スキ!好き!数寄!

唐突ではありますが、DESIGN IT! w/LOVE の LOVE は、"愛"というよりも"好き"なんだろうなと自分では思います。
このブログで書いていることには愛情を注いでいるというよりも、僕自身のこだわりや捨てきれぬ思いを綴っている気がするからです。

そして、僕がここで自分の好き=LOVEにこだわるのは、「好き」こそが良い仕事に通じるところがあると思っているからでもあります。

スクリーニングとしての数寄

自分が何を好むのか、何に対して捨てきれぬこだわりを持っているのかを知ることは結構大事なことです。それを明確に示せるようになれば、それが仕事になるのではないだろうかと思うのです。「捨ててなお捨てきれぬもの」だけを残したとき、そして、それを外に向かって示しえたとき、それが1つの仕事になる条件を整えることになるのではないかと。

妙喜庵の待庵のつくりには、すべてを捨てきった丿貫とはちがう、捨ててなお捨てきれぬものを残しえた利休の優位を感じる。二畳台目、室床、躙口、天井、いずれにも覚悟も作文もあった。逆にいうなら丿貫には「好み」が欠けていたということなのである。
松岡正剛『日本数寄』

捨てるものは捨てたほうがいい。しかし、それでもなお捨てられぬものが残ってしまうという感覚を覚えたとき、なすべきことが見えてくることがあります。足すのではなく引くのでしょう。積み上げながらも削り落としていくことが必要なのだと感じます。


「数寄」は「好き」です。

数寄はもちろんスキである。「好き」でもあるが、隙間を透くことでもあった。一言でいえばスクリーニングのこと、透いて漉いて、鋤いて空いていくことである。そのうえで好いていく。
松岡正剛『日本数寄』

スクリーニング。ふるいわけること、適格審査をしたあとに残るもの。そのようにして好いていくことが数寄です。それは「まことのこころ、数寄のこころ」というエントリーでも書いたように、バランスのとれた状態である「まこと」からあえてバランスを欠いた状態へと移ることでもあるのだと思います。

好みとリスク

バランスのとれた状態からあえてバランスを欠いた状態へと移ること。そこには当然覚悟がいります。リスクを負う覚悟がいる。リスクを負わない「数寄=好き」はない。数寄を追求した利休は自害に追いやられ、その師の意思を継いだ古田織部も同じく自害を迫られました。


そのような命を賭けるリスクを負うまではいかなくても、リスクをとってでも時間を賭ける、人生の一部を賭けることは、好きなものを追求するためには欠かせないのではないでしょうか。

人とおなじように時間を過ごしたのでは、自分の好きなものだけをスクリーニングすることに没頭することはできず、捨てるものも捨てられません。自分の好みを磨くためには、それなりの覚悟とそれ相応の時間や実践が必要だと思います。

好みと仕事

覚悟を決め、リスクを負って自らの好みにこだわってこそ、好きが仕事につながっていくのではないかと思うのです。前に紹介した西村佳哲さんの『自分の仕事をつくる』を読んで感じたのもそういうことでした。

利休の観察力はあまたの茶人の歴史でも群を抜いている。
岡倉天心や幸田露伴ならいざしれず、とても利休にはかなう者はいない。
あの造形力は観察の賜物である。器物を見る目はむろんのこと、きっと人の器量を見る目も鋭すぎるほどだった。
松岡正剛『日本数寄』

観察こそが数奇を磨き、仕事を磨く。観察といえばレオナルド・ダ・ヴィンチのそれも圧巻です。

先に「アンフォーカスグループ調査で隠れた知を発見する」というエントリーで、ある製品やサービスに特別のこだわりをもった人々を観察することで新しいイノベーションの種を見つける「アンフォーカスグループ調査」に関するアイデアについて書きましたが、自分を含めた人のこだわりを熟知しようとする姿勢にこそ、仕事をひらく道はあるのではないかと思います。

客の好みを知り、趣向をこらす

先ほど自分の好みを知るにはリスクを負う覚悟が必要だと書きました。

しかし、それとは別に「客」を招く「主」人たる場合には違う覚悟がいります。

たとえば康永元年(1342)のこと、光厳院と足利尊氏が好きな装束を身につけて西芳寺におもむいた。茶礼がひらかれていた。夢窓疎石の招待である。疎石は二人の客に引出物を用意していた。唐絵である。(中略)疎石は唐絵によって自分と招待者に共通するであろう「好み」を暗示したかったのだった。つまり趣向を示した。日本史上、ごく初期の「好みの文化」の発現をあらわす一例であった。
松岡正剛『日本数寄』

客を招き、好みの引出物などで趣向をこらしてもてなすには、とうぜんながら客の好みを知っていなければいけません。しかし、ビジネスにおけるマーケティングなどを考えても、客の好みを知ることは簡単なことではありません。趣向をこらすことは簡単なことではないのです。

だからこそ、利休のような茶人には、「器物を見る目はむろんのこと、きっと人の器量を見る目も鋭」くあることが求められるのでしょう。そして、それは「客」をもてなすあらゆる「主」人に求められることではないかと思うのです。そこにこそ、仕事があるのではないかというのが最近考えていることです。

異質なものを受け入れる姿勢

いかにして他人の好みを知るかという点では、すこし逆説的なことではありますが、まず自分の好みを徹底的にする必要があるのではないかと思うのです。自分が何にどのようにこだわっているかもわかっていなければ、他人のこだわりなどわかるわけがないと思うのです。そして、先にも書いたとおり、自分のこだわりを磨くにはリスクを引き受ける必要があるはずです。

しかし、どうにも僕らはそのことに鈍感で、自分の好みやこだわりを磨くことにリスクを負おうとしません。ましてや、他人の好みについて考え、趣向をこらす覚悟が足りていないような気がしています。

おもてなしの姿勢:「主」と「客」」では、「異質なものを受け入れる姿勢をとり続けることができるかどうかで、仕事の場における創造性の度合いが大きく変わってくるのではないか」と書きました。
「受け入れる」というのは、客のこだわりを引き受ける覚悟であり、受け止める手続きであり趣向であると思います。

ソーシャルメディアが注目されていますが、それは決して「客」に自由にさせるメディア空間のことではないと思っています。「客」のこだわりを知り、もてなす姿勢を主人が具体的な実践として示してこそ、ソーシャルメディアが活きてくるのだと思います。ソーシャルメディアをオープンな協働の場とみる見方(参照「「異質のもの」を避けてはいけない (御立尚資の「経営レンズ箱」):NBonline」)には反対しませんが、単に開かれているだけではダメで、それがわからないとソーシャルメディアはいわゆる「コモンズの悲劇(共有地の悲劇)」に陥ってしまうでしょう。


ソーシャルメディアが「コモンズの悲劇」に陥らないためには、数奇のこころをもった主人が覚悟、手続き、趣向をもって「客」をもてなすことが不可欠なのではないかと思います。

もちろん、それはソーシャルメディアだけでなく、すべての客商売の場にいえることです。
僕らはいまいかにして招きもてなすかを考えるためにも、自らの数奇のこころを磨かなくてはいけないのではないかと思うのです。

そう。それなりのリスクを負ってでも。

   

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