説明

やっぱり言葉が多すぎるのかもしれない。
いや、言葉だけが流通してしまう状態が多すぎるのかも。

その言葉ばかりを追いかけて、言葉漬けになってしまっている人は少なくないだろう。それは僕自身も含めて。

特に説明的な言葉ばかりに頼る身体になってしまっているのはよくない。
理屈や一般論だけで実態がないのに納得してしまったり、逆に実態がそこにあるのに説明がないと受け付けられなかったり。
論理性、合理的な説明がないとわからない、不安になるという状態はやはり疑問に思う。すべてを論理や合理によって説明可能であると疑わずに、なんにつけ、説明を求めてしまう姿勢はあらためていかなくてはいけないのではないか。

すべてを説明することの不可能性と不満

もちろん「詩のことば、合理の言語」でも書いているとおりで、論理的説明、合理的な説明が必要な場面は多々あるし、それを否定する必要はまったくない。
問題は常にそれを求めてしまったり、論理的、合理的な説明だらけで実態が忘れたり、それに目を向けなくなってしまうことが多いという偏りだ。

行動のモチベーションが理屈に偏りすぎてはいないだろうか。
特に、何か物を買ったり選んだりするときや他人と行動をともにするときがそうではないだろうか。

上司を批判したり、自分が買ったものに文句を言ったり。自分に関わるものを批判する際に、どうも理屈に頼った説明を前提にしている傾向がある。説明がないからわからない。説明が納得できない。確かに上司や商品には説明の責任があると思う。だが、説明できない部分もとうぜんある。すべてを説明に頼ろうとする限り、不満は決してなくならない。それはすべてを説明することは不可能だからだと思う。

言葉でないものに納得する感性

どうも世の中が説明に頼りすぎている気がしてならない。
反対に説明以外の表現で納得する、受け入れる感性が落ちている。

それは受けての側だけでなく、表現する側の問題でもあって、すべてを説明的な表現(あるいは機能的、機械的なスタイル、デザイン)にしがちではないだろうか。
かくいう僕もあまりに自分のことばを説明的なほうに、論理的・合理的なほうに偏らせてしまっていた傾向があったなと最近反省していて、すこしずつそれをあらためようともしている。

説明的な表現、もっというと言葉による表現以外でも、人を納得させる表現というのはある。
歌が人を感動させたり、自然のどうしようもない美しさを前に声を失ったり、他人のがんばりにただただうなづくしかなかったり。もちろん、言葉でも詩のような説明的でない表現に僕らの祖先は何かを感じる力をもっていたはずだ。そういう感性がいま急速に社会から、個人から失われている傾向があるのではないか。

知の衣を脱いで

はたして僕らはそうした言葉以外のものにちゃんと目を向けよう、耳を傾けようという姿勢がとれているのだろうか。

自分の身体を現実のものに晒すことや、他者の言葉にならないしぐさや言葉の奥底にある思いや生き方そのものに自らの防御を解いて触れることでしか、感じられないそうした見えにくい小さな対象を、身体を動かす億劫さやまわりの意見への迎合やこりかたまった頭のなかの理屈で、目にすることなく捨象してしまうのはどうなのだろう?

知の衣を脱がす、あるいは切り裂くことこそが、非―知の第一の働きである。そうなると、人は不安に駆られるが、その不安を笑い飛ばすというのも、非―知の働きにほかならない。そしてさらに非―知は恍惚を伝達する。恍惚とは、西洋語の原義では脱自つまり自分の外に出ていくことである。

僕らはもう一度、論理や合理の糸だけで織られた知の衣を脱いで、詩人のように語り、画家のように見、舞踊家のように舞い踊る自分たちの生を感じることを思い出さなくてはいけないのではないだろうか。不安を笑い飛ばし、その先にある恍惚を思い出すためにも。そして、これ以上、自分たちの生を見失わないためにも。

僕らは弱い。
だけど、弱いからといって、あまりに説明的なものに頼りすぎていては、自分たちの大切なものまでどんどん失っていってしまうのではないか。
僕の弱さは、むしろ、そっちのほうに恐れを感じて、いま自らを奮い立たせている気がする。



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