僕らは自分たちが何処に向かおうとしているのかを知らない

知らないくせに知っているふりをしているのか。
それとも、知らないということにさえ気づいていないのか。
とにかく、僕らはいろんなことを知らなさすぎるし、知ろうとしなさすぎる傾向がある。

たとえば、「常識という無知」でも、すでに引用したように、ランスロット・L・ホワイトは『形・生命・創造―科学と宗教を超える「体験の宇宙」』で、こう言っている。

諸科学がもっている最も発達しかつ基礎的なものが、その行いつつあることの何たるかを知ってはいないのだ! 「測定すること」もむろんその例にもれないが、最新の諸理論の述語では、測定ということは一体正確には何を意味しているのか? 物理学者たちは知らないのだ!

「測定する」とはどういうことかも知ることなしに、測定をし、測定した結果を信じ、測定結果を利用している。

同様に、僕らは、自分が日々成していることが何なのかを知らずに、何かそれが未来のためだと思って、行動している。知ることを先延ばしにすることで、僕らは未来のために現在を賭けている。
バタイユが問題としているのは、そのことだ。未来のために現在の瞬間を犠牲にするのは人間の悪癖である。

たとえば誰かが料理を、ロースとかグリルを用意しているとして、肉が調理されているときとテーブルの上でそれが食べられているときとの間には切断があります。食べることと調理することの間には不均衡があるのです。(中略)この切断が人間と動物を区別しているのです。動物はすぐに媒介なしに食べ、その食べ方は貪欲です。つまり動物は延期しない、原則として何ものも後に延ばすということはありません。
ジョルジュ・バタイユ『非‐知―閉じざる思考』

動物は媒介をせずに世界を食す。一方、人間は調理というインターフェイスを介してしか世界に関わることができない。いや、調理に限らず、インターフェイスという媒介を用いて、瞬間的な接触を先延ばしにすることではじめてヒトは世界に触れるのだ。

インターフェイスへの従属

人間は動物ではない。動物が生殖のために行う性行為を快楽のためだけに行うことができる。生殖という目的を保留することができ、その自らに設けた禁止が性活動をエロティシズムの領域に置くことができる。禁止という意味づけ・ルールが世界に触れるインターフェイスとなっている。ただ、それは直接的な世界への接触を先延ばしにする媒介でもあるのだ。

しかし、同じ先延ばしでも自らが用いるインターフェイスが何か(例えば「測定する」と何か)を知った上で利用するのと、意味もわからず、ただ便利だからという理由で使うのでは大きな差がある。自らが用いるインターフェイスが何かを知るということは、そのインターフェイスの限界を知るということでもある。

本来、インターフェイスはその限界-無能さ!-を理解してこそ使う価値がある。そうでないのなら、ただインターフェイスやそれがもたらす幻想に従属させられているだけ、使われているだけだ。

どこへ向かうのか

とりわけ、問題だと思われるのは、僕らは自分たちが何処に向かおうとしているのかを知らないということではないだろうか。つまり、目的やゴールを見失ったまま、ただなんとなく日々をすごしているという状態が全人類的に広まってしまっているように思えることだ(そのことはランスロット・L・ホワイトが『形・生命・創造―科学と宗教を超える「体験の宇宙」』のなかで考察しているが、それはまた別の機会に書くことにしよう)。

こうした自体は、そう昔からはじまったことではないはずだ。

例えば、吉田桂二さんの『間取り百年―生活の知恵に学ぶ』という本に、こんなことが書かれている。

戦後の日本は過去の全否定から出発した。「一億総懺悔」という言葉が合言葉のように聞かれた。日本の過去はすべて悪だから捨て去れということだが、これがその後の住宅と過去との断絶的な大変貌の貴店になったと確実にいえる。

「日本の過去はすべて悪だから捨て去れ」というのは、いま思えばすさまじいが、これほど明確な目的や行動の指針となるものもない。

それによって起こった変化の具体的なものとしては、

  • 終戦以前は9割が借家住まいだったが、戦後は逆転して住宅の自己所有率が9割を超えた
  • 戦前の家庭での就寝形態は、大人や子供、老人の区別はなく、男は男、女は女でまとまって寝る性別就寝だったが(東南アジアにみられる就寝形態だそうだ)、戦後は現在のように夫婦と子供が別に寝る形態に変わった
  • 畳敷・床座で厳密に特定の用途を持たず多目的に使用されていた部屋割りが(ただし、客用と家族用の区別があった)、公的空間としてのLDKと個室の分離をはじめ、個々に用途が振り分けられた閉じた空間の部屋と椅子座による空間に変化した


などがあげられる。
日本的な事情を踏まえつつ、モダンデザインの生活改善のヴィジョンに従った具体的な行動(つまり未来のために現在を犠牲にした労働)であったといえる。

いつまで「とりあえず」なのか

モダンデザインの生活改善のヴィジョンといったが、柏木博さんはそれを「理想的生活や環境へのプロジェクト」という言葉で示している。その上でそのヴィジョンの夢が崩壊した現在の状況を次のように嘆く。

それは理想的生活や環境へのプロジェクトとしてあった。それらが忘れ去られた現在では、デザインは、「市場システム」のゲームとして展開されたり、あるいは、どうせ捨てられるものとして「とりあえず」使うものとしてデザインされている。
柏木博「おわりに モダニズムの展望」
柏木博編・著『近代デザイン史』

まさにモダンデザインの夢が敗れ去ったあとの「とりあえず」の状態のまま、自分たちが何処に向かおうとしているのかを知らずに、僕らは働き、生産が続けられている。もはや、それが何のためになるかも考えずに、未来に何を賭けているかもわからずに、ただ盲目的に現在の時間を犠牲にしている。それは現在の瞬間を生きるという刹那的で恍惚的な生き方-バタイユ的な意味での「浪費」でもなく、ただ一般的な意味での時間の浪費でしかない。

どうすればいいのかわからないというのは、何が問題かを考え、理解しようとする努力が足りないからこそ、生じることだ。
まずは自分たちが用いて日々を生きているインタフェースが何かを探り、その限界を知ることが必要だろう。自分たちがいま見ているこの世界はしょせん、その欠陥のあるインターフェイスが見せているイリュージョンであることを知ろうとすることからはじめなくてはならない。

 

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