデアです。思考の素材であるべきプロトタイプに対して、最初から「あとで使う」ことを期待するのはむしろ思考を拒否した態度だといえるでしょう。<br /><br />思考するための材料あるいは燃料を何度も使うことをせずに、単純にモノとしてプロトタイプを作っているのであれば、それは作りながら考えていることにはなりません。それは極論すれば、作っているものを見てもいないし、触れて感じてもいないということになるのだと思います。目の前にあるものを見て触れて感じ、それに対して「なぜ？」を問う心を閉ざして、ただ自分の妄想を愛でているだけなのでしょう。<br />それはビジュアル化やタンジブル化の作業をしていても、ビジュアル・シンキングやタンジブル・シンキングではなく、ただの作業でしょう。<br /><br />そうではなく、石井教授が言うように「アイディアを考えること、見ること、描くことが三位一体」「考えることと、モノをつくる、触れてみることが三位一体」になるような見方、触れ方、考え方ができるよう、心をオープンにし、自分の妄想が抱いた「当たり前」のイメージから逃れて思考する自分自身のやり方を各自が身につけることが必要なのでしょう。<br /><br />それは「レシピ」にも「方程式」にもならないのですから。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4782801688" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe> <iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4791763343" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br /><br /><strong>関連エントリー</strong><br /><ul><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/145343749.html" target="_blank">なぜ？を問う力</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/30175189.html" target="_blank">想像力とは間違いを創造的に活用することに他ならない</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/244370242.html" target="_blank">僕たちはいつも間違えてる、だから…</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/126575856.html" target="_blank">好奇心＝「わからない」をつくること</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/51398867.html" target="_blank">失敗学―デザイン工学のパラドクス／ヘンリ・ペトロスキ</a></li></ul>

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<item rdf:about="http://gitanez.seesaa.net/article/244826016.html">
<link>http://gitanez.seesaa.net/article/244826016.html</link>
<title>人間の思考方法と情報の交通の速度や経済性について考える</title>
<description>デザイナーさんなどを中心にこんな風に考える人がたまにいます。手で描きながら何かを考える方法って人間にとってはとても自然で本来的な思考の方法だ、と。んー、果たして、そうなのでしょうか？僕自身も、絵や図を描いたりしながら自分の考えを発展させ、まとめていく方法というのは、思考方法としてとても有効だし、誰もがそういう思考方法を身に着けておけばいいと思っています。でも、それが「人間にとってとても自然で本来的な思考の方法」だとは考えません。そう考える人はある基本的なことを忘れていると思う..</description>
<dc:subject>デザイン</dc:subject>
<dc:creator>HIROKI tanahashi</dc:creator>
<dc:date>2012-01-07T17:09:51+09:00</dc:date>
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デザイナーさんなどを中心にこんな風に考える人がたまにいます。<br /><br /><strong>手で描きながら何かを考える方法って人間にとってはとても自然で本来的な思考の方法だ</strong>、と。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20120107a.jpg" width="500" height="375" border="0" align="" alt="" /><br /><br />んー、果たして、そうなのでしょうか？<br /><br />僕自身も、絵や図を描いたりしながら自分の考えを発展させ、まとめていく方法というのは、思考方法としてとても有効だし、誰もがそういう思考方法を身に着けておけばいいと思っています。<br />でも、それが「人間にとってとても自然で本来的な思考の方法」だとは考えません。<br /><br />そう考える人はある基本的なことを忘れていると思うんです。<br />手で描いて考えるために不可欠な筆記具も紙も、残念ながら、いまのように誰でも気軽に利用できる代物ではなかった時代があったということを。<br />筆記具や紙という人工物がなければできない思考方法が、人間という生物にとって自然で本来的であるはずがないということを。<br /><br />そう。昨日の「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/244370242.html" target="_blank">僕たちはいつも間違えてる、だから…</a>」で「デザイン思考」が歴史的思考方法だと書いたのと同じです。<br />描きながら考えるという思考方法が「とても自然で本来的な思考の方法」なのではなく、歴史的に筆記具や紙という人工物をある程度日常的にも利用可能な環境が整って以降のそれらの使い方も含めた意味でのリテラシーであることなどの、僕ら人間を動かしているものに気づくことこそ、昨年以上にこれまで無意識のうちに信じてきた様々な既成観念が崩壊するであろう2012年に、「次」を考える上では大事な「問題提起力」には欠かせないことだと思うのです。<br /><br /><a name="more"></a><h4>情報の交通の速度と経済性</h4>自分の頭のなかにぼんやりとある／しかないイメージを、紙の上に描きながら考えるという方法は、一種のプロトタイピング的な思考方法です。ただ、それはすでに何度も書いているように、あくまで紙や筆記具のような道具を人間がある程度のレベルで日常的に利用できるようになってから、人間の思考方法になったにすぎません。<br /><br />逆にいえば、紙や筆記具がないと思考できない僕たちは、そうしたデザイン的な思考方法に囚われているのだともいえます。そして、それは紙や筆記具をもたずとも、モバイルツールがあれば思考できてしまう人のようには思考できないという足かせでもあるはずです。<br />そんな道具と思考の関係を意識しなければ、その足かせから自由になることもできません。<br /><br />今のように気軽に使える紙が存在しない世界を想像してみましょう。<br /><br />たとえば、竹簡の上でまともにアイデアスケッチはできるでしょうか。<br />パピルスなんて高価で貴重すぎて、とても頭のなかの思いを絵や図に描いてアイデアを整理するなんてことに使えなかったのではないでしょうか。<br /><br />紙という手軽に使えるメディアが存在しなければ、頭のなかのイメージを視覚的な情報へと変換させることができず、紙のうえの情報を手で様々に編集しながら、頭と紙のあいだでいろんな情報を交通させることで思考することもむずかしいのです。<br />紙の上で描きながら思考すること自体の頻度が減りつつあるいまだからこそ、僕らはもう一度、そうしたことをきちんと想像してみないといけません。<br /><br />それが情報の交通の問題であり、その交通の速度や手軽さなどの経済性の問題であるということに焦点をあてて。<br /><br /><h4>紙と道路がローマ帝国の形成と帝国内での機能の専門分化を実現させた</h4>そして、それが単に個々人のなかでの情報の交通の問題ではなく、社会的な意味での情報の交通の問題であったということも知っておくべきでしょう。<br /><br />マクルーハンは「社会集団の変化とか新しい共同体の形成とかは、紙による伝達と道路による輸送とによって情報の移動の速さが増したときに起こる」と<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018977?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018977">『メディア論―人間の拡張の諸相』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4622018977" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />のなかで記しています。<br /><br />その歴史的な例のひとつとしてマクルーハンは「ローマ帝国の形成とそれに先行したギリシアの都市国家群の崩壊」の例をあげています。アルファベットで記された書き言葉をより速く遠くに伝えられるようにした、パピルスと車がより速く走れる道路の建設がローマ帝国の形成を可能にしたとマクルーハンは指摘しています。<br /><br /><blockquote>村や都市国家は、本質的に、あらゆる人間の必要と機能を包括する形態である。速度が大きくなり、それによって離れたところからでも軍事を統率することができるようになると、都市国家は崩壊した。かつては包括的で自己充足的であった都市国家の必要と機能が帝国の専門分化の活動となって拡張された。<br /><div style="text-align:right;">マーシャル・マクルーハン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018977?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018977">『メディア論―人間の拡張の諸相』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4622018977" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />ここで記された都市国家の崩壊からローマ帝国内での機能の専門分化の実現においてキーとなっている、情報の交通速度の加速という事態は、まさにいま僕らが経験していることと同様のものだといえます。<br /><br />インターネットが実現した検索とソーシャルメディアによる情報流通の爆発的な加速は、従来の知や専門分野の価値の再編成を迫っています。かつては専門家しか入手がむずかしかった知識も誰もが簡単に検索して入手でき、かつ、それを他人にシェアすることもできます。まとめサイトはごくごく普通の人をなんらかの分野に強い専門家として見せてくれるのを助けてくれ、世の中には無数の細分化した専門家、アドバイザー、コンサルタントがあふれかえった状況を生んでいます。<br /><br />その変化は、あきらかにインターネット上に次々に登場してくる「情報の交通」の速度と経済性を変化させるツールの賜物だといえると思いますが、それと同様のことがローマ帝国の形成を可能にしたと同時に、従来のギリシアの都市国家を崩壊させたのです。<br /><br /><h4>情報の交通の停止が帝国を衰退させ、知を独占する中世を開始させた</h4>ただし、パピルスの供給をエジプトに頼っていたローマは、その後、イスラム教徒によってエジプトを失い、パピルスの供給が経たれました。パピルスの供給が経たれたローマでは、パピルスに乗せる形で情報を運ぶルートであった道路での車の往来も止まったといいます。そして、道路での車の往来が止まったことで、道路を移動していた軍隊の往来もなくなり、軍隊組織の滅亡と軍とともにあった官僚制度の滅亡を招きました。<br /><br />軍事力がローマという中心から周縁に向かって征服を行うと同時に、紙とともに情報を運び、教育や商業も「中心―周縁」の関係性のなかで交通させ交流したのとは反対に、ローマ帝国が衰亡した中世においては、寺院の僧侶集団が知識を紙に書かれた写本とともに独占しようとした。これに対して、知識を外に向かう征服や支配に応用したいプトレマイオス二世のような帝国権力が「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/210740520.html" target="_blank">知はいかにして｢再発明｣されたか／イアン・F・マクニーリー＆ライザ・ウルヴァートン</a>」でも紹介したような一大勢力としての図書館を建設させ、膨大な数の文官や書記を専門の仕事に携わらせたのですが、いずれにせよ、中世においては情報は内と外のあいだで流通するよりも、一部の権力によって内的に独占される傾向があったのです。<br /><br /><blockquote>照合し、翻訳し、組み立てるというのが、アレクサンドリアで最初に確立された学問の形だった。図書館では、文書を集めるだけでなく、集めたものを照合し、編集して、稿本を写し、内容を組み立て直し、注釈をつけて分析する作業が行われた。<br /><div style="text-align:right;">イアン・F・マクニーリー＆ライザ・ウルヴァートン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4822248259/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4822248259">『知はいかにして｢再発明｣されたか』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=&l=as2&o=9&a=4822248259" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />ここに引用したように、アレクサンドリア図書館という閉じた知的空間でこそ、最初の「手で描きながら考える」という思考方法は生まれたのでしょう。<br /><br /><h4>なぜ「情報の交通」の速度と経済性が加速している現代において経済危機が生じているのか</h4>ただ、こうした一部権力による知の独占は、個人において紙に描くことによる情報の交通の活性化がアイデアの創出を生むのと同じように、情報の交通の活性化によって発展していたローマの商業と教育の力を、根本から削いでしまうことになったのです。<br /><br /><blockquote>パピルスは戻ってこなかった。ビザンチウムは中世各地の中心と同じく羊皮紙に大きく依存していたが、これはあまりに値が張り、品薄であったから、商業あるいは教育を促進することがなかった。中国産の紙が近東を経てヨーロッパに次第に浸透してきて、11世紀から教育と商業に着実に速度をつけ、「12世紀のルネッサンス」の基礎を用意した。印刷物を普及させ、ついに15世紀には活版印刷を可能にするにいたった。<br /><div style="text-align:right;">マーシャル・マクルーハン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018977?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018977">『メディア論―人間の拡張の諸相』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4622018977" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />「情報の交通」の速度と経済性が失われると、社会における商業や教育の力は失われるのです。逆に「情報の交通」の速度と経済性が高まると、社会においては商業や教育が活性化するはずです。<br /><br />それなのに、なぜ、この「情報の交通」の速度と経済性がこの上なく加速されている現代において、世界のあちこちで経済危機が囁かれ、この国においては教育などの側面でも停滞した状況がみられるのでしょう？<br /><br />はっきした答えはわかりませんが、この記事を書きながら、それは紙とその流通を可能にする様々なしくみ（書籍、出版、郵便、FAXなどなど）によって成り立っていた昔ながらの思考方法である「手で描きながら考えること」を「人間の本来的な思考方法だ」などと勘違いしてしがみついていることと無縁ではないのかもしれないのでは？と考えたりしています。<br />インターネットの検索やソーシャルメディアを通じて、一部による知の独占が解かれ、従来の専門分化のカテゴリーでは意味をなさなくなってきた世界で、いまだ「手で描きながら考える」という旧来の思考方法、あるいは、「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/241740262.html" target="_blank">発明の方法を受け継いで…</a>」で紹介したような「生産工程の個々の段階を、まるで探偵小説を書くように逆に計画してゆく生産方式」などにしがみついて、いまの環境に対応した思考方法や生産方式を生み出せていないことに問題があるのではないかと。<br /><br />僕らは、いまこそ、自分たちが従来使っていた古い思考方法や生産方式、富を生む仕組みがいったいどんなメディアの影響をどのようぬ受けて、思考や生産、富の産出を可能にしていたのかを見直すことで、いま世界を包み込んだ新たな環境にあった新しい思考方法や生産方式、富を生む仕組みを創出する努力をしていく必要があるのではないでしょうか。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4622018977" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4822248259" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br /><br /><strong>関連エントリー</strong><br /><ul><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/244370242.html" target="_blank">僕たちはいつも間違えてる、だから…</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/241740262.html" target="_blank">発明の方法を受け継いで…</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/210740520.html" target="_blank">知はいかにして｢再発明｣されたか／イアン・F・マクニーリー＆ライザ・ウルヴァートン</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/177783640.html" target="_blank">メディア論―人間の拡張の諸相／マーシャル・マクルーハン</a></li></ul>

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<link>http://gitanez.seesaa.net/article/244370242.html</link>
<title>僕たちはいつも間違えてる、だから…</title>
<description>失礼ながら、年末の挨拶も書かないまま、新年に突入した当ブログ。昨日から仕事のほうでも通常営業がはじまったので、こちらでも気合いを入れ直していこうと思いました。きわめて不定期に、大して裏取りもせずに思いつきをしたためている当ブログではありますが、読んでいただいているみなさんに興味をもってもらえる記事を書いていこうといつも思っておりますので、2012年もぜひ DESIGN IT! w/LOVE をよろしくお願いいたします。ついでに会社のほうで担当しているブログ「市場のお手入れ」の..</description>
<dc:subject>デザイン</dc:subject>
<dc:creator>HIROKI tanahashi</dc:creator>
<dc:date>2012-01-06T08:47:07+09:00</dc:date>
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失礼ながら、年末の挨拶も書かないまま、新年に突入した当ブログ。昨日から仕事のほうでも通常営業がはじまったので、こちらでも気合いを入れ直していこうと思いました。<br />きわめて不定期に、大して裏取りもせずに思いつきをしたためている当ブログではありますが、読んでいただいているみなさんに興味をもってもらえる記事を書いていこうといつも思っておりますので、2012年もぜひ DESIGN IT! w/LOVE をよろしくお願いいたします。<br />ついでに会社のほうで担当しているブログ「<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/" target="_blank">市場のお手入れ</a>」のほうもよろしければご覧ください。ペルソナやエスノグラフィーなどの人間中心設計、デザイン思考関連の記事はそちらのほうで書いておりますので。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20120105a.jpg" width="500" height="375" border="0" align="" alt="" /><br /><br />というわけで、ご挨拶は簡単に終わらせていただいて、本題。<br /><br />今年の年末年始はいつにも増してのんびりと楽しく過ごさせていただいたのですが、そんなある日のよく晴れた昼間の散歩中にふと思い至ったのが、僕自身が何かを考えるときの基本姿勢としてタイトルにもした「僕たちはいつも間違えてる」ということを前提にしているということでした。<br />これは何も他の人が間違った見方や勘違いした見方をしてるのを非難するとかいう話ではなく、僕自身も含めて人はそもそもこの世の中で起こる出来事、世界に存在するあらゆるものを把握し理解するためには、間違えなくては把握も理解もできないと考えているからです。<br /><br /><a name="more"></a><h4>なぜ「僕たちはいつも間違えてる」ということを前提するのか？　ダイジェスト</h4>どういうことかというと、まずはダイジェスト。<br /><br /><ul><li><strong>抽象化による理解は間違えを前提とする</strong>　人は世界をありのまま把握するということができないので、必ず五感で受け取った情報の大部分を捨て去ってごく一部を残す形で抽象化してはじめて意味ある形で世界を理解できるようになる。その意味では人は理解するためにまず抽象化によって間違えるのであり、大部分を間違えることで一部の正しさを手に入れているということができる。であれば、「どう間違えるか？」が重要ではないかと思う。</li><li><strong>抽象化に用いる方法は本人もコントロールしきれない</strong>　とはいえ、意図的に間違った抽象化を行うことで世界を理解できる形にするといっても、その抽象化による理解を人は必ずしもすべて自分の意志のコントロール下で行なっているわけではない。１つ前の「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/241740262.html" target="_blank">発明の方法を受け継いで…</a>」でも考えたように人は自分でも知らず知らずのうちに常に方法を使っているのであり、その方法によって、ここで問題にしている抽象化の仕方は変わる。であれば、先に重要であるといった「どう間違えるか？」に関しても、すべて本人でさえコントロール可能ではないことを理解しておく必要がある。</li><li><strong>メディアが人間の抽象化の方法に影響を与える</strong>　では、本人でさえ、自分の抽象化作業によって感じている世界の何を切り捨て、何を残すかをすべてコントロールできるわけではないとすると、何が人間の抽象化作業＝世界認識に影響を与えているのか、価値観の形成に影響を与えているのかを知っておく必要がある。その際、僕が念頭に置くのはマクルーハンの「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/169955219.html" target="_blank">すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである</a>」という言葉。昨日会社のほうのブログに買いた「<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2012/01/05.html" target="_blank">Webサービスとペルソナ（中編）</a>」でも扱ったけど、このメディア＝人工物と、人間の世界認識の関係を理解しておくことが必要ではないかと思っている。</li><li><strong>「問題設定力」がこれからのテーマ</strong>　なぜ、こういうことを今更ながら思ったかというと、昨年以上にいろんなことが起こって、これまでの思考や価値観では閉塞感満載になりそうな今年、求められるのは既成観念にとらわれない「問題設定力」だなと思っているから。これまでの観念をこれまでの思考や価値観で疑っても、それは単なる親近憎悪でしかないので、そうではなく疑うことで新しい思考や価値観が再構成されるような疑い方が求められていて、それが今後必要な「問題設定力」だと思うのだけれど、それには、これまで以上にどんなメディアが人間のどんな世界認識や価値観に影響を与えたのかを歴史的な視点で理解しなおすことが「問題設定力」を高めるための基礎知識になるだろう。</li></ul><br />と、まあ、こんな風なことを前提に考えているのです。<br /><br /><h4>当たり前を疑うことの先に新しいパラダイムへの入口はある</h4>ということを前提としているので、基本的にはどんな考えも絶対ではないし、むしろ当たり前だと思って見過ごしていることほど、自分で感じたものではないと疑ってかかる必要があると思っているのです。<br />そして、何が自分自身の認知や理解、思考や行動に影響を与えているのか、何の影響を受けたものを自分が当たり前なこととして無意識に受け入れてしまっているのかを常にあらためて明らかにしていこうとする姿勢が大事だと考えているわけです。<br /><br />ましてや、いまのように何が正しいのかわからない世の中で、不安に駆られて正解やみんなと同じ意見を求めておどおどするよりも、何が正解がわからなくなった今だからこそ、なぜほんのすこし前まで正解があると思えたのか、いろんなシステムがまともに動いているように思えたのかを考える方が大事なことなんじゃないかと思っているのです。<br /><br />そして、当たり前だと思っているものが何によって当たり前と思えてしまっているかと歴史的な視点をもって疑ってかかることの先にこそ、はじめて新しいパラダイムは開けてくると思うのです。<br /><br /><blockquote>「メディアはメッセージである」というのは、電子工学の時代を考えると、完全に新しい環境が生み出されたということを意味している。この新しい環境の「内容」は工業の時代の古い機械化された環境である。新しい環境は古い環境を根本的に加工しなおす。それはテレビが映画を根本的に加工しなおしているのと同じだ。なぜなら、テレビの「内容」は映画だからだ。<br /><div style="text-align:right;">マーシャル・マクルーハン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018977?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018977">『メディア論―人間の拡張の諸相』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4622018977" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />そう。ここでマクルーハンが指摘しているように、僕らはメディアによって新しい環境に移行してもしばらくは、古い「当たり前」に縛られた頭で世界を古い時代のままに見てしまいます。僕らは古いメディアに縛られた方法を使った世界認識や考え方や行動の仕方を無意識に使ってしまっており、それが当たり前になってしまっているからこそ、新しい環境が整っても相変わらず古いメディアがもたらしたものと同じ「内容」を新しい環境にも求めてしまうのです。<br />モノや情報を私有するのではなくソーシャルに扱う時代を迎えてもなお、個人や私企業がそれらをパーソナルに扱い、所有し、コントロールできると勘違いし、プライバシーや企業秘密にこだわる感覚のもそうした事態の一例でしょう。<br /><br />でも、新しい生き方、感じ方、行動の仕方は、古いパラダイムの「当たり前」を抜け出し、新たな環境の「メッセージ」を理解することしかはじまりません。自分たちの考え方が古いメディアに影響されていることを自覚することが前提となります。<br /><br />そう。古いメディアによって抽象化して見ている世界の見方のどこが間違えているのかということの自覚が…。<br /><br /><h4>何が僕らのデザイン思考を可能にし、何が僕らのいまのライフスタイルを可能にしたのかと疑うこと</h4>それには、これまで以上にどんなメディアが人間のどんな世界認識や価値観に影響を与えたのかを歴史的な視点で理解しなおすことが「問題設定力」を高めるための基礎知識になるのだと思うのです。<br /><br /><blockquote>画一的、連続的で、限りなく反復可能な小単位なるものはグーテンベルク印刷技術上の事実であるが、それがまた微積分という関連概念を吹き込んだ。それによって、いかなる捉えがたい空間も、まっすぐで、平らで、画一的で、「合理的」なものに移し変えることが可能となった。この無限という概念は、論理によってわれわれに押しつけられたものではない。それは、グーテンベルクの贈り物であった。<br /><div style="text-align:right;">マーシャル・マクルーハン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018977?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018977">『メディア論―人間の拡張の諸相』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4622018977" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />定価や定義、標準化や正解といった画一化を求めるもの、それはこれまでもこのブログではたびたび書いてきたように、同じ商品を大量に存在し個々人による所有を可能にするマスプロダクションの走りとしての印刷物というメディアに端を発しています。印刷以前の話し言葉はもちろん、手書きの写本でさえも定価や正解といった、同じものを個々人が所有できることを前提とした思考様式やライフスタイルを可能にする環境を準備できませんでした。<br /><br />そして、画一的な同一なものを視覚的に反復可能になってこそ、デザイン思考も可能になったのです。<br />グリッドが敷かれた画一的な平面の上で、誰もが望めば利用可能なさまざまな視覚的要素をグラフィカルに構成しながら行なう試行（プロトタイピング）により、いろんな問題が視覚的に思考できるようになったことを理解することで、僕らは無意識に当たり前に行なっている自分の普段の思考スタイルを反省したほうがよいはずです。印刷革命によって可能となったデザイン的な思考スタイルがその後の生活スタイルを大きく変えていったことを意識し、それが何によって可能になったかを理解しなおすことが、次の一歩を踏み出すためには必要なことでしょう。<br /><br />例えば、食事用に使われていた２本のナイフのうちの１本の歯が「食べやすさ」を改善するために２つに割れ、最終的には４本に定着していく過程でのデザインの試みが可能になったのも、16世紀の後半のOxford English Dictionaryに英語としてdesignという単語が初出した時期に重なることは、僕が<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4582766935?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4582766935">『フォークの歯はなぜ四本になったか』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4582766935" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />の「解説」にも書いたとおりです。<br /><br /><blockquote>ここに構想(デザイン)という考え方が登場する。Oxford English Dictionaryに英語としてdesignという単語が初出するのは一五九三年である。フォークはそんなルネサンスの文化の雰囲気のなかで登場し各国で使われるようになったのだ。それは単なる偶然の一致ではない。<br /><div style="text-align:right;"><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4582766935?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4582766935">『フォークの歯はなぜ四本になったか』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4582766935" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />「解説　失敗の発明」より</div></blockquote><br />僕らは現在自分たちが暮らしのなかで感じている不満や不便さを、デザイン（特に利用する物理的な道具のデザイン）によって改善しようとする発想を当たり前のことのように感じています。しかし、それはそもそもモノ自体がマスプロダクション技術によって同じ商品を大量に生産し流通させ、多くの人に所有に可能にする環境や、また同じ思考やアイデアを容易に他の人物に伝えたり、自分でも繰り返し視覚的に思考できるようにする環境が整った上でのことであることを忘れています。<br />そうした環境が整うグーテンベルク以前の世界では、フォークの歯が４本に分かれていくことはなく、いつまでも料理を食べづらく、口を切る危険性もあるナイフ２本での食事を、道具の変更によってよりよいものにしようという改善の発想は決して当たり前のものではなかったのです。<br /><br /><h4>現代人にとってはデザイン思考は当たり前の思考スタイル</h4>ましてや、印刷どころか、紙の上で文字や図像を描くことも簡単なことではなかった、話し言葉の時代、筆記具や紙がかんたんに扱えるものではなかった時代においては、生活の改善を可能にするデザインなんていう思考スタイルが日常的であるはずなどはないのです。<br /><br />似たようなことは、マクルーハンの盟友ともいえるウォルター・オングも<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4938661365/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4938661365">『声の文化と文字の文化』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4938661365" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />のなかで「テクストによってかたちづくられた思考」として指摘しています。<br /><br /><blockquote>たとえば、幾何学的な図形、抽象的なカテゴリーによる分類、形式論理的な推論手続き、定義、また、包括的な記述や、ことばによる自己分析さえもそうである。これらの項目はすべて、思考そのものではなく、テクストによってかたちづくられた思考に由来するのである。<br /><div style="text-align:right;">ウォルター・J・オング<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4938661365/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4938661365">『声の文化と文字の文化』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4938661365" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />ここでオングによって「テクストによってかたちづくられた思考」と指摘されるものは、デザイン思考に限らず、僕ら現代人がごくごく普通に用いている思考方法です。そして、それはオングがいうように、テクスト以降の歴史性をもった思考の様式なのであって、人間は必ずそのように思考するわけではなく、むしろ、テキストというメディアに大きく影響を受けたスタイルでしかないのです。<br />そう。僕らはそのテクスト以降の思考スタイル、さらには印刷革命以降の思考スタイルを当たり前に使えるよう身につけたことで、その思考スタイルが可能にする抽象化の方向性の影響を受けて常に世界を間違って認識し、物事を間違えた解釈で理解するようになったのです。<br /><br />僕らはここを勘違いしてはならないと思います。<br />デザイン思考なんて逆に現代ではまったく当たり前すぎて誰もが行なっているものであることをあらためて理解することも必要なのです。<br /><br />デザイン思考というキーワードがあらためて意識されたのは、それこそ印刷革命の当たり前さとは異なる新しい環境が生まれつつあり、新しい環境が古い環境を根本的に加工しなおしはじめたことがおぼろげながら明らかになったことで、グーテンベルク以降続いた古い思考スタイルである「デザイン思考」が単に意識化されただけと見た方がよいのです。<br />つまり、そういう古くから続いたデザイン思考なるものを今更大げさにありがたがったり、それを身につけようなんて考えたりするのは、とんでもない時代遅れであって、むしろ、あのアプローチはOxford English Dictionaryにdesignというワードが登場しはじめた16世紀の終わりから20世紀に至るまでに人間が当たり前のように無意識で行なっていたアプローチをあらためて明示し、形式知化しただけのものと理解するほうが正しいのです。<br />そして、そういう環境を事前に歴史が用意してくれていたからこそ、「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/241740262.html" target="_blank">発明の方法を受け継いで…</a>」で指摘したように、19世紀が「発明の方法」の発明の世紀として立ち上がることが可能になったのです。<br /><br /><h4>自分がわかるイメージだけに逃げ込むな！</h4>僕らはそんな歴史のなかで、自分たちの世界認識の間違え方を変化させているのです。<br />そう。僕たちはいつも間違えてる、だから…。<br /><br />2012年、僕はこうした自分たちの認識や理解、思考や行動が何に影響を受けて、どんな風に偏ったスタイルで世界や物事に対峙してしまっているのかということを、これまで以上に明らかにできるよう、さまざまな方面に目を向けていこうと思います。<br /><br />つまり、「方法」の自覚／反省です。方法が僕たちに常に間違えた世界認識を与え、僕たちを安心させている。そのことを常に意識した上で、その僕たちを誤らせる方法を自覚していくことが必要だと思うのです。<br /><br />そして、このブログを通じて、みなさんに「自分がわかるイメージだけに逃げ込むな！」ということを伝えていきたい。わかりやすさや、自分が理解しやすいイメージというのは、幻想であり、その幻想を抜け出すためには答えのない世界で不安を感じながらもがくしかないということを知ってもらいたいから。わかっているなんてことはすこしも立派ではないことを知ってもらいたいから。<br /><br />そんな風な僕のこれからの思考／試行を今年もこのブログに綴っていきます。<br />興味のある方はこれからも当ブログにご期待いただければ光栄です。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4622018977" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4582766935" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4938661365" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br /><br /><strong>関連エントリー</strong><br /><ul><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/241740262.html" target="_blank">発明の方法を受け継いで…</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/169955219.html" target="_blank">すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/177783640.html" target="_blank">メディア論―人間の拡張の諸相／マーシャル・マクルーハン</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/137535522.html" target="_blank">フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論／ヘンリー・ペトロスキー</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/221235964.html" target="_blank">声の文化と文字の文化／ウォルター・J・オング</a></li></ul>

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<title>発明の方法を受け継いで…</title>
<description>人が何かを行なう際に用いている「方法」に目を向けること。僕は、そのことがUXやインタラクションなどのデザインに関わる人にとってはとても重要なことだと考えています。というのも、簡単に言ってしまえば、個人やコミュニティが普段用いている「方法」を、それ以外の様々な人たちにも利用な「ツール」に翻訳し置き換えることがUXやインタラクションのデザインのミッションだと思うので。一部の人が使っている「方法」をより多くの人が気楽に使える「ツール」に置き換えることが１つのイノベーションの方法だろ..</description>
<dc:subject>デザイン</dc:subject>
<dc:creator>HIROKI tanahashi</dc:creator>
<dc:date>2011-12-26T23:50:51+09:00</dc:date>
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人が何かを行なう際に用いている「方法」に目を向けること。<br />僕は、そのことがUXやインタラクションなどのデザインに関わる人にとってはとても重要なことだと考えています。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20111221a.jpg" width="350" height="350" border="0" align="" alt="" /><br /><br />というのも、簡単に言ってしまえば、個人やコミュニティが普段用いている「方法」を、それ以外の様々な人たちにも利用な「ツール」に翻訳し置き換えることがUXやインタラクションのデザインのミッションだと思うので。一部の人が使っている「方法」をより多くの人が気楽に使える「ツール」に置き換えることが１つのイノベーションの方法だろうと考えます。UXデザインやインタラクションのデザインに求められているのって、そういう点からイノベーションを可能にすることなんじゃないでしょうか？ 逆にいえば、方法のツールへの翻訳を含まないUXデザイン、インタラクションデザインって何をデザインしているのか謎です。<br /><br />方法をツールに翻訳するのならば、まずは翻訳の元となる方法をちゃんと捉えることが必要です。だって、元になるものが理解できていなければ、それを別のものに置き換えことなどできないはずだから。<br />というわけで、具体的な翻訳であるデザイン作業をはじめる前に先に、実際に人がどんな方法を使っているかをキャッチアップすることが必要。誰がどんな時にどんな理由で、その「方法」を使っているの？　その「方法」を使うと具体的にはどんなアウトプットが生み出されるの？　別の「方法」を使った場合、アウトプットはどんな風に変化してしまうだろう？　なんてことをあらかじめ把握しておかないと、それをツールに変換するデザインという活動を行うことはできません。<br /><br />なので、人が何かを行なう際に用いている「方法」に目を向けることが大事だと考えるわけです。<br /><br /><a name="more"></a><h4>人は必ずしも意識して「方法」を使っているわけではない</h4>ただ、はっきり理解させておかなくてはいけないのは、ここで問題にしている「方法」は必ずしもそれを使っている人が自分で意識して使っているものではないということです。<br /><br />僕はそもそも人間が何かしらの行動を行なう際にはほぼ必ずといっていいほど何かしらの方法を用いていると考えています。ほとんどの行動が方法なくしてはそもそも成り立たず、方法をもたなければ人間はほとんど動くことができないと思っています。<br />にもかかわらず、僕らが普段自分の用いている方法を意識しないのは、慣れ親しんだ方法自体が、自分自身でも何らかの方法を用いているとさえ気付かないような、意識下で用いられる方法だからです。実際、日常生活をおくる上ではそうした使っている本人さえ意識していない方法のほうが圧倒的に多いはずです。<br /><br />そういう意味で、ここでいう「方法」というのはいわゆる暗黙知的なものだといっていいでしょう。<br /><br />たとえば、そういう言葉にできない類いの「方法」の例としてわかりやすいのは、僕らが普段話している言葉における文法です。<br />普通に言葉を話すときって、基本的には話している言語の文法に従っているはずですが、では、その方法を説明できるかというと容易ではありません。でも、方法としての文法がないと、まともに話はできないことは想像できます。<br />あるいは１つ前のエントリー「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/240475814.html" target="_blank">デコボコの世界の分かれ目で何を想う？</a>」で話題にしたアンケート調査などの定量的なデータの読み方にしても、同様です。実際普段から数値データの分析・解釈をやっている人でも、具体的に自分がどういう方法で数値データからさまざまな解釈を引き出しているかを、他人に説明しろといわれたらむずかしいはずです。<br /><br /><h4>本人も気付かずに使っている暗黙知的情報を把握する</h4>ただ、イノベーションにつながるUXデザインやインタラクションデザインを試みる人が対象にしたいのは、実はこうした本人でさえ言葉にできない「方法」のほうです。だって、すでに言葉として説明できるハウツーみたいなものであればツール化したところで、すこし効率的にできるようになるだけでしょうけど、一部の人のみが暗黙知的に用いている方法をツールに置き換えることが可能になれば、それまで多くの人にはまったくできなかったことが可能になることもあるのです。<br /><br />その意味で、イノベーションにつながるデザインのために求められる「方法の把握」は必然的にその方法を用いている人さえ意識していない暗黙知的なものの把握になります。したがって、本人さえ意識していないことを把握するのですから、インタビューで質問するような調査方法では隠れた「方法」を明らかにすることはできません。そこで出番となるのが本人さえも意識していない行動を観察によって明らかにするエスノグラフィーのような調査手法というわけです。<br /><br /><h4>発明の方法の19世紀</h4>さて、「方法」といえば、20世紀初頭のイギリスの哲学者、数学者であり、バートランド・ラッセルとの共著『プリンキピア・マテマティカ』の著者として知られるアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、著書<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4879840149/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4879840149">『科学と近代世界』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4879840149" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />のなかで「19世紀の最大の発明は発明の方法の発明だった」と言っています。そして、続けて、こんな風にも言っています。<br /><br /><blockquote>われわれの時代を理解するためには鉄道、電信、ラジオ、紡績機、合成染料といった具体的な発明をことこまかく列記する必要は必ずしもない。われわれは方法それ自体に集中して注目すればよい。方法こそが古い文明の基礎をうがった真の新しい要素だったからである。<br /><div style="text-align:right;">アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4879840149/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4879840149">『科学と近代世界』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4879840149" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />僕らの多くもその時代を生きた20世紀につながる19世紀という時代を考えるにあたって、ホワイトヘッドは鉄道やラジオなどの個々の具体的な発明に目を向ける必要はないというのです。<br />代わりに、そうした発明を可能にした「発明の方法」に注目するようホワイトヘッドは僕らを促します。様々な発明を可能にした「発明の方法」のほうがはるかに19世紀をそれまでと分つ特徴であるとホワイトヘッドはいうのです。<br />もちろん、その方法は僕らも受け継いでいて、まさに暗黙知的な知として知らず知らずのうちに使っているのです。<br /><br /><h4>終点からはじめ、開始点にさかのぼっていく技術</h4>そのホワイトヘッドが注目を促す「19世紀の発明の方法」について、マクルーハンはさらにこう述べています。<br /><br /><blockquote>「われわれは方法それ自体に集中して注目すればよい」と主張するホワイトヘッドはまさに正しいことを主張していたのである。現代世界の諸特徴をつくりだしたものは経験を均質的な断片に分けるグーテンベルク的方法だった。<br /><div style="text-align:right;">マーシャル・マクルーハン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018969/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018969">『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=&l=as2&o=9&a=4622018969" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />そう。それは19世紀以前に端を発する「グーテンベルク的方法」であり、それは均質な活字やフォントで印刷された書籍のページのように「経験を均質的な断片に分ける」ことで様々な思考や創作物の生成〜複製を可能にする方法の延長にあるものなのです。<br />ただ、マクルーハンはそれがすでにあった技術の延長上にあったというだけでなく、「これは均質的な断片を作り出すグーテンベルクの技術の中にすでに内在していた方法であったのだが、19世紀になってはじめて生産から消費活動にいたるまでひろく社会のなかに浸透したのだった」とも言っています。<br /><br />それは「均質的な断片に分けた経験」を再構成し編集しなおす方法を人が学ぶために必要な時間だったのでしょう。<br />そのあたりは「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/221193830.html" target="_blank">アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育／バーバラ・M・スタフォード</a>」で書評を書いた<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782801041/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4782801041">スタフォードの本</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4782801041" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />のなかでも詳しく論じられています。<br />それは「<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/216867477.html" target="_blank">人を魅了する見かけが、コミュニケーションの仕掛けをわかりやすくするとともに、大衆を欺く</a>」でも書いたように、視覚的な雄弁さを、誰もが利用可能な辞書的＝カタログ的な要素に置き換えることで知のアーカイブ性、ポータビリティ、パーソナル化＆ユニバーサル化を進めた、表現「方法」の精錬の時間だったのです。<br /><br />そして、そうした方法的洗練の時間を経て、可能になった19世紀の「発明の方法」とはどういう方法だったのかというと、マクルーハンはこう書いています。<br /><br /><blockquote>だがこの方法がいかなる操作であれ、一連の操作の終点からはじめる技術であり、そこから開始点へと逆にさかのぼって作業を進める技術であることには間違いない。<br /><div style="text-align:right;">マーシャル・マクルーハン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018969/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018969">『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=&l=as2&o=9&a=4622018969" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />終点からはじめる。それは僕らが日常的にも用いている、あの「目標を明らかにする」ことからはじめる、あの方法です。<br />最初にゴールを決めて、それを達成するために、どうするかをまさに「開始点へと逆にさかのぼって作業を進め」ていく、あの考える方法のことです。<br /><br /><h4>探偵小説を書くように、終点から遡られるユーザー価値</h4>僕らはそれを「計画」と呼んだりします。それは小説のなかで謎をとく探偵が仮説を逆向きに組み立てながら、もっとも説得力のある真相を後ろ向きに組み立てていくように。<br /><br /><blockquote>計画生産とは生産工程の個々の段階を、まるで探偵小説を書くように逆に計画してゆく生産方式を意味する。商品の最初の大量生産時代、さらには読者市場へむけての商品としての文学の大量生産時代に入ると、消費者の経験を研究することが必要になった。要するに、なにも作らない前から、芸術や文学の「効果」を調査することが必要となったのである。<br /><div style="text-align:right;">マーシャル・マクルーハン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018969/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018969">『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=&l=as2&o=9&a=4622018969" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />そう。そして、その時、発明は、新しい画期的な商品の企画には、逆にさかのぼられる「消費者の経験」が必要な研究として立ち上がったのです。実際に商品を作る前から「効果」であるユーザー価値やより良いユーザー体験を想像するために。<br /><br /><h4>ユーザーを最初から制作の過程に組み込む方法を生み出したのは、ポー</h4>僕が専門とする人間中心設計プロセスやデザイン思考では、デザインのプロセスに最初からユーザーを組み込んでおくことが求められます。それはいま述べたように19世紀以来の「発明の方法」が「作らない前から効果を調査することが必要となった」流れを汲んでいるからでしょう。<br />それは僕らが無意識に用いている「方法」だといえます。<br /><br />そして、その方法は推理小説家のエドガー・アラン・ポーによっても洗練された方法なのでしょう。<br /><br /><blockquote>ポーは作品を読者にむけて書くかわりに、読者を作品のなかに組み入れる必要を見てとったのである。これが彼の「構成の哲学」に盛られた計画であった。<br /><div style="text-align:right;">マーシャル・マクルーハン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018969/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018969">『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=&l=as2&o=9&a=4622018969" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />「読者を作品のなかに組み入れる」。これは僕がHCDの必要性を説く際に使う「ユーザーも含めてシステム」という考え方の元になるものだと思います。<br /><br /><blockquote>ポーは効果の予測が創作過程を有機的にコントロールする唯一の方法であるとみてとったのである。<br /><div style="text-align:right;">マーシャル・マクルーハン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4622018969/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4622018969">『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=&l=as2&o=9&a=4622018969" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br />それは有機的にコントロールする唯一の方法であると同時に、発明のための唯一の方法だったのだと思います。<br />僕らはすでに当たり前すぎて、それが方法であることさえ忘れてしまっていますが、効果を期待するというのは、発明のためのたったひとつの方法なのです。<br /><br />そして、発明の方法だけでなく、多くの方法が方法であることを忘れている僕ら自身のために、哲学者のジョルジョ・アガンベンの次のような言葉を結びに代えておきます。<br /><br /><blockquote>一般に思われているのとは逆に、実のところ方法というのは、それがもちいられている文脈から完全に切り離すことができないという不可能性を、論理と共有している。あらゆる分野で有効な方法というものは、ちょうどその対象を捨象できる論理が存在しないのと同じように、存在しないのである。<br /><div style="text-align:right;">ジョルジョ・アガンベン<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480847189/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4480847189">『事物のしるし 方法について』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4480847189" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></div></blockquote><br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4622018969" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4879840149" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4480847189" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br /><br /><strong>関連エントリー</strong><br /><ul><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/228703702.html" target="_blank">切開～抽象化する思考スタイルの欠如</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/218009872.html" target="_blank">事件でありできごとである話しことばでは人は客観的で分析的な思考をするのがむずかしく、メタ認知を働かせて研究やデザインをすることができない</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/216867477.html" target="_blank">人を魅了する見かけが、コミュニケーションの仕掛けをわかりやすくするとともに、大衆を欺く</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/221193830.html" target="_blank">アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育／バーバラ・M・スタフォード</a></li></ul>

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<title>デコボコの世界の分かれ目で何を想う？</title>
<description>世の中には結構な数で定量的な調査の集計データが読めない人がいます。アンケート調査でもそうだし、アクセスログ解析データでもそうでしょう。量的な調査データを読めないのって、結局ものごとが隆起するさまを編集的に読むことがそもそも苦手ということなんだろうと思います。つまり、頭の中でものごとを解釈して意味を生成するには、差異という「分かれ目」を分かることがまず求められているということを知らないのではないか、と。だから、まず意味を理解するには、数を比較することが必要であることがわからない..</description>
<dc:subject>デザイン</dc:subject>
<dc:creator>HIROKI tanahashi</dc:creator>
<dc:date>2011-12-14T19:46:10+09:00</dc:date>
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世の中には結構な数で定量的な調査の集計データが読めない人がいます。アンケート調査でもそうだし、アクセスログ解析データでもそうでしょう。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/iphone/image-20111214195322.png" width="400" height="400" border="0" align="" alt="iphone/image-20111214195322.png" /><br /><br />量的な調査データを読めないのって、結局ものごとが隆起するさまを編集的に読むことがそもそも苦手ということなんだろうと思います。<br />つまり、頭の中でものごとを解釈して意味を生成するには、差異という「分かれ目」を分かることがまず求められているということを知らないのではないか、と。<br /><br />だから、まず意味を理解するには、数を比較することが必要であることがわからないのでしょう。<br /><br /><a name="more"></a><h4>数という触覚的情報</h4>そもそも数というのは、触覚的で体感的な情報です。<br /><br />印刷革命によってか視覚偏重と化しフラット化した世界のなかでふたたび擬似的に触覚的な感覚を持ち込んでいるのが数字です。<br /><br />財布の重さはまさに金額という数字によって体感されます。<br />おなじように、グラフのデコボコは、触れて感じられるテクスチャーのデコボコだったり、隆起する坂道だったりします。あるいは、熱さ冷たさのような温度の違いだったり、重さ軽さのような身体にのしかかる重みだったりするでしょう。<br /><br />そうした触覚的、体感的な数を比較して意味を感じられないというのは、そもそもの身体が体感的な意味の解釈能力を欠いているということなではないかと思います。あるいは体感の問題ではなく、何かのデコボコと差異を感じても、それを意味として理解する根本的な解釈力に欠けるか。<br /><br /><h4>デコボコしたインターフェイス</h4>世界には様々なデコボコがあります。デコとボコの境界で世界は分かれています。<br /><br />そうしたものごとの分かれ目に目を向けることが、世界を解釈し意味を読み解くための行動の起点です。デコボコの差異に意味を読み解けないなら、分けることは分かることにつながらない。比較した両者の差異に意味を見出すこととは、そうしたデコボコの意味を読み解くことです。<br /><br />人は様々な分かれ目に満ちあふれた世界のなかを歩み進んでいます。階段の段差、屋外と屋内の気温差、日影と日向の境界、自分自身や他人の身体の輪郭、器の黒と布の赤、昼と夜、今日と明日、好意と嫌悪…。<br />そうした身体や頭で境を渡るその分かれ目こそが本来のインターフェイスです。デコボコした均一ではない世界のインターフェイスを様々な差異として感じ、解釈しながら人は世界と関わっていく。そこには誰かが名付けたテキストの表題などはついていなくていいし、すべてがボタンやプルダウンメニューのような形状ではなく、多様なデコボコとして表現されていればよいはずです。<br /><br /><h4>世界の意味を肌で感じて</h4>データを読めないというのは、そもそも、そんな風に世界のデコボコの意味を自分で解釈するクセがついていないのではないでしょうか？<br /><br />季節の変わり目を感じて、その感じたものに従い、みずからの行動を起こす。<a href="http://gitanez.seesaa.net/article/240052084.html" target="_blank">一つ前に書いた予測の話</a>にもここでつながります。予測が立ち上がるためには、世界のデコボコを感じて、そこに意味の芽生えを感じないといけません。その意味こそが予測であり、行動のリソースでしょう。<br /><br />カレンダーに従い、年末やクリスマスに思いを馳せるばかりではなく、日々の空気の冷たさや光の加減、草木の様の織り成すインターフェイスに意味を読み解きたいものです。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=448779918X" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4000069543" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br /><br /><strong>関連エントリー</strong><br /><ul><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/240052084.html" target="_blank">予測ができなきゃ行動もできないし将来は真っ暗？</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/43608886.html" target="_blank">サーフェスの変形だけが人生である</a></li></ul>

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<title>予測ができなきゃ行動もできないし将来は真っ暗？</title>
<description>人間は「予測」に従って動きます。いや、実際には予測が働かないと動けないといっていいはずです。その意味では、予測は人間にとって行動するためのリソースであると言うことができると思います。では、その際、人間は予測しようと意識して予測しているかというと、そうではないとも思います。J・J・ギブソンの生態心理学においては、生物を取り囲む環境を構成する表面の性質やレイアウトの組み合わせに応じて、環境そのものがその生物の行動を促進／抑制するリソース（＝アフォーダンス）と考えられていますが、予..</description>
<dc:subject>デザイン</dc:subject>
<dc:creator>HIROKI tanahashi</dc:creator>
<dc:date>2011-12-12T22:42:30+09:00</dc:date>
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人間は「予測」に従って動きます。いや、実際には予測が働かないと動けないといっていいはずです。その意味では、予測は人間にとって行動するためのリソースであると言うことができると思います。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20111212a.jpg" width="400" height="300" border="0" align="" alt="20111212a.jpg" /><br /><br />では、その際、人間は予測しようと意識して予測しているかというと、そうではないとも思います。<br />J・J・ギブソンの生態心理学においては、生物を取り囲む環境を構成する表面の性質やレイアウトの組み合わせに応じて、環境そのものがその生物の行動を促進／抑制するリソース（＝アフォーダンス）と考えられていますが、予測はこの行動を促進するリソースとしての環境認識と同時に立ち上がるものと考えてよいと思います。<br />ようするに、人が予測しようと思って予測しているのではなく、むしろ、ある環境が眼前に立ち上がってくる際、人がそれに対してどう対処するか（強いてはどう対処すればその環境を生き抜くことができるか）と思うところに予測は立ち上がってくるのだと捉えたほうがよいはずです。<br /><br />予測は行動しなければと思う人間の思いのなかに立ち上がってくる。そこで「予測」を手に入れるからこそ人は行動することができる。「予測」が人間にとって行動するためのリソースであるというのはそういうことです。<br /><br /><a name="more"></a><h4>行動力と先見性</h4>その意味では、行動力に欠ける人に共通するのは「先見性がない」ことだと思います。<br /><br />先見性、つまり予測力です。予測できないから次の行動が起こせない。<br />行動力に欠ける人は、先を見ようとしないから先のイメージが思い浮かばないし、そのイメージが持てないからどう動いたらいいかがわからず動けません。<br />逆に、積極的に行動する人は、その行動がさらなる先見性をつくるし、先見性があるから行動力がたくましくなっていきます。<br /><br />すこし前に、<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog" target="_blank">会社のほうのブログ</a>に「<a href="http://www.coprosystem.co.jp/marketingblog/2011/11/22.html" target="_blank">環世界／アフォーダンス／メンタルモデル</a>」という記事を書きましたが、そこで取り上げたノーマンの「行為の７段階モデル」（下図）は、仮説（つまり予測）をもって外界に対して行動を行ない、その行動の結果としてのフィードバックを通じて世界の理解していく人間の認知のモデルですが、このモデルなどは行動と予測の繰り返しによって人が世界を理解し、その結果、世界に対する予測力を自ら鍛え上げていく様を示したモデルだと僕は考えます。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/action7process-4f1a3.png" width="475" height="297" border="0" align="" alt="action7process.png" /><br /><br />行動するから先見性が鍛えられ、先見性が人の行動力をさらに高める。この鶏／卵的な予測と行動の関係に自らの存在を放り込むことができるか？　自らの積極的な行動の繰り返しのなかで、様々な予測が立ち上がってくる契機を演出することができるか？　他者からの回答に頼るのではなく、自らの行動にともなう嗅覚で自分自身の行動を促す情報としての予測を手にすることができるか？<br /><br />こうしたことができるかどうかで、その人の行動力が強くもなるかどうかが決まってくるだろうし、結局はその行動力が本当の意味で役に立つ「知識」を手に入れられるかどうかに関わってくるのだろうと僕は考えます。<br /><br /><h4>予測するためには、パターン認識の蓄積が必要</h4>では、どうすれば「予測」ができるようになるのか？　先見性を身につけられるか？<br /><br />予測の力、先見性というのは、結局のところ、より多くのパターンの違いを記憶し、パターン認識を基盤とした仮説形成が行なえるようになることだと思います。より多くのパターンを知っており、それゆえに様々なパターンが見分けられ、どのパターンなら次にどんなことが起こる可能性が高いかを知っていること。それが予測や先見性につながる仮説形成を可能にする状態。<br /><br />では、そんな風に多くのパターンを知り、それらのパターンを見分けられるようにするには、どうしたらよいか？<br />それには普段からいろんな物事に興味を抱いてそれらを観察し、世界で起こることの様々なパターンを自分で見つけ出していくことではないかと思います。<br /><br />僕らがデザイン思考のアプローチでエスノグラフィ的な観察調査を行う際も、結局、そこで発見したい事柄はパターンだったりします。人びとが行なう行動を観察して、いろんな人が繰り返し行なっているものはないか？と見たり、人びとが同じような状況で同じような行動する傾向はないかと探したりします。<br />そうした観察によって、複数の人びとのあいだで類似する行動のパターンを見つけ出すこともあれば、ひとりの方が繰り返し行なう特徴的な行動パターンを発見するケースもあります。もちろん、すべてのパターンがその後のデザインにつながる発見というわけではありませんが、現場での行動観察によって得られたパターンの発見が、その後のデザインを行なう上での考え方や発想を大きく変えてくれることも少なくありません。<br /><br />そうしたパターン認識力は、自分で普段から隠れたパターンを見出すような観察力を養っておかないといざという時に発揮できません。結局、パターンの認識というのは、何か隠されたものを見つける作業ではなく、自分たち自身が勝手に見落としていたことで隠れているパターンをあらためて認める作業なので、見ている対象の問題ではなく、見る側の見方の問題です。ようはパターンを発見するということは、自分自身の見方が変わったということに他ならないのです。<br /><br /><h4>パターンさえ認識できれば何が起こるかはわかる。でも…</h4>そんな風に現実の世界を観察する力でパターンを見出す力を身につけると、実はそのパターンが次に何につながるかという予測も立てられるようになります。<br /><br />でも、そもそも、この予測ってそんなに大変なことではないんですよね。ネコだって自分の身体がその隙間を通り抜けられるかどうかを、みずからの経験の蓄積からくる予測（仮説）によって判断しています。人間だって重そうな荷物を持てるかどうかを見た目からくる印象と自分がもっている様々な記憶のパターンと照らし合わせて予測して判断したりします。<br /><br />人間に限らず多くの動物が、そもそも自分たちの行動の可能性や方向性を、目の前のパターンの認識と蓄積された記憶のパターンの照らし合わせによって決めているのです。普通に生きていれば生きていく中でより多くのパターンを獲得でき、パターンさえ認識できれば何が起こるかはわかるようになるはずです。<br />でも、自分自身の行動で世界に存在する様々な物事のパターンを経験せずに、誰かが編集した情報だけにたよって生きているとパターン認識力も予測力も低下してしまうはずです。行動リソースとしての予測は、パターン認識、蓄積されたパターンとの照合とセットとなって機能するはずですが、そもそもパターン認識をするにも、その認識から目の前にあるものとそれが引き起こす結果の関係性を自身の経験のアーカイブとしてもっていなければ、適切な行動を行なうことができません。<br /><br />普段から他人がインターネットなどを通じて発信する情報を受信するばかりで、自分の目で見たり自分で道の事柄を積極的に体験したるすることをしない人は、こうしたパターン認識〜予測力が鍛えられていないために、道を歩いていても他人の動きが予測できずに人にぶつかってしまったりするし、共同作業の場でも他人の動きの予測ができないからなかなかスムーズにグループワークができなかったりします。パターン認識や予測力に問題がある人は、他人の動きの意図を汲み取れないし、それに併せて自身の行動を制御することができません。<br />だから、そういう人のまわりでは物事が動かず停滞を招きます。その人のまわりの世界だけがどんどんのろまになって、世界そのものからパターンの数が減っていくかもしれません。<br /><br /><h4>認識→探求→信頼</h4>行動につながる「知る」とつながらない「知る」があるのです。<br /><br />行動リソースとしての予測につながるのは前者の知識。後者の行動につながらない知識というのは、そもそも自分で原因と結果という関係性を体験できていない、原因だけだったり、結果だけが切り離されてしまっている知識。わからないことがあると事例を教えてくれという人がいますが、そういう人って結局、普段から原因と結果がセットになった自分の行動によって体験的に得た知識の取得をしていない人なんだと思います。いつでも、原因と結果が切り離された情報にばかり接しているから、方法を教えられても、それによる結果が予測できない。予測できないから自分で試しにやってみようという行動が起こらない。<br /><br /><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/121367016.html" target="_blank">以前に書評を書いた</a>クラウス・クリッペンドルフの<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4434130331/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=desiitwlove-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4434130331">『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=desiitwlove-22&l=as2&o=9&a=4434130331" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />という本に、ユーザビリティにも関連した人間が対象となる物事に注意を向ける３つのタイプ（認識、探求、信頼）の推移に関する次のような図が載っています。<br /><br /><img src="http://gitanez.up.seesaa.net/image/20111212b.png" width="440" height="199" border="0" align="" alt="20111212b.png" /><br /><br />簡単に言ってしまえば、人は対象となるモノや世界と付き合う際、最初は「これって何？」という認識、見定めの姿勢で接しますが、いろいろ試してみてだんだん対象とどう向き合えばよいかの予測がついてくると、「こうすればこうなるんじゃないか？」と予測にしたがって様々な試行を繰り返す探求の段階に移ります。そうした試行錯誤の結果、それが「使える」と思えたり「便利で使いやすい」といった信頼が芽生えれば、もはや新たな認識や探求を行なうことなく安心して対象を使うようになります。ようはユーザビリティに優れたものをデザインしたければ、ユーザーがこうした学習プロセスに沿って使い方を学習できるようになることも含めてデザインをすればよいというわけです。<br />一方、信頼して使っていたものがあるとき予期せぬ動きをはじめたりすれば、人は混乱したり、それが長く続けば使うのをやめたりしてしまう。もちろんユーザビリティ的には離脱は避けたいところで、それにはユーザーが信頼を失うような予測と実際のデザインパターンのギャップがどんな場面で生じうるかをある程度デザイン時に理解しておく必要がある。<br />そんなことを含めて、人間の行動と予測の関係を示しているのが、この図です。<br /><br />ようするに、この認識から探求を経て、信頼に至る遷移こそがパターン認識を行ない、予測のための理解を行なう過程というわけです。そして、この図が示しているように、時には落胆や混乱の危険性（リスク）を孕んでいるからこそ、このプロセスは信頼に通じる道だったりします。このリスクをとれるかどうかで、自分の力で信頼を勝ち取れる予測＝行動が行なえるようになるわけで、リスクを恐れる人は逆に何の苦労（認識、探求、落胆、混乱）もなく結果としての信頼を得ようとするのです。<br /><br />整理されたわかりやすい情報は、こうしたリスクを含まないからこそ、逆に未来への道筋をわかりにくくしてしまっているのです。いろんな人がすこしずつ間違った仮説形成や解釈を行なうことで生まれる多様性を排除してしまっているがゆえに、未来の可能性まで損なう結果につながっている。<br /><br />それにもかかわらず、わかりやすさを過度に求める姿勢って何なのでしょうね？<br /><br /><h4>「将来が見えない〜動けない〜予測できなくなる」という負のスパイラル</h4>というわけで、リスクをとらず、自らの予測の能力を鍛えられていない人は、常に先行きが見えなくて不安だし、その不安をかき消すための行動を行なうこともできません。まさに負のスパイラルに陥ってしまう。<br /><br />最近、ようやく一時の最悪の状態を脱してきた雰囲気がありますが、ライフハック的なものが流行っていた時期というのはまさに、結果と原因がつながらない情報ばかりがあふれていて、人びとが行動力〜予測力を鍛える機会を奪ってしまっているような感がありました。とはいえ、まだ、その状態を脱しきれていない人が大勢いると思うので、なんとも言えない気味悪さは残ったままです。<br />将来への不安を感じながら自分からは動けずじっとうずくまってしまっているがために、どんどん行動力を失っていくという負のスパイラルにはまらないためにも、人間も含めて動物って自分で行動するなかで様々な勝ちパターンを見つけていくパターン認識が基本行動原理であるってことを、それぞれの人がちゃんと理解してみることが必要なんじゃないかな。そんなことを思ったりするわけです。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4434130331" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=4000065122" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>　<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=desiitwlove-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=ss_til&asins=478850362X" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe><br /><br /><strong>関連エントリー</strong><br /><ul><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/121367016.html" target="_blank">意味論的転回―デザインの新しい基礎理論／クラウス・クリッペンドルフ</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/45156920.html" target="_blank">3種の表面とユーザー･インターフェイスのデザイン</a></li><li><a href="http://gitanez.seesaa.net/article/112288917.html" target="_blank">パターン認識と予測</a> </li></ul>

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