不可視な結びつき、匿名のアイデンティティ

ちささんは大西さんが言うところの「コミュニティ内で匿名であることによりアイデンティティが持てない」という問題をどうも捉え間違っているのではないでしょうか?。

人はコミュニティのなかでしか自分の顔を確かめることができないわけで、匿名であるということは個人としてのアイデンティティを持てないということであり、それを貫いて生きていくというのは辛いことです。コミュニティの復権は、個人のアイデンティティの復権の問題でもあり、いったん失われたコミュニティを社会が取り戻すには時間がかかるとはいえ、きっと社会的なニーズとして大きなトレンドとなってくるものと思います。

しかし、コミュニティ内でのアイデンティティがないことを「匿名」というのも少し違和感があります。そして「コミュニティ」の考え方にも違和感を覚えます。

そもそもアイデンティティというのは、自身と誰かほかの相手との相互関係のなかで生まれてくるもので、一般に信じられているように、個のなかに存在するものではありません。

ヒトの意識が脳の中に閉じ込められたことはいまだかつて一度もない

その意味でちささんが引いてらっしゃる梅田さんの次のような言葉にも実は盲点があるんです。

これまでは人間の脳という物理的な制約の中に閉じ込められてきた個人の経験や思考が、これからは他の人たちとゆるやかに結びつき始めるのである。

個人の経験や思考が完全に「脳の中に閉じ込められた」ことなんて、いまだかつて一度もないということがここでは語られていません。
梅田さんはおそらくわかって書いてらっしゃるのでしょうけど、「これからは他の人たちとゆるやかに結びつき始める」というのは、実は本当に「結びつき始める」わけではなくて「元々結びついていたものがあらためて結びつき始めたように見えるようになる」という可視/非可視の問題でしかないはずです。

アイデンティティそのものが社会的コミュニティを前提としている

ようするに、Web2.0的なものがあろうとなかろうと、脳が外部環境や他人の視線や意識との結びつきを回避することは不可能であり、脳が生み出す意識そのものが外部環境や他人の見る目によって成立している以上、結びつきなくして自己のアイデンティティそのものが成立しません。
このことは幼児期の自我形成の時点でも顕著に見られることです。これについては「私的インフォメーション・アーキテクチャ考:13.言葉の前に・・・、言葉の後に・・・」で紹介していますので、こちらを参照ください。

そもそも人間的な高度な意識や自己というアイデンティティの認識そのものが社会的生活を強いられたヒトという種が、その社会的生活を円滑にするためには自身のアイデンティティ、そして、他者のアイデンティティの認識ができたほうが優位であったために自然淘汰的に獲得したものであるはずです。アイデンティティそのものが社会的コミュニティを前提とした機能である以上、そこに別のコミュニティやアイデンティティを想起する必要はないと思います。

ここにおいて、大西さんがコミュニティにおける匿名性の問題をアイデンティティと関係付けて語ってらっしゃる意味が見えてくるわけです。

匿名のアイデンティティ

先に引用した箇所の前に大西さんは次のように書いていらっしゃいます。

この匿名によるさまざまな問題はあたかもネット特有の問題として取り上げられがちですが、ネットだけの問題ではありません。社会のなかでコミュニティの機能が劣化してからというもの、リアルな世界も、ネットよりも先に匿名の社会となってしまったわけで、よほど犯罪でも犯さない限り、匿名で通過していく人々の群れのなかでは、旅の恥はかき捨てとなり、傍若無人の行動も平気ということになってしまっています。

「旅の恥はかき捨て~」の部分は、ちょっと単純すぎるだろうとも思いますが、それがネットの問題ではなく、社会そのものにおけるコミュニティ機能の低下である点は、とても同意します。

しかし、より正確に言うなら「コミュニティ機能の低下」ではなく「コミュニティ機能の変容」だと思うのです。

つまり、現在のコミュニティには匿名のアイデンティティが紛れ込んでいるというのが問題なわけです。普通に考えれば、匿名であろうが、その背後に誰かしらの人がいるのは認識できます。しかし、それは匿名で顔をもたないがゆえに行動も異質で、通常のアイデンティティをもった人のように、周りの人には認識できないでしょう。それでも、人であると認識するがゆえに、その匿名性の背後にアイデンティティを見てしまうわけで、そこが非常に気持ち悪いのではないかと。

コミュニティ機能の変容

いま読んでいる下條信輔さんの『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』という本から、このことに関連していると思える面白い例を紹介しましょう。

サルの脳の側頭部にある扁桃核という、情動や社会的行動に関係した部位を切除するという実験を行なったところ、切除されたサルにはそれほど大きな変化は見られず、逆に周囲のサルたちがパニック状態を引き起こしたそうです。

サルの集団には強い社会性があり、密接な個体間の相互作用があります。そのために、扁桃核切除の直接の結果である微妙な行動や情動表現の異常が観察者=研究者の目には見えず、しかし、ほかのサルたちから見れば明らかに異常なので、増幅され目立つかたちとなって彼らの行動にあらわれたと考えられるのです。
下條信輔『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』

これはヒト同様にミラーニューロンをもつサルの集団だからこそ起こりえたことだといえるのでしょう。ミラーニューロンはサル真似ニューロンといわれているとおり、他者の行動の意味を理解する際に活発化するニューロンだといわれています。
もちろん、ヒトとサルでは「他者の行動の意味を理解する」程度に差はあるでしょうけど、それでも、この実験で他のサルが扁桃核切除をしたサルの心が読めなくなったからこそ、パニックに陥ったということはわかります。

これと同様のことが、匿名のアイデンティティにもいえるのではないでしょうか? そして、匿名のアイデンティティの場合、匿名で演じている人自身は実は正常なわけですから、まわりがパニック状態になる反応を予期できるわけです。ここではミラーの相関関係が通常とは異なり、一方向的になる。ここに匿名性の不気味さがあるのだし、そうした不気味さを抱えつつ、ちささんが言うような「コミュニティ内でのアイデンティティがない「匿名」の意見かどうかにこだわらず発言された「知」としての事象を真摯に考える、またはそのように発言された裏の意図を読み取ることが大事」になってくるような「コミュニティ機能の変容」が見られると思うのです。

不可視の結びつき

そして、これは単に可視化された結びつきの範囲で考えるべきことではないと思うのです。見えているものだけが結びつきなのではなく、言葉にされたものだけが結びつきなわけではないのですから。

情報というものを狭義にとらえすぎだと思うのです。情報をそのような意味で狭義に捉える点では、まったく、Web以前の世界観との違いはないわけです。
その点で、大西さんが問題提起されてらっしゃる「匿名とアイデンティティ、そして、コミュニティ」の問題を超える点は、結びつきの可視化そのものには感じられません。それは情報をそのように捉える社会である限り、変わらなくそこに存在してしまう気がしています。

ヒトがどのように情報を捉え、そして、その情報の享受がヒトのアイデンティティや社会的コミュニティにおける可視/不可視の結びつきにどのような影響を与えているのかを考慮しない限り、群集の叡智だろうがその逆だろうが、ヒトを幸せにすることはないのではないでしょうか?

ヒトと情報との結びつきの考察がまだまだ社会的に甘いといえるんじゃないでしょうか?

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