行動せよ(特に観よ)

「わかる」にも大きく分けて2種類ある。そう考えるとこの話はすこし整理できるのではないでしょうか。

今の日本て、授業を受けるとそのことが分かったことになるのでしょうか。いつの間にかそういう勘違いをしている人が多くなっている気がします。ひどいのになると、人のブログを読んだだけ、本を読んだだけで講義とかセミナーを開いてしまう人もいる。私の周りにも結構います。

ここで浅野先生が言ってるのは、片方の「わかる」のみになってしまっていることかと思います。
その「わかる」はすでに他人が情報化した(残り滓としての)情報を言語的な知識として記憶(記録?)すること。単なる暗記とほとんど変わらない「わかる」。意味はわかっているのでしょうけど、体感がない。よって、わかったことを本人は上手に使えないタイプの「わかる」です。

でも、「わかる」というのにはもう1つのタイプがあります。それは自分の行動・観察により対象を情報化する(情報を生み出す)形の「わかる」です。

結果が出て「わかる」

浅野先生も書いてますけど、こっちの「わかる」は結果が出るから「わかる」なんですね。自分で行動したことで結果が出る。それでわかる。もちろん、結果というのは失敗もあれば成功もある。失敗につながる行動がわかることもあれば、成功につながる行動がわかることもある。これが「蛇行」です(自分で動かずにあちこち余所見するのが蛇行ではない。自分で動くから蛇行になります)。

この結果が出るから「わかる」というのは、実は本人もわかってない場合があるんですね。本人はわかったつもりはないけど、それでも、もう1回やってというとできちゃう。でえきなかったものができるようになる。「わかる」というよりも「できるようになる」といったほうがいいのかもしれません。

その意味でもこの2番目のタイプの「わかる」は結果(アウトプット)と結びついているんですね。

情報化と情報、身体的な知と言葉の知

まず「情報化」と「情報」の違いをわかってないといけないですね。

情報化というのは、自分自身で世界と関わっていくなかで情報を生み出す行為を指します。観たり、触ったり、聞いたりすることで、自分のなかで何かが変わって、それと同時に情報が生まれる過程です。
一方の情報はその結果、生まれるものです。ですので、これはすでに誰かが生み出した情報も扱える。ここには行動や観察は必要ありません。ブログや本で情報なら得られる。ただ、このやり方だと2番目のタイプの「わかる」は得られません。

この違いに注意しないといけないのだろうな、と。

ようするに「情報化」に関わる知は身体的な知です。身体が行動を通じて「情報化」の過程そのものを学ぶのでしょう。身につけるといっていい。
一方の「情報」に関わる知が一般的に知識だと思われる言語的な知なのでしょう。こっちばかりを詰め込む教育になってしまっていて、そこが問題なんでしょうね。

知識をもつのは悪いことじゃないけど、それだけじゃ足りないよっていうのをちゃんと自覚していないとだめですね。



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