形をめぐる冒険のはじまり

さっきも書きましたが(cf.「古を知ることから新しさが生まれる」)、ランスロット・L・ホワイト『形の冒険―生命の形態と意識の進化を探る』を昨日から読み始めました。
実はこの本、あるところで僕自身の「冬休みの課題図書」として7冊ほど挙げていたもののうちの1冊ですが、いろいろと寄り道しているうちに、すっかり存在を忘れていました。

それを思い出したきっかけが、twitter上での@miiiyamさんとの「飾り」に関するやりとり。そこにタイミングよく@MURAIIIさんの、40年前の設計図面から「手描きの線の濃淡使いがうまくて、設計意図がすごく伝わってくる」という話がタイミングよく重なってきて、さらに@yusuke_arclampさんの「手紙でもメールでも情報に形を与える意味では同じ。ただし、手紙では身体性の痕跡が情報そのものに残り、メールではデータという論理モデルに抽象化される」なんてつぶやきが目に飛び込んでくると、これは「形の会」なるものを開いて、徹底的に話をしてみるとおもしろそうだなということに。
この一連の流れは、ご面倒でも僕のTLを辿っていただくこととして、とりあえず3/4(木)に先の3人の方とまず第1回の会合をもつことに決定。

そんな流れの中、あらためて形というものを考える材料を取り込んでおこうと思って、手に取ったのが、ランスロット・L・ホワイト『形の冒険―生命の形態と意識の進化を探る』です。最初に何を読もうかなと思ったとき、頭に浮かんだのは杉浦康平さんらによる『形を遊ぶ』でしたが、本棚を見てこの本があったのを思い出したわけ。当然ながら、先に「冬休みの課題図書」に挙げていたくらいなので、読みたかったんです。そこに加えて僕自身のなかで新たに読む際のテーマが見つかったんですから、これは俄然読む気がわいてきたというわけ。

「形」に対する思考の喪失

そもそも、僕がこの本を知ったきっかけは、松岡正剛さんの千夜千冊でこの本が紹介されているのを偶然見つけたからでした(どういう流れだったかは残念ながら記憶してません)。

松岡さんは、〝「過去の伝統」と「現在の経験」と「生産的行動」の3つのバランスが崩れている〟と、ホワイトがこの本の最後で「失望」を記述していることを紹介したうえで、こんなことになった理由の1つに「思考そのものが内的秩序を失っている」ことをあげ、次のように述べています。

結論を先にいうと、われわれは「形」に対する思考を失ったのである。形態が生成されるプロセスに何があるかということに思索を集中しなくなったのだ。
そもそも人間は象徴機能という独自の特徴をもつ動物だったはずである。多様な複雑な動向の中から任意のパターンを選び、それを別のパターンと比べることができ、それらの作業を通しながら、さらに新たなパターンを創出する能力をもっているはずだった。

パターンの比較から、新たなパターンを創出するというのは、まさに松岡さんのいう「編集」です。そこに形・形態が欠かせないものであるというのは僕自身の見方でもあります。象徴機能が人間独自の特徴だとしても、形を使って象徴化を可能にするには形を分別してパターン化する下部機能が先に備わっていなければならないはずです。

そんなことが元々考えにあったので、この冒頭の一文を読んだだけで、『形の冒険―生命の形態と意識の進化を探る』を読みたくなった。そして、すこし時間は空いたものの、実際に読んでみると、予想していた以上の広がりをもつ本でおもしろい。

動く形、生成する形態

おもしろいと思うのは、昨夜読み始める前にtwitterでつぶやいた、こんな形の捉え方に相通じるところもあるからです。

身なりといい、形振りという。そのなり(形/態)は「成り」と同源だそう。そこには固定した形というより変化する形がみえる。

僕は形というものを捉えるとき、それを固定したものとして捉えるよりも、動き変化し生成するものとして捉えたほうがよいと思っています。それは空模様や雲行きを読み、満天の星に星座の物語を描いた、僕らよりもはるかに優れた象徴機能をもっていたであろう、僕らの遠い祖先が何より形・形態を見出したのは、自然のなかでの生死や季節の移り変わり、月の満ち欠けの変化のパターンを発見することから、思考の俎上にあげたのがはじまりだと思うからです。だからこそ、これまでも「古代日本の月信仰と再生思想/三浦茂久」などで紹介してきたようなエントリーで度々紹介してきたような古代人の思想の根幹に、蘇生や言祝による原初の再生があるのでしょうし、長く自然信仰を受け継いできた日本の文化のなかに「型」や「見立て」というものがあるのではないかと思っています。

ホワイトもこの本で「自然に対する人間の最初の解釈が、プロセスと変化をテーマにした神話だったのはこのためだ。おそらく、あらゆる原始的文化にこうした神話は存在していた。それはそのまま、人間の経験に説明を与え、事物をそのものたらしめる理由だと考えられていた」と書いていますが、本来、形・形態とは、物の固定した形というよりも、変化や形成に関わるものだったのだろうと感じます。形は静止しておらず、常に動き、変化している。

形態という概念の探求

@miiiyamさんと「飾り」についてやりとりをしていた時も、実はこんなことをつぶやいていました。

「飾り」とアフォーダンス理論、ユクスキュルの環世界あたりを関連づけて考えるとよいと思います。白川静さんの漢字論あたりもあわせて。

アフォーダンス理論では、まさに人が環境のなかで動くことによる環境との相互作用(インタラクション)のなかで情報が形成されるとみます。ユクスキュルは、生物ごとに世界は違って見えると考え、それを環世界という用語で捉えましたが、それは生物と環境のインタラクションとそこで生物の側が受け取ることが可能な刺激が異なることで、生物の受け取る情報=世界が異なるからでしょう。その意味では、僕らが人間である限り、世界そのものを知覚できることなどなく、あくまで人間中心の見方で常に世界が情報=形態として生成されるのを感じているのだと考えたほうが自然です。世界という形は固定した状態であるのではなく、常に形成されてくるのです。

このあたりは僕なんかよりはるかに的確に、すでに50年以上前のホワイトが捉えています。

ギリシア語のEidosやSchema、あるいはMorphe、またラテン語のFormaなどは<形態(フォーム)>と訳される場合が多いが、これらの語の意味は「すべての事物をそのものたらしめている資質」にほかならない。もしこの定義をそのまま受け入れるとするなら、すべての哲学と科学は事物の形態について研究する学問、すなわちあらゆる事物の背後にひそむ、そのものたらしめている形成原理を明かすための努力だとみなすことができる。

ホワイトはこの本のなかで、人間にとってとりわけ重要と思われる概念として、「数」「空間」「時間」「エネルギー」「歴史過程」「統計」などを含む12の概念を挙げていますが、そのなかに「形態」も含めています。ただし、重要な概念のリストに含めた上で〝<形態>は今のところきわめて曖昧な、さまざまな意味を含む概念〟であるとして、それゆえにあらためて形態という概念の探求を行っているのです。

と、そんなホワイトの探求から50年以上たった今、僕も「形の会」などを通じて、形をめぐる冒険をはじめてみようか、と。そんな風に思う次第です。



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