新訳・茶の本―ビギナーズ日本の思想/岡倉天心著、大久保喬樹訳

たまには古典を読むのもよいですね。

岡倉天心の『茶の本』については訳書もいろいろ出てるくらいだし、特にここで内容の説明はしなくても他にもいくらでも紹介されている気がしますので、特に僕の気になったところをピックアップしながら、都度、考えたことをコメントしていくことで書評に変えさせていただきます。

茶室におけるコラボレーション

まず、僕が急にこんな古典を読もうとしたきっかけは、「コラボレーションにおける"仮設の場"の活用」でも書いたように、<組織において固定化された部門を越えて、仮設の場であるワークショップなどを通じて、ホストがゲストを交えて、「純粋と調和、たがいに相手を思いやる慈悲心の深さ、社会秩序への畏敬の念といったもの」をはぐくむ場を創出すること>ができる場として、茶室における茶会について学ぶことが、組織におけるコラボレーションの重要なヒントになるのではないかと考えたからでした。

私たち日本人にとって茶道は単に茶の飲み方の極意というだけのものではない。それは、生きる術を授ける宗教なのである。茶という飲み物が昇華されて、純粋と洗練に対する崇拝の念を具体化する、目に見える形式となったのであり、その機会に応じて主人と客が集い、この世の究極の至福を共に創り出すという神聖な役割を果たすことになる。
岡倉天心著、大久保喬樹訳『新訳・茶の本―ビギナーズ日本の思想』

「主人と客が集い、この世の究極の至福を共に創り出す」。茶室における茶会の役割はこうした主人と客によるコラボレーションであるとみなされています。

そして、

茶の湯は、茶、花、絵などをモチーフとして織り成される即興劇である。
岡倉天心著、大久保喬樹訳『新訳・茶の本―ビギナーズ日本の思想』

というように、あらかじめ仕組まれたものを演じる場ではなく、あくまでその場における題材をもとに即興的に、かつ実践的に行われるコラボレーションであるということが僕がいまイメージしている新しいワークスタイルとしてのコラボレーションにぴったりなんです。

僕が茶会というものに興味がひかれているのもまさにこうした部分で、だからこそ、茶会が開かれる場としての茶室というもののあり方にも興味をひかれるのです。

好き屋、空き屋、数奇屋

茶室は数奇屋と呼ばれます。そして、数奇屋は、好き屋であり、空き屋でもあります。

「好き屋」としての茶室には、茶室のために茶人があるのではなく、茶人のために茶室があり、「そうであれば、後世まで残るのは本意ではなく、むしろかりそめのものであることが本来」であるという禅的、道教的思想、そして、古来からの日本における仮設文化にもとづく思想がこめられています。

禅は、仏教的な無常の観念また精神が物質を支配しなければならないという観念から、家というものを一時的な身体を休める避難所にすぎないとみなした。身体自体が荒れ野に建てられた堀っ建て小屋のようなもの、あたりに生える草を編んで作ったぺらぺらの建物のようなものにすぎないのであって、その編み目がほどければたちまち元の荒れ野の塵にかえってしまうのだ。
岡倉天心著、大久保喬樹訳『新訳・茶の本―ビギナーズ日本の思想』

また、「空き屋」としての茶室には、同じく空であるからこそ、変化を生じさせることができるというこれまた日本の仮設文化に通じるところをもっています。

ある茶会のために特別な美術品が運びこまれると、それにあわせて、ほかの一切のものは、この中心主題の美しさを引き立てるよう選ばれ、整えられる。いくつもの音楽を同時にきくことができないように、美というものは、なんらかの中心となる要素に集中して初めて本当に理解することができるのだ。
岡倉天心著、大久保喬樹訳『新訳・茶の本―ビギナーズ日本の思想』

空の茶室にその時々の美術品が運ばれることで、茶室はその時々に違った茶会の場を創造できるようになります。
これは組織におけるコラボレーションの場でも応用可能で、中身を常に空に近い状態にしておけば、なにがしか引き水になるような要素を持ち込むことで、過去の模倣でないその場その場で新しい創造が、主客を違えたメンバーによるコラボレーションによって可能になるのではないかと考えています。

最後に「数奇屋」、「すなわち非対称の家」という茶室の呼び名には、「完全そのものより、完全を追求する過程を重視」する道教や禅の考え方が根底に流れています。

人生にせよ、芸術にせよ、これからさらに成長していく可能性があればこそ生き生きとしたものになるのだ。茶室においては、客のひとりひとりが自分自身との釣り合いを考えながら全体の効果を心の中で仕上げていくように任されるのである。
岡倉天心著、大久保喬樹訳『新訳・茶の本―ビギナーズ日本の思想』

ここにも組織におけるコラボレーションのヒントがあります。
「客のひとりひとりが自分自身との釣り合いを考えながら全体の効果を心の中で仕上げていく」。個々で自分自身との対話を行いつつ、場全体での効果の仕上げにたずさわっていく。誰かがサボれば場そのものが死に、コラボレーションが成り立たなくなる、そういう場が真のコラボレーションの場なのでしょう。

プロセス志向

中国の宋の時代に道教の影響を色濃く受けて、いまの茶の湯に見られる抹茶をたてる形が普及した茶は、その後、中国ではモンゴル民族の侵略により忘れられるが、日本において宋に南方禅を学びに行った栄西禅師によって1191年に伝えられ、15世紀に茶道として完成されることになります。

道教や禅の影響を色濃く受けた茶は、

面白いのは行為そのものではなくて、その行為にいたる経過だ。本当に重要なのは完成そのものではなく、完成することだ。かくして、人間は一気に自然と直面することになった。人生に新たな意味が生まれて指針となった。茶は、単なる詩的な遊び事にとどまらず、自己実現の手立てとなった。
岡倉天心著、大久保喬樹訳『新訳・茶の本―ビギナーズ日本の思想』

という具合に、「美をきわめ、崇める宗教すなわち茶道」として、「雑然とした日々の暮らしの中に身を置きながら、そこに美を見出し、敬い尊ぶ儀礼」として行われるようになったといいます。

最近、「小さなアウトプットの蓄積で完成形を生み出すための5つのプラクティス」や「UCDは経営陣のサポートなしに社内で実施することはできない」、「ワークショップ―偶然をデザインする技術/中西紹一編著」などでも実践重視のワークスタイルについて書き、生産性より創造性が重視されるこれからビジネスシーンにおいては、分析的であるより実践的で、流れ作業的でなく共同作業的で、ベストプラクティスのような成功から学ぶのではなく大量のプロトタイピングにより失敗から学ぶことを重視する新しいワークスタイルが求められていると考えています。

この新しいワークスタイルにこそ、「面白いのは行為そのものではなくて、その行為にいたる経過」、「本当に重要なのは完成そのものではなく、完成すること」と捉える茶道、道教・禅的な姿勢が求められると思っています。

こうしたことを考える上で、岡倉天心の『茶の本』のような古典を読むのもよいなと思いました。
そして、この本を手にとるきっかけにもなった、内田繁さんの『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』については、また後ほど書いてみようと思います。



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