俳句の有限性と自己組織化するWeb
さすが弾さん。僕の感じていた気持ち悪さをスッキリさせてくれました。
現在存在するWebページの数がどれだけあるのか、正確な数は誰にもわからないが、まだ1兆も行っていないだろう。その程度で「知的生産の道具としては役に立たなくなった」とはヘタレもいいところなのではないか。
404 Blog Not Found:ゴミなきところに知なし
10の12乗に満たないというのは確かに少ない。
正岡子規が認識していた俳句の可能世界の有限性一方、俳人の正岡子規はあかさたなの五十音という限られた種類の文字を用いて、たった17音の組み合わされる俳句という形式の有限性を憂いていたといわれています。
確かに五十音による17音の組み合わせは有限で計算可能でしょう。
あああああ あああああああ あああああ gitanez作
などの同一音の組み合わせを含めても、50の17乗しかありません。
そう。10の約29乗しかないのです。ただし、それは現在のWebページの予想総数よりはるかに多い。さらに日本語に独特の漢字や仮名交じりの表現力を考慮すれば、可能な組み合わせのパターンはさらに膨大なものになります。
もちろん、可能な組み合わせの中のほんとどは意味をなさないゴミで、なんとか日本語として意味をなす組み合わせの数でさえごく限られ、しかも、その中で俳句としてキラリと光るようなものはごくわずかなのでしょう。
でも、だからこそ、天文学的な組み合わせのゴミの山から俳人は知的生産行為として俳句をつくるの…