休み休みでも、最後まで自分が謎だと思うものにこだわり続ける

新しい発想が必要だったり、何か自分の置かれた状況を変えたいと思うなら、自ら進んでむずかしい仕事、手間のかかる作業に、ねばり強く集中して取り組む必要があると思います。
自分にとって未知の対象だったり、どう考えても自分の手に余るのではないかと感じられる膨大な量の情報を前に、ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返してこそ、いままで手にしたことのない突破口というのは見つかるはずです。

それと180度異なる姿勢は、むずかしい仕事に相対したときに要領良く要点だけつかんで、話術や表現力でなんとなく周りも自分も誤魔化してしまうことでしょう。
ほとんど苦労せずに元々自分で理解できる範囲でうまく丸めこんで、わからない部分はやり過ごしてしまうことになるので、そこからはとうぜん、新しい収穫は得られません。

新しい発想には、それを手にするまでの助走が不可欠です。その助走を面倒くさがって手を抜けばラクかもしれませんが、新しい発想などは生まれてきません。
つまり、要領良く要点だけを押さえただけで、何かをわかったつもりになるようなことばかりしていたら、いつまで経っても大した進展も成長もないということです。

非仲介的な直観などありえない

新しい発想というのは、直観的にひらめくものです。ただし、その直観は『デザイン思考の仕事術』でも書いたとおり、何もないところから湧きだすものではありません。

パースという人は直観を徹底して否定した人です。「非仲介的な直観などありえない」といった。つまり、何もないところからパッとひらめくなんてことはなく、発想のひらめきには必ず媒介があるはずだといったんです。

何の準備もないところから発想は生まれてはきません。
たとえ、ひらめいた本人にさえ気づかなかったとしても、そこには助走としての先行する過程があります。

パースはまた直観と認識を区別することにも異議を唱えています。
パースは、どんな思考も経験も「瞬間的な事柄ではなく、時間を要する事象であって、ひとつの連続的なプロセスとして生じている」といっています。ようするにパースは、直観だと思える思考の働きも結局は、先行する物事の認識を媒介にした連続した推論の過程にすぎないと考えたわけです。何もないところから発想が生まれたように感じられたとしても、そこにはちゃんと材料もあれば、材料を加工するプロセスも存在しているはずだと考えた。材料を元にしている点では直観も認識も変わらないということです。

この材料をプロセスの初期段階で豊富に集めておくことが、発想の前提になると考えます。豊富に集まった情報を素材に、情報同士をつなぎとめるアナロジー思考をはたらかせてはじめて発想のひらめきは得られる。

自分から未知のものへとぶつかっていく姿勢

むずかしそうな物事を前に要点のみをひろって要領良くわかったつもりになったり、なんとなくの答えを簡単に出してしまったりというのは、この「時間を要する」「ひとつの連続的なプロセス」を端折ってしまうことになります。必要な時間をかけるのを端折れば、味のしみてないおでんのように旨味が生まれてくることはありません。

ラクをして答えを見つけようとしたり、正しいやり方が書かれたマニュアルのようなものを期待したり、何かというと他人の事例を欲しがったりという態度には、自分自身で未知のものにぶつかっていき、なんとか自分の力でそれをねじ伏せようとする努力が、そもそも欠けています。
そんなところからは答えもやり方も自分自身がつくる事例もでてきません。もちろん、新しい発想など望むべくもない。

小学生じゃないんだから誰かに答えややり方を教えてもらわないとできないなんて甘えすぎにもほどがあります。何年、何十年も社会人をやっている人のなかにもそういう人が少なくないのであきれます。他人に頼るのではなく自分のことは自分でやらなきゃいけないんとなぜ思わないのでしょうか。

未知の物事に対してねばり強く立ち向かっていくには―

では、未知の物事に対してねばり強く立ち向かっていくためには、どのような姿勢で臨めばよいか。

  • 何か解決しなければいけない問題があったり、そもそも問題自体があいまいでそれ自体をしっかり掴む必要があったりする場合は、とにかくそれに関するいろんなデータをたくさん集めるのです。そして、集めたものをいろんな形に並べ変えながら、忍耐づよくデータの背後にある現実の相違や類似を見つけたり、お互いの関係性を探ってみる。いろんな角度、いろんな組み合わせで試行錯誤しながら、集めたデータの全体の関係性を俯瞰的に統合的に編集記述できるようするのです。
  • 情報を遠くから客観的にみるのではなく、自分が情報のなかに入り込んで直接それを体験するくらいに情報の洪水に身を委ねるのです。
  • 集めるのはデータに限らない。物理的なモノや二次元的な画像データのようなイメージでもよいでしょう。その場合、データのときとおなじように並べて比較し類似や相違や関係性を見つけるという作業をするとともに、個々のモノやイメージをとことん自分で利用してみて、そのフォルムが自分に投げかけてくるアフォーダンスを細かく感じとってみるといいと思います。
  • そうした膨大な量のデータ、たくさんのモノの蒐集やいろんな視点からの考察のあとは、俯瞰的にみることで気づいたこと、感じたことを、図や文章にして表現する努力をするんです。もちろん、図や文章にすればよいというのではなく、その図や文章が本当にそこに集められたデータやモノのすべてを語っているかを検証する目が必要です。もしすべてを語れてると感じられなかったとしたら、それはまだまだデータやモノの発している情報の洪水に溺れきっていないのだと考えたほうがいいでしょう。データやモノに溺れきってみてはじめて見えてくることがあります。そこを要領よく適当なポイントだけ押さえて済ませようとするから、いつまで経っても大波に乗ることができないのです。
  • 情報をさまざまに動かしながら、情報が語るいろんな声に耳を傾ける。そこから新たな物語を紡ぐことができるかはあなた自身の努力に関わっています。ありきたりなあらすじ程度でお茶を濁すか、誰も聞いたことのないような新たな物語を紡ぐか。

こうした姿勢で問題発見~問題解決の作業に取り組めているでしょうか? ラクなほう、ラクなほうに逃げていってしまってはいないでしょうか?

スピードは早くても前に進めないなら、遅くても確実に前に進むことを選ぶ

もちろん、こうした活動は、特定の時期に集中してやるやり方だけでなく、自分が疑問に思う点にこだわって何年もかけて、その謎をとく場合でもおなじだと思います。

答えを焦ってだそうとする必要はすこしもありません
簡単に答えがでるようなものなら、そもそも、そんなにこだわる価値もないものかもしれない。それにむずかしい対象、未知の対象を前にして、答えをはやく得ようとするから、適当な中途半端な答えでお茶を濁すことになるのだし、手っ取り早く答えが見つかるような魔法のメソッドや他人の成功例の物真似をしたくなる誘惑に駆られるのではないでしょうか。

そんなことをしたって、いつまで経っても何も発見できないし自分自身が変わらないという意味では結局はそのほうがよっぽど時間の無駄です。
そんな時間の浪費をするくらいなら、遠回りにみえたとしても、目の前の面倒くささに負けたり、根気が必要な長時間の課題への取り組みも惜しまず、ゆっくりでも自分がこだわる謎の解明をねばり強く続けるほうが有益です。

休み休みでも、最後まで自分が謎だと思うものにこだわり続ける

そもそも、ここで書いていることも、ずっと前に「木に学べ―法隆寺・薬師寺の美/西岡常一」で紹介した本のなかの次のようなことばに、僕がずっとこだわりつづけて、どういうことだろうかと考え続けていたからこそ書けることです。

初め器用な人はどんどん前へ進んでいくんですが、本当のものをつかなまいうちに進んでしまうこともあるわけです。だけれども不器用な人は、とことんやらないと得心ができない。こんな人が大器晩成ですな。頭が切れたり、器用な人より、ちょっと鈍感で誠実な人のほうがよろしいですな。

『デザイン思考の仕事術』にも僕自身が書いています。

わかることは重要じゃない、わからないことにこだわる、と。

わかってしまえばそこで思考も努力も終わりですが、わからないにこだわれば、その対象の前に留まって、何度も何度も思考して努力することが続くことになる。そこからは生まれるものは簡単にわかってしまうものとはまったく違う次元の理解になるはずです。それは単に頭でわかってしまうのではなく、さまざまな体験をともなった理解だから。

自分がわからないと思ってこだわることが他人と違っても、そんなことを気にする必要はありません。あえて他人と違うこだわりをもつ必要はありませんが、こだわる部分が他人と違っているからって他人にあわせる必要なんてまったくない。
他人がどうかではなく、あくまで自分がわからないと感じていることにこだわって、なんとかその謎を解こうと努力すること。そして、その謎を途中で投げ出さないこと。途中で休むのはいい。でも、あきらめてしまわずに、休み休みでも、最後までそこにこだわり続けることが大事だと思います。

 

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