2013年03月03日

未知を知へと変換する「生きた知識」のための劇場

わからないことって日常的な思考のフレームの外にあります。


▲パトリック・モリエス『奇想の陳列部屋』より

たとえば、身近な同僚や後輩が突如会社をやめるといった場合、いつもいっしょに働いていてよくがんばってるなと感じていたりして、その人のことはそれなりにわかっていたつもりでも、急に辞めると聞くと「なんで?」と理由がわからなくって、急にそれまでわかっていたつもりのことまでわからなくなる、そんなことってあったりします。

また、顧客のことならわかっているとかいう場合でも同じで、わかっていたつもりの顧客たちが突如自社製品から離れ、他社の製品へと移っていくと、突如としてわからない対象に変化するということもあったりします。

いずれも場合もわかることの範囲の外に出ると、途端にまったくわからなさが広がっている。
わからなさの世界はとても不安に感じられ、それまでの価値観からするとまるで筋が通っていないようにも見えたりもします。

つまり、物事をわからなくさせているのって、日常をわかりやすくするための思考のフレームであって、その枠組みに当てはまらないものが不気味でわからないように感じられるように見せてしまう。
目の前にある、わかろうとする対象は同じでも、理解につながる思考のフレームワークの背景となる環境が変化するとわかる/わからないは一瞬にして切り替わるということがあるのです。
わかるためにはわかるためのフレームワークを見つける必要がある。

だから、わからないことを知ろうとすれば、日常に不意に忍び込んでくる不気味なもの、不穏なものに積極的に飛び込んでつまづいてみることから、まだ手中におさめていないフレームワークを探ってみることが必要になります。

「未知を知へと変換する「生きた知識」のための劇場」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 16:22| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月25日

実験の時代

「実験の時代」です。
唐突に何なの?と思われるかもしれませんが、これまでにない新しいものを早急に確立していくことが社会課題の解決という面でも、ビジネス的な面においてもつよく求められる現在において、無数に考えられるアイデアのなかでどれが現実的に有効かを探り当てるためには実験的な姿勢が欠かせなくなってきているように思うんです。


▲ベンジャミン・マーティン「卓上用の新しい電気装置」(バーバラ・M・スタフォード『アートフル・サイエンス』より)

たとえば、ビジネスの領域においては、リーン・スタートアップが、マネジメントを従来のリスク回避指向のものから、できるだけ早く有効な解に到達するために小さなリスクは積極的にとって実験を繰り返す方向へとシフトさせようとしています。

リーン・スタートアップでは、スタートアップが行うことを「戦略を検証する実験」としてとらえなおす。戦略のどの部分が優れていてどの部分が狂っているのかを検証する実験だ。

自分たちの頭のなかの仮説を検証するために、現実空間である市場において自分たちのビジネスに関する重要な実験を行うことで、仮説の「どの部分が優れていてどの部分が狂っているのか」を明らかにすることを繰り返す。そうすることでスタートアップに課せられたミッションである「できるかぎり早く、作るべきモノー顧客が欲しがり、お金を払ってくれるモノ−を突きとめる」活動をマネジメントしようというのがリーン・スタートアップの基本スタンスです。

それゆえ、リーン・スタートアップにおいては「製品の実態は実験」であると捉えられ、「その実験から得られる成果はどうすれば持続可能な事業が構築できるのかという学びである」というように、従来なら嫌っていたはずの「不確実性」をビジネスの条件にしっかりと盛り込んでマネジメントを行います。

不確実性がきわめて高い市場環境においては、リーン(無駄なく)にスピーディーに結果を残そうとすれば、計画と開発に長い時間をかけた上で一発勝負のように商品を市場に投入する従来のような方法ではあまりにリスクが高すぎ(完全に博打ですよね)、実験の速度をはやめて仮説検証を繰り返しながら解を探っていくスタンスが注目されるのも当然な気がします。「実験の時代」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:03| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月14日

近代視覚表現技術とともにあった「想像力」の危機

視覚表現技術をどう進化させるか?という課題が、ひとの想像力をこの時代にあったものに拡張するうえで、重要なポイントの1つだろうという思いを最近より強く感じています。



そんなことをあらためて考えるようになったのは、前回の「反−知の形式としてのバロック的想像力を再獲得する」という記事でも紹介した高山宏さんの『魔の王が見る―バロック的想像力』という本のなかでこんな記述を目にしたからでもあります。
前回の記事中でも取り上げた17世紀初めのヴンダーカンマー(驚異博物館)の流行の時代を、高山さんは「想像力」の時代でもあると読み解きながら次のように書いているんです。

事物の集積に未曾有の関心をもった17世紀初めのそうした「エキセントリック・スペース」の流行を背景にしてみてはじめて、人間は自らの身体と精神と頭脳の構造に目を向けることができたのではないかとさえ思われる。自らの内部に生じつつある事態を客観視できないわれわれ人間は、それが外部に投影されスクリーン上に映しだされる文字通りの「像(イメージ)」を見ながら、おそらくは自らの内なる世界を眺めているような気分になったのではなかろうか。

これはなかなか興味深い指摘です。
大胆にいえば、高山さんが言っているのは、外の像が先で、内面の像が後だということです。外に像を投影する表現技術が向上したことで、人間は自分たちの内面の想像力云々について考え、語ることができるようになったというわけです。

スクリーンに投影された像をみながら、そのイメージを自身の内面のイマジネーションと等号でつなぐ。
まさに外に表現された像が内なる像とおなじだと想えるようになったことで、人が想像する=イマジネーションを行うことが可能となり、それが一般の人のあいだにも浸透しはじめた時代が、17世紀初めの「エキセントリック・スペース」の流行の時代のもつ意味だというのです。

「近代視覚表現技術とともにあった「想像力」の危機」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 21:46| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月02日

反−知の形式としてのバロック的想像力を再獲得する

数ヶ月前から気になっていたことの1つは、自分でブログを書く際、どうも昔に比べて何を結論として言いたいのかを意識して書くことが苦手になってるという感じがしていることです。



何も言いたいことがなければそもそも書くこともないわけで、そこはとうぜん書きたいことがあるから書いているのですけど、でも、いまの僕にとって、その「書きたいこと」というのは間違いなく「結論」じゃないというところがちょっと問題なような気がしていたんです。

僕にとってはむしろ、ダラダラと書き連ねているその過程で書いているそれぞれが「言いたいこと」であって、何か1つの結論をいうためにそれらを書き連ねているわけではないんです。
だから、どうしてもいわゆる起承転結のような文章の構成で書かなくてはいけない動機がないし、そんな風に構造化してしまうことで「すべてが結論のために」みたいになってしまって途中の文章が豊かな意味を失うのは嫌だったりします。

そんなわけなので「結局のところ、何を言いたいの?」とか「何について書いているの?」とか言われてしまうと困ってしまうような書き方でそもそも書こうとしていたりするのですが、そうすると、それは何か結論や答えに至るようなものを期待する読者にとっては非常に読みづらい文章が生成されるという結果になるから、決して読者にやさしい文章にはなりにくいなーということが気にはなっていたのです。

というわけでモヤモヤしていたのですが、ひさしぶりに読んだ高山宏さんの本に、こんなことが書かれていてかなり気持ちがすっきりしたんです。

書物が起承転結や序破急を経てある目的/終わり(エンド)に収斂しなければならないとする書物観、知識観を、博物誌は原理的に嗤(わら)う反知の形式なのにちがいない。何をどういう順序で扱おうと少しもかまわない。どこかへ行きつく必要から解放されたとき、人間の想像力がいかに奔放、猥雑に働くものか。博物学的知はそれを見せ、それを愉しむ。

これは澁澤龍彦の「博物誌的」な文章を高山さんが評したものですが、そうそう、僕が好む「知」ってこういう「博物誌的な知」なのだということをあらためて自覚しました。
澁澤龍彦さんの本は、もう20年も前くらいによく好んで読んでいましたが、その頃から僕はそういう博物誌的な知のあり方を好む傾向があったんだろうと思います。

「反−知の形式としてのバロック的想像力を再獲得する」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 20:04| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月01日

今日からロフトワークにJOIN!

さて、私事ではありますが、本日2月1日より株式会社ロフトワークで働くことになりました。



これまで以上に、オープンかつクリエイティブに、いろんな分野におけるイノベーションの創出を支援できるよう、がんばっていきたいと思っています。

これまでお付き合いのあった方とも、これからお付き合いさせていただくかもしてない方とも、いっしょにワクワクするような未来をつくる活動をごいっしょできればと思っています。
何が起きるか、楽しみにしていてください。
そして、ぜひその変化の場に参加してくださる方が増えると楽しいなと思っています。

それでは、みなさま、今後ともよろしくお願いいたします。

posted by HIROKI tanahashi at 23:32| その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月28日

アイデアの私有と共有

アイデアは誰のものなのか?
この〈SHARE〉の時代にそれを問う意味とは何なのか、僕らはそのことを問い直さなくてはいけない段階に入ってきています。



僕らはいまなお「アイデアには所有者がいる」と考えることを当たり前のように思ってしまっています。

例えば、以前に比べて、僕らが日常的に行うようになったワークショップやブレインストーミングなどのグループワークによるアイデア出しの場などでも、いまだに「誰が出したアイデアが採用されたか」とか、「結局、声の大きな人のアイデアが採用されてしまう」とか、といった「アイデアの所有者は誰か?」にこだわる思考からなかなか離れられない人がすくなくありません。

けれど、そうしたグループワークによる共創の場において、アイデアの所有者探しをするのは賢明ではなく、むしろ、グループでより素晴らしい発想を生もうとする際の妨げにもなりえます。
なぜならグループワークでの共創の作業は、基本的に他者とのインタラクションのなかで次々に発想を生み、展開していく方法なのですから、あるアイデアが明確に誰が生み出したものと言えるような状況はありえません。

たとえば、ブレインストーミングは他人のアイデアにのっかりながら発想を膨らませていくことで、グループ全体でより良いアイデアを生み出していきましょうという方法です。
他人のアイデアを膨らませることが前提となっている時点で「アイデアの所有者が誰なのか?」という考え方とは根本的に無縁なはずです。

また、そもそも、こうしたブレインストーミングをはじめとするグループワーク的な共創作業を通じてアイデアを生み出す活動が定着してきた背景には、私有よりも共有を大事にする価値観をもった人が増えてきて、アイデアの発想という価値創造のプロセスにおいても〈SHARE〉することが当たり前と考える人が多くなったからだと思います。
ですが、それでも、そうした場の参加者のなかにも、従来的な「俺が俺が」という個人主義的な姿勢を引きずってしまっている人もいるといった過渡期の状態がいまなのでしょう。

「アイデアの私有と共有」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 13:54| オープンイノベーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月15日

バズ・ワールドを肯定的に生きる

バズワードという言葉が意味をなさなくなるくらい、あらゆる言葉の意味が流動化して、日々どんどん意味を変えていくのがいまという時代なのかなと感じます。



そして、その不安定さは単に言葉の問題だけじゃありません。
モノや人や組織などの価値=意味も、バズワードのようにあるとき価値をもったものが次の瞬間には意味を失うという非常に不安定なうつろいがごく普通に起こっています。
その様は、もはやバズワードというよりバズ・ワールドと呼んだ方がよいでしょう。

「バズ・ワールドを肯定的に生きる」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:16| オープンイノベーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月12日

「途中」を開放することをサービスとして捉える

昨日ふと、「作らない」デザインどころではないのだな、と気づきました。
むしろ、僕らには「作れない」んだと思いました。



作らないデザインといったことをよく耳にするようになっていますが、むしろ、作れないと認識したほうが常識的な誤解から抜け出しやすいんじゃないかと、そんな風に思ったんです。

僕らがこれまで当たり前のように感じ享受していたはずの、完成品としての製品を作るということが社会的にもかつてほどは輝きを失いつつあるなかで、僕らは、たとえば「街づくり」といったような作れないものを作り続けるという場に立ちあうことが求められていることを各自がはっきりと自覚しなくてはいけないんだ、と。

「「途中」を開放することをサービスとして捉える」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 17:24| オープンイノベーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月09日

「完成品」より「未完成」であることが大事

僕自身も最近つくづく実感として感じますが、いまって、何か新しいものごとを創造する知的創造分野の仕事って、業界の違いや規模の違いが意味をなさず、あらゆる形のプレイヤーが競合するようになってきていますよね。



ほかにもそう感じている人はいないでしょうか?
大企業とベンチャーが競合するだけでなく、個人だって容易に企業組織に競合できるようになっていますし、大学のような教育機関や自治体やNPOだって競合する機会も増えてきているのを僕なんかは肌感として感じずにはいられません。

そうなる理由はカンタンに理解できます。
基本的な方法論やノウハウの取得なら短期間・低コストで可能になってきているのが1つ。
それから、創造作業の大事な部分を担うプロトタイピングや開発のコストも昔とは比べられないほど安くなったというのもあるでしょう。

とにかく新たにプレイヤーとしてゲームに参加する際のコストがきわめて低くなり、ほとんど参入障壁らしいものがなくなっているのですから、こういう状況になるのは当然です。
しかも、イノベーションを求める需要のほうも確実に高まっているわけですから。

「「完成品」より「未完成」であることが大事」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 19:47| オープンイノベーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「デザイン思考を使って発想力を鍛えるワークショップ」1月20日開催 参加者募集

1月20日(日)にデザイン思考の手法を使って発想力を鍛えることを目的としたワークショップを開催します。
題して「デザイン思考を使って発想力を鍛えるワークショップ 〜常識の外に出る〜」です。



これまでになかった新しいものを生み出すイノベーション創出における課題の1つは、いかにして見落としていた問題に気づき、新しい解決策を発想できるかという点にあります。その際、新しい発想を生み出す1番の障害は実は自分たち自身の思い込みや常識的な考え方だったりします。

その新しい発想の妨げとなる自分たち自身の思い込みや常識的発想を破ることを助ける方法が、イノベーションの手法としてより注目されるデザイン思考では用意されています。
今回のワークショップではそうしたデザイン思考の方法をいくつか使ってのグループワークで問題解決を行いながら、「常識の外に出て発想する」ということを体験的に学んでいただければと思います。

開催まであまりあいだがありませんが、ご興味のある方はぜひ友人・同僚の方などもお誘いの上、ご参加いただければ幸いです。
ワークショップの内容詳細および申し込みは以下となっております。よろしくお願いします。

ワークショップ内容詳細・申し込みはこちら
「「デザイン思考を使って発想力を鍛えるワークショップ」1月20日開催 参加者募集」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 08:41| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月28日

不確実な時代には「検証による学び」を得るための活動に資源を集中することが大事

最近、スタートアップに関する本をいくつか読んで、スタートアップのスキルってこの時代、ほんと個人が普通に生きていく上でも役に立つスキルだよなと思うようになっています。
だって、世の中、こんなにも不確実なんだから。



世の中がもっと将来の見通しがよかった時代なら、知見が豊富な先人たちに教えを乞い、その教えに従うかたちで努力して行動することで、そこそこ平穏で幸福に満ちた生き方ができたでしょう。

けれど、この「不確実性」に満ちあふれた社会環境においては、それでは以前と同じような成果を得ることができなくなっています。

エリック・リースが『リーン・スタートアップ』において、

いま我々がしているのは、ビジョンに頼る、魔法の使える「偉人」を追う、新製品を分析しようとして殺すなどだ。これは20世紀にマネジメントが成功したから生まれた新たな問題である。(略)いま、マネジメントの第2世紀が始まろうとしているのだ。我々は与えられたこのチャンスを生かし、すばらしい成果を生み出さなければならない。

と書いているように、従来のような偉人の後を追ったりするマネジメントから脱却して、第2の新しいマネジメント方法を手に入れなくてはならない状況になっています。

自分(たち)自身で何にチャレンジするかを考え、そのチャレンジが現実的に成立するためには何が必要かの仮説を考えたうえで、くり返しの実験的な活動を通じて、その仮説の検証をしていく。そういったマネジメント方法が、企業経営だけでなく、個々人のセルフマネジメントにおいても大事になってきていると思うのです。

「不確実な時代には「検証による学び」を得るための活動に資源を集中することが大事」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 20:51| スタートアップ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月22日

コンテンツ単位でライティングを考えるのって、顧客の体験価値全体を視野に入れずに製品つくるのと同じじゃない?

最初に、結論からいうと「コンテンツ単位でライティングを考えるのって、顧客の体験価値全体を視野に入れずに製品つくるのと同じじゃない?」なんてことを思いました。

20121221a.jpg

そんな風に考えたのは、昨日、ロフトワークさんの主催の「ソーシャル時代のWebライティング」というイベントに出席させていただいたからです。

いやいや、そこでお話しされていた内容を否定することを考えたわけではないんです。

Web Professional編集長の中野克平さんとインフォバーンの成田幸久さんのお話はやっぱりプロの人は、ちゃんとオチとか構造とか読まれるための見出しとか、どうしたら読んでもらえるかということを考えて文章を作っているんだなと当たり前のことに感心しました。
翻って、自分が文章を書く際のことを思うと、お2人がお話しされていたことをほとんど意識していないことにも気づかされたんです。うーん、だから、読まれるものと読まれないもののバラツキがすごくあったり、基本的には読むのに覚悟がいる「読みやすさには配慮されていない文章」になるんだろうなと思ったりもしました。

でもね、でもです。
コンテンツとして書かれた内容がおもしろければ、それでいいんでしょうか?と僕なんか考えてしまうわけです。読んでおもしろかった、けど、何? わたしはそれでどうしたらいいの?って読んだ人が思ったりするのは考慮しないの?とかも思うわけです。これは「どうしたらライティングできるか?」という昨日のテーマとはすこし捩じれた位置にある話なんですが、僕なんかはそこが気になって仕方ない。

ということで、冒頭の結論に通じる僕の考えを下手な文章でまとめてみようと思うわけです。

「コンテンツ単位でライティングを考えるのって、顧客の体験価値全体を視野に入れずに製品つくるのと同じじゃない?」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 00:11| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月19日

完成形ではなくソースデータが提供/入手される市場環境

製品や作品といった制作物の完成形を提供するのではなく、結果としてそれらを生み出すことができるソースを提供する。



ソフトウェアの分野でのオープンソースがそうであるように、提供するものを完成形の制作物だけに限定せずに、それを実現するためのソーフコードも配布することを、ソフトウェア以外の分野でも行えるようにすることで、完成形のバリエーションを生み出すことが可能になり、画一的なものになりがちな分野や経済の形に多様性が取り戻せるのではないか。

最近はそんなことを考えています。

「完成形ではなくソースデータが提供/入手される市場環境」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 21:23| オープンイノベーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月14日

はじまりもおわりもない創造の連鎖に参加する

ちょうど1ヶ月くらい前のある出来事をきっかけに、普段は別々のコミュニティに属して生活している人たちが、何かの拍子に一堂に会して、同じ素材のアーカイブやら、たがいに話す機会やらを提供されて、いっしょに何かをするんだけど、ただし1つの目的やゴールを共有せずに、それぞれの考えに従って別々の目標に向かって活動を行う、そんなプロジェクトのあり方について考えています。



“オープン・イノベーション”の意義について考えていると、そんな形が理想だなと感じるからです。

「はじまりもおわりもない創造の連鎖に参加する」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 21:12| オープンイノベーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月06日

創造のプロセスをオープンにした場合、僕たちの新しい経済文化活動はどう変わっていくのか?

昨夜、慶応義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント公開講座「ダイアログとデザインの未来Vol.7 アートの未来」に参加させていただきました。


▲ 「タイプトレース道〜舞城王太郎之巻」ドミニク・チェンほか 2007(写真:divi.dual

これまでも公開講座として開催されてきた「ダイアログとデザインの未来」というシリーズの第7弾として、今回は「アートがもたらすイノベーションの可能性」というテーマで、クリエイティブ・コモンズ・ジャパン理事であり、株式会社ディヴィデュアルの共同設立者であるドミニク・チェンさんと、Takuro Someya Contemporary Artというコマーシャルギャラリーの代表をつとめている染谷卓郎さんのお2人のトークセッションを中心に一部会場も巻き込みセッションが行われていました。

僕は、最近のアートへの興味(その越境性と人を巻き込む力)と、僕自身がいま一番関心をもっている「これからの社会で個人や社会が自分たちを開いていった時に何が起こり、その際、何が自分たちの姿勢やスキルとして必要になるか」ということを関連づけて動かしていくことはできないかを考えているので、ぜひ参加してみようと思ったわけです。
まあ、動機としてはすこし前に奥入瀬でのアートキャンプに参加させていただいたことの延長線上にあるわけです。

「創造のプロセスをオープンにした場合、僕たちの新しい経済文化活動はどう変わっていくのか?」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 23:54| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする