千利休より古田織部へ/久野治

待庵の二畳半の茶室や「無駄を省き、かつ必要を際立たせる「最小限のデザイン」」でも紹介した朝顔の逸話にも代表されるように、茶聖と称される千利休の茶の湯は、ストイックなまでに無駄を省き、必要最低限の趣向により茶席の場をデザインすることで、一期一会のおもてなし(=ユーザーエクスペリエンス)を実現するものでした。

しかし、豊臣秀吉が京都に聚楽第と呼ばれた豪華絢爛な邸宅を設け、町では女、子どもが「辻が花」と呼ばれる美しい色柄の衣を身につけ、戦いを忘れた武士たちが「傾き(かぶき)」と称して平和をうたい、出雲大社の巫女であった阿国の一座が京都で後の歌舞伎につながる「傾きおどり」をはじめたとき、

利休の侘び茶道にも、行きづまりとはいえないが時世の要求としては、豪華でおおらかな明るさが自然のなりたちとして要請されつつあったときといえよう。それは主観ともいうべき心のはたらきから、客観として目にみえるものへ、宗教また精神的なものから感覚、芸術的なものへ、枯淡から絢爛へ、陰から陽へうつろうとするものであった。
久野治『千利休より古田織部へ』

そこに織部が登場する。利休が侘びの極北まで研ぎ澄ませた茶の湯を離れ、利休七哲にも数えられる高弟である武将茶人・古田織部が新たな茶道の革新へと進むのです。

それは歴史の必然性で、茶道の革新ならびにやきものの大胆な発想には、グランド・デザイナー織部の潜在的能力が引きだされたものといえる。モノクロからカラフルへ、シンメトリーからアン・シンメトリーへ、利休のもとで高弟七人のひとりに数えられながら、利休の美学にたいして全く対極の新しい美学を生み出した。その意匠は四百年を経た現在においても斬新で目を見張るものがある。
久野治『千利休より古田織部へ』

「利休の美学にたいして全く対極の新しい美学を生み出した」古田織部。まさにそれは師・利休の守・破・離の教えを見事なまでに体現したものといえます。

古田織部

茶聖と称される千利休にくらべ、古田織部の名はあまり知られているとはいえないでしょう。しかし、それは利休の達成した茶道の世界にくらべ、織部の茶が質的に劣っていたからとはいえないようです。むしろ、それには政治的、歴史的な事情が織部に対して不利にはたらいたという事情があったように思えます。

利休自刃のあと、秀吉の茶頭の座をうけつぎ、また、江戸幕府の二代将軍・秀忠の茶道指南役もつとめた織部ですが、その後、幕府よりスパイ容疑をかけられた上、切腹をさせられています。そのことで織部の名はその後、長く続いた江戸幕府の歴史からは完全に抹消されることになり、当時大変な人気をほこった織部焼を焼いていた窯も織部の死とともに四散し、織部焼のやきものも歴史から姿を消してしまっています。
織部とそのやきものが再び脚光を浴びるようになるのは明治になってからで、織部がつくりあげた式正織部流の茶道も歴史からは長いあいだ、抹消されていたままなのでした。

そうした長い歴史上のブランクがありながら明治になって復活を遂げたことこそ、織部のやきものの魅力、織部の茶道の魅力が師である利休に決して劣らなかったといえる何よりの証拠ではないでえしょうか。

また、織部の物を見る目だけでなく、人を見る目も、師である利休に劣らなかったであろうと思えるのは、織部門下からは、小堀遠州や本阿弥光悦、上田宗箇ら、茶道や作庭、書ややきものに卓越した人物や、落語の祖といわれる安楽庵策伝らが出ていることからもうかがえます。

グランドデザイナーとしての織部

織部といえば、織部焼の大胆で力強い意匠があげられます。当時高付加価値を生み出す高価な商品であったやきものを製造することは経済的な富を増やすための手段でした。織部は織田信長が「瀬戸六作」を認定してやきものの製造を奨励したのにならい、「織部十作」を設けました。

織部はこれまで述べたように「織部十作」を設けて、みずからはグランドデザイナーとして総合的な立場から情報提供、助言指導をした。また産業振興策としては生産効率の高い「連房式登り窯」の導入、異業種交流ともいえる染め(辻が花染の流行を敏感にとらえて)とやきものとの意匠デザインの交流、キリスト教の布教をつうじて入ってくる外国文化を大胆に取り入れる結果、おりからの経済繁栄と平和を謳歌する社会風潮を追い風に、異国情緒あるいはバサラ風の意匠が好まれて、桃山時代のやきものと呼ばれるほどに抽象かつオブジェ化してゆく、その先頭にたってリーダーシップを発揮したのが古田織部である
久野治『千利休より古田織部へ』

僕は織部のすごさがここにあると思っています。

それまでの円形ではなく沓形にゆがんだり、黒一辺倒のモノトーンから多彩な色や絵柄を交えた茶碗の意匠の大胆さ、ダイナミックさを生み出すアートディレクターとしての才能だけが織部のすごさではありませんでした。
意匠の面だけでなく、生産効率の低かった利休の楽焼茶碗から生産効率を高める技術的イノベーションを促進したり、唐津や朝鮮などとの技術交流の推進、各地の大名に対する産業振興のすすめなど、まさに日本におけるレオナルド・ダ・ヴィンチとでもいえるような多才な才能を発揮して、やきもの市場の興隆や桃山文化の隆盛に一役を買うという総合的な役割を果たした点にこそ、グランドデザイナー・古田織部のすごさがあったのだと思います。

デザインの本質、デザイナーの役目

まさにデザインとはこういうものではないでしょうか。
単に何か1つの製品を生み出すだけがデザインではない。むしろ、ものづくりを通じて、社会や経済、文化を変えていくことこそがデザインの本質であり、デザイナーの役目であろうと思うのです。

そのような視点で、織部について知ることはこれからのデザインを考えるうえで大きなヒントになるであろうと思っています。

みずからの能力だけでなく、外部のさまざまな才能とコラボレーションを通じてイノベーションを生み出す創造性のプロデュース力の点では織部は師・利休を大きく超えていたように思います。それは現代のNo.1イノベーション・カンパニーともいえるIDEOの創造性のプロデュース力にも匹敵したものといえるでしょう。

マスプロダクションの画一化され、物と人々の暮らしが切り離されたデザインの価値観から物と人々の行動がいったいになった(つまりユーザーエクスペリエンスを重視した)デザイン・ものづくりの価値観へと移行していくうえで、いい意味でもわるい意味でも無駄のない利休の茶道から、多様さ、ダイナミックさをもった織部の茶道への移行から学ぶことは多いのではないかと思うのです。



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