愛情とは

古代においては、魂の授受が恋愛の出発点であり、根拠であったそうです。

古代の人びとにとって愛情とは何であったろうか。愛情とは、まずたがいに霊の往来が可能であることであった。それで人びとは自己の霊を相手に与え、また相手の霊をわが身によりそえるという表現をもって愛情を確かめあった。
白川静『詩経―中国の古代歌謡』

これって現代の愛情の定義よりよっぽどはっきりしてますね。w



物と愛情

では、どうやって古代の人は霊をたがいに往来させていたのか? たがいの魂の授受を行っていたのでしょう。

これが意外とはっきりしているんです。

魂の授受といっても、魂はもと形なきものである。しかし古代の人びとは魂を物によって象徴することができた。わが国では玉が魂と同音であることからも知られるように、珠は魂の象徴であった。
白川静『詩経―中国の古代歌謡』

これが真珠のような珠のこともあれば、勾玉のようなものの場合もあります。また、玉の形をした果物のような場合もあったそうです。

女性が男性に対して果物を投げ(投果)、男性がその返報として身につけた珠を返したそうです。もちろん、ただのお返しではなく、末長い愛情のしるしとしてです。とうぜん、その気持ちがなければ返答はしませんでした。

これって今でも大事な人にプレゼントをすること、大事な人からもらったものは大切にしたいと思う気持ちにも通じます。物に対して愛情に感じるというのは実はとても人間的なことなのかなと思います。

認知プロセスと愛情

また大切な人にもらったものではなく、自分で買ったものでも、物は使うことで愛着が増してきます。買った時や使っている際に何か特別なエピソードが絡めば、さらに愛着は増したりもします。

すこしまえに紹介した『工藝の道』でも柳宗悦さんがこんなことを書いています。

「手ずれ」とか、「使いこみ」とか、「なれ」とか、これがいかに器を美しくしたであろう。作りたての器は、まだ人の愛を受けておらぬ。まだ務めをも果たしておらぬ。それ故その姿はまだ充分に美しくない。

先の書評エントリーでも触れましたが、この『工藝の道』で柳宗悦さんが書いていることって実は、ドナルド・A・ノーマンが『エモーショナル・デザイン―微笑を誘うモノたちのために』のなかで書いていることに非常に近いものをもっているんですね。
例えば、上の引用部に近い言葉もすぐに見つかります。

製品のデザインは目標を誤っていることが多い。一定の仕様に添ってモノが構成され作られるが、多くのユーザーは見当違いだと気づく。購入した既製品は、かなり満足に近いところまではいっているかもしれないにしても、ニーズにピッタリくることは少ない。幸いなことに、我々は別々の品物を自由に買って、自分にとってちょうどうまく機能するようにそれらを組み合わせることもできる。自分の部屋は自分のライフスタイルに合っている。自分の持ち物が個性を反映しているのだ。

ユーザーの3つのゴール」というエントリーでも触れたとおり、ノーマンはこの『エモーショナル・デザイン―微笑を誘うモノたちのために』で、人間の認知的プロセスを3つのレベルに分けたうえで、そのプロセスそれぞれに対応したデザインスタイルが必要であることを述べています。

このうちの行動的レベルの認知プロセスが人間の日常的行動において中核をなすものであり、かつ他の2つのレベル(本能的レベル、内省的レベル)に影響を与えます。行動的レベルの認知は、特定の物とのインタラクションが重ねられればられるほど、深くなっていく性質をもっています。柳さんのいう「手ずれ」や「使いこみ」や「なれ」は、そういった行動的レベルの認知だと考えていいはずです。

ものづくりと愛情

そうした行動的レベルでの認知の変化が物への愛着へとつながっていく場合がある。

今日のユニヴァーサル・デザインは、誰でもどこでも使えるものをよしとしますが、誰でもどこでも使えるようなものは、ものと人間の交流を薄くします。使うのが難しいものでも、ほかに何かの価値があるなら人は使いこなします。ガラスは落とすと割れるからこそ、人はていねいにあつかいます。そして、人はものに愛着を感じることになります。自転車は練習しなければ乗れません。しかしそれを達成したときの喜びは大きいものです。そうした経験こそ、人とものとの触れ合いになるのです。

「使うのが難しいものでも、ほかに何かの価値があるなら人は使いこなします」。そうそう。これが普通のデザインであってほしい。人が価値を感じる魅力をもち、かつ丁寧に大切に使いたいと思う魅力をもっていてほしいです。

ここで内田繁さんがいう経験こそが行動的レベルでの認知に大きく関わるものです。もちろん、経験には内省的レベルに影響を与えるエピソードをあわせもつものもあるでしょう。
大事な人にプレゼントされたという経験が物への愛情をより高めることがあるのはすでに述べたとおりです。さらにプレゼントされたものを大切に使えば使うほど、物への愛着はより高まります。ただし、ここでは注意が必要です。プレゼントされたものが大切に使って味わい深くなるようなものではなく、すぐに飽きてしまうようなものだったり、使いこむことで味わいよりも汚れが目立つようなものであったりすれば、せっかくの大事な人からもらった愛情も半減してしまうのではないでしょうか。いまのものづくりはそこまで配慮されているでしょうか。

そうした物はたがいに惹かれあう男女の魂の授受には向いていません。でも、いまつくられている物の多くは買ったばかりのころは新しくてピカピカしていても使っているうちに薄汚れてきて使いたくなくなるものが多くないでしょうか?

ものづくりの場に神は宿っているか?

田中優子さんは『江戸はネットワーク』のなかで、江戸期の俳諧連句や歌舞伎などの芝居における座では必ず神棚に神を祭ったことを紹介してくれています。

連句の座が神霊の世界に根を張っていることと、芝居もまたそのような性質をもっていることとは、単なる偶然の一致ではない。おそらく、連によって成立しているほとんどのジャンルが、それぞれの神との関係で成り立っているにちがいないのだ。ちなみに、これは個々人の信仰や意識の問題ではなく、文化の枠組の問題である。

俳諧連句にしても歌舞伎にしても、元を辿れば、古代の歌謡や歌舞に通じます。それらは元々神に奉納するものとして祭祀の場で詠われ舞われたものです。江戸期に至ってもそこに神棚があるのは不思議ではありません。

それだけでなく、そうした神への祭祀は、農事やものづくりとも結びつくものだったのです。ものづくりは最初から神とともにあり、物には神や霊が宿ったのです。そうした物に自らの愛情を託し、愛する者との魂の授受の依り代として用いたのは、行動的レベルを中核に、3つのレベルの認知プロセスを通じて物と関わっている人間にとっては、とうぜんのことだったのかもしれません。

そう考えると、物と愛情、認知と愛情、ものづくりと愛情の関係に関しては、古代を生きた人々より現代に生きる僕らのほうがはるかに鈍感なのかもしれません。人の認知そのものに関しても、いまのものづくりの現場のほうが古代から近世にかけての現場よりもはるかに理解できていないんじゃないかと思ってしまいます。

いま、ものづくりの現場に神は宿っているでしょうか? 神が不在の場でつくられたものに人は愛着を感じることができるのでしょうか?

愛情、愛着の感じられない物ばかりつくるのではなく、使うことで愛着を増すような物をつくれる感覚をいまの僕らも取り戻せればいいなと思います。

   


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