おもてなしのための主人の覚悟とユーザーエクスペリエンスのデザイン

松岡正剛さんは『日本数寄』のなかで、「遊びの本分は、一に結構、二に手続き、三に趣向にある」と書いています。
ここでいう「結構」は空間演出のようなもの、「手続き」は遊びの場の起承転結を組み立てるためのプロセスを、「趣向」とは遊びの場で催されるイベントや主客の場で交わされる話題を引き出す床の間の花や絵画を指します。

ここでの遊びは、主人が客を迎えてもてなす遊びです。
茶会や連歌会がそうですし、いまなら講演会やシンポジウムなどのイベントも本来それにあたるのでしょう。
しかし、現在の講演会やシンポジウムには、かつての茶会や連歌会のような遊びの利いた手続きや趣向はみられません。所有すること、使うことに喜び、愛着を感じられない商品もおなじように手続きや趣向を欠いているのではないでしょうか。

客をもてなす、ユーザーエクスペリエンスのために必要な手続きや趣向とはどういったものなのか、このエントリーであらためて僕なりの考えをまとめてみようと思います。

遊び=スサビとリスク

遊びとはスサビです。
スサビはもともと「荒び」と書いたそうです。それが後に「遊び」と綴られるようになったといいます。
松岡さんは「亭主がリスクを負わない遊びには、客も加担を感じられないものなのだ」と書きます。

亭主の仕事は気配のありかたと趣向の盛り付けをきわめることにある。これは景色をつくるということである。
こうしてやっと主客の一線が淡々と見えてくる。そして、遊ぶものと遊ばれるものの交感が生きてくる。それには亭主は、つねになんらかのリスク・テイキングをするべきなのである。
亭主がリスクを負わない遊びには、客も加担を感じられないものなのだ。

いまの商品づくりはリスクをとるより、リスク・ヘッジを行うことに時間が割かれるのではないでしょうか。客が商品をつかうという遊びの場の気配を探ることよりも、そこでの趣向の盛り付けに頭を悩ませるよりも、客の頭数を数えてそろばんをはじくことと客からいらぬクレームがはいらぬようリスクを最小限に抑え込むことばかりに力を注いでいます。

リスクを嫌う主客が遊び=ユーザーエクスペリエンスを退屈なものとし、ただひたすら無難なだけの出会いを生み出しているのではないかと思うのです。

オゴリからスサビへ

そこには「この程度でも客は買ってくれるであろう」という主人の驕りと「飽きたらまた新しいのを買えばいいや」という客の驕りが重なり合っているのではないでしょうか。

松岡さんは「しばらくつづいたオゴリの季節のあとに、やっとこさスサビの時期がやってきた」と書いています。また「ふりかえれば、室町という時代だって、そういう時代だった。元禄もそうだし、宝暦天命もそういう時代だった」と書いています。

そういう時代が、世阿弥や一休や西鶴や芭蕉や、晴信や宣長や秋成をつくった。なぜそのような特異な輩出があったかといえば、かれらは好んでスサビに徹したからだった。それとともにまた、かれらは客を知っていた。

スサビ=遊びのためには、主人は客を知らなくてはいけない。その知り方は昨日書いた「ユーザーを知るための調査を行う際の5つの鉄則」のとおり、知ろうとするものがある程度のリスクを負う形での知り方でなくてはいけない。
リサーチ・マインド:みがき・きわめる・こころ」で書いたように、積極的に未知のものを求めてキワ(際、極、究)への旅に出て、自分をみがく研究心がなくてはいけないのだと思います。

ようはスサビとは主客のコミュニケーションが成立している状態ではないでしょうか。コミュニケーションあるいはインタラクション、相互作用。遊びを通じた主客のインタラクションがリアルタイムに価値を生み出していく状態。主客がそれぞれ相手のことを考えずに自分のことばかりを考えて閉じているオゴリ状態とは正反対です。そんな場がスサビ=遊びの場ではないか、と。

自分はすでに知っているし、やっているというオゴリからは何も生まれません。
むしろ、自分の世界を離れて遊ぶ、リスク覚悟の実践が必要になるのではないかと思うのです。

一期一会と千客万来

一期一会のデザイン」というエントリーでは、茶人であると同時に商売人であった千利休が「千客万来を望むがゆえに、むしろ、一期一会の精神を大事にしたのではないか」「お客さんには二度と会うことができないかもしれないと思うからこそ、最大限に創意工夫したもてなしを最小限に絞り込んだ形で表現してみせようとしたのではないか」と考えました。

松坂の宣長の「鈴屋」に行ってみるとよい。まことに小さな二階屋にすぎないが、千客が万来した。小布施の高井鴻山の家を訪れてみるとよい。葛飾北斎から佐久間象山までがいつもやってきた。
われわれは、いつしかそういう客を失ってしまったのではないか。自身が亭主のリスクを負うことが苦痛になってしまったのではないか。

亭主のリスクを負い、「茶会に臨む際は、その機会を一生に一度のものと心得て、主客ともに互いに誠意を尽くせ」といわれる一期一会の精神で客をもてなす、結構、手続き、趣向があってこそ、客が何度も訪れたい、利用したいと思えるユーザーエクスペリエンスが実現できるのではないでしょうか?

客をだれにするか

松岡さんはこんな風にも書いています。

日本は、日本が提供できる場の亭主であることの責任を果たさなければならないことをいささか忘れてしまったのだ。が、それを思い出せたとしても、ひとつ抜け落ちていることがある。
それは、客をだれにするかということだ。

「客をだれにするか」? 誰のためのデザインなのか? 誰のための?

たとえば、ペルソナをつかったデザイン・コンサルティングをしていると、たまにターゲットユーザーを選べないという方に出会うことがあります。そうすると、ペルソナという手法にターゲット選定の答えを求めてきたりします。

しかし、「ペルソナとISO13407:人間中心設計プロセスの関係に関するまとめ」でも示したとおり、ペルソナ/シナリオ法という手法はあくまでターゲットユーザーの要求を明示し、それに応えるデザイン・コンセプトを明確にするための方法です。ターゲットを選ぶ手段はペルソナ/シナリオ法にはそなわっていません。
ターゲットを誰にするかは、もっと早い段階で組織が自分たちの哲学やヴィジョンによって決定すべき事柄です。誰を招くかという点には組織の覚悟が反映されてしかるべきだと思います。誰を招くかが決まってはじめて、結構、手続き、趣向のデザインをはじめることができるのです。客を知らずに、結構、手続き、趣向を云々することはできません。

誰を客にするか? この覚悟が組織にないところに、結構、手続き、趣向のデザインがあいまいで退屈なものになる原因があるのではないでしょうか。だから、客をもてなすユーザーエクスペリエンスの遊びをデザインすることができないのではないでしょうか。

それなのに、なぜ特定の客の好みに合わせることに怯えるのか? ユニバーサルであるということを勘違いしているのではないでしょうか? 客を選べないから「誰でも使えるユニバーサル・デザイン」などを目指すのか? あくまでリスク回避の手段なのか? そう勘ぐりたくもなります。
利休好みも織部好みも結局、特定の個人にフォーカスしたからこそ、あれだけ世間に認められたのだということを理解してないのでしょうか?(「千利休より古田織部へ/久野治」参照)

誰の好みでもないぼんやりしたものをつくるくらいなら、アンフォーカスグループ調査をやって感度のいいユーザーの好みにあわせることでまったく新しい価値を生み出すことに賭けてもいいのではないかと思います。

それがおもてなしに必要な主人の覚悟ではないか、と。

   

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