「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス/好井裕明

この本は、社会学における質的な調査法であるフィールドワークをめぐる、著者自身による経験や多くの優れた調査結果を語る作品を読んだ印象から考察された、フィールドワーク調査の基本であり重要なセンスについて書かれた一冊です。

いわゆる技法や方法論を説明するものではありませんが、それゆえに僕のような社会学の門外漢でありながらマーケティングやデザインの方面から観察中心の質的調査の仕事にたずさわっている人間にも考えさせられることが多くあり、非常に参考になりました。

世の中を質的に調べるセンス

まず、著書は実際に行われていることの多い定量的調査の杜撰さを嘆きます。
定量調査の意義自体は認めつつも、実際に行われている定量調査がその調査設計からして「いい加減」で「数字の信頼性」が失われるようなものが多いことを指摘しています。

私は数字で世の中の状態を把握し、分析するやり方の意義を十分に認めている。ただ、人々の営みを何らかの形で数量化し、より一般的に現実を分析するだけでは、決して明らかにはならない問題や、人々が生きている現実がある。
好井裕明『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』

量的調査というのは主に「仮説検証」のために行われるものです。明確な仮説があってはじめて量的調査による検証が可能となります。

しかし、多くの調査では明確な仮説がなかったり、非常にあいまいな形のままだったりします。
それゆえ、何のための調査か明確にならず、調査企画や設計も杜撰で、具体的な調査票にも回答を誘導するような質問やどれにも答えられないような質問項目が並んでいたりします。集計・分析の具体的なイメージがないまま、調査が行われ、無意味な単純集計のみでお茶が濁されたりします。

とうぜん、このような調査で「人々が生きている現実」を捉えることはできませんし、それ以上になぜこのような意識の低い調査で「人々が生きている現実」に土足で踏み入るようなことをするのかという疑問を抱きます。

量的にせよ質的にせよ、世の中を調べようとするときには、その根底に、日常を生きている人間が何をどのように調べようかと発想し、さまざまな違いを生きている人間を調べるという営みがある。すなわち、調べる私も含めた他者が普段から暮らしている日常への"まなざし"が基本にある。
好井裕明『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』

「<ひと>が生きていることへ向かう"まなざし"。それが何なのかを考え、問い直し、自分なりの"まなざし"を創造できるような感覚」。これを著者は「世の中を質的に調べるセンス」「リサーチセンス」と呼んでいます。

調査をするものの姿勢

2章から5章ではそれぞれ「はいりこむ」「あるものになる」「聞き取る」「語り出す」と題して、質的な調査を行う社会学者の経験について考察されます。

質的な社会学の調査では、人類学と同様に、現場で生きる人々の生活に入り込んで調査を行うフィールドワークの手法が用いられます。
しかし、人々の生活に入り込むとかんたんに言ってしまえるほど、実際のその行為はかんたんなものではありません。調査対象の人々が調査を行う社会学者に自分たちのことを調べてもいいと感じるには、その人への信頼や安心感をもたないことにはどうにもなりません。

「はいりこむ」とはそうした信頼や安心を獲得するための時間を必要とするものです。そして、もちろん、時間だけでなく、信頼や安心を感じてもらえるような行動、姿勢がともなっていなくてはなりません。

いくら自分が調査を行いたくても、調査を行うのが仕事だからといっても、調査対象者の人々にもとうぜん暮らしがあるし、いろんな思いや感情があります。
そうしたものを考慮せずに「調査したい」からという理由だけで調査を行える権利も理由もありません。調査をしたければそれを相手に許してもらえるような信頼感や安心感を相手に感じてもらえるよう自分自身が努力するしかありません。

それは明らかに調査対象者の生活とは離れたオフィスの片隅でパソコンを使って調査票をつくっているような行為とは似ても似つかないものです。
人々の暮らしの側に歩み寄ろうとする姿勢、そして、それを可能にする忍耐力をもたない調査者には、まともな調査などできないのだろうと僕自身思っています。

安全圏の外側で

3章では、1年2ヶ月にわたり大衆演劇の劇団員として旅暮らしを行い、そこでの体験を『大衆演劇への旅』という本に記した鵜飼正樹さんの調査行動を考察しながら、自分とは違う人々の生活に「はいりこ」み、そこで「あるものになる」(鵜飼さんの場合は「役者」)になることのむずかしさについて述べられています。

すでに述べたように、『旅』は、"わたしさがしの旅"であるとともに"大衆演劇という世界への旅"であった。この2つの"旅"は、自分を安全な場所にかくまったままで行えるものではない。常に「いま、ここ」で自分を危うさにさらし、大衆演劇の「もう一人のメンバー」に「なろうとし続けること」で初めて可能になるものであった。
好井裕明『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』

僕らは普段、安全圏で生きてしまっています。わかっている範囲内で考え、処方を知っている範囲で考え行動しています。
実は知らないものに出くわしても多少戸惑うだけで忘れてしまったり、そもそもそれに気づかなかったりします。思い込みのなかで生きながら、それが単なる思い込みの世界であることに気づかなかったりもしているでしょう。

しかし、鵜飼さんが劇団員の一人として旅を続ける中で、役者になろうとしてなりきれなかったと感じるのと同様に、僕たち自身、ふだん、あたまりまえのように自分はそうだと感じている「社会人」「○○会社の社員」「父親(母親)」などの役割になりきれているのかとあらためて問えば、何の迷いもなく「なりきれている」と答えられる人は少ないはずです。

この「なりきろうとし続ける」営みこそ、そして役柄と自分の存在の間にある距離や隙間こそ、社会学が世の中を調べるうえで読み解くべき、基本的、かつ核心的な対象なのである。
好井裕明『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』

自分を安全圏の外側に意図的において、別の人々の生活にはいりこみ、あるものになることが、社会学にかぎらずフィールドワーク的な調査の基本なんだろうとこの本を読んで感じました。

ラベルをはがして

自分自身が何かの役柄になりきっているということはなく「役柄と自分の存在の間にある距離や隙間」を感じているのであれば、とうぜん、他人もそうだと考える配慮がなくてはいけないでしょう。
普段、僕らは何気なくその人にはられたラベルを元に「きっとあのひとはこういうひとだろう」などと、よくそのひとのことも知らずに勝手な想像で判断してしまいがちですが、そんな馬鹿げたことはありません。

4章の「聞き取る」、5章の「語り出す」では、調査対象者への聞き取りという行為や、調査対象者が語りだしたことを聞く行為において、調査者が無自覚に調査対象者にはってしまっているラベル、レッテルがいかに調査の障害になるかが考察されています。

「あなたはどのような差別を受けてきましたか」
私が、あたりまえにようにこともなげに女性たちに問いかけた言葉。この言葉や私のふるまいは、いかに相手に対して失礼で、傲慢であっただろうか。当時、そんなことに気づく余裕もなかった。
好井裕明『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』

著者は自分自身が大学院生当時に行った調査での失敗をあらためて思い起こしながら、自分の「決めつけ」がいかに調査そのものを困難にしてしまうのかについて考えています。

部落差別をめぐる硬直化したイメージと理解があり、そこには明らかに当時意識できなかった「決めつけ」がある。私は自らが抱いていたイメージや理解に見合う話を「聞き取ろう」「探し出そう」「吸い取ろう」として、うまくいかずに"かたまって"しまっていたのだ。
好井裕明『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』

この本のあとのほうにも紹介されていますが、「かたまる」というのは人がふだん意識せずに用いている方法の外に出てしまって、どうしていいかわからくなって陥る状態です。
エスノメソドロジーという学問がありますが、それは人がふだん意識せずに用いている方法に焦点をあて、それを明るみに出すものです。

とうぜん、調査する側にも調査をされる側にも無意識に用いている方法があります。
調査者はそれを意識して調査を行わないと、自分の勝手なラベルをはった視線でしか対象を観察できなくなり、対象をちゃんと見ることができなくなります。

「まっすぐに」とは、相手の語りの背後に奥深く、はてなく広がっているであろう"語りをうみだすちから"、"生きてきた<ひと>のちから"に対して「まっすぐ」なのである。
好井裕明『「あたりまえ」を疑う社会学 質的調査のセンス』

表面に見えているものだけを見るのが観察ではありません。表面にあるものを観察しながらもその背後でひとを動かしているものに目を向けなくては、方法というラベルをはがして「まっすぐに」ひとに向き合うことはできないのでしょう。

コンテキスチュアル・インクワイアリーのセンス

僕はふだん、コンテキスチュアル・インクワイアリーと呼ばれる手法を用いて、ユーザー調査を行っています。これはフィールドワークとは違って、ユーザーに調査場所に出向いてもらってそこで普段の行動を具体的に再現してもらう調査方法です。
実際の自分の家だったり仕事場でない分、調査をされるユーザーの側もプライバシーやセキュリティ面ですこし楽な面はあるでしょう。調査をするこちら側もそこまでは踏み込まない分、安全圏にいることができます。

しかし、そもそもの調査目的がユーザーのふだんの利用行動や目的を知ることにあるので、さまざまな配慮をしながら質問を行いますし、相手を誘導する質問は行わないようにしたり、自分の思い込みで勝手な解釈を行わないよう、ものすごく気を使います。
だから、ひとりの調査を1時間程度行うだけでもすごく疲れます。しかし、この本を読んだ今、その疲れは正しい疲れなんだなと思うのです。

自分がどこまでちゃんとできているかはわかりませんが、自分を安全圏の外側に出すこと、ラベルをはがして実際にあるものを見ることは、調査を行う際には常に意識していることです。「見えないものをデザインするには」にも書いていますが、大事なのは「自分が何をどれだけわかっていないかを理解すること」だと思うからです。普段「あたりまえ」の背後に隠れて見えないものを、いかにして発見するかが調査には求められているのですから。

人間中心のデザインのセンス

そして、この本を読んで感じたのは、こうしたセンスは、何も調査者だけに必要なものではなく、デザインを行うもの、特に人間中心のデザインのアプローチでデザインを行おうとしているものには必須のセンスなのではないかということです。使えるもの、使って欲しいものをデザインしようというのに、なぜ、それを使う人のことを知ろうとしないのか、「まっすぐに」その人たちのことを見ようとしないのかは僕にははなはだ疑問です。

ときどき、ものをつくる人が調査というものを軽く見えているなと感じることがありますが、それも調査というものを自分の安全圏の外側において、自分たちの行為とは直接関係のないものとして考えようとする「かたまった」発想なのではないかと感じます。
実際には調査とはそういう特別なものではなく、疑問に感じたことや知りたいと思ったことを「まっすぐに」受け止め、自分が普段暮らす世界から一歩外側へと踏み出そうとする勇気を具体化する行為なのだと思います。それは調査者だけが行う行為ではなく、もっと多くの人が行ってよい行為だと思うのです。

「あたりまえ」のレッテルの安全圏でものを考えていても、人々に響くようなものはデザインできないのではないか。いかにして自分の思い込みの安全圏から外に出て、人々の暮らしに「まっすぐに」向き合うことができるか。そうしたことがデザインをする上でも非常に大切なことなのではないかと思いました。

マーケティングやデザインの方面で、ユーザーや顧客について考える立場にある人にはぜひ読んでほしいと思える一冊でした。



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