ふすま―文化のランドスケープ/向井一太郎、向井周太郎

日本のデザイン・ものづくりに関する興味がとまりません。知れば知るほど、その考え方が新鮮に映ります。そして、何より僕が興味をもつのは、西洋のものを静的にとらえる発想にくらべて、日本のデザインがものを固定しようとしないところ。ものも人も変化するものとして捉える発想は、今後ますます必要となるであろうインタラクション・デザインを考えるにあたってのヒントに満ち溢れているように感じます。

そんな僕の日本デザイン・日本のものづくりに対する関心をより大きくしてくれたのが、今日紹介する『ふすま―文化のランドスケープ』。

「ふすま」は平安時代の寝殿造りの住居に由来します。そのことを想い起してみますと、「ふすま」によって柱間が仕切られていくという住居の形式が、平安時代から千年以上も経た今日にもおよんでいることにあらためて気づかされます。少なくとも、私の世代の子どもの頃、ついこの間までは、このような「ふすま」という間仕切りによる住居の形式が一般的であったといえます。
向井一太郎、向井周太郎『ふすま―文化のランドスケープ』


すでに「「自分探し」より大事なのは「もう一人の自分」をみつけること」でも一部を紹介しています。著者はインデストリアル・デザイナーである向井周太郎さん。第一部は、ふすまを中心に据えて日本の建築、すまい、暮らしのデザインの在り方や思想を考察した内容になっており、第二部では、その向井さんが父親であり、吉田五十八村野藤吾などの有名な建築家の建築のふすまづくりなどを手がけた経師・表具師であった向井一太郎さんとの対談を収録したものになっています。

言葉の本来の意味をさぐりながら文化の記憶を呼び覚ます作業

第一部では、白川静さんの『字訓』『岩波古語辞典』などをひきながら、「ふすま」や日本のすまいに関連した言葉の本来の意味をさぐりながら文化の記憶を呼び覚ましつつ、それを著者自身の子どもの頃の記憶と重ね合わせながら、「ふすまという現象」についての考察が行われます。

たとえば、最近はだんだん春が近づいてきたのを肌でも感じ取れるようになってきましたが、その「春」という言葉と「ふすまを張る」という言葉との関連性について次のように述べられます。

世界が蘇る樹々の芽ぶき、自然の生命の再生を告げる春(はる)という語は、草木の芽が「張る」という意に由来するといいますが、たしかに「は(張)る」は本来「芽がふくらむ」、「芽が出る」ことを意味する自動詞で、また田端を新たに切り開く「は(墾)る」にも通ずることばなのです。
ですから、ふすまを張る、なにかを「張る」という他動詞は「事物を力いっぱいふくらませる、おしひろげていく」ことで、「力を張っていく」こと、「生命力を張っていく」ことを意味しているのです。
向井一太郎、向井周太郎『ふすま―文化のランドスケープ』

<「は(張)る」は本来「芽がふくらむ」、「芽が出る」ことを意味する自動詞>。その前の「フユ」は「不確実な世界の変化を受け入れる敏感さ」というエントリーで紹介したように、タマ(霊)を揺り動かして身体の霊力を目覚めさせる古代のタマフリの儀式で行われたタマをフル(自動詞「フユ」)を語源としています。このタマフリによって目覚めさせられた身体霊が春になると「芽吹く」わけです。

また、西洋と日本の「違い」という言葉の意味するものの違いにも触れ、西洋の「違い」という言葉が「区別をつけること」「離れていること」を意味するのに対し、日本の「違い」という言葉はもともとの語源が、<「ちがひ(違ひ)」ということばは「チ(方向)とカヒ(交)との複合したもの」で、「同じ種類の動作が交差する」ことを意味して>いることを説明しつつ、

日本語の「違い」は、「互い違い」、「入れ違い」であって相互に関係し合っているのです。その意味では、区別される差異を主張するよりは、類似性に力点があり、いってみれば類似のなかの差異といってもよいでしょう。
向井一太郎、向井周太郎『ふすま―文化のランドスケープ』

ユニバーサル・デザイン批判」で書いた特徴を抽象化して抽出することで成り立つ機能主義に対して、類似のなかにみられるディテールにこだわり、あくまで相互の関係性を重視する日本的なものの見方がこの「違い」という言葉1つとっても感じられます。

こういった言葉の本来の意味をさぐりながら文化の記憶を呼び覚ます作業がまず本書のひとつの読みどころではないかと感じます。

しつらい

もちろん、「ふすま」を中心にした日本の空間づくり、すまいづくりに関する考察自体も読みごたえがあって興味深かった。

たとえば、すでに何度か紹介してきたように平安時代の寝殿造りと呼ばれる住居は、基本的に板敷の床に柱が並ぶだけで屋根はあっても天井はない骨組みだけのがらんとした建物でした。

人びとはそのような開放的な空間を、日常生活の都合や季節の変化や年中行事などに即して、几帳や屏風や障子などによって柱間や内部を仕切り、帳台や畳やその他の調度を置いて、その都度適切な居住空間にすることによって、日常生活や儀式の場としていました。
このように設営することは当時は「しつらい」(舗設、室礼)と呼んでいました。
向井一太郎、向井周太郎『ふすま―文化のランドスケープ』

まさに「日常生活の都合や季節の変化や年中行事など」とのインタラクションによって変化する空間です。コンテキスト=状況に応じた空間が生み出される動的なデザインです。

季節のうつろい、人間自身の霊力のおとろえや活性も含めた自然の変化などの小さな差異に敏感で、それにあわせたデザインをすることができたのが昔の日本のものづくりのセンスだったんでしょう。

そして、そうしたデザイン作業を「しつらい」と呼んだのです。

「しつらい」の「し」は「為(し)」で「する」の意味であり、「つらい」は「つれあう」や「つりあう」の意味だといいますから、その時々の状況に「連れ合う」ように、あるいは「釣り合う」ように「する」ことだといえます。
向井一太郎、向井周太郎『ふすま―文化のランドスケープ』

なんという繊細なデザイン感覚なんだろうって思います。こんな繊細なデザイン感覚がいまはもうすっかり忘れ去られています。
繊細さを欠いたデザインはパッと見はいいなと思ったりしますが、長く付き合う気にはとうていなりません。すこし汚れたり古くなったりするとすぐに魅力が失われてしまいます。

繊細な「しつらい」のセンスをもったデザイン感覚をふたたび取り戻せればいいなと思います。

心を伝えることばによって「しる」

また、著者は<日本人にとっては、自然や世界を写す言語的表現も、図像的表現としての文様も、そこにはなんの区別もなく、二つはまったく一つのものである>といっています。言語も文様もおなじように<心を伝えることば>にほかならないといいます。

わたしたちは自然や世界を「しり」、それを心に「しるす」ことを「しる」といい、それを表現したものを「しるし」といってきました。
向井一太郎、向井周太郎『ふすま―文化のランドスケープ』

その意味では、日本のデザインというと侘び寂びのような枯れた質素なデザインばかりを想像しがちですが、もういっぽうには、縄文土器や日光東照宮や秀吉の金の茶室などのような派手で絢爛豪華な激しいデザインがあることも忘れてはいけないのでしょう。
それは穏やかな自然=和魂と怒れる自然=荒魂としての、自然あるいは神の両面を日本人がきちんと「しり」、「しるし」として表現してきたということにほかならないのではないでしょうか。

そういう常に変化する周囲の環境とのあいだで、それと付かず離れずの微妙な関係にあるものとしてデザイン・ものづくりを行う感覚がいまはすっかり失われてしまっているようでさみしく思います。
感じる心、畏怖する心があまりに感じられず、周囲から切り離された自己アピールばかりが目立つものばかりがデザインされ続けています。そういったもののなかにももちろん面白いものはあるし、好きなものもあるのですが、そちらの側のデザインばかりだとやっぱり物足りない気がします。

もうすこしこうした周囲の環境の変化を繊細に読み取ることができるデザインができるようにならないといけないなと感じます。それにはもっと深く日本のデザインに実際に触れていかないといけないなと思うばかりです。



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