ほんまに賢いゆうのはどういうこと?

法隆寺、薬師寺の修復・復元に関わり、最後の宮大工棟梁といわれた故・西岡常一さん。
その西岡さんの話をまとめた『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』を読んでいると、人間って昔にくらべて本当にアホになったんだなーと感じます。

例えば、西岡さんは、いまの建築基準法にダメ出しをしています。建築基準法では、コンクリートの基礎を打ちまわした土台に柱を立てろと書いてあるそうですが、「コンクリートの上に、木を横に寝かして土台としたら、すぐ腐りまっせ」と西岡さんは言います。20年もしたら腐るという。法隆寺や薬師寺では、石を置いてその上に柱を立てているから1300年経っても腐らない。

今みたいになんでもそのまままねたりせんのや

「明治時代以降に入ってきた西洋の建築法をただまねてもダメなんや」と西岡さんは言います。

そこへいくと、1300年前の飛鳥時代の大工は賢いな。大陸から木造の建築法が入ってきた。中国の山西省應県に佛宮寺という600年前の八角五重塔があるんですが、これは直径29メートルもあるのに軒先が2メートルほどしかない。ところが同じ八角でも夢殿は径が11メートルなのに、軒の先は3メートルも出てる。
西岡常一『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』

西岡さんは、こんな風に、中国と飛鳥時代の法隆寺の八角建築の直径と軒先の長さを比べながら、

ちゅうことはや、大陸は雨が少ないのやおもいますよ。ところが大陸の雨の少ない建築を学んだけれど、飛鳥の工人は日本の風土いうものを本当に理解して新しい工法に変えたちゅうことです。基壇も高くなっています。
西岡常一『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』

と飛鳥時代の工人の創意工夫を見抜き、「こういうのを賢いゆうんですわ」と言っています。いや、ほんま賢いと思います。

今みたいになんでもそのまままねたりせんのや。軒が浅くてはあかんぞと考えたんですな。徐々にやったんやなくて、そのとき一遍で直してるんです。こういうのを文化いうのとちゃいますか。
西岡常一『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』

と西岡さんは言ってますけど、ほんまにそれが文化やと思う。そのまま考えずに真似するんじゃなくて、考えて創意工夫をする。僕も『ペルソナ作って、それからどうするの? ユーザー中心デザインで作るWebサイト』のテーマの1つをそこに置きました。

具体的にはベースになるものとしてユーザー中心設計の方法論を用い、その中心にペルソナ/シナリオ法を置きます。ただ、それを海外で用いられているそのままの状態で使うのではなく、日本型に変換します。どう変換するかというと、従来ドキュメントベースで進められていた作業のプロセスを「みんなで手を使って考える」ワークショップベースのデザインプロセスへと変換します。
「はじめに 人びとの暮らしから考えるウェブデザイン」より

「はじめに」のサブタイトルに「人びとの暮らしから考えるウェブデザイン」としていますが、ただ西洋の技術をそのまま真似るんじゃだめで、人びとの日本という土壌・歴史のうえでの暮らしから考えなければ、そんなものは文化となりえないという思いが僕にもあります。その意味では単なるペルソナの本じゃないし、ユーザー中心デザインの本ですらないかもしれません。ウェブデザインを通じて文化をつくりだす方法について考察している本だと思います。
だって、これ以上、アホになる方向に進むのはどうかと思いますので。せめてアホになる速度をすこし緩めるくらいのことはしたい。

道具1つで耐用年数が変わる

道具1つとっても、昔に比べてアホになったんだと感じます。

西岡さんは、いまの電気ガンナと飛鳥時代に使っていた「ヤリガンナ」という道具を比べて、<仕上げに「ヤリガンナ」使うたら耐用年数が違う。長いこともちますのや」と言っています。

電気ガンナで削ったものとヤリガンナで削ったものを、雨の中さらしておいたらすぐわかるわ。電気ガンナで削ったものやったら一週間でカビが生えてくるわ。そやけど、ヤリガンナやったらそんなことありませんわ。水がスカッと切れて、はじいてしまいます。
西岡常一『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』

この話は、すこし前に紹介した『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』という本で、佐治晴夫さんが別の形で紹介しています。
電気ガンナとヤリガンナで削った木の表面を顕微鏡でみて比べると、電気ガンナのほうは木の細胞がズタズタに壊れてしまっているのに対して、ヤリガンナのほうは細胞そのものが生きている状態なのだそうです。生きたままにするのと殺してしまうのとでは耐用年数に違いが出るのも当然だという気がしますよね。明らかに電気ガンナを使ってるのはアホだと思います。

それが1300年もつ建築と25年ほどしかもたない建築の違いなのでしょう。いまの建築には知性を感じません。まぁ、建築だけじゃありませんけど。

問題は、25年しかもたない建築でも最低樹齢60年の木が材料として必要なことです。明らかに計算があってないですよね。法隆寺や薬師寺に使うヒノキは樹齢1000年を超えるものを使っているそうですが、でも、ちゃんと1300年ももっているのだから辻褄があってます。こういうところでもアホだなーと思わずにはいられません。

利潤が多くても質が悪い

道具の話に戻ると、

時代が進歩した言いますけどな、道具はようなってませんで。今のは鉄の質が悪い。明治になって溶鉱炉使うようになってから悪くなった。鉄鉱石をコークスで熔かして作りますやろ。高温短時間でやってしまう。このほうが利潤は多いやろけど、鉄はけっしてええことないのや。鉄はじっくり温度あげていかないけません。昔はコークスなんてなかったから、熱源に松炭燃して、砂鉄使ってました。
西岡常一『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』

いい鉄でつくった道具は前の日に研げば一日使えるが、悪い鉄だと一回使うたびに研がなくてはいけないそうです。もちろん、そんなんじゃ仕事になりません。

鉄の話じゃありませんが、高温短時間で仕上げるより、ゆっくり時間をかけたものがいいというのは陶器でもいえます。
古田織部は、生産効率の低かった利休の楽焼茶碗から生産効率を高める技術的イノベーションを促進するため、従来の穴窯に変わる登り窯を考案し全国に普及させました。確かにそれで生産効率は上がったんですね。でも、代わりに失ったものもあったんです。

穴窯は一週間程度10分に一回薪をいれることを繰り返し、1度の焼成に10トン以上の薪が使われて焼かれます。費用は登り窯の数十倍かかります。ただ長い焼成によって荒い土がよく溶けるので陶器の膚が滑らかになります。また、焼成中に焚口に近い器に灰が多量にかかって溶けた表面の土が混ざると自然釉が生まれます。登り窯やガス窯で焼かれたものと違い、長く使えば使うほど、味わいが出て、大事に割れないように使えば、10年以上は楽に使え、変化を楽しむことができる。

僕も穴窯で焼かれた急須をもっていますが、釉薬を使わないのに、こんな味わいのある色が出ています。取っ手のところなど、グレーになっているのが自然釉ですね。



人間関係や利潤の追求ばかりだからアホになる

以前に「これからは「いらないけれど、欲しくて仕方がないもの」をつくらないとね」というエントリーで、奥山清行の『伝統の逆襲―日本の技が世界ブランドになる日』から、こんな言葉を引用しました。

私が日本でつくろうとしているのも「必要はないけれど欲しいもの」である。「必要がないもの」というと、資源をムダなゴミにするものと思われるかもしれないが、それは逆だ。私は、日本のような国は、もう「必要だから仕方なく買うもの」をつくってはいけないと考えている。
「いらないけれど、欲しくて仕方がないもの」をつくらなければならない。そういうもののほうが、長年にわたって使われるからだ。そして人生を豊かにしてくれるからだ。

ものづくりに関わる人は、ほんとうに「長年にわたって使われる」「人生を豊かにしてくれる」ということのためにもっと頭を使って創意工夫をし、感覚を研ぎ澄ませ、自然から学ぶということをしないとダメなんじゃないかと思います。組織内の人間関係、コミュニケーションばかりに時間をとられて、ものづくりへの創意工夫がおざなりになったり、目先の利潤のために将来的な利潤を考えずにいたりし続けて、どんどんアホになっていくのは、そろそろとめないとね。

   

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