定義と解釈:情報社会を生き抜くためのスキルの開発

2日間連続で会社に泊まったので、眠くて仕方がない状態ではありますが、「定義と解釈」について思うところがあったので、とりあえずメモ書き程度の気持ちでエントリー。

コンプライアンス重視とか、ブログの書き手の意図の勘ぐりだとか

昨今の流れで、企業をはじめとする組織にはコンプライアンスをこれまで以上に重視しなくてはならない方向に社会は動いています。
最近ですと、プロ野球球団・西武の裏金問題とか、TBSが格闘技番組で架空のネット掲示板を映したりという話など、メディアが流すニュースでもそうした報道が目立ちます。

それとまるで足並みを揃えたかのように、個人同士のレベルでも、ブログなどの情報に対して、他人が「釣り」だとか「ネタ化」だとかと、その情報の真偽とともにブログの書き手の意図を勘ぐったりする傾向が見られたりします。

情報の正しさを個人が判断する必要性

よく言われることは、情報社会において情報の正しさは個人が判断する必要があるということです。
企業のコンプライアンスの姿勢を問う報道も、ブログの書き手の意図の勘ぐったりすることも、「情報の正しさを個人が判断」しようとする心がけの表れなのでしょうか?

この場合、騙すほうも悪いが、騙されるほうも悪いというのが基本姿勢になるのでしょう。これはこれでいいのかなと思います。
ただし、騙すつもりがなく、組織や個人の解釈が一般に正しいとされる定義とは違っていた場合などはどうなのでしょう。そんなことは日常茶飯事、往々にしてあることだと思います。

定義と解釈

もちろん、これを勝手な解釈をして間違ったほうが悪いとカンタンにいえるケースもあるでしょう。しかし、すべての場合がそうであるわけではない。定義自体が曖昧だったり、知られていなかったり、そもそも定義が存在しなかったり、何が正しいのか判断できないケースも数多くあります。

この場合、情報を発信する側も、それを受けて何がしかの解釈を行う側も、情報の正しさを判断する上で依って立つべき確固としたものはないということになります。

コミュニケーションにおける定義と解釈

一方の解釈と他方の解釈がズレていると、コミュニケーションは成り立ちにくいということが言えると思います。何かしら確固とした定義があり、双方とも努力さえすればその定義に依拠した発言が可能なのであれば、双方の解釈のズレも埋める手立てがあるということになるでしょう。

しかし、どんなに確固とした定義をベースにしたところで、そこには双方の解釈が入り込みます。双方とも主観的な性格をもった意識をベースに話すしか方法がないので、双方が定義そのものを一字一句間違わずに言い合う以外に解釈を除去する手段はありません。しかし、双方が定義を一字一句言い合うだけなら、それはコミュニケーションとは言わないでしょう。

そう考えると、定義があろうとなかろうと、コミュニケーションとは一方と他方の解釈をぶつけあうことだと言えるかと思います。双方認識している定義があれば、双方が同じものを見ているとうことだけは確認しあいやすいので、その分だけ、コミュニケーションはスムーズになったりはします。
しかし、同じものを同じ意味で、すなわち同じ解釈で見ているかは、その解釈をぶつけ合う以外にはわからない。そして、困ったことにぶつけ合ってもわからないということは往々にしてあります。

どう解釈するかではなく、どう定義し責任を負うか?

こうした状況において何が正しいかをコミュニケーションの中で、双方で確認しあうことは必ずしもうまくいくとは限りません。

こうした前提があって、先の「情報社会において情報の正しさは個人が判断する必要がある」ということを考えてみたほうがよいのではないかと思います。

どういうことかといえば、情報の正しさを個人が判断するというのは、何か正しい答えがあって、目の前の情報がそれに照らし合わせて正しいかどうかを判断するということとは根本的に違うものだと考えるべきなのではないかと思うのです。

むしろ、求められているのは、目の前に与えられた情報の自分自身の解釈が正しいかどうかを定義せよということなのではないでしょうか? どう解釈するかではなく、どう自分が定義するのか? 自分はその定義に対して自分以外に責任を負うものがいないということがどれだけ認められ、行動レベルでの実践に落としこめるかということなのだと思います。

拡大解釈なのだろうと縮小解釈なのだろうと解釈することからは逃れられない

こうしたパースの記号学や公文俊平さんの情報社会学というものを考え直すと面白そうだなと感じます。また、面白そうだと思うと同時に、その作業を進めていく必要があるなとも感じます。

どう解釈するかが問題ではない。それが拡大解釈なのだろうと縮小解釈なのだろうと解釈することからは逃れられないのだとしたら、むしろ、重要なのはそれが自分の下した定義であるとその責任を認識することが肝要なのだと思います。人の解釈を批判することよりも自分の解釈という定義をどう他者に対して責任をもつものとして認識、行動できるのかでしょう。

それが情報社会に求められる生きるためのスキルの1つなのかなと感じます。

そして、自分の解釈が解釈だと認識するために、とにかくできるだけ多くの他人の解釈という情報を浴びるように学ばなくてはならない。自分の解釈を正当化するのではなく、その差異を際立たせるために、とにかく勉強のための時間を惜しんでいるヒマはないのだと思います。

他者から学ぼうともせず、同時に自分の解釈に安寧していては、きっとこの情報社会において得るものは少ないはずです。

 

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