記憶、物語、分析、そして、創造性

論理と物語について。」にnoriさんから興味深いコメントがあったので、あらためてエントリーを立ててみます。

文脈の重要さに着いては私も数年来着目していました。
一言加えたいのは、論理と物語は対概念ではないという事です。論理という一般化の機能を持つレイヤーが下層に前提としてあり、そのレイヤーを下層に眺めつつ、ある文脈に沿ってどのトピックが特定の文脈にとって重要であるかを示す上層レイヤーが物語なのかなと考えます。

論理と物語の関連のしあう形はnoriさんに同意なのですが、僕はこの下層/上層の関係が逆なんだと思っています。
というのは、いわゆる記憶ってのがそうだと思うから。

エピソード記憶と意味記憶

記憶のなかにはいくつかタイプがあるようです。
前に「私的インフォメーション・アーキテクチャ考:14.記憶の構成、世界の広さ」でもこんな風に紹介しました。

記憶の分類の方法としては、ラリー・スクワイアの記憶分類が有名です。スクワイアの記憶分類では、記憶は30秒から数分の短い期間しか保たれない短期記憶と、基本的には忘却しない限り、死ぬまで保持される長期記憶の2つに分類されます。また、意識的な記憶ではないものとして感覚記憶という3つ目の分類要素もあります。

この長期記憶がさらに3つに分類されます。

  • 手続き記憶:飛んでいる獲物を空中で捕らえるなど、学習した一連の行動に関する記憶。人間でも言葉でうまく説明できない暗黙知的な技能はこの手続き記憶に相当する。すべての動物はある程度の手続き記憶を持っていると思われる。
  • エピソード記憶:自分の経験や出来事などに関連した一連のエピソードの記憶。全体のエピソードから個別の部分を抽出することはできない記憶。エピソード記憶は鳥と哺乳類に特有であるように見える。
  • 意味記憶(模倣記憶):意味記憶は人間だけが有する記憶システムで、エピソード記憶が自分が実際に経験した一連のエピソードを全体的に扱うことしかできないのに対して、意味記憶では部分を抽出することで、実際には経験していない想像上のシーンも構成することを可能にする。


このうち、言葉で表現できる記憶は陳述記憶と呼ばれ、エピソード記憶と意味記憶がそれに当たります。
この2つのうち、エピソード記憶は、文字通り個人的体験や出来事に関する一連の記憶で、ヒトだけでなく、類人猿にも備わっているといわれる一方で、もう片方の意味記憶は、言葉の意味や世界のあり方についての記憶で、こちらはヒトのみに備わるものだという点がポイントかと。

僕はこのエピソード記憶が物語のベースになるものだと考えてます。

物語は、数字や個別の事実などより覚えやすいといわれます。一連の出来事を記憶しておくことができる類人猿も、そのエピソードを細かな要素に分解してそこから新たなエピソードを再構成することはできないそうです。

ようするに僕が思ってるのは、エピソード記憶のほうが生物にとってはより根源的なレベルにあるのではということです。

全体的で操作的なコミュニケーション

一方、人間だけがもっているという意味記憶。こちらは以前に紹介したスティーヴン・ミズンの『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化』における言葉と音楽の起源としてのHmmmmmという仮説を思い起こすと、エピソード記憶との関係がより明確になってくるのではないかと考えます。

Hmmmmmと名づけられた前言語的、前音楽的な人類の祖先のコミュニケーションは、Holistic=全体的で、multi-modal=多様式的で、manipulative=操作的で、musical=音楽的で、mimestic=ミメシス的だったとミズンは考察します。

「Holistic=全体的」であること、「manipulative=操作的」であることがポイントでしょうか。

つまり、Hmmmmmによるコミュニケーションはいま僕らが使っている言葉のように単語を分割したり、それを組み合わせたりすることができず、エピソード記憶が一連のエピソードそのもの以外をあらわさないように、アブラカダブラという呪文のように全体的で、かつ、操作的だったということです。

言葉がそういうものだと結構困ります。
単語を要素として認識できず、要素の組み合わせが行えない場合、言葉を使って分析したり、言葉の組み合わせで新しい何かを創造することができないということなのですから。
この分割不可能、組み合わせ不可能なコミュニケーションから、分割可能で組み合わせ自在のコミュニケーションへの移行は、文字通り、意味記憶の誕生と期を同じくするもののはずです。

そして、そこではじめて論理は可能になる。

意味記憶の再構成による物語の創出

そういう意味で、僕はむしろ論理と物語の関係は、論理が下層で物語が上層ではなく、物語が下層にあり論理がその上にのるものだと考えます。
事実としてのエピソード(原物語)の知覚があってはじめて分析的、論理的思考は可能になると思っています。もちろん、さらにその上に再構築された物語が創造されることがあっても、それは本来的にヒトという生物がエピソード記憶のほうを利用するのに長けているからではないかと思うのです。

映画監督や作家などの物語を紡ぐ事を生業としている人たちの仕事というのは、このそれだけでは何の意味を持たないように思える無数の科学的な真実や、日々日常的に起こりうる無数の些末な出来事から、その要素を、ある「コンセプト」に基づいて選択的に取り出し、受け手にとってインパクトとなりうる物語を作り上げるという事だと思います。

「文脈」に加えて私が注目していたのは「コンセプト」なんですが、その「コンセプト」の役割は、まさに上に記した通りだと思いますがいかがでしょうか?

物語を紡ぐスキルをもった人たちがコンセプトを抽出するということはあるでしょう。
でも、僕はむしろ、そういう人たちが分析的スキルによるコンセプト抽出とともにもっているはずの、より包括的に調和的に全体を捉える能力こそが人々の共感や感動を生み出す物語を紡ぐのにもっとも必要とされる力なのだと思うのです。



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