2013年09月04日

思考と視覚表現の共犯関係についての考察を続けよう

前回の記事「多義から一義へ:絵から図が分裂した17世紀」で紹介したジョスリン・ゴドウィンの『キルヒャーの世界図鑑―よみがえる普遍の夢』を読み終えました。

図版と思考の深い関係性について自分が考えていることがどれだけ的を得ているかを知りたいという興味から17世紀ヨーロッパに目を向け、手に取った本でしたが、読み終えたことでよりいっそう思考と図版を含む視覚表現との関連性についての関心が大きくなりました。それでいまは、もっとこの時代の図像と思考の共犯関係を明らかにしたいという気持ちからホルスト・ブレーデカンプの『芸術家ガリレオ・ガリレイ―月・太陽・手』を続けて読みはじめています。



ホルスト・ブレーデカンプは、前に書評記事でも紹介した、キルヒャーと同時代を生きた年下の哲学者・数学者であるライプニッツの思考と視覚表現の関係を考察した『モナドの窓』の著者でもあります。その本がとても興味深かったので、いま読みはじめた『芸術家ガリレオ・ガリレイ』も出版された際に購入しておきました。

その『芸術家ガリレオ・ガリレイ』に、こんなことが書かれています。

ガリレイ、ホッブス、ライプニッツが好んで図像を使って思考を遊動させる、なんという徹底ぶりであろう。なおさら膨大な研究がこの側面をないがしろにしているのは驚きである。これほど広範に抑圧が蔓延していることからすれば、原因はヴィジュアルなもののフェイドアウト、過小評価、いや軽蔑にあるのだ。ヴィジュアルなものこそヨーロッパの悟性構造に深く根ざしているというのに。

まさに、これなんですね、僕が明らかにしたいのは。「ヴィジュアルなものこそヨーロッパの悟性構造に深く根ざしている」ということが、僕が17世紀のヨーロッパにおける思考と図像の関係に着目する理由です。

「思考と視覚表現の共犯関係についての考察を続けよう」の続き
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2013年08月30日

多義から一義へ:絵から図が分裂した17世紀

いま会社の班活動で「図」に関する研究活動をしています(会社で班活動って何?という方はこちらをご覧ください)。



上の写真のようにいろんな種類の図を集めて、それを分類したり、分類ごとの特徴を抽出したりしました。次のステップでは、自分たちでも図を使って自分たちの考えをうまく伝えられるようになることを目指して活動しています。

そんな班活動のために図を集める作業をしていた際、以前から気になっていたアタナシウス・キルヒャーのことがあらためて気になりはじめました。
お目当ての図を探そうと検索していると、やたらとキルヒャーの著作に掲載された図が出てきたからです。

それもあって、いまジョスリン・ゴドウィンの『キルヒャーの世界図鑑―よみがえる普遍の夢』を読みはじめました。読みながら、キルヒャーの生きた17世紀ってまさに図の誕生の世紀なのかなーなどと考えています。
今回はそのあたりの考えをまとめてみようか、と。
「多義から一義へ:絵から図が分裂した17世紀」の続き
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2013年08月16日

専門性と地図の時代の終わりに

1962年発刊の古典的名著『グーテンベルクの銀河系』の冒頭、マーシャル・マクルーハンは『リア王』を引きながら、シェイクスピアがその作品の中で描いた17世紀初頭におけるスペシャリスト(専門家)の時代の到来について言及しています。
ただ王の名と
それに纏わる形だけはこの身に留めておく、
が、統治の実権、財産収入、その他いっさいの大権行使は、
よいか、挙げてお前らの手に委ねるぞ、
ウィリアム・シェイクスピア『リア王』

宮殿の王座の間に集まった3人の娘達や下臣たちの前で、リア王はこう宣言し、自らの権力や財産を娘や下臣たちに委譲しようとします。



マクルーハンは、シェイクスピアが描いたこの権限委譲と領土の分配のシーンに、スペシャリストの誕生を読み取ります。
自国の地図を手にし、”よいか、私の治下の領土を3つに分けた”と口にし、その領土を娘たちに分配しようとするリア王は、自らが娘や下臣とともに担っていた領土に関する権限や責任を細かく分割して譲渡することで、自らを含めた各人のスペシャリスト化を図ったのだと指摘するのです。

「専門性と地図の時代の終わりに」の続き
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2013年06月06日

サン=レミ大聖堂とMummのシャンパンカーブやフジタ礼拝堂

さて、ランスの街の訪問記の後編です(ノートルダム大聖堂や街の雰囲気を紹介した前編はこちら)。

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サン=レミ聖堂内部

ノートルダム大聖堂を見学したあと、バスに乗って、さらにランスの駅からは離れた場所にあるサン=レミ聖堂へと向かいました。

「サン=レミ大聖堂とMummのシャンパンカーブやフジタ礼拝堂」の続き
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2013年06月05日

ランスの街とノートルダム大聖堂

今回の旅では、ルクセンブルクメスに行ったのとはまた別の日に、ランス(Reims)にも足を伸ばしました。
ランス(Reims)は、ローマ時代に遡る古い街で、下の写真のような3-4世紀のローマの遺構であるマルス門(凱旋門)も残っています。


マルス門

シャンパーニュ=アルデンヌ地域圏では最大の都市で、パリからはTGVで45分ほどの距離にあります。
場所はここ。


大きな地図で見る

歴代のフランス国王の戴冠式が行われてきたランスのノートルダム大聖堂がある都市です。

「ランスの街とノートルダム大聖堂」の続き
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2013年06月03日

メス(ポンピドゥー・センター・メスやサン・テティエンヌ大聖堂がある街)

前回の記事で紹介したルクセンブルクを楽しんだあと、TERで移動してフランス・ロレーヌ地域圏の首府である都市メス(Metz)にも立ち寄りました。

あまり馴染みのない地名だとは思いますが、最近ですと、2010年に開館したパリのポンピドゥー・センターの分館にあたるポンピドゥー・センター・メス(Centre Pompidou Metz)の設計を坂茂さんが手掛けたことで「メス」という街の名前を聞いたことがある方もいるのではないでしょうか。


メス駅

ルクセンブルクからはTERに乗って、上の歴史を感じさせるメス駅に降り立ちました。
メスの場所は地図でいうと以下の位置になります。


大きな地図で見る

ルクセンブルクとは距離にして55km、TERに乗った時間でいえば約40分くらいの位置にあり、逆にパリからは320km離れた場所にあるのがメスという都市です。
「メス(ポンピドゥー・センター・メスやサン・テティエンヌ大聖堂がある街)」の続き
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2013年05月31日

ルクセンブルクという天然の要塞都市を訪れて

さて、昨日の「クリュニー中世美術館を訪れて感じた僕らが知らないヨーロッパの中世」という記事でGW中のフランス旅行について書きましたが、そのうちの1日、TGVに乗ってルクセンブルクにも行ってきました。


アドルフ橋から見るルクセンブルクの旧市街

ルクセンブルクは古くから要衝とされてきた土地です。
この地の領主たちは現在の新市街と旧市街を分断する形で横たわるペトリュス渓谷に、上の写真のような堅牢な城砦を築き、その結果、樹々の緑と城や街が美しく調和した景観をもつ都市が築かれました。

「ルクセンブルクという天然の要塞都市を訪れて」の続き
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2013年05月30日

クリュニー中世美術館を訪れて感じた僕らが知らないヨーロッパの中世

ブログの更新がだいぶ滞っていました。
その間のゴールデンウィークに、パリを拠点としてランスやメスといったフランスの都市と、ルクセンブルクを旅行してきました。



期間中、ルーブルやオランジュリーなどの有名どころだけでなく、ケ・ブランリー美術館やパリ工芸博物館、カルナヴァレ博物館、シテ科学産業博物館などの様々なMuséeを見て回ってきましたが、中でも今回訪れて一番感動したのが、クリュニー中世美術館(Musée de Cluny)でした。
クリュニーの美術館に展示されたさまざまな作品(それはまだ美術や工芸、商品などが分化する前の品)を目の当たりにして、あらためてヨーロッパ中世のおそろしいほどの深さに驚かされたのです。

このブログでもときおり話題にしてきたとおり、僕自身、もともとヨーロッパの中世にとても興味をもっています。
今回の旅行中にもサント・シャペルやサン・ジェルマン・デ・プレなどの中世の教会建築や、前述のカルナヴァレ博物館を含めたマレ地区に残る中世の建築にも積極的に足を伸ばしました(カルナヴァレ博物館はある意味、駒場の日本民藝館に似た印象でここも楽しかった)。
パリは19世紀にオスマンによる大改造があったこともあり、中世の建築があまり残っていない都市と言われますが、それでも上記のようないくつかの建築物には触れられました。

そんな建築物に触れたあと、クリュニー美術館を訪れたのは最終日でしたが、その場に凝縮された形で感じることのできたヨーロッパの中世は、僕がイメージしていたのより、はるかに力強く、いまとは異なる活力に満ちたものでした。すごく心を動かされたのは、そうした力強さや活力がありつつ、今の感覚からすればどうしようもないくらいの停滞感や袋小路感を感じさせるところです。一言でいえば、明らかにいまとは異なる価値観がそこにあり、僕はそれにすごく心を動かされたのでした(イノベーションが起きない袋小路のなかに優れた技術が存在するというのは、ある意味では現在のどこぞの国の大きな組織のそれにも通じるような気もしますが)。

「クリュニー中世美術館を訪れて感じた僕らが知らないヨーロッパの中世」の続き
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2013年03月15日

テーブルにのせられた家族というカタチを超えて…

多様性を許容できる社会にしたいと思う。
多様性が認められた環境で多様な者同士が関わりあうことではじめて、新しいものは生まれてくると思うから。


▲山本理顕『地域社会圏主義』より

そのためには自分にないものをもつ相手を受け入れたり、いまないものを想像できる柔軟な発想が必要だと感じます。1つの標準的な思考や形式に偏りすぎることほど、新しいものが生まれてくる可能性を減少させる危険なことはないと思います。
そんなことを先日ひさしぶりに会った昔の会社の同僚と話すなかで、あらためて感じました。

「テーブルにのせられた家族というカタチを超えて…」の続き
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2013年03月03日

未知を知へと変換する「生きた知識」のための劇場

わからないことって日常的な思考のフレームの外にあります。


▲パトリック・モリエス『奇想の陳列部屋』より

たとえば、身近な同僚や後輩が突如会社をやめるといった場合、いつもいっしょに働いていてよくがんばってるなと感じていたりして、その人のことはそれなりにわかっていたつもりでも、急に辞めると聞くと「なんで?」と理由がわからなくって、急にそれまでわかっていたつもりのことまでわからなくなる、そんなことってあったりします。

また、顧客のことならわかっているとかいう場合でも同じで、わかっていたつもりの顧客たちが突如自社製品から離れ、他社の製品へと移っていくと、突如としてわからない対象に変化するということもあったりします。

いずれも場合もわかることの範囲の外に出ると、途端にまったくわからなさが広がっている。
わからなさの世界はとても不安に感じられ、それまでの価値観からするとまるで筋が通っていないようにも見えたりもします。

つまり、物事をわからなくさせているのって、日常をわかりやすくするための思考のフレームであって、その枠組みに当てはまらないものが不気味でわからないように感じられるように見せてしまう。
目の前にある、わかろうとする対象は同じでも、理解につながる思考のフレームワークの背景となる環境が変化するとわかる/わからないは一瞬にして切り替わるということがあるのです。
わかるためにはわかるためのフレームワークを見つける必要がある。

だから、わからないことを知ろうとすれば、日常に不意に忍び込んでくる不気味なもの、不穏なものに積極的に飛び込んでつまづいてみることから、まだ手中におさめていないフレームワークを探ってみることが必要になります。

「未知を知へと変換する「生きた知識」のための劇場」の続き
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2013年02月25日

実験の時代

「実験の時代」です。
唐突に何なの?と思われるかもしれませんが、これまでにない新しいものを早急に確立していくことが社会課題の解決という面でも、ビジネス的な面においてもつよく求められる現在において、無数に考えられるアイデアのなかでどれが現実的に有効かを探り当てるためには実験的な姿勢が欠かせなくなってきているように思うんです。


▲ベンジャミン・マーティン「卓上用の新しい電気装置」(バーバラ・M・スタフォード『アートフル・サイエンス』より)

たとえば、ビジネスの領域においては、リーン・スタートアップが、マネジメントを従来のリスク回避指向のものから、できるだけ早く有効な解に到達するために小さなリスクは積極的にとって実験を繰り返す方向へとシフトさせようとしています。

リーン・スタートアップでは、スタートアップが行うことを「戦略を検証する実験」としてとらえなおす。戦略のどの部分が優れていてどの部分が狂っているのかを検証する実験だ。

自分たちの頭のなかの仮説を検証するために、現実空間である市場において自分たちのビジネスに関する重要な実験を行うことで、仮説の「どの部分が優れていてどの部分が狂っているのか」を明らかにすることを繰り返す。そうすることでスタートアップに課せられたミッションである「できるかぎり早く、作るべきモノー顧客が欲しがり、お金を払ってくれるモノ−を突きとめる」活動をマネジメントしようというのがリーン・スタートアップの基本スタンスです。

それゆえ、リーン・スタートアップにおいては「製品の実態は実験」であると捉えられ、「その実験から得られる成果はどうすれば持続可能な事業が構築できるのかという学びである」というように、従来なら嫌っていたはずの「不確実性」をビジネスの条件にしっかりと盛り込んでマネジメントを行います。

不確実性がきわめて高い市場環境においては、リーン(無駄なく)にスピーディーに結果を残そうとすれば、計画と開発に長い時間をかけた上で一発勝負のように商品を市場に投入する従来のような方法ではあまりにリスクが高すぎ(完全に博打ですよね)、実験の速度をはやめて仮説検証を繰り返しながら解を探っていくスタンスが注目されるのも当然な気がします。「実験の時代」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:03| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月14日

近代視覚表現技術とともにあった「想像力」の危機

視覚表現技術をどう進化させるか?という課題が、ひとの想像力をこの時代にあったものに拡張するうえで、重要なポイントの1つだろうという思いを最近より強く感じています。



そんなことをあらためて考えるようになったのは、前回の「反−知の形式としてのバロック的想像力を再獲得する」という記事でも紹介した高山宏さんの『魔の王が見る―バロック的想像力』という本のなかでこんな記述を目にしたからでもあります。
前回の記事中でも取り上げた17世紀初めのヴンダーカンマー(驚異博物館)の流行の時代を、高山さんは「想像力」の時代でもあると読み解きながら次のように書いているんです。

事物の集積に未曾有の関心をもった17世紀初めのそうした「エキセントリック・スペース」の流行を背景にしてみてはじめて、人間は自らの身体と精神と頭脳の構造に目を向けることができたのではないかとさえ思われる。自らの内部に生じつつある事態を客観視できないわれわれ人間は、それが外部に投影されスクリーン上に映しだされる文字通りの「像(イメージ)」を見ながら、おそらくは自らの内なる世界を眺めているような気分になったのではなかろうか。

これはなかなか興味深い指摘です。
大胆にいえば、高山さんが言っているのは、外の像が先で、内面の像が後だということです。外に像を投影する表現技術が向上したことで、人間は自分たちの内面の想像力云々について考え、語ることができるようになったというわけです。

スクリーンに投影された像をみながら、そのイメージを自身の内面のイマジネーションと等号でつなぐ。
まさに外に表現された像が内なる像とおなじだと想えるようになったことで、人が想像する=イマジネーションを行うことが可能となり、それが一般の人のあいだにも浸透しはじめた時代が、17世紀初めの「エキセントリック・スペース」の流行の時代のもつ意味だというのです。

「近代視覚表現技術とともにあった「想像力」の危機」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 21:46| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月02日

反−知の形式としてのバロック的想像力を再獲得する

数ヶ月前から気になっていたことの1つは、自分でブログを書く際、どうも昔に比べて何を結論として言いたいのかを意識して書くことが苦手になってるという感じがしていることです。



何も言いたいことがなければそもそも書くこともないわけで、そこはとうぜん書きたいことがあるから書いているのですけど、でも、いまの僕にとって、その「書きたいこと」というのは間違いなく「結論」じゃないというところがちょっと問題なような気がしていたんです。

僕にとってはむしろ、ダラダラと書き連ねているその過程で書いているそれぞれが「言いたいこと」であって、何か1つの結論をいうためにそれらを書き連ねているわけではないんです。
だから、どうしてもいわゆる起承転結のような文章の構成で書かなくてはいけない動機がないし、そんな風に構造化してしまうことで「すべてが結論のために」みたいになってしまって途中の文章が豊かな意味を失うのは嫌だったりします。

そんなわけなので「結局のところ、何を言いたいの?」とか「何について書いているの?」とか言われてしまうと困ってしまうような書き方でそもそも書こうとしていたりするのですが、そうすると、それは何か結論や答えに至るようなものを期待する読者にとっては非常に読みづらい文章が生成されるという結果になるから、決して読者にやさしい文章にはなりにくいなーということが気にはなっていたのです。

というわけでモヤモヤしていたのですが、ひさしぶりに読んだ高山宏さんの本に、こんなことが書かれていてかなり気持ちがすっきりしたんです。

書物が起承転結や序破急を経てある目的/終わり(エンド)に収斂しなければならないとする書物観、知識観を、博物誌は原理的に嗤(わら)う反知の形式なのにちがいない。何をどういう順序で扱おうと少しもかまわない。どこかへ行きつく必要から解放されたとき、人間の想像力がいかに奔放、猥雑に働くものか。博物学的知はそれを見せ、それを愉しむ。

これは澁澤龍彦の「博物誌的」な文章を高山さんが評したものですが、そうそう、僕が好む「知」ってこういう「博物誌的な知」なのだということをあらためて自覚しました。
澁澤龍彦さんの本は、もう20年も前くらいによく好んで読んでいましたが、その頃から僕はそういう博物誌的な知のあり方を好む傾向があったんだろうと思います。

「反−知の形式としてのバロック的想像力を再獲得する」の続き
ラベル:高山宏 バロック
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2013年02月01日

今日からロフトワークにJOIN!

さて、私事ではありますが、本日2月1日より株式会社ロフトワークで働くことになりました。



これまで以上に、オープンかつクリエイティブに、いろんな分野におけるイノベーションの創出を支援できるよう、がんばっていきたいと思っています。

これまでお付き合いのあった方とも、これからお付き合いさせていただくかもしてない方とも、いっしょにワクワクするような未来をつくる活動をごいっしょできればと思っています。
何が起きるか、楽しみにしていてください。
そして、ぜひその変化の場に参加してくださる方が増えると楽しいなと思っています。

それでは、みなさま、今後ともよろしくお願いいたします。

ラベル:ロフトワーク
posted by HIROKI tanahashi at 23:32| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月28日

アイデアの私有と共有

アイデアは誰のものなのか?
この〈SHARE〉の時代にそれを問う意味とは何なのか、僕らはそのことを問い直さなくてはいけない段階に入ってきています。



僕らはいまなお「アイデアには所有者がいる」と考えることを当たり前のように思ってしまっています。

例えば、以前に比べて、僕らが日常的に行うようになったワークショップやブレインストーミングなどのグループワークによるアイデア出しの場などでも、いまだに「誰が出したアイデアが採用されたか」とか、「結局、声の大きな人のアイデアが採用されてしまう」とか、といった「アイデアの所有者は誰か?」にこだわる思考からなかなか離れられない人がすくなくありません。

けれど、そうしたグループワークによる共創の場において、アイデアの所有者探しをするのは賢明ではなく、むしろ、グループでより素晴らしい発想を生もうとする際の妨げにもなりえます。
なぜならグループワークでの共創の作業は、基本的に他者とのインタラクションのなかで次々に発想を生み、展開していく方法なのですから、あるアイデアが明確に誰が生み出したものと言えるような状況はありえません。

たとえば、ブレインストーミングは他人のアイデアにのっかりながら発想を膨らませていくことで、グループ全体でより良いアイデアを生み出していきましょうという方法です。
他人のアイデアを膨らませることが前提となっている時点で「アイデアの所有者が誰なのか?」という考え方とは根本的に無縁なはずです。

また、そもそも、こうしたブレインストーミングをはじめとするグループワーク的な共創作業を通じてアイデアを生み出す活動が定着してきた背景には、私有よりも共有を大事にする価値観をもった人が増えてきて、アイデアの発想という価値創造のプロセスにおいても〈SHARE〉することが当たり前と考える人が多くなったからだと思います。
ですが、それでも、そうした場の参加者のなかにも、従来的な「俺が俺が」という個人主義的な姿勢を引きずってしまっている人もいるといった過渡期の状態がいまなのでしょう。

「アイデアの私有と共有」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 13:54| オープンイノベーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする