表象の芸術工学/高山宏

最初にこれだけは言っておかないといけません。
この本を読まないデザイン関係者なんてありえない、と。

「デザイン」というのは、もともとはTo do with signs、「サイン」を相手にどう対処するかという意味の哲学と手法のことなんだね。
高山宏『表象の芸術工学』

まさに、高山宏さんはこの本のなかで膨大なサイン(表象)を相手にしています。そして、これまで人類が様々な時代において、サイン(表象)を相手にどう対処してきたかを紹介してくれています。
この講義が大学で行われていたなんて、なんともうらやましい。



デザインとは「サイン」を相手にどう対処するかという意味の哲学と手法

しかも、いまの「デザイン」なんて領域をははるかに飛び越えて、本来「デザイン」がどんな文脈でどのように用いられていたかを丁寧に紐解いてくれます。
例えば、エドガー・アラン・ポーの例としてはこんな風に。

ポーはこれを『詩作の哲学(Philosophy of Composition)』(1846)や『詩作の原理』といったエッセイにまとめ、詩は神から霊感を受けたある特殊な天才による特権的な仕事ではなく、音韻の持つ機能的な構造をしっかりと分析した技術者であれば誰でも作れるとまでいう。文学もデザイナーの仕事だ、と。
高山宏『表象の芸術工学』

高山氏が紐解くのは、江戸の黄表紙、ピクチャレスク、マニエリスム、英国式庭園、観相学、グロテスク、驚異の部屋など、それってデザインと関係あるの?って思える様々なもの。僕らには馴染みのない様々な図像を紹介しながら、その背後にある「哲学と手法」について語ります。その多方面にわたる知識量にはおそれいります。
とはいえ、もともと神戸芸術大学で2000年に行われた計13回の講義が元になっているくらいですから、読みにくさはまったくありません。いや、読んでしまったいまとなっては、最初にも書いたとおり、この本を読まずして「デザイン」を語るのはおこがましく思えますから、みなさんにも薦めずはいられません。

僕の本は読まなくてもいいから、この本を読んでほしいくらいです。
そして、この本を読んだら、すでに紹介したバーバラ・スタフォードの『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』を続けて読んでほしい(こっちは高山さんの本に比べて読みにくいことこの上ないですけど、これも読まなきゃ、これからのデザインなんてありえないと思える本です)。

と、そんな風に興奮ぎみなのですが、まずはもうすこし『表象の芸術工学』の内容を紹介しておくことにしましょう。

ピクチャレスクの崇高美

まず興味を惹くのは18世紀イギリスから発信され、ヨーロッパを席巻したピクチャレスクという美意識です。これはアメリカにわたって先に引用したエドガー・アラン・ポーなどにも受け継がれます。高山さんはポーの『アッシャー家の崩壊』をピクチャレスクな小説として紹介しています。

さて、では、ピクチャレスクとは何でしょう。1980年代までは「ピクチャレスク」を「画趣に富む風景」と訳していたそうです。しかし、実際にピクチャレスクと呼ばれる絵をみると、どれも「荒涼としてごつごつして寒々しい風景」なんだそうです。実際、Oxford English Dictionary(OED)をひくと18世紀の用法では「荒涼としている、寒々しい、木が一本もない」という意味だったそうです。

どうしてそんな風景がピクチャレスク(絵のような風景)なのか? しかもピクチャレスクとして描かれた風景には、どう見てもイギリス的な景色は描かれていないのです。

17世紀のイギリスはフランスやオランダとの戦争に明け暮れていました。英国人が大手を振って安全に大陸を旅行できるようになったのは1713年のユトレヒト条約以降だそうです。ただ大陸を旅行できるようになってもイギリス人はフランスには行きませんでした。「フランス憎し」だったからです。そりゃ、そうですよね。つい最近まで戦争していた相手なんですから。
イギリス人はフランスに行かずにイタリアに行った。そのコースの1つにドイツからスイスにわたり、アルプスを越えて、北イタリアへ入っていくというコースがありました。多くの人が旅路で命を落としたそうです。そのアルプスの荒涼たる風景がピクチャレスクで描かれた風景なのです。命を落とすほど、凄愴たる風景にみた崇高な美を英国人はサブライムの美と名づけるのです。

英国式庭園の曲がりくねった道

このピクチャレスクの美意識と「フランス憎し」の感覚が、英国人にフランスの直線路と幾何学的な刈り込みでできたフランス式庭園とは正反対のジャングルのように生い茂る自然と蛇行する道による英国式庭園をつくらせます。

18世紀の庭作りはある種の芸術行為でした。植物学に詳しいばかりか、哲学的な発想も必要とされる。もちろん絵のセンスがなければいけない。できあがった庭を見ると、よくできた風景画のような図が浮かび上がります。(中略)この感覚は18世紀に生まれました。風景を風景画として品評するピクチャレスクの誕生です。景観工学、都市設計に際しても、ピクチャレスクの勉強が不可欠です。(中略)先のポーの小説は、ピクチャレスク・ガーデンのありかたそのものを物語化している作品ですが、第一このようなものを狭く文学作品と呼べるのか。
高山宏『表象の芸術工学』

ピクチャレスク感覚はこのように、絵画のみならず、作庭や都市設計、そして、文学まで貫く形で浸透しました。いや、それだけにはとどまりません。英国式庭園の曲がりくねった道は、人体内の曲がりくねった臓器の道との類似性につながり、そこからさらにインテリア/体内の連想にもつながります。この分野を横断しての一大イメージ感覚をもつ18世紀こそがバーバラ・スタフォードが『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』で、細分化されてバラバラになった現代を救うものとして召喚しようとしたものにほかなりません。



エクプラーシスという芸術観念

ところで、18世紀のヨーロッパでどうしてこんな領域横断的なイメージの浸透が起こったのでしょうか?
高山さんは17世紀を境に分けられる前近代と近代のあいだで、後者が失ったものにプレニチュードの感覚があるといいます。プレニチュードは充満、充実という意味です。神、天使、人間、度物、鉱物、無生物にいたるまで有機的につながった「隙間なく充満した宇宙」という中世の人がもっていた感覚を近代の人は失ってしまった。

それまで宇宙の鏡としてあった本においても、有機的なつながりを失ってしまったがために、1728年発行の百科事典『サイクロペディア』ではアルファベット順の索引が導入されます。有機的なつながりで並べるのではなく、ABCという無機的な秩序で書物を構成しなくてはならなかったのです。

ただ、そこに危機感がなかったわけではありません。

人間という現象を捉えるときに、生物学者であるのか、化学者か、あるいは建築学者なのかで無数の手だてがあります。ところがそのおのおのがすっかり細分化されすぎて、生物学者と建築学者の人間観・芸術観があまりにもかけ離れているという事態を18世紀のヨーロッパの人々は感じ始めます。その時に出てきたのが、具体的には「エクプラーシス」感覚をもう一度強力に立て直そうという動きです。分野を超えてアプローチしないと見えてこないものがたくさんあります。それによって、中世に滅びたはずの「存在の大いなる連鎖」という魔術的な思考の方法まで蘇ってきました。
高山宏『表象の芸術工学』

有機的なつながりとしての「存在の大いなる連鎖」をなんとか再構築するために持ち出されたのが「エクプラーシス(ekphrasis)」という芸術観念でした。

ヨーロッパには「エクプラーシス(ekphrasis)」という芸術観念があります。あらゆる表現メディアは本来は同じ記憶の女神「ムネモシュネ」が孕んだ9人のミューズであり、その一人ひとりが音楽や詩などを司ると考えられていました。だから「姉妹芸術(sister arts)」という呼び方が出てきます。(中略)根本的にはあらゆる表現メディアは同じひとつの表現衝動に行きつきます。ここがヨーロッパの、特に18世紀のアートを理解するための大きなポイントです。
高山宏『表象の芸術工学』

ピクチャレスクが領域横断的に芸術各分野のみならず、医学や観相学の領域にまで広がったのは、こうした背景があったからなのでしょう。

つなげる、似ているところを見つける

このつなげることを重視する感覚、そして、つなげるために類似やそれを呼び起こす蒐集して並置する方法をとる感覚こそが、スタフォードが『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』でそれを利用してバラバラになった自然科学、人文科学の領域をつなぎあわせるための大きな見取り図を描くために利用しているものです。

マーシャル・マクルーハンの遺著『メディアの法則』も近々邦訳が出ますが、副題に「新しき学」をうたっていることからもわかるように、つなげよう、似ているところを見つけようとする仕事でした。「メディア」を本来の「間をつなぐもの」という意味に帰そうとしている。メディアって、もともとは人と神をつなぐ巫女のことですからね。
高山宏『表象の芸術工学』

To do with signs.
神のサインを読み取り、人に伝える巫女はさながらデザイナーです。
メディアのデザインとは本来そういうものなのでしょう。「ゆゆしき人間中心設計者」で書いた「向こう側に人間がいるやりとりであればまだしも、単にニュースやアーカイブされた情報を読むだけでは知識の蓄積が起こりにくいという問題」もこのような意味でメディアというものを捉えない限り、解けません。身体性とイメージの関係を締め出したまま、言語と数学のロジックだけでやろうとしても、アナロジーを呼び覚まして遠くにあるものと近くにあるものをつなげるメディアとはなりないでしょう。「ヒット商品、データベース、そして、言葉の壁」で書いたとおりで、「このデザインじゃ見知らぬ遠くの者同士がつながることはあっても、領域を超えたつながりはうまれにくい。もうすこし正確に言うと共通言語をもたない者同士のつながりが生まれることを期待するのはほとんど不可能だと思ってよいでしょう」です。

差異に着目してNOという世界か、類似に着目してYESという世界かの違いです。

イメージのもつ魔術性の復活

つなげるという意味では、この高山さんの本自体、ある分野にこだわらない様々な読むべき本へと読者の関心をつなげるガイドブックになっています(実際、高山さんはこの本のなかで、あれを読め、これを読め、と実にたくさんの本を紹介してくれています。「5年で300冊」のためには本当によい参考になりますよw)。
そして、スタフォード同様に高山さんもつなげるための道具として言葉ではなくイメージを選択しています。切り離して整理して分類するものとしての言葉ではなく、集めて並べて類似の発見を喚起するものとしてのイメージを

アートやデザインというとどうしても表面的な美ばかりが注目されます。しかし、それが言語重視の思想によって骨抜きにされたイメージの残骸でしかないことを高山さんもスタフォードも示唆してくれています。もともとのイメージには「百聞は一見に如かず」という強力な魔術的な力をもって、明るい面も暗い面もごっちゃに突き動かすものであることを僕らの目にもう一度思い出させてくれます。僕が「メグミ・大場 写真展「八百万への回帰・自然の中で静かに生きる」」で紹介したメグミ・大場さんのことを思い出して、タイミングよく写真展が開かれていることを検索で知ったのも、この本を読みながらイメージという言葉よりも親和性の高い表現のもつ魔術性からの連想でした。直観を喚起するイメージの魔術性に立ち入らずに、綺麗事だけでデザインを済ませようなんてのはないなと思います。

そのような意味でデザインに関わる人はこれを読まずにデザインを語れないと思うのです。



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