コラボレーションにおける"仮設の場"の活用

まったく暑い日が続いてます。昨日も熱中症の死者が全国で2人出たとニュースで言ってましたが、この炎天下でじっとしてたら本当に自殺行為ですね。
ほんの数週間前の梅雨明けの発表があるまでは、これほど暑くなく、今年は夏が来るのかななんて言ってましたが、心配しなくてもちゃんと真夏になってくれました。

昨日読んだ内田繁さんの『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』は、そんな春夏秋冬の明確な四季のある日本という環境におけるデザインについて考察された本です。書評はひとまずあとまわしにして、そこで日本古来の考え方としてあった"仮設の場"について考えたことを書いてみようと思います。

日本における仮設の伝統

日本では古来から場が固定してしまうのを嫌い、西洋のような堅牢な城壁や壁に囲まれた建築物ではなく、冬には襖、夏には障子といった具合に取替え可能で、かつ可動式の壁によって間仕切りを行い、かつ暖簾や衝立のような可動式で、確固とした物理的な障壁により場を区切るというよりも、どちらかといえば認識的な間仕切りによって場を区切ってきたデザインの歴史があります。

何よりそれは高温多湿の夏をもつ日本という環境において、建物を固定することはカビや病気などによる腐敗を助長してしまう可能性を高めるからです。この暑い時期に部屋を何日も閉め切って風通しのない状態にしておくと、すぐにカビがはえます。木でつくられていた昔の日本建築を西洋のように堅牢な不可動の壁で覆ってしまえば、すぐに木材が腐敗してしまうのでしょう。

そうした気候における建築は、自身の耐久性を考慮すれば、壁などは固定せずに取替え可能な襖や障子にし、建物自体は屋根、屋根を支える最低限の柱、そして、地面から一段高い位置に据え付けられその下の風通しも考慮された床によるミニマルな要素によって組み立てられることになります。そして、日常の生活の場においては季節によって襖や障子がはめこまれ、暖簾や衝立によって都度、認知的な間仕切りが行われる仮設性の高い空間デザインが与えられます。

仮設文化のなかのリズム

こうした仮設性の高い空間デザインの中で生活してきた日本では、文化そのものも仮設性の高い形でデザインされてきたような印象を持ちます。

節目節目に設けられた節句は、日常生活における「ケ」と節句という脱日常における「ハレ」のリズムを持ち込み、日常(ケ)が固定化して枯れる(ケガレ)のを防ぐ意味を持っていました。

神事においても、四隅に立てた四柱に注連縄をかけた仮の神室を設けた仮設の空間において神を招く形で「ハレ」のイベントが行われていました。

伊勢神宮で約1300年前の持統天皇の4年(西暦690年)からはじめられ、20年ごとに繰り返されながら今でも行われている式年遷宮という祭事にしても、下宮(豊受大御神)が約1500年前に天照大御神のお食事をつかさどる神として丹波国から伊勢にお迎えされて以来、毎日朝夕の二度、天照大御神に神饌をお供えする日別朝夕大御饌祭にしても、そうしたケとハレのリズムを日常の中に埋め込み、ケガレから身を守ろうとする日本の環境に即した工夫だったのだろうと思います。

茶の湯

そうした仮設の文化である日本における1つの文化として、僕が最近興味をもっているのが茶道の文化です。

茶道は、雑然とした日々の暮らしの中に身を置きながら、そこに美を見出し、敬い尊ぶ儀礼である。そこから人は、純粋と調和、たがいに相手を思いやる慈悲心の深さ、社会秩序への畏敬の念といったものを教えられる。

茶道というと、にじり戸や独特の小さな閉鎖的な空間である茶室がイメージされますが、こうした固定された茶室を確立したのは、千利休だったそうです。それまでは仮設の文化をもつ日本らしく、決まった空間でお茶を供するというよりも、仮設の空間でお茶がたしなまれることのほうが多かったようです。

とはいえ、それは西欧のティーパーティーのように日常的に行われ行事というより、日常と脱日常の中間的な意味をもつ行事であったようです。先の岡倉天心の引用にもあるように「雑然とした日々の暮らしの中に身を置きながら、そこに美を見出し、敬い尊ぶ儀礼」だったのです。

茶の湯にみるコラボレーションのヒント

この日常と脱日常で行われる儀礼、そして、その仮設性に、僕は組織においてコラボレーションをうながすヒントがあるように思うのです。

組織において固定化された部門を越えて、仮設の場であるワークショップなどを通じて、ホストがゲストを交えて、「純粋と調和、たがいに相手を思いやる慈悲心の深さ、社会秩序への畏敬の念といったもの」をはぐくむ場を創出すること。そうした場を通じて、日常が固定化し、ケガレるのを防ぐと同時に、組織においてリズムを生み出し、そのなかで創造性を生み出していく。そうした可能性が、仮設の文化にはあるように感じます。

茶室は数奇屋と呼ばれます。数奇屋はまた空き屋です。空の場は常にそこに持ち込まれるものによって違ったものを生み出すことができる可能性をもっています。

私は、武家社会における茶道のスタイルは結構ワークショップだったのではないかという気がしているんですよ。身分の差はあるのに、にじり戸をくぐった時にそれはなくなって、ある種の作法は必要なんですが、それがちゃんとしていれば、後は「同時性」をどれだけ楽しめるか、という点に集中できますよね。お茶室の空間のつくり方は、結構ワークショップ的だな、などと感じているんです。

固定化された部門がにじり戸という認識的境界を越えた瞬間に「同時性」をもって、1つの課題に取り組めるような場をいかにリズムよく生み出せるか。また、それは組織そのものを超えて、発注側と受注側での仮設の場を共有できるかという課題でもあると思っています。

そうした場の創出についてもうすこし考えるためにも、茶道をはじめ日本の仮設文化について学んでおきたいなと思っているところです。

  

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