日本数寄/松岡正剛

松岡正剛さんの書かれた本を読んでいると、その背後にシステム思考が存在していることに気づきます。松岡さんのシステム思考は、『システムの科学』を書いたハーバート・A・サイモンの視点にさえ通じるものがある。

複式夢幻能は世阿弥や観世長俊などの作家がつくったシステムであり、それをリリースできるのは演能者たちだけだった。そこにはだれもが参加するというわけではなかった。
(中略)
ところが、能楽よりあとに出現してきた茶の湯などでは、そこにだれもが主客を入れ替えながら入っていけるようなシステムになってきた。しかも、床の間には各種の情報メッセージをもった掛け物や花や置き物をアドレスできるようになっているし、茶道具のひとつひとつにも由緒由来というデータベースがついていて、亭主や客人はこれを売価に一座建立の場を共有できる。
松岡正剛『日本数寄』

松岡さんやこうした能や茶の湯における茶室などをマルチメディアと呼びます。まさに茶室などは、床の間の花や置き物、茶器などのアイコンをクリックすれば、一連のコミュニケーションがはじまるユーザーインターフェイスです。

情報デザインに対する自由度

コンピューターのモニター&マウスによるユーザーインターフェイスばかりが情報システムだと思ってしまっている僕らはあまりに視野が狭すぎます。茶室のUIに比べればiPhone/iPod touchのUIなど、まだまだモニター&マウスのUIを引きずったおもちゃにすぎません。
僕らはあまりにUIの自由度を忘れてしまているのです。そして、それは情報というもの、情報の編集、情報のデザインに対する考え方の視野の狭さに由来するものではないかと思うのです。

私は、こうした電子リテラシーをさらに痛快に発展させるには、パソコン屋が用意した便利なブラウザーに頼るばかりでなく、各ユーザーが自分なりのローカル・データベースを充実していくことに将来がかかっているようにおもっている。いいかえれば、一人ひとりの電子編集の時代が始まるということである。それにはユーザーフレンドリーなローカル・データベースの編集機能がもっと開発される必要がある。
松岡正剛『日本数寄』

上の引用などは1996年が初出の文章ですが、すでにWeb2.0を超えるものがあります。「ユーザーフレンドリーなローカル・データベースの編集機能」に関しては、「パソコン屋が用意した便利なブラウザーに頼る」現状ではなかなかユーザーフレンドリーさの度合いを上げていくにも限界があります。

日本という方法、日本というシステム

松岡さんの情報編集、情報デザインに関する視野の広さは、日本という方法(日本的な方法ではない)に広く深く目を向けたその観察眼に由来するものです。

漢字の導入からはじまる文字文化以前に、1万年を超えるオーラル・コミュニケーションの文化をもち、かつ漢字導入にいたってもその文化を完全には捨てずに、真名文字(漢字)から万葉仮名を経て仮名文字を生み出すことで1万年のオーラル・コミュニケーション文化を維持することにも成功した「日本という方法」、さらにその基盤となるプログラミング言語としての日本語に対する深い思考こそが、自由なシステム思考につながっているのだと思うのです。

茶室をマルチメディアと呼ぶ際に働く情報デザイン的視点は、いまの一般的な情報デザインが対象にしているものの範囲をはるかに超えた自由をもっていると感じます。

ついでにもう1つ例を挙げるなら、

祭りや芸能というものは、以上のような「中・奥・辺」の構造をたくみにシミュレーションするシステムのひとつである。「奥」からカミや威霊を招き、これをヤシロの「中」に充実させていったん守り、これをさらに神輿や山車に乗せて「辺」にめぐらせていく。そのための内陣や外陣でおこなう儀式もこの展開を模している。
松岡正剛『日本数寄』

と、九州の宗像大社にみられるような辺津宮・中津宮・奥津宮のような三社構造のようなシステムにも、IN/OUTと中間での処理が存在する情報の伝達システムをみてとります。

すべてのシステムは情報システムである

あえて言うなら、すべてのシステムは情報を扱う情報システムです
このことがわかっていないと話になりません。なにもコンピュータばかりが情報システムなわけではないのです。
西垣通さんが『情報学的転回―IT社会のゆくえ』などで行う生物情報/社会情報/機械情報という区分に従えば、もっとも根源的な情報といえる生物情報が生物が生きるうえで必要不可欠である以上、あらゆるシステムは情報システムであるほかないのです。
これがわかっていないと情報デザインも何もありません。

どこかに一本の棒を立てれば、それが幟であれ枝であれ、ヨリシロ(依代)としての機能をはたし、その周囲に結界をもたらして、そこに擬似神聖としての芸能空間にさせたのである。
松岡正剛『日本数寄』

別の意味ではすべてのデザインが情報デザインなのです。ここでこそ、松岡正剛の思考とハーバート・A・サイモンの思考は重なり合うわけです。

日本語というプログラミング言語、日本というOS

松岡さんの本を読んでいて何より気づかされるのは、僕らは所詮、日本語というプログラミング言語で書かれた日本というOSのなかでしか思考できないということです。
たとえ、他の外国語を話せる人でも、それはOSが複数になっただけで言語そのものというシステムからは逃れられないことに変わりはありません。

何かの言語、何かのOSに依存せざるを得ない以上、どこまでいっても僕らはローカルな存在です。それは昔、ロンドンで過ごした漱石が気づいたことと同じことです。
にもかかわらず、多くの人が日本語について、日本についてあまり考えようとしないのはいかがなものかと思ってしまいます。

日本ではどの文字システムを選定するかではなく、入ってきた漢字と縄文以来からの倭語や和語とをくらべて、どの読み方やどの意味あいをどんな文字アソシエーションに含意していくかということが、文字文化の最初の重大な編集作業になったのである。。
松岡正剛『日本数寄』


そして、1万年のオーラル・コミュニケーションの文化を捨てずに活かし、表意文字である漢字から表音文字である仮名を生み出し、かつ漢字かな混じりの文化を生み出した日本というシステムにおいては「言葉だけでなく、服装や意匠や仕草にも編集がある」と松岡さんはいいます。

縄文の縦櫛が弥生の横櫛に変わっていったのも、片輪車模様が流行したり小袖が流行したりするのも、よくよく見ればそこには文化的な編集のプロセスというものがあった。
それはいわば「眼の編集」というものである。
松岡正剛『日本数寄』

「眼の編集」とはデザインのことにほかならないのではないでしょうか。そして、それはとうぜんながら情報デザインです。そして、実際にこうした情報デザイン=文化的な編集によって日本というシステムが生まれてきたのです。もちろん、日本語で思考しコミュニケーションを行い、日本の意匠、自然環境の中で暮らす僕らもそのシステムからは決して自由ではないはずです。

にもかかわらず、僕らは与えられたWeb2.0、与えられた情報システムとしてのコンピュータ、与えられた情報デザイン論に満足してしまっていて、松岡さんが「将来がかかっている」と述べた「各ユーザーが自分なりのローカル・データベースを充実していくこと」をおろそかにしているのではないでしょうか? 個々人のローカル・データベース、そして、日本という方法を用いたローカル・データベースの充実という編集=デザイン作業をおろそかにしてしまっているのだろうと感じます。
前に誰かがいまはまだWeb2.0ではなくWeb0.2だと言ってましたが、上記のような意味ではまさにそのとおりだと思います。

先に「スキ!好き!数寄!」でも内容を紹介した、この松岡正剛さんの『日本数寄』という本はヘタなWeb関連書籍や情報デザイン関連書籍を読むよりもはるかにこれからの情報デザインについて考えさせられる本だと感じました。



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