書物の変―グーグルベルグの時代/港千尋

1640年に開設されたパリの国立印刷所が政府の決定により縮小、移転が決まった時期。
港千尋さんは、そのことに対して本書『書物の変―グーグルベルグの時代』のなかで、次のように書いている。

しかしそれがEUの現実だということを、活字造りや組版の職人たちと毎日付き合いながら、わたしは知った。国の歴史を印刷してきた機関が犠牲にされるように、EUは、歴史的な価値を犠牲にしているのではないかと彼らは見ているのだ。おそらく見えないところで進行している消滅は多くの分野で進行中だろう。

歴史は書物がつくる。
書かれない歴史はない。歴史は記録されてはじめて歴史という価値をなす。書物というメディアはまさに歴史にとって不可欠なメディアである。

パリの国立印刷所というのは、グーテンベルグの時代から活版印刷のための活字をつくっていた場所なのだそうだ。それがEUという国境を越えたヨーロッパ統一の流れと経済の潮流のなかで消えていく。
まさに歴史をのせるメディアが消え、歴史が消えていく。

EUの傘を拡げるのはいい。しかし効率と競争力を至上とする流れにまかせれば、ヨーロッパの背景が溶けて崩壊してしまうのではないか。文明の危機が進行中だということを知っているのは、文明の基礎で働いている人間だろう。多くの人がそれぞれの現場で、そのことを感じている。文字を彫り、成形し、組み、刷ってきた人たちにとって、NとOの二文字は、歴史を存続させるために必要な文字だったのだろう。

書物の危機は、単なる紙に印刷された本というメディアのみの危機だろうか?
この『書物の変―グーグルベルグの時代』という本は、グーグルやキンドル、iPadの時代にそう問いかけている。

待機する群衆

そのグーグル&キンドルの時代に、著者は「群集=読者」の変質をみる。

そもそも群集=読者自体が、書物の大量生産が可能になったグーテンベルク時代以降に生み出された人工的な存在であることはマクルーハンなどによってもさんざん論述されている。
その時代以降の変化に関しては僕自身も「デザインの誕生」という一連のエントリーでも考えていたりもする。
群集は古くから存在していたのではない。それは大量生産技術とともに生み出された人為的な存在である。大量に生産された複製的な生産物の流通がなければ、群衆はない。

ところが、その群集が紙に印刷された書物の時代から、インターネット上のテキストをモバイルかつポータブルなデバイスによって閲覧可能になったことで変化していることに著者は考えをめぐらせる。

この群衆も、「読者」という形でそれを生み出したグーテンベルグの時代の見えるボリューム=量としての群衆から、グーグルやキンドル、そして、ツイッターの時代となって、目に見えない待機する群衆に変わったのだ。

待機する群衆は、最後の瞬間まで心を決めず、残されている時間がある限り情報を収集しようとする。従って、最後の瞬間まで群衆がどちらを向いているかは予測不可能である。見えないのだ。だが、その待機する見えない群衆が購買や選挙などのさまざまなシーンにおいて影響力をもつ。

待機する群集も、自分の意見をもたないという意味では以前の群集と大きく変わりがないだろう。しかし、待機する群集がそれ以前の群集と異なるのは、みずからの存在を寸前まで隠している点だ。
隠れていながらも、そのときになればわっと姿をあらわす。しかも、それ以前に流布しているさまざまな他人からの情報の影響を受けつつ、あたかもそれが自分の意見であるような顔をして、突然姿をあらわすのだ。

それが先の引用にあるように、社会を大きく動かす。
これが治世者などにとっては、この上なくやっかいな存在あることは想像すればわかるだろう。

世界の秩序

そうした自覚のない群衆と化した人間が影響を与えるのは、なにも治世者や経済や社会などだけではない。
いや、そうした群集を前にした治世者の側である人間もまたどこへ向かうかがわからないまま、災いへの道を歩む。

著者は、1775年のリスボンの大地震に際して、ルソーがいった言葉、「わたしたちの言うがままに、世界の秩序を変えなければならないというのか。わたしたちの法に自然が従わなければならないのか。わたしたちが都市を建設した場所では、地震を起こすことを禁じるというのか」を振り返りながら、思考を連ねている。

自然はルソーの問いに答えない。それは自然のブラックボックスである。自然のブラックボックスを認めるしがない。しかし権力はどうであろうか。これらの問いを肯定したいと駆られぬことなどできるだろうか。いうがままに世界の秩序を変え、自然が法に従い、この都市で地震が起きるのを禁じる。もしこれらの問いに答えようとするならば、担保されるのは、ほかでもない群衆である。そして少なくとも現代文明の方向は、これらの問いを肯定しようとしているように見える。

地震が災害であるのは、そこに人の暮らしがある場合である。人が暮らす社会は、その災いのもとである災害を回避しようとする。「いうがままに世界の秩序を変え、自然が法に従い、この都市で地震が起きるのを禁じる」。

だが、その禁止はいったい誰のための禁止で、その有効性はいったい誰が担保するのだろうか?

著者はそれが群集にゆだねられているという。
だが、その群集は残念ながら、待機する群集だ。
その群集は待機した結果、賢明に「NとOの二文字」を刻むことができるのだろうか?
手元のデバイスに表示された目先の情報に踊らされ、間違った方向に流されることはないのだろうか?



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