2017年10月06日

学びの解放

言葉が錯綜して解読困難だからといって、それをあなどり投げ捨ててしまうような無思慮な人間にはなりたくない、と思う。
芸術家の技芸とは、自分の道具をあらゆるものにあてがい、世界を自分流に写しとる能力にほかならない。だから、芸術家の世界の原理は実践となり、かれの世界はかれの芸術となるのだ。ここでもまた、自然は、新たな壮麗さを帯びて眼に見える姿をとるが、ただ無思慮な人間だけは、この解読困難な奇妙に錯綜した言葉をあなどって投げ捨ててしまう。

研究=リサーチ精神に欠けた人には、自然および自分自身の秘密の発見をともなう創造としての芸術家の技芸が宿るはずもない。



前回、紹介した『オルフェウスの声』のなかでエリザベス・シューエルはフランシス・ベーコンを参照しながら、こう書いている。
「技芸は自然の一部であり、受身のアナロジーでなく能動的な操作の場、まさしく自然が言葉を語り出ることができる場、ということになるだろう」と。

「学びの解放」の続き
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2017年10月02日

オルフェウスの声/エリザベス・シューエル

先日、金沢工業大学で、アイザック・ニュートンの『プリンキピア』を題材にした「ニュートンは何を考え、何を語ったか」という講義を受講してきた。同学での公開講座「原著から本質を学ぶ科学講座」の第1回目という位置付けで、実際に同学のライブラリーには、2億円の価値があるという『プリンキピア』の初版本が蔵書されており、その実物も見学できた。


金沢工業大学のライブラリーに所蔵されている『プリンキピア』の2冊の異なる初版本


『プリンキピア』の初版が発行されたのは1687年だが、1642年生まれのニュートンは、すでに1665年には『プリンキピア』で論じられている運動の3法則および万有引力の法則を発見していたと言われている。
『プリンキピア』とは、いわば略称で、ラテン語原典のタイトルは”Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica”、日本語では「自然哲学の数学的諸原理」と訳されることが多い。

だが、数学的諸原理というタイトルの印象とは異なり、この書にはいわゆる数式はほとんど登場しない(と、講義を担当してくれた山口敦史教授が教えてくれた)。当時はまだ幾何学こそが正統な数学であり、代数はまだ発展途上のものと考えられていたからだという。
たしかに、近代的な代数的記法を導入したことで知られる、ルネ・デカルトの『幾何学 (La Géométrie)』は1637年の出版だ。ニュートンの同時代の数学者で、ニュートンとは微積分の方法をたがいに独立して同時に発見したことで知られるライプニッツも行列式を考案したり、積分記号の記法の発明などをしているのだから、たしかにそうした記述による数学的思考そのものがまだ一般的ではなかったのだろう。


ラテン語で書かれた『プリンキピア』の多くのページはこのように文字中心で記述。
時に幾何学的な図による説明が入る。


だから、ニュートンは『プリンキピア』全編にわたって、ほとんど数式を用いず、幾何学的な図だけを時には用いながら、言葉による証明を行っている。
山口教授はこの本を「とても読みにくい」と評していて「これでもか、これでもかと、証明&説明」が行なわれていると教えてくれたが、これもきっと代数的に数式を普通に用いる思考ではなく、幾何学的なボリューム感をもって触覚的な数を相手にする思考であったからだろう。
マクルーハンは『メディア論』の中で「文字がわれわれのもっとも中性的で客観的な意味を拡張し分離したものであるように、数字はわれわれのもっとも親密で相関的な活動、つまり、触感を拡張し分離したものである」と書いているが、この数字のもつ触感的なものが代理によって消されることのない代数以前の数学である幾何学的思考においては、親密で相関的なものがまとわりつくがゆえに、代数的な思考のようなすっきりとした証明&説明とは異なる煩わしさがあるのではないかと思う。

「オルフェウスの声/エリザベス・シューエル」の続き
ラベル:
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2017年09月29日

自然研究者が蒐集し、まとまりとなるよう並べて見せたものを、詩人は手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や必需品として小さな自然を形作る

集めるという行為、そして、集めたものを眺めみるという行為のうちに、頭のなかにひらめき、ざわめくアイデアをちゃんと言葉なり形になりにするという手間をとるかどうかというのは、何かを創造する力があるかないかという観点からみた場合、とても大きな差なのだろうと感じる。

そして、同時に、その言葉なり形なりにすることを愉しむことができるかどうか、言葉なり形なりにする際に、安易にありきたりの言葉や形なりに無理やり押し込んでしまうのではなく、自ら得たはずの細かな感じ方そのものをきれいに繊細に織り上げるように言葉を紡ぎ、形を得られるかも、また、そこから創造が生じるかの分かれ道になる。



創造するということと、情報と頭の使い方について、あらためて気づくことが多かった1週間だった。

「自然研究者が蒐集し、まとまりとなるよう並べて見せたものを、詩人は手を加えて作り変え、人間に心を養うための日々の糧や必需品として小さな自然を形作る」の続き
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2017年09月25日

編集的思考でみずから解釈する、詩人のように

編集的に思考できる力がいま必要だ。
世の中にはあまりに多様な情報がありあまりすぎているから。
ありあまる情報を相手にする場合、単に情報を取捨選択すればよいわけではない。
単純に取捨選択などしようとすれば、一見、魅力的に感じることばの響きに騙され、考えもなく、それに引き寄せられてしまう。前回の記事(「倫理が現実を茶番にする」)で、何が許され、何が批難されるべきなのかを判断する倫理自体がきわめて恣意的であることを指摘したばかりだ。倫理がそれほど危うい状態なのに、誰かが放った情報をただ勘にまかせて、選びとってしまうのはあまりにきびしい。


レンヌ美術館の「驚異の部屋」の展示棚。無数の奇異な品々は奇異さというキーで編集的に集められたもの


いま必要なのは、多様な情報をいったん自分自身で編集しなおしてみて、自分なりの理解を組み立てるスキルであり、センスだろう。
逆にいえば、状況を自分でしっかり考えとらえられないセンスの欠如は、自らの思考と編集的な作業をうまく絡ませて、言語化する作業を怠ることに起因する。

そんな考えが浮かんだのは、ロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』の、こんな一説にふれたときだ。コリーはシェイクスピアの『ソネット集』からソネット21番の一部を引きながら、こう語る。
"ああ、愛において真実であるわたしは、詩作においても真実でありたい、
これが本当のこと、私の恋人は人の子の誰にも負けず美しいが
天空に据えられたあの黄金の蝋燭ほど輝いてはいない。
だから空っぽの美辞麗句が好きな者はなんとでも言えばよい。
私は売る気がないのだから褒めそやしたりしないのだ。"

もちろん、シドニー的な仕掛けは明らかだ。詩人は、己れがここで否定している、まさにその言語を用いて友人を讃美してきた。だが、我々は、そうした慣習的な美辞麗句がいかに空疎になりうるかを詩人が承知していたことがわかると、「これが本当のこと」というほうに軍配をあげたくなる。

通常、ソネットが愛する人を美辞麗句で包みこむところを、シェイクスピアはあえてその形式を逆手にとって、美辞麗句で飾り立てることを拒む。これは「真実でありたい」がゆえに本当に真実を語っているということではない。ソネットとは恋人を美辞麗句で飾るものであるという形式をあらためて前景化すること自体が、真実そのものを宙づりにしている。

量子力学の基本方程式を明らかにしたことで知られる理論物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーの言葉を思いだす。
大事なのは、まだ誰も見ていないものを見ることではなく、誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考えることだ。

この「誰もが見ていることについて、誰も考えたことのないことを考える」ためには、科学者の視点というよりも、実は、編集的な視点が必要だ。特に、詩人的な視点での編集が。

「編集的思考でみずから解釈する、詩人のように」の続き
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2017年09月24日

倫理が現実を茶番にする

倫理などというものは時代によって大きく変わる。
人間社会で生活をおくる上で、何が許され、何が批難されるべきなのか。そんなものに正解などない。
なのに、正解がある前提で話をしたりするから、どちらが正しいといった無駄な争い、衝突がおこる。


ジャンヌ・ダルクが処刑されたフランス・ノルマンディーの都市ルーアンのヴュー・マルシェ広場
いまは聖ジャンヌ・ダルク教会が建つ


正解がないのはもちろんのこと、歴史的にみれば、その振れ幅というのは、今の僕らには考えられないくらいの大きさをもっていることに驚かされたりもする。

例えば、前回の記事でも紹介したホイジンガの『中世の秋』に描き出された中世ヨーロッパ社会では、人びとはどんな倫理観で動いていたのか?と疑念を抱くような驚くべき事柄が次々と紹介される。

そのひとつが処刑。中世ヨーロッパ社会においては、処刑が見世物としての性格をもっていたというのだ。
処刑台は残忍な感情を刺激し、同時に、粗野な心の動きではあるにせよ、憐れみの感情をよびおこす。処刑は、民衆の心に糧を与えた。それは、お説教付き見世物だったのだ。
ホイジンガ『中世の秋』

ジャンヌ・ダルクの火あぶり、魔女狩りなど、僕らが思い起こすことができる中世の処刑の風景はたしかに町の広場で行われているイメージがある。

罪人だけでなく、大貴族もまたこの見世物の犠牲になった。
人びとは「きびしい正義の執行をまのあたりにして満足」したという。当局は、この見世物の効果を損なわないようにするため、その地位にふさわしい服装を犠牲者にさせ、大貴族らしい身なりのまま処刑された。

人びとは、高い身分のものも罪を犯せば処刑されるという正義の執行に満足しただけでなく、処刑という見世物を通じて、別の形でも心を動かされた。
ブリュッセルでのこと、放火犯で殺人犯のある若者は、燃えさかる粗朶にかこまれて、付け根の環が杭にはまってぐるぐるまわるしかけになっている鎖につながれた。かれは、心をえぐるような言葉で、自分をみせしめとみるようにと、人びとにうったえた。「かれの言葉に、人びとの心はおおいになごみ、憐れみの涙にくれぬものとてなかった」。「かくて、かれの最期は、かつてみられなかったほど美しいものだったと賞揚されたのである」と、これはシャトランの言である。
ホイジンガ『中世の秋』

人びとはこうした見世物としての処刑を見ながら、ふだんはぴくりとも動かぬ心を大きくふるわせたのだという。

「倫理が現実を茶番にする」の続き
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2017年09月12日

思考も感情も個々人の自由などではなく、社会・文化的な様式あってのこと

本を読むなら一度に1冊ずつ読むよりも、複数冊の本を同時に読み進めることが良いと思う。
その方が本に書かれたことから、気づきを得たり、自分の思考に落とし込むことがスムーズになりやすいからだ。

本を読むというのは、決して、そこに文章として書かれた内容をただ読むという行為ではない。それは書かれたことと自身の体験や既存の知識とを折り合わせながら、自分自身の思考を紡いでいく作業なのだと思う。書かれたことを純粋に読んでいるつもりでも、そこには読む人自身の経験や持っている知識の影響が織り込まれないということはない。だから、書かれたことの解釈は異なるのだし、そもそも解釈なるものが自身のもつ経験や知と切り離せない。
だとしたら、そのことをむしろ積極的に利用して、読書というものをより意識的に知の創造的行為に仕立て上げた方がよいと僕は思う。



その視点に立つ際、複数冊の本を同時に読むという方法は有効だ。
1冊の本が相手だと、本と自分の1対1の関係になって解釈の膨らむきっかけが限定されてしまう状況に陥りがちだが、それが複数冊同時の読書だと、本と自分という1対1の関係から、本と本との関係が加わり、本同士の共鳴が1冊の本との間では生まれ得なかった気づきをあたえてくれることがよくあるからだ。
もちろん、いま読んでる本と過去の本の記憶でもそういうことは起こりえるが、やはり長い空白期間のある過去の記憶をたよるよりはより身近な記憶のほうが共鳴が起こりやすい。

僕自身、ソファーで読む本、寝るときに布団のなかで読む本と場所ごとに読む本を変えるということをよくやる。
そうすると、さっきまでソファーで読んでいた本に書かれていたことが、寝る前に読みだした本の内容に共鳴して、「なるほど、だからこういことが起こるのか」と、どちらの本にも直接は書かれていない解釈を自分自身のなかで見いだすことがよくある。

まあ、こういう解釈力というものは、当然ながら読書体験に限ったことではなく、何かを考えるという行為自体、この手の情報編集的な頭の使い方にどれだけ長けているかに関わっている。
複数の異なる人の言ってる異なる意見のなかで妥協ではない、双方が納得する新たな解を見つけだす場合だって、結局、異なる人の会話を理解しつつ、そこに自身の経験のうちに蓄積されてある様々な情報から、うまく使えそうなものを探りつつ、それらの組み合わせから「これだ!」という納得解を見つける編集作業以外の何物でもない。

そういう頭の使い方を日頃から訓練しようとする方法として、複数冊の本を同時に読み進めるという方法はぜひお勧めしたいやり方だったりする。

「思考も感情も個々人の自由などではなく、社会・文化的な様式あってのこと」の続き
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2017年07月18日

変身物語/オウィディウス

「創造」とか「イノベーション」という言葉より、「生成」という言葉のほうが、何かが新しく生みだされる様をその背後のしくみまで匂わせるという観点からはしっくりくる。
ようは前者の人為的なクリエイションがなんとなく陳腐に感じてしまい、後者の自然が何かを生みだす力のほうにより大きなクリエイティビティを感じてしまうのだ。実際、どんなに人工的なものでも、創作の根本には自然の影響がある。創造性を発揮する人間の思考そのものさえも。

もちろん、人為的なクリエイションを否定するつもりなどは毛頭ない。
ただ、人為的なクリエイションを考える際、今後はこれまで以上に、自然の創造力を人為的なクリエイションにどう活かせるか(あるいは、どう影響を受けているか)ということを視野に入れていくとよいのだろうと感じる。
世の中で、アート&サイエンスあるいはデザイン&サイエンスの融合などと言われているのは、そういう面も含めてのことであろう。

変身物語


そのような意味において、いまから2000年も前に書かれたオウィディウスの『変身物語』は、今回読んでみてあらためて、アート&サイエンス的なクリエイションを代表するような作品だと思った。

変身は生成である。
変身は、自然の力による創造でもあり、イノベーションでもあるだろう。いやいや、人間もまた自然の一部であるのだから、殊更、自然と人工を分けて考えるのはいまどきナンセンスだ。だから、わざわざ「自然の力による」などとことわる必要などない。自然と人工のもつれをあらためて認識することこそ、現在のトレンドだ。

そう。そのような観点において、ほとんどまだ存在を知られていない微生物が実は人間の身体においても精神においても多大な影響を与えていることか判明してきたり、遺伝子情報の取り扱いコストが劇的に下がったことでそれを情報メディアとして扱うことも含め、比較的誰でもやる気になればハッキングすることが可能になったりなど、バイオ=生物学的な観点でさまざまな創造性が見直されようとしている現代の状況において、『変身物語』の変身・生成に対する視点は、とても示唆的だと感じるのだ。

その意味で、オウィディウスの『変身物語』は、いまこそ『創造物語』であり『イノベーション物語』として読み直す価値のある作品だと感じた。

「変身物語/オウィディウス」の続き
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2017年06月30日

わかっていることから逃げろ

みんな気づいているだろうか。
わかってしまっていることほど、わかることを妨げるものはない、ということに。



カオスを前にして、ただただ混乱してパニックになるだけか、それともカオスをなんとか制御する手立てを発見しようとカオスのディテール、全体の動向を共にみて思考を巡らせるか。基本的には知的に考えるということは、後者のような態度をいうはずだ。

その後者の態度をむずかしくさせるものこそ、すでにわかりきって整理された状態である。
それはもはや制御されすぎていて、どう制御すればよいかを問う余地がないのだから。

その意味ではカオス(混沌)の逆はコスモス(秩序)ではない。真にカオスの反対に位置するのは、操作された状態だろう。
外にあるプログラムを疑うことなく、それに操られて日々スムーズに動き続ける状態。何にも悩まないし、何にも躓くことはない。すべては苦もなく手に入る。

もちろん、そこまで完璧に夢のような生活を送れている人はいないだろう。
現実はもうすこしだけカオスに近い。
けれど、その現実をカオスと見るか、夢のような世界と自らに暗示をかけて、すべてをわかっているものと信じこみたいのか。わからないものは自分に近づかないよう、既知のイメージや記号でできた夢のような世界に閉じこもるのか。

僕がカオスが好きなのは、そんな夢のような世界が退屈すぎると思うからだ。
わからないものがあるから、新しくおかしなことを考える自由な余地がある。わかりきったことばかりで答えも決まってたら、息苦しくて、きっと気が狂うだろう。

幸運にも現実世界はそんな風にはできてなくて、よく見ればカオスだらけで、一見、スムーズに動いている日常の道具も言葉も仕組みもほころびだらけだから、いくらでも知的なハックは可能だ。
だから、飽きずにいろいろ考え続けられる。
わかっていることばかりの退屈な状態から逃げ続けることができる。

「わかっていることから逃げろ」の続き
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2017年06月29日

見る目、聞く耳/アルチンボルド展を観て

ウリッセ・アルドロヴァンディという16世紀のイタリア・ボローニャで生まれ育った有名な博物学者がいる。1522年に生まれ、1605年に没している。
アルドロヴァンディが有名なのは、自身がイタリア各地で採集した植物を中心として、めずらしい動物や鉱物の膨大な数の標本を集めたミュージアムを開設し、そこに国内外から多くの博物学者が訪問したからだ。


アルドロヴァンディの“Monstrorum historia”のなかの人面鳥の図版。


アルドロヴァンディはミュージアムに彼自身が学問的に価値があると捉えた様々な品を集めただけでなく、自らの蒐集品を元に動植物誌の編纂を試みた。そのため、多くの画家に収蔵品を素描させているのだが、その中にはドラゴンや人面鳥などが当たり前のように混ざっている。

これは現代から見れば非科学的で、とても学問的には思えないのだけれど、それがおかしく思えるのは、当時はまだ発見されていない現代の枠組みから見るせいだ。現代から見ればおかしくても、その枠組み自体がない時代においては、おかしいのか立派な意味があることなのかさえ判断できなかったのだということを忘れてはいけない。

とにかく、生物が何もないところから生まれてくるというアリストテレス由来の自然発生説が信じられていたような時代だったのだ。
化石でさえも石から生まれるものと思われていたし、そもそも生物種の整理の仕方が確立されるには、200年近く後の18世紀のカール・フォン・リンネの分類学を待たねばならなかった。そのリンネの分類学さえも、まだダーウィンによる進化の概念がなかったがゆえに形態の類似異同によるものだったわけで、16世紀のアルドロヴァンディの時代に、何らかの生物の奇形であったと思われるドラゴンや人面鳥が見つかったとして、それが個別の種だと考えたとしてもそれほどおかしなことではないだろう。

「見る目、聞く耳/アルチンボルド展を観て」の続き
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2017年06月25日

知力とは、わからないことをどれだけ考えられるかという度合い

前に、友人のフランス人女性が言っていた「日本語には美味しいを示す言葉のバリエーションが少ない」という言葉が記憶に残っている(正確には、その女性がそう言っていると彼女のパートナーの日本人男性が教えてくれた)。


Ca a l'air tres bon.


一方、フランス語には、美味しいを表すたくさんの表現があって、例えば、
  • C'est bon !
  • C'est délicieux !
  • C’est succulent !
  • C’est excellent !

のような表現がある(日本語にしようとしても、どれも「美味しい」になってしまいそう)。
もちろん、これに très をつけて、C'est très bon !(とても美味しいです)と言ってみたりもするから、確かに日本語にはない「美味しい」の言い分けのバリエーションができる。

「美味しい」という言い方にバリエーションなんてなくてもいいじゃないかと思うかもしれない。けれど、そうじゃない。
フランスで食事をしてると店の人がほぼ必ずといっていいくらい、食中、食後によらず「美味しいか?」「美味しかったか?」と訊いてくるから、こんな風に表現のバリエーションがあるのは役に立つ。

その意味では、日本人がフランス人に比べて味の違いがわからないという話ではなく、こんな風に食べた感想を言う場面が日常的に多くないというのも、表現数の違いには関係しているのだろうと思う。
区別する価値があるからこそ、区別をするのだ。

さて、ここで思うのは、「1.違いを感じとれる」ことと、「2.感じた違いを表現する」ことという2つの能力が物事を捉えるためには必要になっていそうだということである。

そもそも味の違いが感じとれなければ、違いが存在するということすら、わからないんだろうけど、問題なのは、なんとなく違うかもと感じかけたのにその違いにちゃんと向き合わず、スルーしてしまうことだ。
もちろん、ここで言ってるのは、味の違いがわかるようになろうという話ではなく、より一般的な意味で「わかるようになるには?」ということを考えているのだ。

さあ、ということで、「わからない」という状態をいかに「わかる」に変えるかということについて考えてみたい。

「知力とは、わからないことをどれだけ考えられるかという度合い」の続き
ラベル:未知 好奇心
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2017年06月21日

メタモルフォーゼする僕ら

定形をデフォルトとみるか、はたまた変形のほうを常ととらえるか。
後者だとしたら、その変形は変形するものの自律的な要因ととらえるか、よりインタラクティブな他者との関係性によるものと考えるか。

そんな観点に立ってみた場合、いま読んでいるオウィディウスの『変身物語』はなかなか面白い。
起源8年に全15巻が完成したというのだから、2000年以上に書かれたものだが、僕ら自身を含む生物というものを考える際にこれが思いの外、興味深く感じられている。



エリザベス・シューエルは『オルフェウスの声』のなかで、この物語について「『変身譚』はそれ自体、巨大なポストロジックなのである」と述べている。

ポストロジックとは、前々回の「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」という記事でも紹介したように、人間が自然を扱う際の「詩的で神話的な思考の発見、涵養、展開」をする思考のスタイルを指すシューエルの用語である。
つまり、生物がそれを満たす自然という対象をみる視点として、詩的で神話的な見方を導入するのだが、そこからみると、世界は変形がデフォルトで、かつ、その変形を促すものがとてもインタラクティブなものだということが自然に思えてくるのだ。

そう。僕らは常に何者(ら)かよって変形され続けている(ステキなことだ)。

「メタモルフォーゼする僕ら」の続き
ラベル:変形 生物
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2017年06月08日

わかることよりも感じることを

文脈がわからなければ「わからない」。

『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』の著者・西林克彦さんはそう言っている。
言い方を変えれば、「わかる」とは、既知の文脈に、その直前までわかっていなかったことがピタッとあてはまることで起こる心の動きだということができる。



いや、わかっていなかったことじゃなくてもいい。
すでにわかってたことでも、それが今までの理解とは別の文脈にあてはまり、別の意味がそこから見えてきたときも人は「わかった」となるはずである。

西林さんもこんなことを書いている。
文脈の交換によって、新しい意味が引き出せるということは、その文脈を使わなければ、私たちにはその意味が見えなかっただろうということです。すなわち、私たちには、私たちが気に留め、それを使って積極的に問うたことしか見えないのです。それ以外のことは、「見えていない」とも思わないのです。
西林克彦『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』

既知の事柄でも、それを理解していたのとは別の文脈からみてみると、まったく異なる別の意味が見えてくることもある。それは「わかる」ということの土台には既知の文脈があり、その文脈との結びつきが何かをわからせることにもなるし、逆に、それ以外の理解の仕方の可能性を閉ざすことにもなるというわけだ。
知ることは同時に、知らなくさせるでもあるということだ。

このことが基本的にわかっていない、と、1つ前で書いたような「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」という状況にはまりやすくなる。
この言葉(ノヴァーリスの小説『サイスの弟子たち』のなかの言葉だ)のあとには「理解力が無いと、自分がすでに持っているものしか求めない」という文が続くのだが、まさに自分がすでに持っている文脈に囚われると、それ以外の「わかった!」に出会えなくなるという具合である。「だから、それ以上の発見にはけっしていたらないのさ」と。

「わかることよりも感じることを」の続き
ラベル: ロジック 神話
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2017年06月07日

不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない

「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」

そう。わかりにくいのは対象そのものに宿る問題ではない。むしろ、対象に向かう側の姿勢の問題である。
わかる力がないことが、何かがわからないという際の根本的な問題なのだ。



では、どう、問題なのか?

「理解力が無いと、自分がすでに持っているものしか求めない」

そう。わかっているものしかわからない。
つまり、わかるということ自体、最初から最後まで対象の問題ではなく、わかる側自身の問題なのだ。
対象についてわからない場合だけでなく、対象についてよくわかっている場合でも、わかるということはわかる側のものなのだ。

「だから」と、『サイスの弟子たち』という未完の小説のなかの一連のセリフの最後をノヴァーリスは締めにかかる。
「それ以上の発見にはけっしていたらないのさ」と。
発見のなさとは自分自身の殻にとじこもり、知的冒険に赴こうとしない、不可解さを嫌う精神を示すものだということをノヴァーリスは述べているのだ。

「」の続き
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2017年05月30日

どう見えているのか? どう見えていると自覚しているのか?

ぼんやり過ごしすぎてはいないだろうか。

自分がどんな状況にいて、その状況が自分にどう見え、感じられているかをちゃんと自覚しているだろうか。
自分の行動や感情がそれら状況にどう影響され、あるいは、逆に自分の存在、言動、感情が周囲の状況にどう影響を与えているのか。そういうことをどれだけ自分自身で認識しており、その制御が可能な状態になっているだろうか。


パリ・グランパレの前に置かれた馬のようであり、同時に木のようでもある、王女の姿をした謎の存在。
こうした存在こそ、これからの科学的な視点において大事なものではないかと感じている。


認識すること、そして、その認識を言葉をはじめ、なんらかの技術を用いて表現できるようにすること。
それが世界とうまくやっていくための基本である。

対人関係であろうと、仕事一般のことであろうと、自然を相手にした科学であろうと同様である。
対象の観察からそれを自分にどう見え、感じられているかを理解し、それを自分の言葉なり、その相当物に移し変えること。それが理解であり、その理解のバリエーションによって、対象となる世界をどの程度、自分の側で制御できたり、それになんらかの影響を与えられるかが変わってくる。

とうぜん、どのように見えているか、そして、自分の見え方にどの程度自覚的で、それを自分の言葉なりにすぐさま変換できるかという度合いや種類は人によって異なる。
冒頭書いたように「ぼんやり過ごしすぎている」状態だと、自分が見ているものは何かということを自分で言葉にして説明できないだろうし、その意味で、自分がなぜそこにいて、どんな影響をそこから受け、どんな影響(場合によっては仕打ち)を外に向けて与えてしまっているかということも無自覚ということになる。

ようするに、できる/できないの差は、この状況認識の差から生まれてくるものであるはずだ。
結局、同じ場にいる者同士でも、この状況認識の差がある限り、別の状況の世界に生きているといっても過言ではない。

「どう見えているのか? どう見えていると自覚しているのか?」の続き
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2017年05月09日

肉体的で演劇的!面白まじめのスタンス考(2つのパルナッソスより)

ルーヴル美術館ドゥノン翼の2階、俗にイタリア回廊と呼ばれるギャラリーには、長いまっすぐな廊下の両側にルネサンス期以降のイタリア絵画の名作がずらりと並んでいる。アンドレア・マンテーニャなどの初期ルネサンスの作品をはじめ、レオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリ、ラファエロ・サンティなどの盛期ルネサンスの画家の作品、そして、マニエリスム期に入ってのポントルモなど、どれもこれも日本の美術館での企画展なら主役級の作品ばかりで圧巻だ。
ただ、当然ながら、その時代の絵画は多くの作品が宗教画なので、キリスト教の物語に疎い日本人には解説なしだとどう見ていいかわからなくてちょっととっつきにくい部分があるだろう。

イタリア回廊.jpg
ルーブル美術館のイタリア回廊のポントルモの「聖母子と聖アンナ」などの作品がある付近


そんな中、異彩を放つのが綺想の画家アルチンボルドによる連作「四季」なのだが、それとは違う意味でまた他の作品とは異なる印象を与えてくれる絵がある。
最近、僕のお気に入りに加わった絵たち。
アンドレア・マンテーニャの「パルナッソス」と「美徳の勝利」という2枚の歴史画がそれだ。

歴史画といっても、僕らが想像するような意味での「歴史」を描いた絵ではない。それは古代の神々の様子を描いた絵である。寓意画。
「パルナッソス」ではウェヌスとマルスのカップルが、「美徳の勝利」ではミネルヴァとウェヌスがそれぞれ描かれる。神々を描いたといっても、まわりにある宗教画とは違い、2枚の絵とも滑稽な雰囲気に満ち溢れている。
では、この滑稽さで何を寓意しているのか?


「肉体的で演劇的!面白まじめのスタンス考(2つのパルナッソスより)」の続き
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