知の編集工学/松岡正剛

そろそろ、この本のことも紹介しておこう。
あまり自身の仕事そのものに関しては書かない松岡正剛さんが、ご自身の仕事の根幹をなす「編集」について、「編集工学」という方法について書いた本です。

情報が情報を呼ぶ。
情報は情報を誘導する。
このことは本書がたいそう重視していることだ。「情報は孤立していない」、あるいは「情報はひとりでいられない」ともいえるだろう。また、「情報は行先をもっている」というふうに考えてもよいかもしれない。
松岡正剛『知の編集工学』

確かにこの言葉には「編集」というものの主要な性質が凝縮されているように思います。情報を収集し選択し分類すること、対称性、類似、相違、順番などで情報を並べ、要約、モデル化、列挙、言い換え、引用、図解、例示、強調などの方法を用いて編集を行う際、情報同士が呼び合ったり誘導したりするモーメントをいかに見出し、うまく活用するかは「書くスピード、理解のスピード」なんてエントリーを書いたばかりの僕からみても、ひとつのポイントだと思うからです。

連想ゲームのような現代の遊び、連歌や俳諧、茶の湯や香道のような中世~近世にかけて行われてきた遊びにも、こうした「情報が情報を呼ぶ」性質が用いられていますし、そもそも僕らが普通にものを考えるときにもこの「情報が情報を呼ぶ」性質を使わなければ思考は展開していきません。言葉そのものがほかの言葉と連動することではじめて機能するネットワーク性をもつのであって、その意味で僕らは誰もがつねに編集をしているんですね。

この本は、その誰もが無意識のうちにも行っている編集について書かれた本です。



学習は対話型

「情報はひとりでいられない」ということとも深く関連することですけど、人間の学習が対話型であるということについても書かれています。

私たちの学習能力はじつは対話型で、かつ遊び的なのである。
対話型という意味は、他人と話すということもあるけれど、ノートに書くとか、本を読むとか、散歩をしながら何かを見ているとか、そういう広範囲なメディア的対話性のこともさす。
松岡正剛『知の編集工学』

このこと自体は他でいくらでも指摘されていることです。僕が『ペルソナ作って、それからどうするの?』で書いた「みんなで手を動かしながら考える」というコンセプトだって、おなじく学習の対話性を前提にしたものです。

ただ、おもしろいのは対話型というだけでなく、遊び的といっているところです。
先にも書いたように、連想ゲームや連歌・俳諧のような遊びの場で、情報編集的な活動はまさに活性化されます。僕がデザインのプロセスにワークショップ形式の作業を組みこむのもまさにそのためなんですが、情報編集作業によって、これまで見えにくかったものを見えるようにする場合には、そういう協働作業的な遊びの場を設けることが大切だと思うのです。

学習の場の舞台設定

松岡さんは、その遊びの場を「舞台の設定」という言葉で示しています。

学習とは、自分が学習したいという欲求を満たすべき「舞台の設定」によって、いきいきと駆動しはじめるのである。舞台というのは、記憶をしたり学習が進んだりするための、たとえば庭とか机のようなものをさす。そこで何がおこるかといえば、自分の学習の相手をすばやく見出し、その相手と対話するのだ。相手といっても実在の人物をさすわけではない。ノートの中の私でもいいし、となりのトトロでもいい、何でもが相手になりうる。
松岡正剛『知の編集工学』

そうなんですよね。「自分の学習の相手をすばやく見出し、その相手と対話する」というのが大事。相手を見つけるというのは、その相手をほかのものと区別するということにほかならない。区別そのものが編集の契機になります。昨日の「書くスピード、理解のスピード」で書いたフィルターの取り換えの話といっしょで、赤のフィルターを通してみれば赤いものはおのずと目立たなくなり、それ以外のものが目立ってくるし、フィルターを青いものに変えれば青いものが目立たなくなる。そういうフィルターの取り換え行為によって相手を見出していく。そして、その相手を見出す行為自体が自身の使っているフィルターを知ることでもあるんですね。対話的というのはまさにそういうことを含んでいるのです。

経済文化

と、ここまではいつも書いていることと大差はない内容です。大差がないのはむろん僕がそういうフィルターをかけているからであって、松岡さんのこの本が大差ないわけではとうぜんありません。

なので、大差の部分についても1つだけピックアップして書いておきます。
経済文化というひとつの概念についてです。

私は、明日の日本には、これまでの真似事とはまったく別のパラダイムを導入するしかないと思っている。そのパラダイムには、まず〈情報化〉と〈編集化〉を切り離さないこと、すなわち技術をハードとソフトに切り離さないこと、ついでは経済と文化を切り離さないことと決めてかかることではないかとおもう。
松岡正剛『知の編集工学』

「技術をハードとソフトに切り離さないこと」についてもおもしろい論が展開されているのですが、ここでは「経済と文化を切り離さないこと」のほうを紹介しておくことにします。

松岡さんは「経済と文化」ではなく「経済文化」だといっています。「経済文化」をひとつの概念として考える必要性を説いているのです。
これは先の「技術をハードとソフトに切り離さないこと」にもつながる話で、ハードづくりとコンテンツづくりを分けて考えてしまい、「機会は経済、内容は文化」と切断して捉えてしまう傾向があることを松岡さんは指摘しています。

ここで松岡さんは貨幣・交換の問題に踏み込んで、交換市場の発達するなかで交換されていたのは、商品だけではなく、そのほか、貨幣・奴隷・情報が同時に交換されていたことを指摘し、そのうち、現在交換されなくなったのは奴隷だけだと指摘しています。交換の場で交換された情報が、現在も商人シンドバットの話やアラビアンナイトの話として現在も残っている。
もちろん、そういった情報だけでなく商品の交換そのものを成り立たせるために必要な約束情報、現在問題になっているような信頼情報こそが、交換の場であるオークションを支えていたのです。そうした情報こそが、商品や奴隷とともに商人が各地を運びまわったものでした。

コーヒーハウスが生んだ5つのもの

ところが通常交換というと、商品と貨幣の交換だけが考えられることが多く、同時に交換される情報のことが忘れられています。ここでも商品=ハードと情報=ソフトが分離されてしまっているのです。

もちろん、経済文化を説明するためのモデルは、シンドバットやアラビアンナイトの時代のような古い話ばかりではありません。
もうすこし新しい時代の例として松岡さんがあげているもので興味深いのは、17世紀末から18世紀初頭のロンドンで発達・流行したコーヒーハウスの話です。コーヒーハウスの話に関しては高山宏さんが『近代文化史入門 超英文学講義』でも紹介してくれています。

コーヒーハウスとは文字通り、コーヒーやお酒が飲め、集まって談話のできる社交の場です。同じ時期に花開いた日本の茶の湯にも通じるところがある。とうぜん、コーヒーハウスや茶の湯の場の有効性は、学習の場の舞台設定の話にも通じます。クラブ・サロン的な場を共有することで「情報が情報を呼ぶ」のを活性化させます。

松岡さんは、このコーヒーハウスで5つのものが誕生したことを指摘しています。このリストが非常に興味深い。

  • ジャーナリズム:コーヒーハウスには情報紙がおかれ、紳士たちがあらそって読んだ。これも『近代文化史入門 超英文学講義』で紹介されているように、『ガリバー旅行記』のジョナサン・スウィフトも、『ロビンソン・クルーソー』のダニエル・デフォーも、ヨーロッパ最初の活字編集メディアでもあった、この情報紙の編集人・発行人で、コーヒーハウスを拠点に活躍した人でした。
  • 株式会社、保険システム、保険会社:情報紙によって内外の現象に好奇心を煽られた紳士たちは、その好奇な目を未知の世界経済への投資に変えていきました。そこに目をつけたのがロイズ・コーヒハウスの店主ロイズでした。ロイズは投機熱を煽って紳士たちから資金を集め、投資家クラブを形成し、株式会社の原型をつくりました。ロイズ保険の誕生でした。
  • 政党:政治家たちは党派ごとに分かれてお気に入りのコーヒーハウスを選び、そこで政策議論をたたかわせていました。それがのちの議会主義政治の背景をつくったのです。
  • 広告:人が集まるコーヒーハウスには情報紙といっしょに、大量のチラシが置かれるようになりました。ペスト予防薬のチラシ、赤面恐怖症の特効薬のチラシなどにまじって、なかには探検隊募集のチラシもあったそうです。博物学の時代ですね。
  • クラブ、秘密結社:政党のようなクラブもあれば、泥棒やスリのような犯罪者の集まりのようなクラブもコーヒーハウスには生まれました。クラブはあらゆる趣向で結成され、それがフリーメーソンや薔薇十字団のような秘密結社の温床になっていきました。

新しいモデルを生み出す編集の場

どうですか? この5つのリスト。まさに現在の経済文化を支えるものの主軸となっているものがこのコーヒーハウスから生まれているのに驚きませんか? しかも、松岡さんが「これらのモデルの有効性はいま見失われている」というとおり、どれもその有効性を疑問視されはじめているものばかりです。

端的にいってコーヒーハウスに集まる紳士たちのニーズに最適化された形で生み出された、これらのものがもはや集いの形、コミュニケーションの形が大きく変化してしまった僕らの社会のニーズには合っていないということだと思います。広告ひとつとっても、GoogleのAdwordsは効果があってもAdsenseがだめなのは、「情報が情報を呼ぶ」という人間の持つ編集的性質が考慮されておらず、〈情報化〉と〈編集化〉が切り離された上で前者のみでのデザインになってしまうっているところに問題があるのでしょう。これからの人間中心設計の課題はまさにここにあると僕なんかは思います(それはもはやこれまでの人間中心設計をゼロから見直す大変な作業が必要ですけど)。

コーヒーハウスや茶の湯は、経済と文化をひとつにしたことにめざましい特徴がある。
しかもその形態は、コーヒーハウスあるいは茶室というクラブ型ないしはサロン型の特別に工夫された空間によって支えられていた。つまりそこには「経済文化を生みだす空間のプロトタイプ」があったということなのだ。
松岡正剛『知の編集工学』
私たちは、歴史の中にそのエディティング・モデルをもっていたのだ。
前節で紹介したネットワーカーとしての商人たちも、その準備をしていた連中である。かれらは市場における商品の交換とともに、約束情報や物語情報をはじめとする情報交換の場をつくっていたのだった。コーヒーハウスや茶の湯が用意したものも、経済文化を編集するためのエディティング・モデルであった。そのモデルから、新聞が、政党が、株式会社が、芸術が、文芸が、それぞれ生まれていったのだ。
松岡正剛『知の編集工学』

松岡さんがいう経済文化とはこうしたエディティングを可能にする概念モデルをもつものです。
17世紀末から18世紀初頭にかけてコーヒーハウスという場は、新聞、政党、株式会社、保険、広告、芸術、文芸を生みだしました。しかし、現在それらのモデルがことごとく危機に瀕しています。

では、それらに変わる新しいモデルを生み出す編集の場を僕らはもっているか?

インターネット? ウェブ?

もし、インターネットやウェブにそれを期待するのであれば、それこそ、松岡さんがいう、〈情報化〉と〈編集化〉を切り離さないこと、技術をハードとソフトに切り離さないこと、経済と文化を切り離さないことを徹底して考え直していくことが必要なのではないでしょうか。ウェブのデザインを考えるなら。今後そういうところまで踏み込んで考えられる人が出てきてほしいなと思います(もちろん、僕自身もそちらの方向で)。

「明日の日本には、これまでの真似事とはまったく別のパラダイムを導入するしかない」。
『ペルソナ作って、それからどうするの?』のテーマに「日本型ユーザー中心設計の方法の確立」を選んだ動機ともつながっているのですが、まさに「真似事とはまったく別のパラダイムの導入」に尽きるのではないかと感じています。



いま気がつきましたが、これで松岡正剛さんの本を紹介するのは11冊目なんですね。

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