現実は不可分であると感じる感性

今日はあらためて気づいたことがありました。

すこし前に「文脈から切り出し、抽象化する」というエントリーで書いたように、自分が観たもの、体験したものから特定の要素を抽象化する力が必要になります。そして、この抽象化の力というのは、記憶を文脈から切り離して抽象化し、コンテキストに依存しない形の意味記憶を生成できなければ、現実を分析して問題を発見し適切な改善を行うことはできないので、人間の進歩には必須の力です。

でも、今日気づいたのは、この抽象化の力に対して、ちょっと待てよ、ということでした。

現実は不可分だと感じる感性が退化してる

大人になればなるほど、僕らは物事を要素に分解して、それを再び組み立てなおして、元のものと違うものを生み出すことを安易に抽象力とか想像力があると考えたりします。

でも、その一方で実は、多感な人たち(例えば年少の人たち)はそもそも、現実に目の前にあるものから簡単に要素を抽象化して取り出すことができず、むしろ、それとこれ(例えば色と素材)とは不可分だというところに引っ掛かってしまうことがある。
素材が同じだとして、色はどんなものがいいですか?と聞いても、目の前にある素材と色をもった物から色だけを切り離して別の物を想像できなかったりする(あくまで例です)。つまり、こちらは色と素材を要素と考えて抽象的な思考をしているわけですが、相手のほうは最初の抽象化の時点でつまづいたりするんです。

確かに抽象化の力がないといえるわけですが、違う見方をすれば、実は僕らのほうが現実は不可分だと感じる感性が退化してるといえるとも思うんです。

現状を維持したまま、工夫する力

これを単純に抽象化の力がないとか、想像力が欠如してるとか考えちゃまずいなと思うんです。確かに、抽象化の力も想像力もないんですが、現実を安易に要素へと還元せずに感性できちんと物自体に迫っているともいえるからです。

抽象化というのはいうまでもなく現実にあるものの中から、抽象化する人自身が不必要と感じたものを切り捨てたり、そもそも目に入っていなかったりといったことで、現実を歪曲化、単純化する知的作業です。そこでは必ずいくぶんかの現実からの乖離が起こる。それが度を越せば、昨日の「コミュニケーションの無目的性と身体性」で書いたようなコミュニケーションを言語的なものだけの狭い範囲に押し込めたり、言葉で考えることと現実にあることの違いがわからなくなるような状態になってしまう。ようするに現実から乖離して頭でっかちになるわけです。

一方で、抽象化や想像が苦手な人というのは、現実をそうやっては見ていない可能性が高い。もちろん、言葉を話している時点で、抽象化の力も想像力も備わっているわけですが、それでも、むやみやたらと現実を要素に分解して、その組み合わせで新しい発想が生まれるなんてことを安易には信じていないし、それをしようとも思わない。

これって実は現状を維持する力、現状を引き受けた状態で工夫によって問題解決をしようとする力としては、抽象化の力より勝っていたりもします。言葉で論理的に(かつ常識的に)考えたのでは生まれない発想が、子どもからは生まれやすいのはそういう面もあるのかなとも思ったり。

分析するベクトル、統合的に受け入れるベクトル

とうぜん、これってどっちがいいという話ではありません。

現状の問題を発見して、それを分析的に改善しようとする際に必要な抽象化力や想像力は、人を取り巻く環境の改善には不可欠な力ですし(そうした例は僕が解説を書いた『フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論』に山ほど紹介されています)、一方で、物事を要素に分解せずにありのままを受け入れて統合的な視点でみる力は外の環境の改善よりも自分の側の工夫へと向かわせます。つまり、それは現状維持かつ自身のワザ研きへと向かう。

このどちらも人間にとって大事なのはいうまでもありませんよね。
ただ、大人である僕らや、現代の思考の方向性は、すこし抽象化やそれにより創造的/想像的改善に偏りすぎの感はあると思います。
ここはすこし意識的に、子どものようなありのままの現実を受け入れたままで工夫するというアナロジカルかつ象徴的思考を取り入れる努力をしてみる必要があるのかもしれませんね。



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