2006年12月19日

私的インフォメーション・アーキテクチャ考:11.テンプレート脳

皆さん、頭にいくつのテンプレートを用意しているでしょうか?
いや、数えなくてもいいです。それよりも自分の思考がテンプレートのおかげで随分効率化されてるなと感じたことがあるかどうかをちょっと考えてみてください。

テンプレートの弊害

そんなことを考えたのは、今日、仕事中にテンプレートの弊害を感じたからです。それは頭の中のテンプレートではなく、レポート作成を効率化するための文字通りのテンプレートをベースに別の人が作ったレポートを見たときに、そんなことをふと思ったんです。

ようはいまいち、そのレポートの出来がよくなかったわけですよ。
何を伝えようとしているのか、わからないわけです。
でも、それはたぶん、その人の能力がどうこうというより、このレポートのテンプレート自体が問題なのだと思いました。レポートした本人に問題があったとすれば、出来が悪いテンプレートを無理やりアウトプットに用いたことでしょうか?

結局、テンプレートを用いたレポートの前にもう一枚別のまとめ(要約)を加えてもらうことで、とりあえずそれは解決しました。つまり、そのテンプレートって、それが用いられる前にまとめ=要約を必要とするようなテンプレートだったわけですね。

しかし、問題はテンプレートが存在したために、レポートした本人の思考を制限してしまったという点にあります。最初にテンプレートありきで思考しようとしてしまったがために、何を伝えなくてはいけないかということよりも、テンプレートを埋めることに思考の方向性が向いてしまったということでしょうか?
これは昨日の「ツールだけでは人もビジネスも動かない、そして、Webそのものでさえも」という話とも関係することだと思いますが、今日はそちらの方向には話を進めず、テンプレートというものについて考えてみることにします。
「私的インフォメーション・アーキテクチャ考:11.テンプレート脳」の続き
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2006年12月16日

デブサミ2007「Webサイトの提案に困っていませんか?」

翔泳社さん主催のデブサミ2007(Developers Summit 2007)のセッションに参加することになりました。
今年から開設された「マーケティングテクノロジー」のセッションでお話をさせてもらいます。
以下、その内容です。

セッションタイトル
Webサイトの提案に困っていませんか?
〜 経営課題とWebサイトをきちんとリンクさせる7 の手法 〜

日時:2007年2月14日17:40〜18:30
場所:目黒区雅叙園
セッション概要
Webマーケティングは単なる広告でも、Web活用によるコミュニケーションの効率化でもありません。
企業におけるITシステムの改善が単にシステム面での改善ではなく、クリティカルな業務の改善であるように、本質的なWebマーケティングは企業が直面する経営課題そのものを解決します。その対象は販売促進などの販売プロセスだけでなく、人材などの調達プロセス、社内教育のプロセスにも及び、まさに企業経営の縮図といえます。
今回は経営課題をシックスシグマの考え方を用いてWebへ変換して解決案を導く手法をご紹介します。

ようするに、「ブランドのつくりかた:1.シックスシグマを使う」や「事業会社にとってのWeb2.0:その2.Web構築・運用は企業経営の縮図」あたりで書いていたことをお話する感じですね。

興味のある方はぜひ参加登録して遊びにきてください。
料金は無料ですので。

関連エントリー

ラベル:デブサミ web
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2006年12月08日

要求の定義:曖昧なことを曖昧にしたままにしない

仕事をしていて顧客要求や仕様が曖昧なのがわかっているのに、そのまま放置しておくのって、傍から見ててもあんまり気分のよいものじゃありませんね。
ニーズや仕様が曖昧なまま、確認もせずに勝手な思い込みで作業をはじめてしまうなんてありえないんじゃないでしょうか?

おかしいなと思うのは以下の3点。

1点目

いったい、誰のお金で働いてるつもりなのかというのがまず1点。
給料もらって働いてるんだから、仕様が曖昧なまま、作業を進めて、やり直しだとか、作業が無駄になったりしたら、そのコストの浪費はいったい誰が責任を負うんでしょうか?

2点目

それから、仕様が曖昧で、確認しようにも相手がいまひとつ仕様を明確にできないのなら、こちらから適切な提案をする形で仕様を決めるのが専門家の仕事でしょというのが2点目。問題は最終仕様を誰が判断するかということではなく、そこまでの過程はやはり一番その分野に精通している人がナビゲートしてあげるのが仕事の進め方なんじゃないでしょうか? 
決めてくださいねと伝えた上でならまだしも、そうではないのに誰かが何かを決めてくれるのを待つなんて姿勢はありえません。そんな逃げの姿勢だと余計に悪い結果を生んで、結局逃げられなくなるのがオチですよ。そしたら、相手も気分悪いし、自分も気分が悪い。いったい、それに何の得があるのか?ということです。

3点目

そして、最後に3点目は、要求が制約条件としての予算やスケジュールに合わないのであれば、それを顧客に対してきちんと理解してもらうべきだし、理解をいただいた上で制約条件に収まる形での、顧客の目的にあった提案を行い、それで双方納得の上で仕事を進めるのが必要なんじゃないでしょうか? 曖昧なことを曖昧にしたまま、こちらの勝手な当て推量で決めた、顧客の目的に見合っているかどうかも不明なアウトプットをもっていくことに何の意味があるんでしょうか?

曖昧なことを曖昧にしたままにしない

顧客に対しても、社内の同僚に対しても、自分の責任範囲の仕事で曖昧なことがあれば、それを曖昧なままにせず、行なうべき質問はすべて行い、答えがすぐに出ないのであれば、制約条件下で実現可能な選択肢をいくつか用意することで、相手が答えを選択できるよう導いてあげることも大切なはずです。
おたがい譲り合って、その結果、あとでちゃんと聞いておけばよかったと嘆くようなことはあまりに馬鹿げていると思います。

だって、確認すればいいことなんだから、いったい、それを躊躇う理由ってどこにあるんでしょう? 本当にたったそれだけのことなんですから。聞かれたほうだって、それで結果がよくなるのだとしたら、そこに時間を割くのをそんなに嫌がることはないと思います。

有限の時間と有限のコストのなかで、有意な行動をとるのであれば、遠慮よりも丁重な姿勢を保ちつつも言うべきことはきちんと伝えていくことが大事なんじゃないかと思います。特に相手がわかっていないようであればなおさらです。お互い、そうやってヘンな遠慮をせず、コミュニケーションすることで、ひとつひとつ学んでいき、ひとつひとつノウハウを蓄積することが大切なんだと思います。

関連エントリー

 
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2006年12月01日

イメージわかないなぁ

「イメージわかないなぁ」

だったら、とっとと検索しなさい!

昨日知りましたが、世の中ではまだまだ僕らが当たり前にやってることを当たり前にはやってない人がいるんですね。

とにかく検索しなさいって

知らないことを情報もなしにいくら頭で想像しようっていったって、そんなの無理に決まってます。イメージするってのは、頭の中に記憶されている情報をいろいろ引っ張り出してきては、自分が納得いくような文脈(パターン)に並び替えて、意味をもたせることにほかなりません。だったら、そもそも情報が欠けていたらイメージわかないのなんて、当然なわけです。

なのに、なんで腕組みしたまま、「イメージわかないなぁ」って嘆いてるわけ?
本当にイメージをわかせようとしてます?
想像力を働かせようとしてます?
そのつもりなら、腕組みを解いて、とっとと検索窓にキーワードを打ちこみなさいって!
頭の中に情報が不足してるんだから、外部の情報でそれを補うしかないわけですよ。

大学生だって卒論をGoogleで書いてる時代です。企画書だってなんだってGoogleさえあればいくらでも書けます。それなのに腕組みして「イメージわかないな」って嘆いてる人って、身体(頭じゃないから注意ね)が2.0になってないですね。過去の人ですよ、過去の。

「イメージわかないなぁ」の続き
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2006年11月24日

好奇心を活性化するための受容器官の鍛錬

すげー感覚的なことを言いますが、昨日の「未来を考えるならいまの気分だけで無用とか無意味とかを判断しないこと(あるいは多和田葉子『ふたくちおとこ』)」や「キャパシティを広げる」で考えている、自分の現在のキャパシティの範囲外のものを無用、無意味と判断して、自分の範囲内のものしか学ぼうとしない姿勢をもってる人は、実は学ぶ力が弱いんじゃなくて、むしろ、脳みそ的な学ぶ力ばかりが発達していて、感じることに関する能力が弱いんじゃないかと思いました。

感じる能力の低さ

ようするに、そういう自分のキャパの範囲外を学ぶ姿勢が弱い人ほど、頭でっかちで、頭でだけ考えてる人なんじゃないかと。逆に言えば、感覚とか感情とかが弱いのかなって。そんな気がします。
自分のいまのキャパシティの範囲外のことを学ぶには好奇心みたいな、頭で考えて生み出せるのとは別の力がいると思うんです。そういう好奇心って、いくら勉強(机に座ってするような狭義の勉強)とか、本から何かを知識を得ようとしたところで養えないと思います。むしろ、それは普段の生活とか、あるいは、その反対の非日常的な体験(見知らぬ土地への旅行だとか、寺社などでの神秘的な体験だとか)の中で、頭でわかるんじゃなく、なんとなく感じるものがあって、そこで養われるんだろうなと思うんです。

ペンローズの三角形、再び

それこそ、昨日の「ペンローズの<量子脳>理論―心と意識の科学的基礎をもとめて/ロジャー・ペンローズ、茂木健一郎、竹内薫」でも紹介した、下のペンローズの三角形、



にあるような、精神世界からプラトン的世界を感じる、そこから数学的真理を発見するなんていう芸当は、普通の知力、学ぶ力では不可能でしょう。逆に言えば、普通の知力や学ぶ力が行なってるのは、単に精神的世界と物質的世界の相互の関係性だけに頼っていて、プラトン的世界を見ていないんではないか、と。

東洋的な学習方法

だとすると、自分のキャパシティを広げられない人に、必要なのはむしろ座禅とかなんじゃないか、と。西洋的な学問の仕方じゃなくて、東洋的な学問をやってみることで、脳みそ以外の感覚器を刺激して、外部の未加工の非人工的な知識を受容しやすいよう、鍛えることが必要なんじゃないかと考えました。

そういう受容力が体にしみこんでいないと、たぶん、ブログとか読んでもほとんど身につくものはないんじゃないか、と。
情報がいくらカンタンに手に入るようになったからといって、受容器官のほうが低レベルなら「学力」なんて向上しないんだろうなという気がします

いやー、我ながら思い切って非科学的で、感覚的なことを書いてみましたが、たぶん、これ合ってるよ。

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キャパシティを広げる

未来を考えるならいまの気分だけで無用とか無意味とかを判断しないこと(あるいは多和田葉子『ふたくちおとこ』)」や「色即是空。諸行無常。便利なハウツーもいつ塵となって消え行くかわからない」のエントリーで言及したのと、まさに同じようなことを書いていらっしゃるブログを見つけましたので、遅ればせながら引用させていただきます。

まぁ高校までの勉強って言うのはキャパシティを広げるためのものだからやってて無駄になることはまずないんだけど。だって目的はキャパシティを広げることだから。キャパシティが広ければ広いほど、未知のものを受け入れる事が容易になる。今やってることそのものが役に立つわけではなく、自分の能力の器の大きさが役に立つ。そしてキャパシティは若ければ若いほど広げることができる。年をとってからでも広げることはできるけど、若い頃のほうが広がるスピードが速い。

「高校までの勉強って言うのはキャパシティを広げるためのもの」という理解はなるほどと思いました。キャパシティは「若い頃のほうが広がるスピードが速い」というのも納得です。でも、逆にいえば、自分のキャパシティを広げることに切実な危機感を持ちやすいのは大人のほうかなとも思うので、全体的にはどっこいどっこいなのかもしれませんね。

でも、問題はこういう自分のキャパシティを広げるってことに、say_soさんは学生に対して問題を感じ、僕のほうは大人(特にビジネスマン)に同じように問題を感じているってことじゃないでしょうか? それって主な人、全部じゃんってことです。
世の中、そんなに自分のキャパシティを広げる努力を怠っている人ばっかりで、それは学生の時代から就職をして、それなりに仕事の上での経験を積みながら、なお、そういう状態でいることに平気だというんでしょうか? そうだとすると、ちょっとおそろしくなりますね。

「キャパシティを広げる」は、言い換えれば、「自分の引き出しを増やす」ということにもなるでしょうか? say_soさんも「意味がないことをやって何が悪いんだろうか。そもそも意味があるって何さ?」と書いてますが、将来何が役に立つかはわからないし、わかっていたら実はそれはあんまり役に立たないということもあったりするわけです。さっきも書きましたが、「現時点での浅薄な自身の知識や情報をベースにして、無用だとか無意味だとかを判断して、何を学ぶか、何をやるかを極端に絞り込んでしまうのって、理知的に見えて、逆に危うい」と思うんです。

それなのに、自分のキャパシティを広げることにあまりにも無関心なこの状態っていったい何なんでしょうね? 忙しくて、それどころじゃないということでしょうか? でも、それは「足りないのは時間ではなくて、ものを考える意欲や習慣なんじゃないですか?」っていうところに再び行き着いてしまうのではないでしょうか。

子は親の鏡ということなのか? あるいは、子供の頃からの修練の足りなさが大人になっても受け継がれているということなのか?

とにかく、なんなんでしょうねって思います。

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2006年11月17日

準備が大切ですね

今日はちょっと一段落したので、感じたことをメモ。

準備が大切

これまでになくハイレベルな要求に、しかも、タイトなスケジュール、さらには想定したリソースが使えず、結局、すべて自分でやるハメになって、このブログもストップしたわけですが、そこであらためて感じたのは、普段なんでもない時に地道に身に着けていた知識ってこういうピンチの時にこそ役に立つんだなってことでした(そのおかげで当初ビビっていたよりは余裕ができて、こうやってブログが書けてたりもするわけです)。
いつ使うかわからないからといって、自分に関係ないやなんて思わず、勉強しといてよかったとつくづく感じました。こういう蓄積がなければ、チャンスをいかすことはできないんでしょうね。そいうのがないと、突然、わいたチャンスに後手を踏むことになり、チャンスを逃し、結局はいつまでも自転車操業を続けさせられるわけです。僕自身、まだ自転車操業に毛が生えたレベルですけど。

共通言語って大切

Webの仕事をしてると、つい新しいWebの用語ばかり並べ立てがちですが、そんなの企業経営、事業経営からみたらほんの一部しかしめないニッチな用語です。その点、シックスシグマだとか、バランススコアカードだとか、ISOのPDCAなんかの用語で話すと、こっちがWebを想定しつつ話しててもちゃんと共通言語を介して話が通じ合います。あとこういう言語で話してると、目的系の話と手法の話がごっちゃにならなくてよいなというメリットもあります。Web2.0とかどうでもいいわけですよ、その場合(どうでもいいというのは、その用語を使わなくてもいいという意味)。

レベルの高い要求に身をおかないと育たないね

今回、自分でそういう立場に立ってみてあらためて感じたのは、結局、人が育つのは、その人が普段やってることよりすこしレベルの高い要求に身をおいたときなんじゃないかってことです。もちろん、前提として「準備が大切」で、何もない時の積み重ねがなければ右往左往しておしまいなんですけど。

というわけで、結論としてはヘンに自分の領域を狭くくくりすぎて、周辺知識を身につけるのを怠ったり、現場だとか経営だとか無意味な二元論を使って安心した気になったり、レベルの高い要求に躊躇したりってバカげてるなってことをあらためて感じたわけです。
自分を信頼してもっと挑戦しないとダメですよ、皆さんも。

と、のんきにブログを書いてる場合じゃないですが。

 
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2006年11月14日

当分の間、ブログ更新を止めます

仕事で予期せぬ事態となったため、今月中は基本的に更新を止めます。

まったく中途半端に引き受けて、あとでできなくなるなら、はじめからできるとか言わないでほしいね。皆さんも人を使うならバラ付きを考慮して設計を重視し、また、後工程の人が困らないよう配慮して仕事しましょうね。

では、しばらく、ご無沙汰いたします。
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2006年10月20日

既存の価値を重荷として背負うのではなく、自分自身の価値を創造する

風邪をひきました。
喉が痛くて、頭が痛い。はかってませんが、おそらく熱はあるでしょう。

前に進む意欲、前に進むしかない状況の認識

さて「「むずかしい」って嘆かない努力をしましょう」というエントリーに、さつませんだい徒然草さんからトラックバックをいただきました。

その中にこんな一文があります。

 会社勤めの頃って、仕事ってほんと「やらされてる」ばっかりだったような気もしますが(若かったし当然なんだけど)、今のように何でも自分で決めてやる立場になってみると、自由を享受してる分、めちゃめちゃ怖かったりするんです。判断一つにしろ、スケジュール一つ組むのにしろ。
 そりゃそうですよね。間違ったら全部自分と家族に降りかかってくるんですから。

さらっと書いてらっしゃいますが、これこそ「むずかしい」なんて言ってられないし、「むずかしい」と言いながらでもとにかくやらなくてはいけない状況だと思います。

僕のあのエントリーは実は特定の一人を想定して書いたエントリーでもあったんですけど、誰かが書いてらっしゃったように「ブログになど書かずに直接言えばいい」という状況で書いたのではなく、むしろ、口で伝えたからあらためてブログに書いたというのが実際です。
特定の一人を想定してはいましたが、その人だけの問題じゃないなと感じたし、自分でも再認識しておかなくてはいけないなと思ったから記録したわけです。さらに言えば、その特定の一人が口でいってもわからないと思ったから書いたのではなく、わかってると思ったから忘れないように書いたわけです。(ようは言葉は悪くても、あれで応援してるつもりだったわけです。本人にはへこんだと言われましたが。そこはあらためてごめん。でも、がんばれ!)

そして、何を記録したかったかといえば、「むずかしい」と言ってはいけないということではなくて、前に進もうという自分の意欲、また、前に進もうとしている他人の意欲を消してはダメだということでした。(特定の言葉を口にしてはいけないなんてことは僕は金輪際ないと考えます。どんな言葉も時と場合によっては価値のあるものになるのではないでしょうか?)
書き方がすこし雑なところもあって、そこがうまく伝えられず、誤解された方もいたようで不快な気持ちにさせてしまったのは申し訳ないなと思いますが、本当に伝えたかったことをあらためて書けば、上記のようになります。

「問題をきちんと定義」することや、「ゴール」と「改善範囲」を決めたり、「スケジュールを切」ることは、前に進みやすくするためには便利なツールです。
でも、上で引用したさつませんだい徒然草さんの言葉に表れているように、「やらされてる」感などは皆無なやるしかない=前に進むしかない状況では、極論するとそれらのツールはなくてもいいのかもしれません。もちろん、あれば便利だと思いますが、なくても最悪「前に進むんだ」という意思さえあればいいのですから。
さつませんだいさんのように自分でお店をやってらっしゃる方なら当然自分がやらなきゃいけない状況を見間違うことはないのでしょうけど、本当の意味ではその状況はサラリーマンだろうと同じはずです。ただ、目を伏せていればそれが見えないだけで、自分の置かれた状況をより将来的な目でみれば、あまり変わらないことに気づくのではないかと思います。

「既存の価値を重荷として背負うのではなく、自分自身の価値を創造する」の続き
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2006年09月30日

弘季という名前

弘季という名前は浄土真宗のお寺でつけていただいたと聞いています。何年か前からこの名前って自分のミッションをうまく定義してくれている名前だなと感じて感謝してます。
季(とき)を弘(ひろ)める。弘法大師が法を弘めたように、いま生きている時代に埋もれた未来の息吹みたいなものを弘めることが自分のミッションのように感じます。
その意味で純粋な発見は僕のタスクじゃないし、純粋な発明も違うと思います。僕はただ与えられたインプットを翻訳して編集して増幅して、繰り返し話す/書くことが仕事なのかなと。
根っからのマーケ屋かも。
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2006年09月20日

+10の46乗

最近、このブログに訪問してくる人の検索キーワードで「+10の46乗」というのが多い。

このブログで「10の46乗」について書かれているのは、だいぶ前に書いた「直感によるシミュレーション/計算を介したシミュレーション」です。

ところで、10の46乗ってなんだろう?と思って調べてみると、数の漢字表現に関するこんなページを見つけました。
http://www.nobi.or.jp/i/kotoba/kanji/figure/kanji.html

10の64乗=不可思議がいいですね。

10の46乗は、仏教経典の秘数で、大珊若(ダイサンニャ)と呼ばれるらしい。
ちなみに『仏教学辞典』では、10の52乗までいくと、阿僧祇(あそうぎ)として、これを無数と訳すみたいです。
他の文献では、阿僧祇のあともまだ続きがあるらしく、阿僧祇阿僧祇、無量、無量無量、無辺、無辺無辺、無等、無等無等、無数、無数無数、不可計、不可計不可計、不可思議、不可思議不可思議、不可説、不可説不可説と続くそうです。

以上。
今日の小ネタでした。
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2006年09月16日

悲観的な言い訳で自分をやさしく包んでいるくらいなら前を向け

なんとなく昔付き合っていた彼女に言われたことを最近よく思い出します。

僕は昔から「文章を書く人」でしたが、20代の頃、付き合っていた彼女に僕の書く文章は「おもしろいけど、言い訳っぽく感じるときがある」と言われたんです。

その頃の僕にはそれがどの部分を指して言っているのか、ピンときませんでした。当然、付き合っていた彼女に言われたのですから、すごく気になったのですが、彼女も明確にどの部分かを言い当てることはできませんでしたし、僕自身、いくら考えてもどういう点について言われているのかがわかりませんでした。

言い訳=無責任に批判すること

でも、今ならそれがよくわかります。
つまり、それは周囲や社会などへの不満を他人ごとのように批判する点が、彼女にそう思わせたのでしょう。

このブログで再三、責任には自分にあり、まわりに責任はないと書いているのは、まさに他者に責任を預けて不満を述べた途端、自分の文章や行動が「言い訳っぽい」感じで見られることが今ではかなりわかってきたからです。
Web2.0でもなんでもいいんですが、新しいものが登場してきた場合、それを使い物にならないと批判することは簡単です。でも、それは僕には、それを「使い物にならない」と称した人の「言い訳」のようにしか聞こえません。かつて僕の文章を読んだ彼女が「言い訳っぽく感じる」のとおそらく同じ意味でそう感じます。
そう感じてしまうので「言い訳するヒマがあれば、問題を改善する努力をしようよ」って思います。批判するだけでは、改善する努力を他人の責務と勝手に決め込んで、自分は無関係だと勘違いしてふんぞりかえっているように思えます。そんな後ろ向きな態度はあんまり感心しません。

また、単純にゴールはどこなの?とも思います。
相手を批判することがゴールなの? それとも、批判によってもっといい状況を生み出すことがゴールなの? って。

もちろん、仕事の現場では契約的な責任を守るために明確に「言い訳」を行うことが必要な場合があり、言い訳のすべてが悪いわけではありません。あと日常生活で愚痴を口にすることだって、何かに不満をもらすことは僕だって、当然あります。

しかし、こうしてブログを書く場合、契約的に明確な責任の線引きがなされているわけでもありませんので、基本的には書く以上、それで何か他人を不快にするようなことがあった場合、それが誤解にもとづくものだと感じても、それは自分が誤解を招くような書き方をしたせいであると思うようにしています。

何よりブログは不特定の人に対して公開されており、日常生活のように文脈を共有した上で言葉が受け取られるわけではありませんので、愚痴や不満はそれを超えた批判と受け取られても仕方ない状況です。
そして、何よりそれは「言い訳っぽく」後ろ向きに見えてしまうことでしょう。

前向きな批評:ドゥルーズの戦略に倣う

もちろん、前向きな批評というのも当然あります。
哲学などは(そのすべてがそうではありませんが)基本的に前向きな批評です。批評することで問題を前に進めるようというのが哲学の基本姿勢だと思っています。

昔、仕事の場で自分がよく口にしていたことを今さらながら思い出したりもします。
「問題を指摘するなら必ず改善案の2つ3つは同時にもってこい」と。

ただ、改善案が単なる批判の対象の裏返しでは仕方ありません。それはおそらく両者のあいだに反発を生じさせるだけで、根本的な改善にはつながらないことが多いからです。
哲学者のジル・ドゥルーズが批評を行う際に採用した戦略、批評の対象となるものの作法に従うことで批評対象の内部崩壊を起こさせた(裂け目を明らかにした)のと似た、相手をやさしく包み込んだ上で、相手の側から間違いや問題点を認識、浮かび上がらせるといった作業を、どんなに面倒でも相手といっしょに行っていくような形の批判〜改善でないとなかなかうまくいかないのではないかと思います。

それは企業のような組織の現場でも同じでしょう。
単に一方的な命令として何かを改善しろと命じたり、自分と違う部門の問題点を他人事のように指摘するだけでは何も変わらないというのがほとんどでしょう。
そうではなく、改善のためには自分が直接関係なくても改善のサポートをいっしょに行うのが、本当に前向きな改善だと思います。そして、それこそが「言い訳」がましくない本当の批判なんじゃないかと思ったりします。

本当に改善しようと思うなら、それは口でグダグタいうような簡単なことではなく、それなりに労力も必要な泥臭く、時間もかかる他者との協力が欠かせないんだと思います。
そう。それは悲観的な生半可な気持ちでできるものではありません。楽観的な気持ちを維持できる強い意思とある程度の心の余裕みたいなものがないと改善にはつながらないでしょう。そして、それはどんな分野でもおなじなのではないでしょうか? ポジティブな気持ちと心の余裕をもつには、それこそ他人の批判をしているヒマがあったら、自分を強くたくましくするため、いろんな勉強、経験をするため、思いつくあらゆる努力をしてみたほうが健全だし、有益だと思うのです。

 
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2006年09月01日

IEでの表示崩れを修正

どうやら何日か前からこのブログをIEで表示すると、記事個別表示の場合に限り、記事本文が下のほうにおいやられてしまうという表示崩れが発生していたようです。
普段、自分ではFIREFOXでみているので、今日まで気づきませんでした。

修正いたしましたので、通常通り閲覧できる状態になっています。
IEで閲覧のみなさん、ご迷惑をおかけいたしました。
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2006年08月26日

小松彩夏の不思議

なぜか、このブログでのアフィリエイトに貢献してるのが、この3冊!

  • 『小松彩夏 日直』
  • 『Moon Doll―小松彩夏写真集』
  • 『小松彩夏写真集「アヤカノナツ」』

  

かわいいとは思うけど、特にこのブログで小松彩夏の紹介をしたことはないんだけどな。
このブログの読者に小松彩夏ファンがいるんでしょうか?

ayaka502.com--小松彩夏オフィシャルサイト--http://www.ayaka502.com/
ayaka

やっぱ小松彩夏でしょ(ファンサイト)http://www11.plala.or.jp/zxcvbn05/Index.html
小松彩夏 - Wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%BD%A9%E5%A4%8F
小松彩夏20歳を記念したオリジナルストラップ発売中http://www.amuse.co.jp/ambra/

「小松彩夏の不思議」の続き
ラベル:小松彩夏
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2006年08月21日

朝からほとほと思うこと

あ〜あ。

他人を素直に受け入れられる寛容さがないのってダメだなと思う。

ほんとかなしいね。
グダグダ言い訳じみたこと言ってないで、
歯を食いしばっても、自分が受け止められるようにしてみろって。
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2006年08月09日

可能性に関する見積もりの意図的な誤謬

ダニエル・C・デネットは『ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化』の中で、可能性を考察する中で、まず論理的可能性、物理的可能性、生物的可能性、歴史的可能性という風に可能性を論じる際にフレームとなる領域を分ける必要があることを示しています。

可能性を見積もる際のフレーム

論理的に可能であっても、物理的には不可能な(存在し得ない)こともありますし、物理的には可能でも生物的には可能ではない(生きていない)こともあります。
馬に羽根が生えてペガサスのように飛べるようになることは生物的可能性としてはなくはないのでしょうけど、すくなくとも歴史的可能性としてはなかったわけです。
もうすこし日常的な話に落とし込むと、私たちが仕事をしていく中でも「技術的には可能ですが、コスト的(スケジュール的)にはむずかしいです」と言ったりすることがあるのも同じことです。

こんな風に可能性を論じる際にはどのフレームにおいて可能かどうかを判断しているのかを示さないと意味をなさない場合が多かったりします。
どのフレームに沿って可能性を論じているのかわかれば、可能性を高めるために必要なものも見えてきたりします。
先の仕事の例であれば、コスト(あるいはスケジュール)を調整すれば、実現の可能性は高まるわけです。

「可能性に関する見積もりの意図的な誤謬」の続き
ラベル:可能性
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2006年08月03日

他人を動かすということ

昨夜の名古屋最後の夜。
最後ということなので、いっしょに4ヶ月出向生活をともにしてきた同僚と、11時くらいから最後の晩餐をしました。

あまりむくわれない仕事を嘆きながら、彼が言ったこと。

他人を動かすということがわかってないよ。

そのとおりだと思う。同じ社内の人間であれ、外部発注先の人であれ、自分のあとに続いて仕事をする人のことを考えて仕事ができなければダメだと思います。
目の前に見えている人だけでなく、自分の目には映っていない人でも、プロジェクトの工程を想像すれば必ず自分のあとに動く人がいることはわかるはずです。
その後工程の人が自分の判断や発言で困ることがないか? そういうことを想像して自分の行動、発言に責任がもてない人はダメです。本当にそういう人がいるとプロジェクトそのものが崩壊の危機に面してしまいます。

同じようなことはもうすぐ発売の『マーケティング2.0』にも書いていますが、あらためてそのことの重要さを感じた今回のプロジェクトでした。
さて、今日一日、無事に片付けて東京に帰ろう。

ラベル:責任
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2006年08月02日

「やる」ときは事前より事後を重視するタイプ

さっき書いた「本に線を引くことがはじまり」に、webmugiさんからはてブで「gitanezさんはどんな精神状況でも,あんまり考えずにやる」というコメントをいただいたが、考えてみれば、僕の場合、ブログを書くときだけじゃなくて、他のことでもそうかもって思いました。

わりと最初は「やりたい」って思ったら、あんまり考えずにはじめちゃうほうで、やっぱりブログを書くのといっしょで、はじめるときの状況がどんな状態であるかはあんまり関係なかったりします。
へこんでるときでも、逆に、調子がいいときでも、はじめるときにはあんまり関係なかったりします。

むしろ「やった」あと、どんな気分になるのか? それを重視してるんだろうなって思った。
とはいえ、「やりたい」時に「やる」わけではなくて、「やりたい」と思ってたことを「やれる」ときにやるわけで、その「やれる」ときは自分の精神状況はあんまり関係なく、タイミングがあえばってことなんでしょうね。
あと、やっぱり「やってる」ときはあんまり構成とか考えてなくて、成り行きまかせですね。

ちなみに、このエントリーでwebmugiさんのコメントを引用したみたいなのが、さっき書いた「本に線を引くことからはじまる」ってことです。

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2006年07月25日

『マーケティング2.0』への道はここからはじまった

「マーケティング2.0」をGoogleで検索したら、1ページ目の下のほうに、ちょっと懐かしい「Webマーケティングはまだまだ2.0じゃないでしょ」のエントリーが見つかりました。

今回、監修してもらった渡辺さんと知り合ったきっかけってこのエントリーだったなって思い出しました。
こんなトラックバックをもらったのがきっかけですね。

そこからブログで何度かやりとりさせていただいて、今回の執筆依頼をいただいたわけです。

ねっ、ブログを書き続けるとこんなこともあるんです。
やっぱり書かなきゃはじまらない! でしょ?

関連エントリー

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2006年07月17日

わかりやすさについて

昨日の「「Web2.0を儲かるか?」という疑問への批判と、それを批判することへの批判」に関連することですけど、大学や研究部門などのアカデミックな分野に対して、「わかりやすさ」を求める風潮みたいなものができあがりつつあるように思うのだけど、これもちょっとどうだろう?と思います。

1つには、昨日の続きで、わかりやすく儲けられそうと思われる分野が優遇され、それ以外の研究分野が過度に冷遇されてしまうという事実には、ビジネスももちろん大事だが、学問・研究もおなじように大事なんじゃないの?と思います。
こっちのほうは先のエントリーで大体書いておきたい点は書いたので、そちらを参照してもらうことにして、ここではもう1点、そもそもなんでそんなに「わかりやすさ」にこだわるの?ってことについて書いてみようと思います。

わかる+容易さ

わかりやすさを因数分解すると、「わかる」と「容易さ」に分けられると思います。
ようするに、わかりやすさとは、わかることが容易な状況を指す言葉だと思われます。
コンビニエンスにわかりたいんでしょうね。

でも、これって英語圏にはない考え方なんじゃないかな?と思ったりします。

Webの分野での用語。accessibility、usability、findability などは、どれもable(能力)を問題にしています。
つまり可能かどうかを問題にしてるのであって、それが容易かどうかは問題にしていないんですよね。

それなのに、usabilityが日本語化されると、使いやすさだと誤解されたりする。本当はユーザーが自分のニーズを満たすのに使えるかどうか(効果、効率、満足度)を問題にするのがusabilityなんですけど。

日本語だと、使いやすさやわかりやすさを筆頭に、読みやすいだとか、話やすいだとか、やたらと+「容易さ」となっている表現が多いような気がします。
これっていったい何なんでしょう? そんなにラクばっかりしたいんでしょうかね。
また、〜しやすいという表現は、自分のことはさておき対象となるもの(ひと)のことを一方的に評価しているようで、ちょっと気分が悪かったりします。

英語の考え方ほうが使う側の責任や努力もきちんと保持、保証している感じがして、僕は好きです。
もちろん、使いやすいにこしたことはないんですけど、それってツールなどの対象の側の問題だけでなく、むしろ使われる対象と使う主体の相互のインタラクションの問題だと思います。
だから、HCIやHIIなんてことが研究されるわけですし(「人体 失敗の進化史/遠藤秀紀」参照)。

「わかりやすさについて」の続き
posted by HIROKI tanahashi at 14:36| Comment(2) | TrackBack(3) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする