どこを見て、何を聞いて仕事をしてるか?

これ、よく言われることではありますけど、どこ見て仕事をしているのかってのは結構重要なことだと思うんです。

大部分の人が内部をみて仕事をしてしまっています。
内部というのは、上司だったり、社内の別の部門だったり、売上や利益やコストだったり、まぁ、矛先はいろいろあると思います。
でもね、内部を見ていくら仕事をしたってダメなのは考えてみればわかります。買ってくれるのはお客さんだし、競争相手は社内の別の人じゃなくて競合他社なわけだし、市場環境を左右するのはマクロ、ミクロ含めて、自社のコントロールが利かない外圧です。
なのに、多くの人が本当に、上司の顔色をうかがったり、売上や利益ばかりを追いかけたりします。
数字なんて直接追いかけたって、儲かる仕組みにはならないのにです。

仕事はオフィスでするな

そんなこともあり、今日ふと思った、仕事の原則。

仕事はオフィスでするな。ひとりで会社で仕事をする時間はできるだけ減らせ。

これかな、と。

オフィスで、ブレインストーミングしたり、ワークショップしたり、みんなで手を使って考える時間に費やすのはいいと思うんです。しかも、それが外部から何かしらヒントになるものだったり、極端な場合、外部の人間も混ぜて行うブレストやワークショップなら有意義な時間になると思います。

でも、ひとりで黙々と作業する時間を過ごしてるなら、極端な話、外でやったほうがいいと思うんです。自宅でもいいし、どこかのカフェや可能であれば公園やどこかの山にいってやってもいいくらいです。

外に出れば、そんなにパソコンにつきっきりで仕事をしなくて済むはずです。もちろん、パソコンでする必要がある作業もあるとは思いますけど、安易にパソコンに頼るより、手作業でやったほうがいい仕事はたくさんあるように思うのです。パワポとかで資料をつくるのは清書のときだけでいいような気がします。それまでは手書きでポストイットを使ったり、写真や雑誌の切り抜きをコラージュしたり、アイデアスケッチをしてみたり、パソコンに頼らず行う作業ってすごく重要な気がします。なんでもかんでもパソコンを使うことで失っていることにもうすこし敏感になっていいのではないか、と。

夕刻の世界の青さ

話はちょっと逸れますが、最近、気づいたことは夕方の暗くなる時間に撮る写真に映る青がすごくきれいだということです。

昨日の「アナログな刺激のある暮らしに憧れて」に載せた京都の路地の写真もそうですし、さっき「情報デザインフォーラム」のほうにあげた写真も雨にもかかわらず映った青い光景に惹かれました。

でも、普通に仕事をしていると、この時間ってオフィスにこもっていて、世界の青さにも気づくことができない。それってすごく正しくない気がするんです。
特にセンスが問われる仕事をしている人が殺風景なオフィスにこもって感性への刺激を受けずに多くの時間を過ごしているというのはどうかしている。

感性を殺した環境で創造的な仕事はできるの?

今日の情報デザインフォーラムの第2回ミーティングでは、武蔵工業大学の小池先生が3月に行ったスタンフォード大学のd.schoolの土産話を写真をみせながら聞かせてくれました

そこで印象的だったのは学内の風景や街の雰囲気がすごくよかったことといたるところにホワイトボードがあって、そこに手描きでいろんなアイデアが描かれていたりポストイットがベタベタ貼ってあったりしたこと。もちろん、パソコンもありましたけど、写真で見る限り、パソコンの前で作業してる人なんていない。壁一面のホワイトボードや自作の可動式のホワイトボードにどんどん描いてアイデアを固めているんです。
ホワイトボードやポストイットを使ってアイデアを検討し合ったら、きれいなデザイン画など描かずに、そのままプロトタイプの作成ですよ。そりゃ、見栄えのする資料やお絵描きにあまり創造的とはいえない時間を費やすことに比べればはるかに効率的ですよ。内部説明の資料のためにそんな無駄な労力は使わないんですね。ドキュメントベースではなく、ワークショップベースで仕事が進められているわけです。

そして、そのワークスペースにはIDEOなどにも見られるお約束のように天井からはいろんなおもちゃやプロトタイプがぶら下げられていました。
その環境は、すくなくとも殺風景で色気も遊びもないオフィス環境で、みんながパソコンに向かって仕事をしている日本の仕事環境よりは刺激があるなと思いました。もちろん、アナログな刺激のある暮らしに憧れてる僕には、それでもまだまだですけどw

大事なことは内にはない。それは外から来る

どういう世界を実現したいのか。そのために何が必要か。」でも書きましたが、僕は想像力を重視した思考力および感性の強化には、他者との対話、外部の観察を重視した教育方法が1つ有効だと思っています。

松岡正剛さんが『フラジャイル 弱さからの出発』などで書いていることですが、夕方の青が世界を包む黄昏時は、もともと「誰そ彼」と書いたそうです。薄暗がりで人の顔が判別できなくなり、「あの人は誰」と思う時間だからです。そして万葉人は、そういう時間に人が集まる辻に出かけ、夕占という占いをしたそうです。人の顔がわからない黄昏時の辻に出て、男も女も自分が持っている櫛の歯をビーンと鳴らしながら、通りすがりの人の声に耳をすます。そして最初に入ってきた言葉で占いをするわけです。その言葉は言霊です。言霊の音連れを待つわけです。

未来を占う想像力のきっかけを誰かも判別できない通りすがりの人の言葉に託すのです。自分が選ぶわけでもなければ、誰かに強制されるわけでもない。ただ、外から偶然訪れる声を内で聞いて、未来を占うのです。

青の世界にある小さな音に耳を澄まし、その声を疑うことなく受け入れる。それを非科学的だとか客観性に欠けるとかいうのは簡単です。しかし、「言葉にするのを恐れちゃいけない。それは自分の財産をつくるために必要だから。」で書いたように、客観性ばかりを気にして、よく知っている相手の言葉さえ素直に信じられず、自分の言葉にさえ自信がもてない状況にくらべればはるかにマシだと思うのです。

いや、自信のなさが問題になるのは、むしろ内側ばかりを大事にしすぎて内側の能力に過剰にこだわりすぎているからではないかと思うのです。そんな自信などなくても本来、大事なものは来るべきときに外からやってきてくれるはずです。本当はただ、外からやってくるその音連れを耳を澄まして聞き分けられる感性さえ失っていなければいいはずなのです。

儲けにもならない内側の顔色や数字ばかり気にしているくらいなら、見ず知らずの人の行動を観察しに出かけたり、日々変化する木々や草花、季節の移り変わりを感じて感性を刺激する時間を増やす方が、センスや創造力が必要とされる仕事にはどんなに有益なことではないかと思います。

そして、何より重要なことは、本来、センスや創造力が必要とされない仕事なんてないということでしょうか。

  

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