文学におけるマニエリスム/グスタフ・ルネ・ホッケ

ともすれば「何もかも飽和状態で、全部ある」ように見えて、それでいて、型(=既存の領域、枠組み)にはまった思考がそう感じさせるだけで、実は手つかずの隙間領域がそれを隙間と呼ぶのもはばかられるほど広大にある。 つまりは、現実は何も行き詰まっていないのに、凝り固まった思想がそう感じさせているという似非袋小路の状況。 それがいまの状況だろうということは、1つ前の記事で紹介した高山宏さんと中沢新一さんの対談集『インヴェンション』でも語られていました。 ▲今回読んだ、ホッケの『文学におけるマニエリスム』。分厚い。 そんな状況下で、似非袋小路を打破して面白いものをつくり出す(イメージできるようにする)ためには、2つあるものの間を来るインヴェンション、そして、まさに本来異質である2つのものを対置するためのアルス・コンビナトリア=組み合わせ術が必要なはず。 そんな似非袋小路の迷宮からの脱出を考えるための十分なヒントが、このマニエリスムを研究したホッケの書にはたくさん詰まっています。

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インヴェンション/高山宏、中沢新一

前回の記事で高山宏さんの本を紹介したら、なんだか高山さんの本が読みたくなって週末にAmazonで2冊ほどポチっとしました。届いてさっそく読みはじめて、さくっと読み終わったので紹介。 読んだのは、高山さんと中沢新一さんとの対談集で、わりと最近発売された『インヴェンション』。 高山宏さんと中沢新一さん。どちらも僕の好きな著作家なんだけど、はじめはこのお2人の対談と知って、正直ピンとこなかったんですね。あんまり2人が会話する際の接点みたいなものが思い浮かばなかったからです。 2人の友達がいて、1人1人とはよく話すんだけど、3人で会って話したことはない。だから、その2人が会ったら、どんな話をするのか想像もつかない。なのに、突然、その2人が話している状況に出くわした…。 この本を読んでいたときの僕の助教は、そんな状況に近いかもしれません。 高山さん、中沢さん、いずれの書く本も僕の興味をとてもそそる領域なのですが、どうもそれぞれが書く内容をうまく結びつけることができなかったのがこれまででした。僕はそれぞれ片方ずつとの会話しかしてきてなかったんです。 この本を読んでみるまでは…。 そんな2人が会話するところをはじめて目にする。これまで異なる領域に属するものと思ってたものが融合する瞬間に立ち会うようなものなんですね。 まさに、そういうところにこそ、インヴェンションが生まれてくる。インヴェンション=発明ね。 高山 発明という観念を、ちょっといまあらためて源内的に突き詰め…

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文学というデザイン

前回の記事の冒頭でも書きましたが、20代の頃の僕にとってヒーローは、夏目漱石でした。その後、シェイクスピアもそこに加わり、その2人がヒーローであることに変わりなく、いまに至っています。 僕がその2人をヒーローだと感じている理由は、その2人の文学者がデザイナーだからです。他にも数多くいるデザイナーのなかで、夏目漱石とシェイクスピアが、僕が憧れるデザイナー像なんです。 モノを作ることで人びとの生活を革新するのもデザイナーの役割だと思うんですが、僕はモノによる革新ということにはそんなに関心がないんですね。それよりも僕自身が文章によって人生を革新されている部分が大きいので、それを可能にするデザイン、その思考作業を実際に行う文学者にこそ憧れるんだと思います。そして、そのなかでも夏目漱石とシェイクスピアという2人の文学者が別格の存在だと思うわけです。 ところで、そんなことより多くの人は僕がなぜ夏目漱石やシェイクスピアのような文学者をデザイナーとして見ているかという点に疑問をもつことでしょう。 今回の記事の論点はまさにそこ。 文学はなぜデザインなのか?です。

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思考の方法の2つのベクトル

20代前半に愛読していたのは、澁澤龍彦、高橋源一郎、金井美恵子、そして、ニーチェやドゥルーズ/ガタリでした。 後半になると、そこにスラヴォイ・ジジェク、中上健次、多和田葉子あたりが愛読書として加わりました。また、その当時、全体を通じて、夏目漱石が僕の文学的ヒーローでした。 最近、なんとなく、そんな20代の頃、読んでいた人たちの本をあらためて読み返したいなと思って、頭がぐるんぐるんしてます。 それはさておき、40代も半ばとなったいま、僕の愛読書の1つに加わっているのは、グスタフ・ルネ・ホッケの作品です。 いま読んでいる『文学におけるマニエリスム』にとても刺戟を受けていて、先日もこんな記述を見つけて夜な夜なひとり興奮したりしていました。 存在は、〈古典的〉な存在了解にとっては、一目瞭然たるもの、自然的なもののうちにあってはおのれを明るませる自然的ーならざるものが適用されれば秘匿される。マニエリスムにとってはこれがまさしく逆転する。マニエリスム的存在了解にとっては、存在はもっぱら—自然的なるもののうちにあっては秘匿されると考えられているので、直接的に眼に見えるのではないもの、反—自然的なるもののうちにあってこそみずからを明るませるのである。 グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム 言語錬金術ならびに秘教的組み合わせ術』 本文が450ページくらいの本の300ページ目くらいに上の引用部があるのですが、ここに至るまでもホッケは、ヨーロッパの思考や表現の歴史の表舞台に立…

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文学とテクノロジー/ワイリー・サイファー

テクノロジーが、世界でいま起こっていることの直接の現場へと人間が参加することを妨げる。 方法が、問題に正面から立ち向かおうとする人間にとって最大の障壁となる。 テクノロジーと方法は、そんな風に人を世界から疎外された存在としてきた。 科学においても、芸術においても…。 ワイリー・サイファーの『文学とテクノロジー』という本は、19世紀における行き過ぎたテクノロジー主義、方法主義が芸術家たちをいかに現実から引き離すことになったかというテーマを追った一冊です。 前回の「マニエラ(技法)の核心 ~僕らは結局、自分たちのこれからをスケッチしながら作っている、この「世界史的な危機のさなか」において~」という記事では、まさにサイファーが『文学とテクノロジー』のなかで扱っているのと同様の「技法」というもののもつ意味をあらためて考えてみました。 組み合わせ術にせよ、隠喩の技法にせよ、それは新しいものを創造を可能にする根本的技法であるにせよ、それは膨大なリサーチを行ったり、膨大なデータに向き合い、整理分類をしながら思考したりといった、ごくごく当然の創造のための苦悩を抜きにしては、何も生み出せないはずです。 技法というものがそういう苦悩に没頭することができる環境こそを用意してくれる発想の技であり、決して、苦悩から人を解放してラクに結果が生み出せるようにするものではないことを、僕らはしっかり受け止めて創造の技をふたたび手にする必要があるのではないでしょうか。 マニエラ(技法)の核心 …

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マニエラ(技法)の核心 〜僕らは結局、自分たちのこれからをスケッチしながら作っている、この「世界史的な危機のさなか…

僕らは常々「技法」というものをすこし表面的に捉えすぎるきらいがあります。 技法やメソッド、やり方あるいは考え方、それに思考術、また結果というより方法としての芸術というものに、まともに向き合い、それとじっくり語り合うことをしないまま、盲目的にそれに従ったり、それが使える/使えないといったまるで無意味で的外れな議論や批評を行ったりしてしまいます。 ▲アタナシウス・キルヒャー『大いなる知の術あるいは組み合わせ術』扉絵(『キルヒャーの世界図鑑』)より 「表面的に捉えすぎる」というのは、技法をちゃんと使えていないし、使おうとしていないという意味です。技法なのでそもそも何かを生み出すために用いる手段であるはずなのですが、よくある話で、手段が目的になってしまい、結果を出すためのものとして捉えられないことが多いし、そのために用いられないこともある。 「目的のために使える」ということをイメージしてもらいやすくするために、逆に「目的のために使えている」ほうの例でいえば、WebやUIの設計に関わる人ならごく当たり前にやっている技法であるワイヤーフレームを描くということなんかは、ちゃんと使えている人が多いほうの技法だと思います。 ワイヤーフレームを描くということが何のための技法であり、それをしないと何ができなくなってしまうかは、その手の仕事に携わる人なら誰でも多かれ少なかれ知っています。当たり前すぎてあらためて説明しようとするとうまく言葉にできない場合はあるかもしれないけれど、実際はちゃ…

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文書の形式で知をカタチにすること

美術カタログの歴史は、財産目録からはじまっている。 昨日会社で美術カタログについて話していて、ふとむかし読んだ島本浣さんの『美術カタログ論―記録・記憶・言説』という本を思い出しました。 美術カタログのはじまりが財産目録であったことに当時驚いたことで、とても記憶に残っている一冊です。 ▲18世紀の競売目録。文字だけで作品の図版はない 『美術カタログ論 記録・記憶・言説』では、17世紀における美術カタログの誕生から20世紀初頭に到るフランス絵画界における美術カタログの変遷を調査することで、カタログにおける分類や記述の形式、あるいは美術作品そのものに対する言説の変遷が辿られます。 美術に関する記録の方法の発明とそれと同時期に起きた美術市場そのもののの発明、さらには、市場とそれを動かす核なるツールとしてのカタログが美術作品の一般への浸透を促した様を、ていねいに紹介してくれます。 この本を読むと、美術カタログというのは、初期には決して現在のような美術展覧会の図録ではなかったことがよくわかります。いや、そのようなものが必要とならない社会環境がそこにはあったことがわかります。 はじめに書いたとおり、それは財産目録としてスタートし、その後、上の写真のようなオークションの競売目録へと移行していきます。 以前に書いた書評記事で、僕は、こんな風に説明しています。 いわゆるコレクターの財産が売りに出される場。それがいまもアート作品の売買の場としてのオークションだ。 つま…

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「考え方」について考えてみる

「考えるとはどういうことか?」それについて考えることが僕にはよくあります。 「考えるとはどういうことか?」と考えることで、何かを考えるための方法が明らかになることがあるからです。 だから、「考えるとはどういうことか?」を考えるのは、自分自身がうまく考えられていないなと感じるときや、他人がうまく考えられていないなというのを目の当たりにするときだったりします。 ▲この記事では、この2冊が登場するよ うまくいかないから、その理由を自省する。 それって何かを改善するためにはごくごく普通の行為だと思います。 それを踏まえると、考えることがうまくいかない要因の1つが「考えるとはどういうことか?」ということを考えようとしない姿勢にあるということもできるはず。自分自身の考えるという作業のやり方についての自省を常日頃から行っていなければ、考えることがうまくなりにくいのはある意味、当然だと僕には思えます。 僕自身が「考えることとはどういうことか?」を何度も違った方向から考え続けてきたことで、ずいぶんと自分自身の考える力の幅と量を拡張できたという経験があるから、余計にそう思ったりもします。 でも、僕が「考えるとはどういうことか?」をときどき考えるのは、そういう改善云々という理由よりも、そもそも、それを考えるのが好きだから、という理由のほうが大きいんですけどね。まさに前回の記事で書いたとおり、自分の好き=数寄にこだわることをちゃんと僕自身も実践してるわけです。

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発想力を高めるための数寄index化

自分の好みを知ること。 自分がどんなもの、ことにワクワクと心を動かされるかを知っておくこと。 うん。それってとっても大事。 ▲1つ1つに特徴がある、類似するものが並ぶ状況に、僕はワクワクします 自分自身の心が外界の刺激に対してどんな動きをするかということについて探求することは、このとてつもないスピードで情報が行き交い、イノベーションの進行で刻々と状況が変化し続ける世界において、意味のあることを成す上では何より大事なことだと最近ものすごく強く感じています。 自分がどんな物事にワクワクするか、自分の心がどんなとき/どんなことに反応するか。 そういうことを知ることが、どうして、いまの社会環境において大事になっているのか。 それは、自分の心と頭で捉える外部からの情報をいかに連動させるかが、いまの世の中において、新しい物事を発想し、実現するために活動するためのリソースの所有と利用可能性の鍵を握っていると考えているからです。

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無骨に、ゴリゴリっと。

2週続けての積雪となった東京。 今朝も朝ご飯を食べたあとさっそく、雪の積もった近所の細い路地を、人が通りやすい分だけでも雪かきしました。 長さにして、20メートルほどの距離を、まっすぐに30-40センチくらいの幅で道をつくっていきます。 雪かき用のスコップなど、うちにはないので、ちりとりで雪をかきます。腰を落としての作業になるので、結構な労働です。先週などは、積もってはまた雪かきという風に繰り返したので、次の日に腰から股にかけて筋肉痛になりました。 そんな記憶もあったけど、とにかくやらないと出かけるときに足下が悪いので、朝1にやらないとって思ってました。今日の雪は先週に比べて、湿気は多かったので、ちりとりではさらに大変でした。 けれど、雪の積もったなかに、グニャグニャとした黒い道が通る見た目のすがすがしさや、歩くことも容易になる体感的快適さは、やり終えると嬉しさがあります。それなりに疲れる作業だけど、楽しかったり。それで実際歩いてみて快適さを感じると、余計にやった感を感じます。

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ジョン・ラスキンの思想から「デザインの本来」を考え直してみる

最近、自分のなかで「デザイン」という言葉への捉え方が変わりつつあるのを感じています。 それもあって、もう1回、自分のなかで「デザイン」って何だろう?というのを勉強したり、整理しなおしたりしようとしはじめました。 「デザイン」という言葉への捉え方が変わってきているという点では、まず「デザイン」の起源を今までとは違った形で考え直したいなという風に思っています。その起源をどう捉えるかで、デザインという言葉の占めるものも変わってくると思うからです。 数年前からしばらく僕は「デザインの誕生」をルネサンス期以降と考えていました。 Oxford English Dictionaryに、英語としての'design'が初出したのが1593年。 その後、イタリアのマニエリスト、フェデリコ・ツッカーリが1607年の「絵画、彫刻、建築のイデア」というエッセーの中に「ディゼーニョ・インテルノ disegno interno」という芸術家自身の内面のイメージを外化する方法を提唱することで、それまでの外界をありのまま模倣するミメーシス的な芸術観に対置しました。 "disegno interno"、英語にすれば、"interior design"です。 僕は、この頃を「デザインの誕生」の時期と考えていました。 そこではじまった人間の活動を「デザイン」と捉えようと思っていたからです。 もちろん、これは1つの見方であって、どういう視点で捉えるかで変わるものだと思っています。そして、僕自身…

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月のクレーターは望遠鏡があったからといって見えるわけではない(想像力がなければ見えない)

いまホルスト・ブレーデカンプの『芸術家ガリレオ・ガリレイ』を読んでいます。 この本、「【見る】ということとはどういうことか?」について非常に考えさせられる内容です。値段は高いし、分厚い一冊ですが、ぜひ一読をオススメしたい本です。 読んでいて考えさせられるのは、描くことと思考することの関係性や、想像することと見ることの関係性です。 ガリレイが実際に手で絵を描くことで考え、頭のなかでしっかりと想像する=仮説をもつことではじめて誰もそれまで見ることができなかったものを見ることができたのだということが、この本を読んでいくとわかってきます。 そこには描かなければ可能にならなかった思考があったし、思考をもとに想像しなければ目にすることができなかった事実がありました。そういうことをこの本を通じて知ることで、あらためて見ることや描くことや考えることの意味合いを考え直させられています。 たとえば、ガリレイは望遠鏡を使って月の表面にデコボコ=クレーターがあるのを発見したことで知られています。 これを、単純に、望遠鏡のおかげでそれまでよりも月を大きくみることができるようになったから、ガリレイはクレーターを発見できたのだと考えてしまうのは、実は間違いなのです。 僕らが考える以上に、いままで見えていなかったものを見るということは簡単なことではないようです。 ものを拡大して見る道具(=望遠鏡)が発明されたからといって、それまで見えていなかったものが急に見えるようにならないようです。想像さえ…

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思考と視覚表現の共犯関係についての考察を続けよう

前回の記事「多義から一義へ:絵から図が分裂した17世紀」で紹介したジョスリン・ゴドウィンの『キルヒャーの世界図鑑―よみがえる普遍の夢』を読み終えました。 図版と思考の深い関係性について自分が考えていることがどれだけ的を得ているかを知りたいという興味から17世紀ヨーロッパに目を向け、手に取った本でしたが、読み終えたことでよりいっそう思考と図版を含む視覚表現との関連性についての関心が大きくなりました。それでいまは、もっとこの時代の図像と思考の共犯関係を明らかにしたいという気持ちからホルスト・ブレーデカンプの『芸術家ガリレオ・ガリレイ―月・太陽・手』を続けて読みはじめています。 ホルスト・ブレーデカンプは、前に書評記事でも紹介した、キルヒャーと同時代を生きた年下の哲学者・数学者であるライプニッツの思考と視覚表現の関係を考察した『モナドの窓』の著者でもあります。その本がとても興味深かったので、いま読みはじめた『芸術家ガリレオ・ガリレイ』も出版された際に購入しておきました。 その『芸術家ガリレオ・ガリレイ』に、こんなことが書かれています。 ガリレイ、ホッブス、ライプニッツが好んで図像を使って思考を遊動させる、なんという徹底ぶりであろう。なおさら膨大な研究がこの側面をないがしろにしているのは驚きである。これほど広範に抑圧が蔓延していることからすれば、原因はヴィジュアルなもののフェイドアウト、過小評価、いや軽蔑にあるのだ。ヴィジュアルなものこそヨーロッパの悟性構造に深く根ざしてい…

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多義から一義へ:絵から図が分裂した17世紀

いま会社の班活動で「図」に関する研究活動をしています(会社で班活動って何?という方はこちらをご覧ください)。 上の写真のようにいろんな種類の図を集めて、それを分類したり、分類ごとの特徴を抽出したりしました。次のステップでは、自分たちでも図を使って自分たちの考えをうまく伝えられるようになることを目指して活動しています。 そんな班活動のために図を集める作業をしていた際、以前から気になっていたアタナシウス・キルヒャーのことがあらためて気になりはじめました。 お目当ての図を探そうと検索していると、やたらとキルヒャーの著作に掲載された図が出てきたからです。 それもあって、いまジョスリン・ゴドウィンの『キルヒャーの世界図鑑―よみがえる普遍の夢』を読みはじめました。読みながら、キルヒャーの生きた17世紀ってまさに図の誕生の世紀なのかなーなどと考えています。 今回はそのあたりの考えをまとめてみようか、と。

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専門性と地図の時代の終わりに

1962年発刊の古典的名著『グーテンベルクの銀河系』の冒頭、マーシャル・マクルーハンは『リア王』を引きながら、シェイクスピアがその作品の中で描いた17世紀初頭におけるスペシャリスト(専門家)の時代の到来について言及しています。 ただ王の名と それに纏わる形だけはこの身に留めておく、 が、統治の実権、財産収入、その他いっさいの大権行使は、 よいか、挙げてお前らの手に委ねるぞ、 ウィリアム・シェイクスピア『リア王』 宮殿の王座の間に集まった3人の娘達や下臣たちの前で、リア王はこう宣言し、自らの権力や財産を娘や下臣たちに委譲しようとします。 マクルーハンは、シェイクスピアが描いたこの権限委譲と領土の分配のシーンに、スペシャリストの誕生を読み取ります。 自国の地図を手にし、”よいか、私の治下の領土を3つに分けた”と口にし、その領土を娘たちに分配しようとするリア王は、自らが娘や下臣とともに担っていた領土に関する権限や責任を細かく分割して譲渡することで、自らを含めた各人のスペシャリスト化を図ったのだと指摘するのです。

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