なんでヒトはコンピュータが動かないからといって文句を言ったりするの?(本当の意味での人間中心のデザイン)

動かない/動きが遅いコンピュータに対してイライラしたり、ひとりでコンピュータに向かって文句を言ったり、ひどい場合は机をバン!と叩いて怒ったりした経験は誰にも一度くらいはあるのではないでしょうか?

コンピュータじゃなくてもそうですよね。意図したとおりに機械(たとえば自動販売機とか)が動作してくれなかったりしたときには、つい文句を言ってしまったりします。

個体における心の発達

でも、それっておかしいよね。
だって、僕らはそれが機械だということを知っている。機械が人間の言葉を理解しない存在だということもわかっている。

認知科学の研究では、ヒトは生まれてから3ヶ月~6ヶ月で生物的なものの動きをその他のものの動きと区別できるようになり、6ヶ月~9ヶ月では生物以外の物体や自動で動くような仕組みが組まれたおもちゃ以外のものが勝手に動き出すと驚くようになることがわかっています。
そして、18ヶ月~3歳のあいだでヒトの心的能力は大きく発達し、意図を理解した上で模倣ができるようになったり、他人の「ふり」も理解できるようになったりしながら、5歳くらいで、いわゆる他者の心の状態や意図がわかるようになる「心の理論」へ到達するそうです。

ヒトの子どもは、4、5歳までには、「心の理論」を獲得し、他者の心的状態を推測できるようになるという。このことはWinmmer&Perner(1983)による誤信念課題を用いた研究により数多く報告されている。
板倉昭二「他者理解」
大津由紀雄、波多野誼余夫(編著)『認知科学への招待―心の研究のおもしろさに迫る』

6ヶ月~9ヶ月で生物とそれ以外の動きが区別できるようになり、4、5歳では他者の心の状態を推測できるようになるヒトが、どうしてコンピュータのような機械に怒り、文句を言ったりするのでしょう?

お互いにインタラクションするようにできた社会的な生き物としてのヒト

その答えの1つをドナルド・A・ノーマンの『エモーショナル・デザイン―微笑を誘うモノたちのために』から参照してみましょう。

我々は社会的な生き物であって、生物学的にはお互いにインタラクションするようにできている。

まず、ノーマンはヒトが「お互いにインタラクションするようにでき」た「社会的な生き物」であることを確認しています。

そして、

このインタラクションの性質は、相手の気分を理解する能力に大きく依存している。

と、先の「心の理論」の存在がインタラクションの性質に関わるものであることを指摘しています。

研究によれば、ヒトを含めた霊長類の脳において他の動物種と比べて新皮質の量が大きいのは、霊長類が他の動物種より複雑な社会に生きるようになったからだと考えられています。

イギリスの心理学者のバーンとホワイトゥンは、霊長類が大きな脳を持つ必要があるのは、彼らがきわめて複雑な社会システムに暮らし、その中で政治的な行動(意図的なごまかしや他者の操作)を行うからだと論じ、そのような行動の逸話的事例を数多く例示した(バーン&ホワイトゥン、2004)。
長谷川寿一「心の進化」
大津由紀雄、波多野誼余夫(編著)『認知科学への招待―心の研究のおもしろさに迫る』

言葉を話すとかいう以前に社会的に複雑な暮らしのなかで、霊長類の脳の新皮質は発達せざるをえなかったわけです。

なんだかんだいってもヒトはコンピュータとの付き合いより人付き合いのほうが向いている

そして、再び、ノーマン。

顔の表情とボディランゲージはひとりでに生じるもので、我々の感情状態を間接的に表す。これは、感情が行動と密接に結びついていることにもよる。いったん情動システムが筋肉を刺激して動作の準備をすると、どのくらい緊張しているか、リラックスしているか、顔の表情がどう変わったか、手足がどう動くかといったボディランゲージを見ただけで、他の人はその内部状態が解釈できる。

この引用は、いわゆる心の理論ができあがったとして、それを実際にはどのような形で相手の外観からよみとることができるのかという点についての簡潔な説明だといえます。

何百万年も経て、他の人の状態を読む能力は我々の生物学的な遺産の一部となった。その結果、他人の情動状態にすぐに気づくのであり、さらには、全然生物らしくないものにまで情動を見て取ってしまう。

これが僕らがコンピュータに対しても他人にするのと同じように文句を言ってしまう理由だといえるでしょう。

僕らは何百万年もかけて社会において他人とインタラクションを行う方法を学び、生物学的に身につけてしまっているのだけれど、機械とのインタラクションに関してはまだほんの数百年、コンピュータに関しては百年にも満たない付き合いでしかありません
人付き合いに関しては意識をはるかに超えたところ(遺伝子レベル)で身についていますが、機械やコンピュータとの付き合い方はそれこそ個々人がそれぞれ苦労して身につけるほかない状態なわけです。それが人間の行動にあったデザインになっていなければ使いにくくもなるし、イライラさせられるような経験を与えるものになるのは当然なわけです。

結局のところ、自分は人付き合いが苦手だと自称するようなコンピュータ・オタクでも実はなんだかんだいって、ヒトはコンピュータとの付き合いより人付き合いのほうが向いているのです。

よいデザインの4原則、ふたたび

ここで、昨日の「よい概念モデル」でも紹介したノーマンの「よいデザインの4原則」というものに違う見方ができるようになってくるのではないかと思います。

実際、「自分が動くから他人が動く(あるいは、よいデザインの4原則と行為の7段階理論)」では「よいデザインの4原則」をベースに、「よい人間同士のインタラクションのための4原則」なんてものを考えてみました。

再掲します。

  • 可視性:目で見たり話を聞いたりすることで相手は、あなたの状態とそこであなたに対してどんな行為をすればよいのかを知ることができる。
  • よい概念モデル:あなたは、相手がちゃんと理解できるよう自分のパーソナル・ブランド・イメージを提供すること。そのイメージは他人があなたに対して思い描きそれに基づきあなたに接する際のイメージとその交流の結果の相手の評価のあいだで整合性があり、一貫的かつ整合的なあなたのイメージを生むものでなくてはならない。
  • よい対応づけ:相手の行為と結果、あなたの内なる状態と相手の目に見えるあなたの状態の間の対応関係を確定することができること。
  • フィードバック:相手は、自分の行為の結果に関するあなたからの完全なフィードバックを常に受けることができる。

こんな風に書くとややこしいですが、結局、人同士がうまく付き合うためには、お互いに何を考え、どんな不安や期待をもっているかがわかりあえたり(可視化)、相手の行為が何を目的したものかわかったり(よい対応づけ)、相談したらちゃんと適切なアドバイスがもらえたり(フィードバック)、そもそも自分と相手の関係が明示的で不満を感じない状態だったり(よい概念モデル)することが大事なんです。

本当の意味での人間中心のデザイン

そして、何百万年も経て、お互いにインタラクションするようにできた社会的な生き物として進化してきたヒトにとって使いやすいデザインっていうのは、そういう人同士のインタラクションに近い形で行うことができるものに必然的になってくるのだと思うのです。

それが本当の意味での人間中心のデザインなんですよね。
よく誤解されがちだと思いますけど、何も人間の気持ちを考えてつくるとかじゃないんです。

前に「私的インフォメーション・アーキテクチャ考:番外編:サバンナに合うように設計されたヒトの意識」というエントリーでも紹介しましたが、

人間の意識は、都会というジャングルではなく、更新世のサバンナに合うように作られている。

んですから、そういうヒトの意識、認知の仕方、行動の仕方にあわせたデザインを考えることが、結局のところ、人間の欲求を満たしやすい人間中心のデザインになると思うんです。

人間中心というとどうも「人の気持ち」とか「好みや主観」に焦点をあてることのように誤解されてるような気がしますけど、そういうんじゃないんですよね。
主観や意識を超えた生物学的な身体に埋め込まれた行動の仕組み、認知や情動の仕組みに焦点をあてるのが本当の意味での人間中心のデザインです。

  

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