見本とテンプレート

ひとつ前のエントリー「見本とテンプレート」に続いて、昨日のワークショップ後の懇親会での会話から考えたことを。

ひとことでいえば、方法の個人性について。

方法は個人的なもの

著書『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』でも触れていることだけど、方法というのは自分の身につかないと意味はありません。根本的には個人が何らかの問題を解決する方法というのは、人それぞれ異なる必要があると考えます。

モーツァルトの方法があり、デカルトの方法があり、折口信夫の方法、岡本太郎の方法がある。
方法はきわめて個人的なものであり、自分自身の方法を発明したものだけが社会に新しい価値を生み出すことができる。

といっても、それは何も天才たちの専売特許ではありません。方法はある問題を解く際に、問題解決の答えと同時に生み出されます。何かを解決したなら、意識的であるかに関わらず、そこにはそれを解決した人(たち)なりの独自の方法が生まれていたはずです。

方法の特性

その意味で既存の方法を正しく使うというのは本来不可能なものだと思います。ペルソナにしてもKJ法にしても実はこれが正しいやり方というのはありません。それらは概念的なものとしてどんな問題を解決するためかという適用範囲のドメインと、何を得るためのものかという目的のドメイン、見本としての基本的な手順こそは決まっているものの、それを実際の問題の解決に使う際には、問題解決を行う人それぞれが独自の方法としてカスタマイズしなければ使い物にならない代物です。

それはペルソナやKJ法が方法として出来が悪いのではなく、それが方法というものの本来の特性だからです。

テンプレートではなく見本

ところが方法というものをテンプレートとして誤って理解してしまってる人がいます。穴埋め式のテンプレートのように数値やデータを代入すれば正しい答えが得られるかのように。そうした人にとっては、方法を身につけるというのは正しい答えを生み出すツールとしてのテンプレートを正しく使うための正しいやり方が隠れているのを見つけだすことになってしまっています。なんて神秘主義的な時代錯誤でしょうか。方法をひたすら探しまわる方法依存症。

はじめから何も隠されてなどいないのです。箸の使い方に見習いたい見本はあっても、テンプレートとして使えるものがないように、方法には見本はあっても唯一の正しいかたち=テンプレートはありません。

方法をテンプレートとして使えるものだと考えることに、いつまでたっても方法を自分のものにできない原因はあります。そうではなく、問題解決の方法は常に解決の具体的な解決そのものとともに生み出されるものです。つまりは本気である具体的な問題を解決しようと試みない限り、方法など身につくはずはないし、具体的な問題解決にあたるときにしか人は自分自身の方法を生み出すことはできないのです。

それがひとつ前のエントリーで社会人は遊んでないで仕事をしろと書いたことの意味。遊びでワークショップをしても見本としての方法を体験することはできても、本当の意味で自分自身が使える方法を身につける=開発することはできません。方法を身につける=開発することができる場は真に個人的に、あるいは社会的に解決しなければいけない問題に取り組み、それを解決できたときだけでしょう。

その意味では方法を学ぶというのは勉強ではなく、実践なのです。



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