情報を理解する/情報を感じとる、あるいは、客観的判断/主観的判断

情報と接する方法には大きく分けて2種類あると思っています。
1つは、わかる・理解するという接し方で、もう1つは、感じる・想像するという接し方です。

わからなくても感じればいいこともあるのかな、と

時々、気になる記事のはてブ・コメントを読んだりしていて、その記事に対して「よくわかる/よくわからない」と書いている人を見かけて、ちょっと違和感を覚えることがあります。

その人たちがどういう気持ちでそのコメントを書いているかはわからないので、批評じみたことを言う気はありませんが、なんとなく「わかろうとしすぎ」なんじゃないかなという違和感を感じるのです。

そういう違和感を感じるのは、その記事自体がわかってもらうことを目的として書かれているというより、むしろ読んでくれる人に共感してもらえればOKという感じで書かれている場合です。
もちろん、僕が読んでそう感じているだけですから、書き手は本当は自分の思いに共感してもらうだけじゃなく、自分の考えを理解してもらいたいのかもしれません。だから、理解しようとせず、ただ共感を覚えているだけの僕のほうが誤読している可能性もあるので、「よくわかる/よくわからない」とコメントしている人を批判するつもりなんてないわけです。

ただ、そこでなんでそんなに「わかろうとしすぎるんだろ?」「自分の感じるままでいいのに」と違和感をもつことは事実です。世の中、そんなに理解する必要があることばかりじゃないし、ただ感じさえすればいいことのほうが多いのに、と思ってしまう僕はちょっと変なのでしょうか。

「情報を理解する」こと、「情報を感じとる」こと

「情報を理解する」ことと「情報を感じとる」ことでは、情報を評価する際の立ち位置が大きく異なります。

「情報を理解する」場合には、情報を評価する際の立ち位置は客観的なものになります。客観的というのは書き手の意図を汲んで価するものだったり、より一般的な考え方や理論に照らし合わせて情報内容を評価することを意味します。

一方、「情報を感じとる」場合は、情報の評価はより主観的なものになる。ようは、自分がおもしろいと思ったとか、そうだよねと共感したか、ということがすべてになります。この場合、なんでその情報を評価したかは簡単には説明できない場合もあるでしょう。だって、おもしろいと思ったからとか、すごいって感じたからとか、そういう鸚鵡がえし的な答えになってしまうことも多いと思います。

もちろん、客観的な評価と主観的な評価のどちらがいいとか優れているとかいう話ではありません。
むしろ、片方しかできないのがダメなんだと思います。

客観的評価と主観的評価

たぶん、僕が感じているなんとなくの違和感は、後者の主観的評価を下すことに対して臆病になっている人が多いのではないかというところから発しているのだと思います。

まぁ、科学の時代ですから客観的な評価の価値が高いのは仕方ないところです。
客観的な評価の特徴は、科学自体がそうであるように誰が行ってもやり方さえ間違えなければ同じ結果が出る点です。これは非常に予測可能性もあって安心感があり、とにかく機械的にやり方さえ学べばいいのですからひたすら努力の問題です。
また、やり方が公式のもの、公共のものである以上、そのやり方にしたがって評価した結果を個々人の責任にすることはできません。もちろん、なぜ、その評価の仕方を選択したかという点で個人の責任を問うことはできますが、自動販売機のコーラのボタンを押してコーラが出てきたことに対する責任はどう考えても個々人の責任ではないでしょう。

一方の主観的評価はそうはいきません。主観的という言葉自体がそのことを意味しているわけでもありますが、これは評価の結果は人によって異なるし、その評価の仕方はほとんどブラックボックスで説明することがむずかしいものです。
評価の仕方が個々人のブラックボックスのなかにある以上、常にその評価の責任は個々人に問われます。それゆえ、人は主観的評価を下すことに臆病になるのですし、その評価の責任を外部からあれこれ問われれば明確な返答もできないがゆえにキレて感情的な発言をはじめてしまう場合もあります。
一方、責任を問う側も頭のどこかで明確な説明をできない主観的判断を軽視する傾向があり、はじめはそうではなかったのに、それが主観的判断だとわかっただけでそのことを批判しはじめてしまったりもします。

主観的であることが悪いのではない、主観的評価の基準が未熟なのが悪いんです

でも、本当は主観的であることが悪いのではないんです。客観的な評価にばかり頼って、自分自身の主観的評価の基準を磨こうとせず、それを未熟な状態にしたままにしていることが悪いのだと思います。
ようは、あまりにも外部のツールに頼りすぎていて、自分自身のスキルを磨くことを怠っているのだと思います。

僕がここ最近「自分をつくる:其の3.自分の「好き=数奇」をつくる3つのポイント」や「スキ!好き!数寄!」、「空腹を満たすだけのものよりどうせならおいしいものを食べたいよね」などのエントリーで、自分の好みを知ること、それを育てることの重要性について繰り返し言及しているのも、主観的評価を鍛えることがすごく大事なことだと思うからです。

主観的価値観が社会の多様な創造性を育てる

個々人が主観的評価をそれぞれ鍛えていかなければ、「これからは「いらないけれど、欲しくて仕方がないもの」をつくらないとね」で書いたような、「必要だから仕方なく買う」ものをつくる時代から「いらないけれど、欲しくて仕方がないもの」をつくる時代への移行はむずかしいはずです。

イタリアのお客は「金も出すけど、口も出す」ことで有名だ。もちろん、お店も高飛車で大きな顔をしているが、お客もうるさい。「主観的な価値観」を持つお客がブランドを育ててきたのである。
対照的に日本では「みんながいいと言うから私も買う」となりがちだ。それが「相対的な価値観」の強さである。「ブランドだから間違いない」と信じると、盲目的に買ってしまう。これではイタリアと違って、ブランドが育つべくもない。

いやいや、ブランドだけでなく、相対的な価値観のみで「みんながいいと言う」ものしか評価されないとしたら、作家もアーティストもブロガーも育ちません

いま大事なのは、誰がなんと言おうと僕はこれがいい、という主観的な価値観を、単なる強がりではなく本心からそう言えるような強い自分のこだわりを持てるかです。
そうした主観的な価値観をそれぞれが磨いていけるかどうかによって、自分自身の創造性をどれだけ高められるかが変わってきますし、社会そのものの創造性を育てる力の大きさも変わってくるのだと思います。

好きでいいんだ

いま、『へうげもの』『日本数奇』で、独自の主観的美学をとことん追求した千利休や古田織部などの話を読んでいると、客観的な判断を鍛える情報リテラシーを磨くだけでなく、同時に主観的な判断力を鍛える情報リテラシーも磨いていかないとダメだと強く思います。

その日、「利休好み」とか「織部好み」という言葉があることを知ったときに胸が高鳴ったことをよく憶えている。そうか、そういう言葉があったのかとおもった。そうか、好みなのか、好きでいいんだ、という納得だ。

そう。好みなんです。好きでいいんです。

ただ、利休や織部の「好き」や「好み」は半端なものではなかったことも忘れてはいけないのでしょう。
ともに自身の「好き」や「好み」に殉じて、最期は自害を選んだのですから。
数寄を磨く、主観的判断を磨くということもそこまでいったら科学的客観性に十分すぎるほど匹敵するものであるはずです。

P.S.
あと現代人では、40周年を向かえて先に豪華な記念本を出版したばかりのラルフ・ローレンにも、利休や織部と同じものを感じます。商品である衣服だけでなく、あの店舗のインテリアにも見られるこだわりってすごいなと。

   

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