創意工夫がヤならデザインするのなんかやめればいい

昨日の「「わからない」を自分の身で引き受けること」の続きとして。

デザインにとって何より大事なのは、自ら創意工夫して、問題の解決なり、新たな形なりを見つけ出す努力を惜しまず励むことではないだろうか、と思っています。いや、むしろ、それが当たり前のことだと思っていたのですが、どうも世間の動向をみていると、そうは見えないところがあります。



悪しきマニエリスムの兆候

IDEOをはじめとするイノベーションの技法や、人間中心設計(ユーザー中心デザイン)への関心の高まりが、どうも悪い意味でのマニエリスムに流れ込んでしまっているような印象を受けるのです。
マニエラ、すなわち手法です。いまの世の中のデザインの手法への関心をみると、手法を知ること自体に重きがおかれ、肝心のデザインすること自体に向いていないように思えます。

確かに手法があると、デザインする行為における引き出しも増えます。まさに「「わからない」を自分の身で引き受けること」で書いたような見方・感じ方の軸を増やすことにもつながります。

しかし、最近の手法びいき=マニエリスムを見ていると、手法をつかってわからなさを発見し、より深く対象を知ろうという方向に走るというよりも、手法そのものをわかるようになりたいということが目的となってしまっています。ほとんどそれはフォトショップやイラストレーターを使えるようになるとかと変わりません。それがデザインそのものを知ることではないことは考えてみればわかりますよね。でも、そこに気づかない人が多いのかなって。

うまく使えない道具を無理して使う必要などどこにもない

道具や様式に走りすぎてしまうことは、どんな世の中でもあることで、ルネサンスがマニエリスムに陥ったのをはじめとして、日本でも利休の茶の湯が唐物崇拝から脱却せんとして世に送り出した今焼茶碗やわび茶自体がそのまま茶の様式・新たな道具崇拝に陥ってしまったなど、例はいくらでもあるでしょう(ちなみに歴史的には、ヨーロッパでも日本でも、マニエリスム的な手法への陶酔がしばらく続いたあと、手法を自在に、かつ、自由奔放に使いまわすバロックが生まれる。日本の茶の湯でいえば古田織部です)。

ただ、そうした例をみても明らかなとおり、様式や手法ばかりを意識して、本来問題となる対象物を見なくなってしまってはそこからは何も生まれません。

例えば、ペルソナでもそう。

単なるデザインにおいてターゲットユーザー像を明確にするための手法でしかないペルソナ法を用いるのに、ペルソナをつくるのはむずかしいとか、どうやってペルソナをつくればよいかわからない、ペルソナを作ったけどそのあとどうすればよいかわからないなどと、手法そのものに気を取られて、肝心のデザインするという行為が疎かになっていることがよくあります。それって本末転倒も甚だしいですよね。

本来、ペルソナを用いるのは、あくまでどうデザインするかを考えるとっかかりをつくるためであり、デザインを行う際に謎=わからさなとして立ちはだかるユーザーというものを理解するためです。あくまでデザインをすることが目的であり、ペルソナを作ることなんて目的ではない。それをどういうわけなのか、ペルソナを使うことによってデザインそのものから目が逸れてしまう人たちがいます。そんなことになるなら無理してペルソナなどは使わなくていい。別にペルソナなんてわかるためのものじゃなくて単に使えばいいものなんですから、「ペルソナがわからない」なんて言ってるのであれば無理することはありません。うまく使えない道具を使って、本来の作業が滞るなら使わないほうがいいに決まってます。

そんな風にペルソナに気を取られて本来のデザインを見失ってしまうような人は、鼻からデザインがわかっていないのですから。ペルソナがわかればデザインができると勘違いしてるんじゃないでしょうか? そんなわけないです。デザインをわかってる人が使うからペルソナは意味がある。その逆では絶対にありません。そう思ってる人はきっと、フォトショップを使えることがデザインできることと勘違いしてしまってるんじゃないでしょうか。

わからなさに対峙し、自分自身で創意工夫を

結局、デザインとは自らがいまだ答えの見えぬ謎に対峙して、なんとかそれを制しようと自らの創意工夫をもって、わからなさという形なきものに、これぞという形を見つける作業なんです。いろんな創意工夫で、これだと思える形を見出す過程がデザインにほかなりません。どうしたら人びとの暮らしのなかの問題を解決するか? それにはどのような形が必要なのか? そこに創意工夫をするのがデザインでしょう。

しかし、残念ながら、その創意工夫への努力が欠けています。
自分の頭で考えて創意工夫をするのを避けたがる。自分の頭で考えるということをそもそも全くしようとしません。その代わりになるものかと思って手法に安易に手を出してみます。手法を使えば自動的に答えが得られるのではないかと勘違いしているのです。
しかし、手法は本来、創意工夫の代わりになるものではなくて、創意工夫の数をこなすのを助けてくれるものなのです。手法はむしろ創意工夫に費やす時間や労力を増やします。いくつもの創意工夫を行うことを可能にしてくれることで、それらの手法はデザインの役に立ちます。

それを誤解して、手法を使えば自分で考えて創意工夫をしなくてもデザインができると勘違いしているものだから、手法そのものがわからないということになる。そりゃ、そうですよね。もともとわかろうとしているものは、期待しているものとは違うものなんですから。はじめから理解の方向がずれていたら、いつまで経っても理解には至りません。

ポ~ニョ、ポ~ニョ、ポニョ、さかなのこ

目の前にある問題にどう解決策としての設計案を考え出すか。手法が自動的にその答えを出してくれるなんてことがあるはずがない。そんなことを期待するならデザインに関わるのなんてやめればいい。

宮崎駿さんが雑誌「Cut」のインタビューでこんなことを言っていました。「『ポニョ』において「2次元アニメの伝統の継承」というのは大きなテーマですよね」という質問に対して。

というよりも、もう少し積極的になったんですよね。鉛筆という具体的なものに(笑)。描くのがヤだったらやめろって思うんですね。機械に描いてもらおうっていう発想でCGに頼むということは、CGが人を雇って、その人間が機械で絵を描いているようなものですよね、結局。だったら鉛筆で描きゃあいいんです。描くのがアニメーターなわけでね。それがヤだったらアニメーターをやめたほうがいいんじゃないかっていう。
「宮崎駿4万字インタビュー・『ポニョ』は、なぜあの高みに到達したのか?」

おんなじですよ。自分の頭で、自分の手足で創意工夫をするのがヤだったらデザインするのなんかやめたらいいんです。

創意工夫の量を増やすためであり、減らすためではない

ちなみに宮崎駿さんは「マウスで描くとか、電気のペンで描くことのほうが未来に繋がってるんじゃないかと思う人たちもいると思うんだけど、僕は繋がっていないと思ってるんですよね」とも言っています。
僕もそのとおりで繋がっていないと思う。それぐらい、いまのGUIの仕組みにも、情報技術にも、人間の創造性に関する面では欠陥があります。そして、そのことに自覚的でない人が多すぎることが危険だとも思っています。

そのあたりはユーザー中心のデザインの方法を扱った本である『ペルソナ作って、それからどうするの?』にも書いています。その意味でも、僕がデザインの方法について紹介したり、自分でも使ったりするのはあくまで創意工夫の量を増やすためであって、それを減らしたり、なくしたりするためではないということははっきりさせておきたいと思います。

他人をもてなすための創意工夫

デザインの手法は、自動に創意工夫を代行してくれる機械じゃなくて、デザインする人が創意工夫をするのを助けてくれる鉛筆のようなものです。鉛筆や絵筆やペンやはさみやのりであって、電卓やコンピュータとは違う。

もちろん、統計学を応用したマネジメントやマーケティングの手法とも違って、数字をいじって1つの答えが導き出せるってのとは根本的に違います。
いままでデザインということをやってきてない人で、マーケティングなんかをかじったことのある人はそこを勘違いしてしまうんですね。

別にデザインの手法を使ったって1つの答えが見つかるわけじゃないんです。料理法を覚えるのといっしょで、いろんな料理がつくれるようになるだけです。そのレパートリーのなかから、いつどの料理を出すかは、それこそその料理で誰をもてなしたいのかによるでしょう
そこに創意工夫を凝らす楽しさがあるんじゃないでしょうか? まさに茶の湯における一座建立の楽しみですよね。他人をもてなすために創意工夫をこらす以外にデザインに求められることってあるんでしょうか

その創意工夫に楽しさを感じられないなら、デザインなどという他人のもてなしに関する仕事からはきれいさっぱり足を洗えばいいだけです。無理しなくても、他にも職はあるはずですから。

   

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