2015年05月30日

木を見て、森をみない「ディテール執着症」のはじまり

前回の「19世紀後半の芸術の残骸としてのわかりやすさとリアリティ」では、現代の「やらせ映像」にもつながる、ある側からみれば非常にわかりやすいリアリティをもった、また別の意味からいえば紋切り型のそうした表現に関する実践的研究が行われたのが19世紀後半の自然主義・写実主義芸術の時代であったことを紹介しました。

その19世紀の半ば以降に生まれたのが、ショールームや百貨店などの販売システムであったことは、前々回の「見せる空間から参加する空間へ」という記事で紹介しています。
世界最古の百貨店といわれるボン・マルシェがいまにつながる百貨店のシステムを確立したのは1852年。それに先立ち、世界最初期のショールームというべき、鉄骨とガラスで作られた巨大な建造物である「水晶宮」で知られる世界最初の万国博覧会であるロンドン万博が開かれたのが1851年です。

bon marche
▲19世紀半ばに世界ではじめて百貨店システムを誕生させ、1887年にギュスターヴ・エッフェルらにより店舗を拡張したボン・マルシェの現在の店内の様子

この様々な商品を魅力的に並べて販売するシステムが生まれ、同時に、わかりやすいリアリティをもったピクチャレスクな表現によって都市で暮らす大衆の生活を絵画や小説が描きはじめた19世紀の半ば以降、もう1つ、この時代の芸術家に特徴的な性質がありました。

それが何かといえば、異様なまでの細部へのこだわりです。

「細部の宝庫ではあるが」とヘンリー・ジェイムズはジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』について言っているー「しかし、それは無頓着な全体である」。同じことがヴィクトリア朝の全体について言えるかもしれない。ヴィクトリア朝の芸術作品はしばしば、その時代の室内と同様、できるかぎりぎゅう詰めにすべき入れ物であるように思われる。
ピーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋 』

前回の「19世紀後半の芸術の残骸としてのわかりやすさとリアリティ」に引き続き、19世紀の写実主義や自然主義の芸術が現在にもたらした影響のようなものについて書こうとしているわけですが、この「細部へのこだわり、全体への無頓着」という話も、非常に現代につながる19世紀の発明であるように感じます。

その細部へのこだわりが、全体の統一や大きな問題の解決への意識を捨て去る口実であるかのように、19世紀後半の写実主義・自然主義の芸術家は、絵画においても文学においても徹底して緻密にディテールを描きこむことへの執着をみせます。結果、できあがるのは、全体の調和を見事に破壊してしまうくらい、異様な執着をもって細部が描きこまれた作品だったりします。

まずは、そんな作品の例をいくつかみていくことから話を進めてみたいと思います。

「木を見て、森をみない「ディテール執着症」のはじまり」の続き
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2015年05月28日

19世紀後半の芸術の残骸としてのわかりやすさとリアリティ

わかりやすさとリアリティ。
何かを「わかる」ということが、その何かが置かれた文脈を理解することなのだとしたら、わかりやすい文脈ごと提示してリアリティを感じさせる表現というのは、何かを「わかりやすく」伝えるための非常に有益な方法の1つといえるでしょう。
すーっとリアリティをもって受け入れられるということは、そのこと自体、そこに表現されているものが、それを受けとる人にとって、わかりやすいものになっているという証拠だといえるのかもしれません。

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▲1875年に竣工のパリ・オペラ座(ガルニエ宮)。まさに19世紀後半のパリ大改造で建てられた建築物

その方法の模索…、
ぱっと文脈を読みとることができるリアリティある表現によって大衆が「わかる」ものを提示する方法…、
それが大々的に模索されたのが19世紀後半の自然主義・写実主義の時代だったように思います。

その中心にあったのが、ピクチャレスクでした。
17-18世紀を通じて、自然や遠方の憧れの土地などを見栄えのする絵のように表現することを通じて、身近に、そして、あたかもそれを自分が所有しているように感じさせるピクチャレスクという表現方法が多くの芸術家たちによって磨かれてきました。と同時に、表現を受けとる側の市民のほうもピクチャレスクな表現を読み解く力を身につけてきました。

そのピクチャレスクの対象が、自然や遠方の地から、より身近な都市の日常の光景に向かったのが、19世紀の自然主義・写実主義の時代でした。そして、「わかる」ということのあり方が大きく変わり始めたのが、その時でした

「19世紀後半の芸術の残骸としてのわかりやすさとリアリティ」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:24| アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月23日

見せる空間から参加する空間へ

最近「見せる場」のあり方について考えることが多くなっています。仕事でも、プライベートでも。

そもそも、ここ数年、プライベートで視覚文化と人間の知的活動や思考の関わりに関する歴史に興味をもって、いろいろ本を読んだり調べてみたりしたんですが、そこにたまたま仕事でもそうしたテーマに関わる機会が増えてきているので、結構楽しんでいます。

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"L. A. ボワローとギュスターヴ・エッフェルによって1887年に建てられたボン・マルシェ Au Bon Marché (vue générale - gravure)" by 不明 - fonds Boucicaut. Licensed under CC0 via ウィキメディア・コモンズ.



そんな僕がいま興味をもっているのが19世紀のヨーロッパ。
19世紀の半ばって、ある意味、それまで17-18世紀をかけて積み重ねられてきたヨーロッパにおける「視ること=分かること」というプロジェクトが、1つ別の段階にシフトするタイミングなんですね
集めて、並べて、視覚的に意味を生成するという実験が次の段階に入って、集めて、並べることで経済活動を生み出す段階に入ったのが19世紀の半ばくらいなんです。
産業革命もだいぶ進んで、とにかく効率よく生産したものを、より効率的に売らなくてはいけなくなった時代です。そこで「集めて、並べて、視覚的に意味を生成する」というそれまでの実験が、ビジネスに結びついていくんですね。

例えば、その1つの象徴的な例が現在もパリにある百貨店ボン・マルシェの登場です。

「見せる空間から参加する空間へ」の続き
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2014年12月01日

僕が難読本を読む理由

僕が勤めるロフトワークという会社では、毎月はじめの月曜日にクリエイティブMTGという名で、参加を表明した7−8名程度が1人5分ずつプレゼンをするイベントがあります。

今日もそれがあって、僕も「僕が難読本を読む理由」というテーマで、ちょっとしたプレゼンをさせてもらったのですが、せっかくなので、そこでしゃべったことをブログ記事にしてしまうか、と。



上は、うちの本棚の一部ですが、ここに並んでいるあたりが僕のお気に入りの本。
まあ、なかなか人が読まない本ばかり読んでます。

左から5冊はバーバラ・スタフォードという18世紀の啓蒙の時代においてイメージが科学や教育に果たした役割を扱うのが抜群に上手な女性研究者の著作。そして、もう1人、僕がすごく影響を受けているフランセス・イエイツがという16ー17世紀のヨーロッパでネオプラトニズムやヘルメス主義のような魔術的思想がいかにしてその後の科学的思考を生みだすに至ったか?みたいな本がその横4冊くらいまで並びます。そして、このブログでもおなじみのワイリー・サイファーやM.H.ニコルソン、マリオ・プラーツなどの本が並んでる。このあたりがここ数年のお気に入り。

「僕が難読本を読む理由」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 22:36| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月29日

人間にとって「創造」という概念自体、発明品だったのかも…

前回の「デザインという思考の型から逃れる術があるのか?」という記事のなかでも告知していたイベント「デザインの深い森」。その第3回の講演を昨夜開催しました。
ウロボロスの洞窟と光の魔術師」と題して行った講演は、keynoteのスライドにして105枚、しゃべった時間はあんまりはっきり憶えてないけど、2時間近かったんじゃないか、と。もちろん、最長講演時間の更新。質疑応答のときは声が出なくなりました。

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▲講演で使用したスライドのサムネイル(クリックして拡大すればもうすこし見える)

それこそ2時間も話したので、その内容を要約するのは、むずかしいんですが、
  • 17世紀中頃を境にした「見る」ことと「思考する」ことの関係の歴史的な変遷だとか
  • 似たような観点で「照らす」ことと「知る」ことの関係って?みたいなこととか
  • そんな内容をレンブラントとルーベンスという2人の画家を、偶像破壊のプロテスタントと五感全体を使ってキリスト教を体感させようとしたカトリックという視点で対置してみたり、
  • ルネサンス期のネオプラトニズムとヘルメス主義的魔術の融合がいかに戦火の時代の文化や思想、芸術に強い影響を与えたかだとか、
  • その流れのなかであらわれた薔薇十字団という秘密結社の盛衰が後に、ユニバーサル言語という観点から、いかにあいまいなものを消し去り、絵をロゴスに従属させるものに変えていったか、など。

そんなことを、のらりくらりと話してみましたわけです。
「人間にとって「創造」という概念自体、発明品だったのかも…」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 01:20| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月20日

デザインという思考の型から逃れる術があるのか?

最近、デザインとは「思考の型そのものである」と考えるようにしています。
しかも、その思考の型は決して特別なものではなく、むしろ、現代に生きる僕たちはデザインという思考の型以外で考えられなくなっている。僕はそう考えるようになりました。

昨今、「デザイン」という概念の重要性が増し、誰もがその力を身につけようと方法論や事例をかき集める風潮がみられますが、この僕の観点からいえば、むしろ僕らはデザインという型を使わずに考えることができないのだから、本当に願うべきはデザイン力を身につけることではなく、いかにしてデザインという思考の型に無意識のうちに縛られている自分を自覚するか、デザインという思考を本当の意味で認識対象にするかということではないかと思うのです。

僕らはみな、デザイン力がないのではなく、むしろ、デザインという力を使ってしか考えることができないのだ、と。


▲イベント「デザインの深い森」の第3回の内容を構想中

そんな風に考えるようになったのは、いま僕は千葉工業大学の山崎先生といっしょに月1でやっているトークイベント「デザインの深い森」の企画を考えはじめたときでした。第1回目で僕が話した内容は、1つ前の記事でもプレゼンスライド付きで紹介しています(ちなみに次回以降はスライド公開予定はないので、内容に興味のある方はぜひ参加してくださいね)。

このイベントは全6回のシリーズで僕と山崎先生が交互に講師役をつとめる形で進めているんですが、イベントを企画したきっかけは、昨今のデザインをめぐる言説の多くが方法論や事例紹介みたいなものに偏りがちだけど、本当の意味でよいデザインをするために必要な「デザインの体幹」みたいなものって何だろうね?ということを考えはじめたところにあります。

デザインの体幹と表現したデザインの基礎みたいなことを山崎先生とディスカッションしたりする中で、僕のなかで思い浮かんだことが先に書いたような「僕らはみな、デザインという力を使ってしか考えることができないのだ」という結論でした。つまり、基礎は何か?を考える際、ある特定の人だけがもっている力を想定するのが間違いで、むしろ誰もがみなその方法で思考しているために却って、それが方法であることが認識されない、その隠れた方法こそが、デザインというものの核だろうと思い当たったのです。

「デザインという思考の型から逃れる術があるのか?」の続き
タグ:思考
posted by HIROKI tanahashi at 23:11| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月09日

スライド公開「デザインの深い森 vol.1 魔王のテーブルのうえで」

「“デザイン”そのものをリフレーミングする」をテーマに、千葉工業大学の山崎先生といっしょに全6回で開催するイベント「デザインの深い森」なるものをはじめています。

まず9月25日に「魔王のテーブルのうえで」と題して第1回目のイベントを開催しました。
山崎先生と交互に講演を担当する予定ですが、第1回目は僕が担当。
そのときのプレゼンに使った資料を公開します。



今回は資料のみだとまったく意味がわからないので、講演用に書き起していたスクリプトとともに公開しました(keynoteでつくったものを発表者ノート付きでPDFにはきだし。まー、実際はこのまんまはしゃべってないけど)。
そのかわり絵が小さくなってるけど、そのあたりはご了承を。

「スライド公開「デザインの深い森 vol.1 魔王のテーブルのうえで」」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 08:24| デザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月07日

夢十夜を十夜で/高山宏

いい本があるのではない。いい読書があるだけなのだと思う。

いい本があったら教えてくださいと言われることは多いけど、そんなことは教えられるものではないとなかなか教えられるものではないと思う。いい本かどうかは読書する人次第であって、結局は読む人が自分が読みたいと思う本を読む以外に、いい読書をする方法はないと思います。



勉強のために本を読む場合でも実はおんなじだ。

勉強したい分野にあわせて、読む本を選ぶのはいまどき間違いだと思う。
さまざまな領域で専門分野なるものが瓦解している現在において、ある領域の知を得るためにその領域の専門書を読むというのはナンセンスだということに早く気づいたほうがいいと思います。

本当に何かを学びたければ、好きな内容の本を読み、そこで感じたことを自分の学びたいこと、自分自身の生活や仕事、生き方、思考のほうに引き寄せればよい。はじめから読む本の領域と自分の側の領域があっていることを期待するような”閉じた”読み方をしようとしていたこれまでの発想が間違いです。

どんな本を読もうが、自分の側に引き寄せ、そこから自分にとって意味のあることを学び取る。
専門領域、専門知識なんてものにこだわっている限り、本から学びは得られません(単に頭のなかに学びというのなら別でしょうけど)。

さて、そんな意味で、領域などを超えた「本当の読書」を繰り広げた読書コラボレーションの軌跡が高山宏さん著となっている『夢十夜を十夜で』です。
「著となっている」としたのは、これが夏目漱石の『夢十夜』を題材に、高山宏さんと学生が創造的なコラボレーションを繰り広げた10の講義を元にした書き下ろしだから。この講義が文学部で単に文学作品を扱うという体裁をとらずに、明治期の日本を代表する作家・夏目漱石を「マニエリスム」という視点から、さまざまな領域を横断的に読み込んでいく様子がなかなかスリリングでおもしろい(ここで漱石という名を聞いて、「あー文学の話ね、おれ関係ないや」と思ってる時点で、時代遅れの専門領域の罠にはまってしまっています)。

ただの偶然、ひょっとしたら遊びと感じられるかもしれないが、表向きの言葉の各種の遊びを体系的、強迫観念のようにうみ出す文学をこの四半世紀、マニエリスムの文学と呼んできた。これからさまざまに見られた夢がいろいろに語られる文章を丁度我々に与えられた10コマにおさまるよう10個ばかり一緒に読んでみるが、この10篇を一貫してマニエリスムの文学とは何かを論じることになれば最大の目的は達せられる。

学生たちによる朗読、読んだあとのレポート、そしてレポートに対する高山さんのフィードバック、さらに『夢十夜』以外の本や芸術作品あるいは漱石が生きた時代の社会状況なども絡ませながら夢十夜を一夜ずつ読み進んでいく講義は、この上なく学びで満ちていたであろうことが想像できます。

そんな講義の記録である本書を今回はほんのすこしだけ紹介します。

「夢十夜を十夜で/高山宏」の続き
タグ:夏目漱石
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2014年08月05日

読書の歴史―あるいは読者の歴史/アルベルト・マングェル

考えるためには「知識」というリソースが欠かせません。
考えるということは、さまざまな知識を組み合わせ、組み立て、その集合・レイアウトから、新たなストーリーや価値、企画や謀略などを生み出す活動に他ならないのだから。その活動の質を左右するものの1つが、知識というリソースをどれだけ有しているか、また、有したリソースにどれだけ可用性を担保できているかということでしょう。
思考のための訓練には、日々、そうした知識のアーカイブをどれだけ進めているかということも含まれるはずです。



そうした観点において、知識をアーカイブし、かつ、その可用性を高く維持するものとしての書籍の地位は、現在においてもさほど低くはなっていないと感じます。

インターネット時代となり、いつでも手元で容易に情報が引き出せるようになっても、はたまた、さまざまなコミュニティにおいて開かれた形での勉強会やセミナー、ワークショップなどで知を有するもの同士がその知をつなげて新たな価値をその場でつくりだせるような時代となっても、知識を思考につなげるという観点においては、いまなお書籍というメディアの果たす役割はほかの何かに劣るようにはなっていないと思っています。

特に個人の思考力を高めるという観点においては、これほど強力なメディアはいまだ他にはないでしょう。
最近、あらためて「独学力を鍛えることが大事!」と思っているのですが、この独学力があるかどうかって、読書をどれだけできるか、読書をどれだけ思考につなげられるかということのほかならないはずです。

学校で教えてもらうとか、複数人が集まる勉強会の場で学ぶとかいうのでは、独学力は身に付きません。
また、読書をするのでも欠いてあることをただ鵜呑みにしてるだけなら、同じく独学力は身に付かない。
では、どうすると読書を独学力につなげられるかというと、自身の現在につなげる方向で勝手な読み方をして、実際に読んで得た知識を自身の現在につなげる創造的な活動をしてみることです。

この勝手活動こそが独学です。
ほかの誰にも通じなくてもよい自分勝手な学びややり方を好き勝手に得たり、組立てたりすることが独学です。
この力を最近、なかなか、みんな持っていないんだよなーと感じます。勝手に自分流の方法を見つけ、磨いていく力が…。

「読書の歴史―あるいは読者の歴史/アルベルト・マングェル」の続き
タグ:読書 読者 知識
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2014年07月11日

文学におけるマニエリスム/グスタフ・ルネ・ホッケ

ともすれば「何もかも飽和状態で、全部ある」ように見えて、それでいて、型(=既存の領域、枠組み)にはまった思考がそう感じさせるだけで、実は手つかずの隙間領域がそれを隙間と呼ぶのもはばかられるほど広大にある。

つまりは、現実は何も行き詰まっていないのに、凝り固まった思想がそう感じさせているという似非袋小路の状況。

それがいまの状況だろうということは、1つ前の記事で紹介した高山宏さんと中沢新一さんの対談集『インヴェンション』でも語られていました。


▲今回読んだ、ホッケの『文学におけるマニエリスム』。分厚い。

そんな状況下で、似非袋小路を打破して面白いものをつくり出す(イメージできるようにする)ためには、2つあるものの間を来るインヴェンション、そして、まさに本来異質である2つのものを対置するためのアルス・コンビナトリア=組み合わせ術が必要なはず。

そんな似非袋小路の迷宮からの脱出を考えるための十分なヒントが、このマニエリスムを研究したホッケの書にはたくさん詰まっています。

「文学におけるマニエリスム/グスタフ・ルネ・ホッケ」の続き
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2014年07月09日

インヴェンション/高山宏、中沢新一

前回の記事で高山宏さんの本を紹介したら、なんだか高山さんの本が読みたくなって週末にAmazonで2冊ほどポチっとしました。届いてさっそく読みはじめて、さくっと読み終わったので紹介。
読んだのは、高山さんと中沢新一さんとの対談集で、わりと最近発売された『インヴェンション』



高山宏さんと中沢新一さん。どちらも僕の好きな著作家なんだけど、はじめはこのお2人の対談と知って、正直ピンとこなかったんですね。あんまり2人が会話する際の接点みたいなものが思い浮かばなかったからです。

2人の友達がいて、1人1人とはよく話すんだけど、3人で会って話したことはない。だから、その2人が会ったら、どんな話をするのか想像もつかない。なのに、突然、その2人が話している状況に出くわした…。
この本を読んでいたときの僕の助教は、そんな状況に近いかもしれません。

高山さん、中沢さん、いずれの書く本も僕の興味をとてもそそる領域なのですが、どうもそれぞれが書く内容をうまく結びつけることができなかったのがこれまででした。僕はそれぞれ片方ずつとの会話しかしてきてなかったんです。
この本を読んでみるまでは…。

そんな2人が会話するところをはじめて目にする。これまで異なる領域に属するものと思ってたものが融合する瞬間に立ち会うようなものなんですね。
まさに、そういうところにこそ、インヴェンションが生まれてくる。インヴェンション=発明ね。

高山 発明という観念を、ちょっといまあらためて源内的に突き詰める必要が出てきたね。つまり、一見何もかも飽和状態で、全部あるのだけど、じゃここからどうするか。
中沢 イノヴェートというやつですね。
高山 イノヴェートというよりも、やっぱりインヴェントだね。いい言葉だよね。もとはインヴェニーレ、2つあるものの間を来るという意味だよね。
高山宏、中沢新一『インヴェンション』

イノベートよりインヴェント。
イノベーションよりインヴェンション。

「2つあるものの間を来る」という意味のインヴェント。
まさに、僕にとってそれぞれ別々に読んでいた高山さんと中沢さんの2つの間をとおって、新たなものがインヴェントされたという感覚をもったというのが、まずこの本を読んでの何よりの感想です。


「インヴェンション/高山宏、中沢新一」の続き
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2014年07月03日

文学というデザイン

前回の記事の冒頭でも書きましたが、20代の頃の僕にとってヒーローは、夏目漱石でした。その後、シェイクスピアもそこに加わり、その2人がヒーローであることに変わりなく、いまに至っています。



僕がその2人をヒーローだと感じている理由は、その2人の文学者がデザイナーだからです。他にも数多くいるデザイナーのなかで、夏目漱石とシェイクスピアが、僕が憧れるデザイナー像なんです。

モノを作ることで人びとの生活を革新するのもデザイナーの役割だと思うんですが、僕はモノによる革新ということにはそんなに関心がないんですね。それよりも僕自身が文章によって人生を革新されている部分が大きいので、それを可能にするデザイン、その思考作業を実際に行う文学者にこそ憧れるんだと思います。そして、そのなかでも夏目漱石とシェイクスピアという2人の文学者が別格の存在だと思うわけです。

ところで、そんなことより多くの人は僕がなぜ夏目漱石やシェイクスピアのような文学者をデザイナーとして見ているかという点に疑問をもつことでしょう。
今回の記事の論点はまさにそこ。

文学はなぜデザインなのか?です。

「文学というデザイン」の続き
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2014年06月28日

思考の方法の2つのベクトル

20代前半に愛読していたのは、澁澤龍彦、高橋源一郎、金井美恵子、そして、ニーチェやドゥルーズ/ガタリでした。
後半になると、そこにスラヴォイ・ジジェク、中上健次、多和田葉子あたりが愛読書として加わりました。また、その当時、全体を通じて、夏目漱石が僕の文学的ヒーローでした。
最近、なんとなく、そんな20代の頃、読んでいた人たちの本をあらためて読み返したいなと思って、頭がぐるんぐるんしてます。



それはさておき、40代も半ばとなったいま、僕の愛読書の1つに加わっているのは、グスタフ・ルネ・ホッケの作品です。
いま読んでいる『文学におけるマニエリスム』にとても刺戟を受けていて、先日もこんな記述を見つけて夜な夜なひとり興奮したりしていました。

存在は、〈古典的〉な存在了解にとっては、一目瞭然たるもの、自然的なもののうちにあってはおのれを明るませる自然的ーならざるものが適用されれば秘匿される。マニエリスムにとってはこれがまさしく逆転する。マニエリスム的存在了解にとっては、存在はもっぱら−自然的なるもののうちにあっては秘匿されると考えられているので、直接的に眼に見えるのではないもの、反−自然的なるもののうちにあってこそみずからを明るませるのである。

本文が450ページくらいの本の300ページ目くらいに上の引用部があるのですが、ここに至るまでもホッケは、ヨーロッパの思考や表現の歴史の表舞台に立ち続けた古典主義=アッチカ風の修辞学や弁証法的なものと対比する形で、本書のテーマであるマニエリスム=アジア風の異−修辞学、異−弁証法的な思考や表現について語っています
ヨーロッパの表舞台を彩った古典主義的思考法とは別に、もう1つの地下水脈的だが、おなじくらい延々と受け継がれている思考法としてのマニエリスム的思考の存在に脚光を浴びせるのが、本書のホッケの立場なのですが、上記引用における"存在"をめぐる両者の対比はとてもこの2つの思考の違いの本質的なものを捉えているように思えて僕はちょっと興奮したわけです。

古典主義的な思考のベクトルにおける存在/秘匿と、マニエリスム的な思考のベクトルにおける存在/秘匿の真逆な関係
一方は目の前にあるものを明らかなものと捉えることで目に見えないものに向ける目を隠す。もう一方は逆に目に見えるもの自体には何もないと捉え、秘匿された存在そのものを見出そうとする。前者がミメーシス(模倣)を、後者がファンタジア(綺想)を思考・表現の手法として重視する理由があらためて了解できるような気がします。
そして、僕自身はこの1文を読んで、表題のような「思考の方法の2つのベクトル」という考えをはっきりと自分のなかに見出すことができたわけです。

「思考の方法の2つのベクトル」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 16:00| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月14日

文学とテクノロジー/ワイリー・サイファー

テクノロジーが、世界でいま起こっていることの直接の現場へと人間が参加することを妨げる。
方法が、問題に正面から立ち向かおうとする人間にとって最大の障壁となる。

テクノロジーと方法は、そんな風に人を世界から疎外された存在としてきた。
科学においても、芸術においても…。

ワイリー・サイファーの『文学とテクノロジー』という本は、19世紀における行き過ぎたテクノロジー主義、方法主義が芸術家たちをいかに現実から引き離すことになったかというテーマを追った一冊です。



前回の「マニエラ(技法)の核心 〜僕らは結局、自分たちのこれからをスケッチしながら作っている、この「世界史的な危機のさなか」において〜」という記事では、まさにサイファーが『文学とテクノロジー』のなかで扱っているのと同様の「技法」というもののもつ意味をあらためて考えてみました。

組み合わせ術にせよ、隠喩の技法にせよ、それは新しいものを創造を可能にする根本的技法であるにせよ、それは膨大なリサーチを行ったり、膨大なデータに向き合い、整理分類をしながら思考したりといった、ごくごく当然の創造のための苦悩を抜きにしては、何も生み出せないはずです。
技法というものがそういう苦悩に没頭することができる環境こそを用意してくれる発想の技であり、決して、苦悩から人を解放してラクに結果が生み出せるようにするものではないことを、僕らはしっかり受け止めて創造の技をふたたび手にする必要があるのではないでしょうか。

僕らは技法というものをすっかり捉え間違えていて、それが何らかの自動機械のように材料を入れてガラガラと回せば希望する成果が出てくる魔法の箱のように感じたりしてしまいがちです。
あるいは、成果などには最初から興味がなくて箱に材料を入れてガラガラ回すこと自体を楽しむ人たちもいます。
そのことによって、自分たちが求める目的=成果自体から疎外されているということにも気づかずに。

まさに、いまの僕らの状況と同じようなことが19世紀の芸術家たちのあいだにも起こっていたことを指摘したのがサイファーのこの一冊です。
サイファーは19世紀を「科学と芸術いずれの世界にあっても、絶対的なものと、一定の法則の上に基礎づけられた理論を帯びたすべての方法に没頭した時代」であったといいます。

すでに40年以上も前に書かれた本ですが、現代においても重要なキーワードであるはずの"参加"や、"自分ごととしての問題へのチャレンジ"といった課題について、テクノロジーや方法というものの使用について深く反省を促すことで、どうすれば参加できるのか?、どうすれば自分ごととして問題に向き合うことができるのか?ということを非常に本質的なレベルから考え直すきっかけを与えてくれています。「文学とテクノロジー/ワイリー・サイファー」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 01:51| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月12日

マニエラ(技法)の核心 〜僕らは結局、自分たちのこれからをスケッチしながら作っている、この「世界史的な危機のさなか」において〜

僕らは常々「技法」というものをすこし表面的に捉えすぎるきらいがあります。

技法やメソッド、やり方あるいは考え方、それに思考術、また結果というより方法としての芸術というものに、まともに向き合い、それとじっくり語り合うことをしないまま、盲目的にそれに従ったり、それが使える/使えないといったまるで無意味で的外れな議論や批評を行ったりしてしまいます。


▲アタナシウス・キルヒャー『大いなる知の術あるいは組み合わせ術』扉絵(『キルヒャーの世界図鑑』)より

「表面的に捉えすぎる」というのは、技法をちゃんと使えていないし、使おうとしていないという意味です。技法なのでそもそも何かを生み出すために用いる手段であるはずなのですが、よくある話で、手段が目的になってしまい、結果を出すためのものとして捉えられないことが多いし、そのために用いられないこともある。

「目的のために使える」ということをイメージしてもらいやすくするために、逆に「目的のために使えている」ほうの例でいえば、WebやUIの設計に関わる人ならごく当たり前にやっている技法であるワイヤーフレームを描くということなんかは、ちゃんと使えている人が多いほうの技法だと思います。

ワイヤーフレームを描くということが何のための技法であり、それをしないと何ができなくなってしまうかは、その手の仕事に携わる人なら誰でも多かれ少なかれ知っています。当たり前すぎてあらためて説明しようとするとうまく言葉にできない場合はあるかもしれないけれど、実際はちゃんとわかっているはずです。

わかっているからこそ、ワイヤーフレームを描かないなんてことはできない。
だって、それをしなければ、その先の詳細な視覚的設計も、機能的設計も進まないことがわかっているのですから。

技法をわかるというのは、本当はそういうことであるはずです。

「マニエラ(技法)の核心 〜僕らは結局、自分たちのこれからをスケッチしながら作っている、この「世界史的な危機のさなか」において〜」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 09:00| 思考 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする