かくれた次元/エドワード・ホール

3年前に4か月ほど名古屋で暮らしていた時期があります。その時、名古屋に行ってしばらくの間、僕はものがうまく考えられない状態に陥ったことがあります。頭のなかにあるものがうまくまとまらなくてブログも書けないような状態でした。
しばらく住んでみて落ち着いてくると、その症状は改善しましたが、環境が変わるとこういうことが起こるんだと、ちょっとびっくりでした。

その名古屋にしばらく住んでいて、僕がいちばん名古屋の街に感じた印象は、ここって車がよく見えるように作られた街だなということでした。名古屋に行ったことがある方ならわかると思いますが、名古屋駅周辺って基本的に人が活動する空間って地下なんですね。名古屋駅周辺に巨大な地下街があって、ほとんどのお店はそこにある。買い物をするにも、お茶をするにも地下。とうぜん、空は見えないし、両脇に見た目があまり変わらないお店が並んでいるので、しばらくは方向感覚がつかめず、どこに何があるかが覚えられませんでした。

で、地上がどうなっているかというと、完全にオフィス街。でも、丸の内のような印象ではないんですね。人がいない。代わりに車線の広い道路を車が占領している。それが駅周辺だけじゃなく、けっこう広い範囲に渡っている。住んでいたのは名古屋駅から歩いて10分ほどのところでしたが、人が歩く感じの街並みになっていなくて散歩をすることもままなりませんでした。まさに車の街だなと感じたわけです。

パリでは周知のように、戸外が魅力的であって、足を伸ばし呼吸し、空気を嗅ぎ、人と町とを「吸い込む」のが可能であるばかりでなく、快いことでもある。シャンゼリゼの歩道はすばらしくのびのびとした感じがするが、これは車から100フィートも離れていることにも原因がある。
エドワード・ホール『かくれた次元』

そんな3年前の名古屋暮らしを思い出したのは、このエドワード・ホールの『かくれた次元』を読んだから。僕はパリに行ったことがないので上の引用が本当かどうかはわかりませんが、街並みのデザインによって、その街が人中心か、車中心なのかが大きく変わるということは、名古屋経験によってなんとなくわかります。



ホールのこの本は、空間デザインや人間同士の距離感がいかに人間個人に、そして、文化に影響を与えるのかについて、プロクセミックス(proxemics)という仮説を提示して検討したものです。1966年に出版された当時、大変話題になった本なのだそうですが、いま読んでも楽しめました。僕が読んだのが第32刷なので日本でも長く読まれ続けている本だと思います。

プロクセミックス

さて、プロクセミックスとは、近接学と訳されることが多いホールの造語です。
本書でホールがプロクセミックスとは何かを定義していないので、説明にも困りますが、人間をはじめとする生物にとって他の個体との距離や空間的な環境との距離感が、個体としての生物やその生物群に与える社会的・文化的な影響を考える学問だといっていいと思います。

プロクセミックスが対象にするのは、いわゆるなわばりとかニッチとかいわれるような目に見える範囲ではありません。本書では、最初に動物たちの生活に目を向けて、動物たちがもつ同一種の他の個体との距離感や敵との距離感のもつ意味合いについて、動物行動学の研究から様々な例をひいて考察をしていますが、そこで対象となっているのは動物たちの捉える「混みあい」の度合です。

個体距離、社会距離、逃走距離、臨界距離

道で猫に出会ったとき、ある程度までは近づいてもじっとしていますが、ある距離以上近づくと猫が突然逃げますよね。それは猫だけじゃなく、テレビで見るような多くの動物がそういう反応をします。それを逃走距離と呼びます。ライオンなどは近接距離まで近づくと、いったん向こうに逃げていきますが、さらに近づくと身体を反転させて向かってきます。その距離を臨界距離という。

他にも、羊のように群れをなして他の個体とくっついて暮らす接触性の動物と、仲間同士でも他の個体とある程度距離をとって暮らす非接触性の種がいますが、後者で個体間の距離として最小限必要な距離を個体距離といったり、鳥が群れになって飛ぶときにそれ以上離れると群れからはぐれたことになる社会距離というものがあることが、動物行動学の研究によって明らかになっています。

個体距離、社会距離、逃走距離、臨界距離の実際の距離はとうぜん、種によって異なります。しかも、その距離は通常なんとなく見ているだけでは見えないし、どの距離だとどうなのだということを示す物理的な指標があるわけではありません。そこが犬がおしっこをして指標をつけるようななわばりとは異なる点です。

「混みあい」の度合

ホールが注目するのは、動物の生活環境での「混みあい」の度合が、動物たちの健康を損なうケースがあることです。

個体数が増えすぎるとネズミが海に飛び込んで集団自殺をはかる現象や、閉ざされた島のなかで暮らすシカがある個体数を超えるとストレス性の病気にかかって死んでいき個体数が急激に減ったりする実際に動物たちが生きる環境での観察例や、実験室でのネズミの個体数と社会的行動の変化に関する実験などを例にあげながら、生物が暮らす空間の「混みあい」の度合が個体の健康や社会的秩序に大きな影響を与えることを紹介しています。

動物行動学者であるジョン・カルフーンが行ったネズミを使った実験では、極度に混みあった環境では、ネズミの社会的序列が乱れるようになり、生殖行動に支障を来し、個体は攻撃性を増すなどの複数の原因が重なることで、個体数の減少が起こることが示されていました。

人間の戦略変更

この本でおもしろいのはホールがこのプロクセミックスを人間に適用する後半の部分です。

とうぜん、人間にも個体がストレスなく生きるためのスペースが必要なのですが、

重要なコミュニケーション手段としての嗅覚が失われると、その1つの結果として個人の間の関係が変化した。おそらくこのために人間は混みあいに耐える能力を得たのだろう。
エドワード・ホール『かくれた次元』

とホールはいいます。
人間の先祖は樹上での暮らしをはじめた際に、嗅覚での環境の把握から、視覚と聴覚という遠距離受容器を中心にした環境把握に戦略変更しました。このあたりは先に紹介したニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ベルンシュタインが『デクステリティ 巧みさとその発達』で進化のプロセスに合わせて、運動の巧みさに関する動作構築のレベルを4つに分け、レベルDの「行為のレベル」だけは人間のみにあてはまるものだとしたことと重ね合わせて考えるとおもしろい。

人間は、視覚・聴覚の遠距離受容器中心の環境把握戦略に切り替えたのち、さらにその能力を外部化することで、巧みさを身体的な問題から機械的な問題に変換したり、身体的な感覚を麻痺させることで、混みあいに対する耐性を向上し、人がごったがえす都会でもどうにか生きていけるようになりました。

人間のプロクセミックス

ただ、耐性が増したといっても、それはあくまで度合いの問題であって、人間がプロクセミックスな空間感覚を失ったことを意味しません。ホールは、人間におけるプロクセミックスが「密接距離」「個体距離」「社会距離」「公衆距離」の4段階によって構成されているのではないかと仮説を立てています。
そして、それが人びとの暮らしに埋め込まれていることを、建築や絵画・彫刻などの美術作品にみられる空間の感覚、文学作品の表現や各文化で用いられる語彙の違い(例えば、エスキモーには「雪」を表わす語がたくさんあるなど)を例に考察していきます。

ホールは人間におけるプロクセミックスを構成する「密接距離」「個体距離」「社会距離」「公衆距離」の4段階が、各民族の文化によって異なるということに注意を呼び掛けています。
ホール自身の国であるアメリカにおけるプロクセミックスを、ドイツ・イギリス・フランス・日本・アラブ人と比較して、文化の相違がいかに人びとの空間感覚や人とのコミュニケーションに大きな違いをもたらしているかを例を挙げて紹介してくれています。

例えば、アメリカ人は子供のころから個室を与えられて育つので、他人の接したくない時は部屋に閉じこもってドアを閉めるが、イギリス人は個室をもたないために人と接したくない場合も物理的な部屋やドアを使ってそれを示すのではなく内面的に仕切りを設けるといいます。そのためアメリカ人とイギリス人がいっしょにいると大変で、イギリス人が何か考え事をしたくて自分で仕切りを設けても、アメリカ人はそれに気づかず、むしろ、いっしょの部屋にいて話しかけないのは失礼にあたると考え、積極的に「どうしたんだ?」などと話しかけて、イギリス人の機嫌を損ねてしまうなどの例がいろいろと紹介されています。

プロクセミックスと空間デザイン

日本人が要点を避けて「遠まわし」にそのまわりばかりをぐるぐる回って決して要点に触れようとしないことや、西洋人が物自体を見るのに対して日本人は物と物とのあいだの「間」に空間を感じるといった西洋と日本の空間把握に関する方法の違いは、内田繁さんの『茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン』『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』、長町美和子さんの『鯨尺の法則―日本の暮らしが生んだかたち』などで、実際の日本のもののデザインや家などの空間的デザインにも実際にあらわれています。

こうした文化間の違いに配慮せず、画一的なユニバーサルデザインで空間を構成してしまうと、人びとの暮らしを悪化させ社会的秩序を損なうような、ネズミの実験と同じような結果になりかねない点をホールは指摘しています。スラムの問題を解決するため、見た目にはきれいな建物を建てたところで、美的にはよくなっても人びとの精神状態や社会的秩序を悪化させるケースもあることをホールは紹介しています。

人間は文化というメディアを通してしか意味ある行為も相互作用もできない

ホールは文化間の違いを比較することで、自分たちアメリカ人の文化をあらためて認識すると同時に、「人間はどんなに努力しても自分の文化から抜け出すことはできない」と述べています。比較によって自分を見つめ直すことができたとしても、そのすべてを理解できるわけではない。そこに「かくされた次元」があるわけです。

文化は人間の神経系の根源にまで浸透しており、世界をどう知覚するかということまで決定している」というホールの言葉は、前に紹介した『ポストメディア論―結合知に向けて』でデリック・ドゥ・ケルコフが「言語は、人間心理を起動させるソフトウェアである。したがって、言語に大きな作用をもたらすテクノロジーはなんであれ、身体・感情・心など、私たちの行動全般に影響をもたらす」と書いていたこととも共鳴します。

たとえ文化の小さな断片が意識にのぼってきたとしても、それらを変化させることは困難である。それらがきわめて個人的に体験されるものであるからばかりでなく、人間は文化というメディアを通してしか意味ある行為も相互作用もできないからである。
エドワード・ホール『かくれた次元』

僕はこの本を読んでいいなと思ったのは、エドワード・ホールは文化人類学者でありつつ、すでに紹介したように動物行動学の研究結果や、J・J・ギブソンら「相互作用派」の視覚心理学なども参照しながら、このプロクセミックス仮説をまとめている点です。真に領域横断的であるがゆえに、その視点も包括的になっていて、仮説の説得力も増しています。

「人間は自分の文化から抜け出すことはできない」。抜け出せない以上は、文化に不適合な空間デザインがなされれば、たちまちそれが不快感や機能の停止にもつながります。僕が一時、名古屋でそうなったように。ものや空間をデザインする際には、こうした「かくれた次元」も考慮しつつデザインを行わないと人びとの暮らす文化や社会の秩序を混乱させてしまう要因にもなる。そうしたことをあらためて考えさせてくれる一冊でした。



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