民俗学の旅/宮本常一

おもしろかった。すごく。 これは必読でしょう。 特に、いままで会社を一度も辞めたことがない人、生きていくためにはビジネスの場に身を投じるしかないと信じて疑わない人、あるいは、将来の職をどうしようかと頭の片隅でぼんやり思いつつ学校に通う学生などには。 この『民俗学の旅』を読んではじめて知ったんですが、宮本常一さんという人はずっと定職につかなかった人であったらしい。師である渋沢敬三さんの家で54歳になるまで23年も食客生活をしていたという。武蔵野美術大学で講義をするようになってはじめて定職についたのは、その食客生活を終えたあとです。つまり60近くになるまで定職をもたなかった。 定職をもたずに何をしていたかというと、とにかく日本中を歩いてまわった。そして、さまざまな土地で生きる人びとの話を聞いた。それを『忘れられた日本人』などの名著として残している。歩いた量、話を聞いた量もとてつもないが、それを元に残した著作の数も膨大です。 「自分がどんな道を歩いて今日にいたったか。ふりかえってみると、長くたどたどしく、平凡な道であったと思う」と冒頭に書かれていますが、平凡なんてとんでもない、きわめて非凡な旅であったことが、この宮本さん自身の伝記的な一冊を読むとわかります。 伝記的、いや、旅行記的であるといったほうがいいかもしれません。 これは宮本常一さんの人生という旅の記録なのだから。

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芹沢銈介の文字絵・讃/杉浦康平

芹沢銈介さんは、日本民藝運動にも参加した染色作家で、型絵染(布の代わりに紙を型紙で染めたもの)の人間国宝にもなっている人です。その芹沢さんの作品には文字を主題にした作品も多い。 例えば、下は「山」という文字を主題にした2つののれん作品。 藍色ののれんに染めだされた山文字には木が生え、雲がたなびいています。 雲は雨を降らし、木々などの植物を育てます。それが山という文字を主題とした絵のなかに端的に表現されている。 こうした芹沢さんの文字絵作品の魅力を語ってくれるのは、20年以上にわたりアジアの人びとが生み出した造形美に着目し、さまざまな形(例えば、前に紹介した『宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き』など)で紹介してくれている杉浦康平さん。 杉浦さんには、昨年末に出版された『文字の美・文字の力』という本もありますが、本書 『芹沢銈介の文字絵・讃』でも芹沢銈介さんののれんや屏風、ときには着物にまで仕立てられた文字絵の魅力をアジアの図像にあらわれる文字との関連から紹介してくれています。

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意味論的転回―デザインの新しい基礎理論/クラウス・クリッペンドルフ

すでに何度か紹介してきたクラウス・クリッペンドルフの『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』ですが、まとまった書評を書いていなかったので、あらためて紹介してみようと思います。 なんといっても、これからのデザインの意味、そして、今後の人間社会の意味を問い直すためには非常に有効な本だと思いますので。 さて、本書のなかでクリッペンドルフは、 デザインとは物の意味を与えることである。 と述べています。 また、別の箇所では、 デザインは他者に対し現実化可能な人工物を提案することである。 とも言っています。 「物の意味を与える」というのは、僕は人と物とのあいだにインターフェイスをつくることだと理解しています。 もちろん、ここでいうインターフェイスはコンピュータやデジタル機器のGUIのみを指しているわけではありません。包丁の柄と刃の境も、ペットボトルのフタのギザギザも、シャツのボタンとボタンの穴の関係もすべて、人に物の意味を理解できるようにするためのインターフェイスです。 そのインターフェイスの設計を通じて、人と物、人と技術、あるいは、人とビジネスをつなぐ仕事をデザインと定義したい。 ようするに、この本は、プロダクトデザインだとか、グラフィックデザインだとか、Webデザインだとか、最終的につくるアウトプットに依存したデザインの技術に関する本ではなく、サブタイトルにあるようにデザインの基礎を成す部分の方法―つまり「物の意味を与える」方法―に関する本であり、ビジネスそのも…

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塩の道/宮本常一

人間の生活やその環境・文化とデザインの関わり合いに関して、民俗学者の宮本常一さんは『塩の道』のなかで、こう書いています。 日本人は独自な美をわれわれの生活の中から見つけてきておりますが、それはじつは生活の立て方の中にあるのだといってよいのではないかと思います。生活を立てるというのは、どういうことなのだろうかというと、自分らの周囲にある環境に対して、どう対応していったか。また、対決していったか。さらにはそれを思案と行動のうえで、どのようにとらえていったか。つまり自然や環境のかかわりあいのしかたの中に生まれでてきたものが、われわれにとっての生活のためのデザインではないだろうかと、こう考えております。 宮本常一『塩の道』 「残念なデザイン。」から「デザインをする人に求められる資質」まで、yusukeさんとやりとりさせてもらいながら、僕のデザインというものの捉え方をすこし書いてみましたが、基本的に僕の捉え方は、この宮本常一さんの捉え方とおなじです。 つまり、デザインは人間が生活をどう捉えたかということの中から生まれてくるものだと思っています。 それはyusukeさんが「意味と技術から物を作るってこと」で引用している深澤直人さんの、 そのものの内側から出る適正な力の美を「張り」といい、そのものに外側から加わる圧力のことを「選択圧」という。 深澤直人『デザインの輪郭』 ということばにもつながります。 物そのものが現実にあろうとする力が内からの「張り」となり、生活がそれに外から「選…

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グラウンデッド・セオリー・アプローチ―理論を生みだすまで/戈木クレイグヒル滋子

フィールドワークやコンテキスチュアル・インクワイアリーなどの質的調査(定性調査)で集めたデータをいかに分析するかは、人間中心のデザインを進めるうえでもひとつの課題です。 僕自身は、ワークモデル分析や、KJ法(発想法)を使って、質的データの分析を行い、そこで明らかになったユーザーの利用状況や潜在的ニーズをペルソナなどの表現方法を用いて使っています。 ただ、KJ法はやり方がブラックボックスになってしまっているところがあり、いまひとつ初心者にやり方を説明するのに苦労していました。 そんなこともあって以前から気になっていたのが、グラウンデッド・セオリー・アプローチという質的データの分析の方法。そこで戈木クレイグヒル滋子さんの『グラウンデッド・セオリー・アプローチ―理論を生みだすまで』を読んでみることにしました。

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アブダクション―仮説と発見の論理/米盛裕二

昨日の「意味論的なデザインのアプローチへの転回」ではジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論―宇宙の意味と表象』という本を紹介しました。昨日も書いたとおり、ホフマイヤーの本はチャールズ・サンダース・パースの論理学・科学哲学をベースに生命を記号として捉えた非常にユニークな一冊です。 この機会にチャールズ・サンダース・パースについて、もうすこし紹介しておきたいなと思ったのですが、パースの著作は『パース著作集』や『連続性の哲学』などでいちおは読めるものの、元々が断片的であるために理解しづらいところがあるのは否めないのです。 「多読術/松岡正剛」でも書いたとおり、もちろん、そうした困難な壁にぶち当たっていくのも読書の醍醐味・楽しみ方のひとつだと思いますが、とっかかりとして紹介するには、思想そのもののむずかしさはともかく、文章としての読みやすさはあったほうがよいなと思いました。 そこで今回紹介するのは、先の『パース著作集』の翻訳者にも名を連ね、『パースの記号学』という著作もあるパースの研究者である米盛裕二さんの『アブダクション―仮説と発見の論理』という本にしました。

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多読術/松岡正剛

これはおもしろかった。すごくおもしろかった。 あとで詳しく書きますが「本はノートである」ですよ。服をコーディネートするように本もコーディネートするですよ。これはおもしろい。 『多読術』というタイトルですが、これは多読に関する本ではないと思います。 それどころか、読書に関する本として読む必要さえないと思います。 何か未知のものに触れるときの方法のひとつだという風にも読める。僕はそういう風に読みました。 読書は「わからないから読む」。それに尽きます。 本は「わかったつもり」で読まないほうがゼッタイにいい。 松岡正剛『多読術』 読書は旅のようなもので、「無知から未知への旅」と松岡さんはいいます。 無知からというのは当然として、その先にあるのが単なる知ではなく、未知であるところがいい。 僕も「デザインする人に必要な能力は?」で「知識があるから疑問をもつことができるのです。知識はわかるために必要なのではなく、わからないことを発見するために必要なのです」と書きましたが、知というのは未知へと向かっていくのが本当だと思います。「わかったつもり」になると、それが止まる。未知への旅を続けるのが不安だから、つい適当な場所で安住してしまう。 でも、そんな素振りは松岡さんからはまったく見られない。読んでいて気持よくなる一冊です。

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2009年1月-3月で紹介した本のリスト

なんとなく今年になって書評を書いた本のリストをまとめてみようかと。 まとめてみると、1月から3月までで17冊紹介しているようです。 そのうち、網野善彦さんの本が4冊、宮本常一さんの本が2冊。 このブログで常連となっているところでは、松岡正剛さん、柳宗悦さん、白洲正子さんを1冊ずつ。 これで計10冊なので、自覚はしていましたが、わりと同じ人の本を何冊も読む傾向があるのは確かなようです。 また17冊中半数を超える9冊に、タイトルまたはサブタイトルに「日本」が入っているのもこのブログらしいのかも。 では、以下、紹介した本のリストをだらだらと。

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東と西の語る日本の歴史/網野善彦

宮本常一さんの『日本文化の形成』で描かれていた東西で別々の国として存在していた日本に興味をもち、すでにまとめ買いしてあった網野善彦さんのこの一冊を読みはじめました。 ゆがめられた日本史イメージを問い直すという姿勢は網野史学に通底するテーマですが、この本では「同じ現代の日本人である沖縄人、アイヌ人に対する屈折した差別、さらに朝鮮人に対する長年のいわれのない差別は、間違いなく単一の日本民族、古代以来の単一な日本国家を前提とする歴史観にその根拠をもっている」という通説化した日本民族観、日本史像を再検討するため、宮本さんが取り上げた古代以来、歴史的に近い時代までみられた東日本と西日本の差異を主題として取り上げています。

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日本文化の形成/宮本常一

最近、本は相変わらずのペースで呼んでいますが、なんとなく書評を書く気にはなれなかったのですが、ひさしぶりに。 紹介するのは、すこし前に『忘れられた日本人』という日本民俗学における名著を紹介させてもらった宮本常一さんの遺稿を死後編集し出版したもの。 『忘れられた日本人』を読めば感じられるとおり、日本列島を徹底的に歩き回った宮本さんが、『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』、『風土記』などの古代の文献を読み返しながら日本文化論がこの一冊です。

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日本芸能史六講/折口信夫

民俗学者の折口信夫さんは日本藝能の歴史を発生学的に論じた『日本芸能史六講』において、<藝能はおほよそ「祭り」から起つてゐるものゝやうに思はれます>と述べています。また、この「祭り」は饗宴といったほうが適当かもしれないとも言っている。かつては祭りそのものが宴会の形をなし、客人(マレビト)を饗応の御馳走で招くものだったからです。 このまれびとに対して対蹠の位置にある人があるじです。このあるじといふ語は、吾々は主人といふ風に考へ易いが、もとは饗応の御馳走のことを言うた語です。つまり来客の為に準備しておいた御馳走を、その客にすゝめることをばあるじすと言うてゐますが、御馳走をすゝめる役が、主人だつたのでせう。そしてこのことから、主人をあるじと言うやうになつたのです。 折口信夫「日本芸能史六講」『日本芸能史六講』 そして、このあるじとまれびとの間に介在するものとして「舞をまふもの」が、饗応の場=祭りの場に登場してくる。ここに折口さんは藝能の発生をみています。

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あそぶ、つくる、くらす/五十嵐威暢

「デザイナーを辞めて彫刻家になった」 この本の表紙の著者名(五十嵐威暢)の前には、そう書かれている。 PARCOのロゴのデザインなどを手がけたことで知られる五十嵐威暢さんは、1994年にそれまでデザイナーとしての輝かしいキャリアを投げ捨てて彫刻家になった。 だが、しかし、それは世間で言われるように「突然」の出来事ではないことが、この本の「あとがき」を読むと、わかる。 40歳になった1984年に、50歳になったらデザイナーを辞めて何か違うことをしたいと考えた。 目前にある仕事をバリバリこなしながら、10年かけて会社をたたんだ。 五十嵐威暢『あそぶ、つくる、くらす』 そして、1994年に彫刻家に転身し、いまや、石、金属、テラコッタ、木などの素材を使ったその作品は、東京ミッドタウンの「予感の海へ」、大江戸線大門駅の「波のリズム」など、多くの公共施設の空間を彩っています。

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生とデザイン―かたちの詩学1/向井周太郎

「僕にとって向井周太郎の思想からデザインの端緒を学べたことはこの上ない幸運であった」と原研哉さんは本書の解説にあたる文章で書いています。 原研哉さんは本書の著者・向井周太郎さんが創設した武蔵野美術大学の基礎デザイン学科で大学と大学院の6年間を学んでいます。 この本を読むと、僕が原さんのことばを読んで感じるものがあったものの原像が、すでに師である向井さんのことばとしてここに書かれているのに気がつきます。 例えば、阿部雅世さんとの対談『なぜデザインなのか。』のなかで、原さんは、直立二足歩行をはじめた人間が「空いた手で棍棒を持つのは自然だけれども、たとえば川に行けば、2つの手を合わせて水をすくって飲んだはず」といい、「棍棒」と「器」に道具の2つの始原をみていますが、この考え方もすでに向井さんのなかにも見出せます。 機械は、無の有用性を使いはたし、空隙をうめつくすことで高密化へと向かって発展をとげていくのであり、空虚な空間ゆえに意味をもつ器さえメカネの振舞いに従属する包装と化していく。 向井周太郎「椅子の夢想、夢想の椅子」『生とデザイン―かたちの詩学1』 向井さんは、無の道具、有の道具と言い方をしていて、前者に器、後者にやじりや斧をあげています。 その上で現代の機械社会は有の道具が無の道具の領域を侵犯すると同時に、「メカネの価値観においては、無や空虚な空間そのものの生の価値が見失われ、いわばデッド・スペース(死んでいる空間)はすべて使いはたすという思想を生みだしていく」と指摘…

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忘れられた日本人/宮本常一

宮本常一(1907-1981)さんは、昭和14年以来、日本全国を歩き回るフィールド調査により、各地の民間伝承を収集した民俗学者です。この本で宮本さんはみずから訪ね歩いた辺境の地で聞き取りした古老たちが語るライフヒストリーをまじえながら、日本の村々の民衆の暮らしを鮮やかに浮かび上がらせています。その老人たちの話はどれも個性豊かで、それぞれが小説か民話の主人公のように活気に満ちていて、これが普通の村に暮らす民衆の姿なのかと驚かされます。 村里生活者は個性的でなかったというけれども、今日のように口では論理的に自我を云々しつつ、私生活や私行の上でむしろ類型的なものがつよく見られるのに比して、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が年寄りたちの中に多い。これを今日の人々は頑固だと言って片付けている。 宮本常一『忘れられた日本人』 まさにこの本に描かれた老人たちは「行動的にはむしろ強烈なものをもった」人びとです。 その姿は、網野善彦さんが『日本の歴史をよみなおす』や『無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』で示した中世の人びと、田中優子さんが『カムイ伝講義』で明らかにした江戸期の百姓の姿につながります。また、柳宗悦さんが『工藝の道』が描いてみせた勤労な工人の姿に重なってくる。 決して豊かとはいえない生活のなかで朝から晩まで働き続けることにむしろ感謝をしめす姿勢、あるいは、閉じた村に外の世界のことを知らせるために率先して各地を放浪する世間師と呼ばれる人など、その人間としてのバイタリティの高さはとて…

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日本のたくみ/白洲正子

白洲正子さんは生前、銀座で染織工芸の店を営んでいたことがある。 それで染物や織物の作家・職人とも縁があった。 織物職人の田島隆夫さんとも柳悦博さん(柳宗悦さんの甥)の紹介で出会っている。面白い職人がいるといって紹介されたそうだ。そこで白洲さんは田島さんに「むつかしい注文を出してみた」そうだ。昔の織物のような「ざんぐりした味わい」を織物が欲しいといって、何枚かの古い布を渡して帰したのだそうだ。 田島さんは黙って白洲さんの注文を聞いていたそうだが、しばらく経つと織物を持ってきたそうだ。「織物は着てみないとわからない」と白洲さんはいう。そうしないと欠点がわからず、客に対しても責任がもてないという。田島さんが持ってきた織物も白洲さんは実際に着てみたそうだ。 着てみると着心地がよかった。見た目にも美しかった。ただ、しばらくすると欠点がわかってきた。味に重きをおきすぎたがゆえに、腰がなく頼りなく感じられてきたのだそうだ。 それで田島さんに「きものとしては不完全である」と注意したという。またしても田島さんは黙ってそれを聞き、また、しばらくすると新しい織物を持ってきたそうだ。 そういう付き合いが二十数年も続いたそうだ。そのあいだに田島さんは「小気味よい程成長して行き、今や押しも押されぬ一流の職人に育った」のだそうだ。 僕は、デザインをする人にはこの白洲さんのような力が必要だと思うのです。 「ざんぐりした味わい」など、自分が求めているものを明確に職人に伝え、「織物は着…

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松岡正剛さんの本に関するブックリスト

松岡正剛さんの本も結構な数を読んできたので、このあたりで一度まとめてみてもいいかなと思ったのでさっそく。 現時点で読んだのが今日紹介する14冊。 P.S. 「編集工学」に、多読術を追加。15冊に(2009-04-16) とりあえずこの14冊をブックリストとしてまとめておきますが、松岡さんの本のよいところは、それ自体が様々な本への扉を開いてくれるブックリストとしても機能する点だと感じます。 僕自身、松岡さんの本を読んで興味をもつようになった本は数多くあります。どのくらい多いかというと、興味をもっても読むのが追いつかないくらい、様々な方面に対する好奇心の目を開いてくれます。 何より日本を見つめるさまざまな視点を教わったことが大きい。 いまの僕らはあまりに日本を知らなさすぎます。無知であり狭い視野しかもたないがゆえに、形骸化した観念のみで日本を想像してしまいます。自ら日本をつまらなく退屈なものとして想像してしまう。でも、実際の日本は松岡さんがその編集工学的手法を駆使して紐解いてくれるように、多様な魅力をもった豊かなイメージをもっとものです。 そんな日本の多様で魅力あるイメージを紹介してくれる松岡さんの様々な本をここでまとめておこうか、と。 ※書名のリンク先は当ブログの書評エントリーです。

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手仕事の日本/柳宗悦

なんて淋しく切ない本なんだろう。 この本はかつて存在した日本というものの遺書のようです。 そして、最初に書いておきますが、この本はこの国でものづくりに関わるすべての人びとが一度は読んでみるべき一冊だと思います。 私どもは西洋でなした過失を繰返したくはありません。日本の固有な美しさを守るために手仕事の歴史を更に育てるべきだと思います。その優れた点をよく省み、それを更に高めることこそ吾々の務めだと思います。 それにはまずどんな種類の優れた仕事が現にあるのか、またそういうものがどの地方に見出せるのか。あらかじめそれらのことを知っておかねばなりません。この本は皆さんにそれをお知らせしようとするのであります。 柳宗悦『手仕事の日本』 この本に関しては1つ前のエントリー「模様を生む力の衰え」でもすこし取り上げましたが、以前に『工藝の道』を紹介した日本民藝運動の創始者・柳宗悦さんが、大正の終わり頃から約20年をかけて日本全国をフィールドワークして歩き回って見つけた手仕事の工藝品の優れた仕事を、地域別に丁寧に「どんな種類の優れた仕事が」「どの地方に見出せるのか」をまとめてくれた一冊です。 取り上げられた品は、焼物あり、染物あり、織物あり、金物あり、塗物あり、木や竹、革、神を用いた細工もあり、ただすべてが人びとが実際に生活で用いている品物です。北の陸奥の国の刺子着を見つけては「その出来栄えは日本一の折り紙をつけてよいでありましょう」といえば、四国は讃岐の国に「すべ箒」と呼ばれるほうきを…

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うつぼ舟I 翁と河勝/梅原猛

日本の中世史がおもしろい。 もちろん、おもしろいと感じるのは、僕自身がそこに関心をもっているから。特に芸能民を中心とした職能民についての歴史、それに関連して市場や座が生まれ定着した室町期の歴史にとても関心があります。 いかにして僕らの歴史から断絶した感のある現代を、そうした歴史的な流れに接続するか。それが現在の日本が抱えた大事な課題なんじゃないでしょうか? 既存の権威の崩壊に即した民衆の自治のはじまり最近では、網野善彦さんの『日本の歴史をよみなおす』や『無縁・公界・楽』、『異形の王権』だったり、昨年末では、内藤湖南さんの『日本文化史研究』や『東洋文化史』を紹介しましたが、室町期には、いまの日本につながる大きな社会の転換が起こっている。 その転換は一言でいえば、既存の権威の崩壊に即した民衆の自治のはじまりということができるでしょう。 その背景としては、鎌倉期に起こった新仏教である時宗や浄土宗、一向宗、禅宗、法華宗などがこぞって悪党や女性をふくむあらゆる民、そして、山川草木悉皆成仏と有情/無情のものに限らずあらゆるものが成仏するとした教えを説いたこと、古代より海や山河の道でネットワークされた職能民のつながりが各地に自治的な都市を形成し、そこに宿場や市場を開いたことなどがある。 そして、そうした仏教の影響、都市の経済的な影響を背景に、中世には以降の日本文化を形作ることになるさまざまな芸能が室町期には生まれてくる。能楽、茶道、華道、書道、香道、作庭などの文化はいずれも、鎌倉期に…

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日本の歴史をよみなおす/網野善彦

日本の歴史をよく知らない人ほど、その歴史に対して漠然としたイメージをもっていたりします。 例えば、 日本は古くから農業中心の社会で、稲作を中心に据えてきた日本の人口の大部分は農業民で、多くの村は農村だった商工業民は農耕民より身分が低いものとされ、芸能民を含む非人は賤視されてきた昔は識字率が低く、一部の階層の人しか文字を読むことはできなかったかつては村などの共同体単位で自給自足の生活をすることが多かった明治期の開国において日本は一気に資本主義化、産業主義化を果たした などなど。 でも、この本を読むと、こうしたイメージがまったくの想像の産物でしかないことがわかって唖然とします。 そして、そこからはまったく別の日本のイメージがそこには浮かび上がってくる。 日本の村の四分の三が室町時代に出発点を持っている14世紀を超えて15世紀にはいる頃になると、それまで漢字中心の文章からひらがな交じりの文章の割合が圧倒的に増える金属貨幣の流通が本格化しはじめたのは13世紀後半から14世紀にかけてのこと天皇という称号が制度的に定着するのは天武・持統朝。日本という国号もそれとセットで7世紀後半に定まった。つまり、聖徳太子は「倭人」ではあっても「日本人」ではない縄文時代からすでに日本は朝鮮半島や北のサハリンと交流があった。海は日本の国境ではなく、むしろ東と西をはじめ、いまの日本の国内に複数の国が存在していた百姓は必ずしも農民を意味しない。土地をもたず貧しいと考えられていた水呑百姓は必ずしも貧しくは…

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異形の王権/網野善彦

この本は中世において「異類」または「異形」と呼ばれた人びとにスポットをあてています。 例えば、中世、河原で行われた罪人の処刑の執行を実際に行ったのは「放免」と呼ばれる非人たちでした。「放免」は、彼ら自身が前科のある者でありつつも、その罪に対する罰則を文字どおり免れた放免囚人で、検非違使庁の下級刑吏として犯罪者の探索・捕縛・拷問・処刑を職能とした人びとです。彼らは口髭、顎鬚を伸ばし、特殊な祭礼時や一部の女子にしか許されなかった綾羅錦繍、摺衣と呼ばれる派手な模様のある衣服を身につけていたといいます。 また、牛車に付き添って牛の世話をする牛飼童は、成人しても童形をした人びとで、烏帽子をつけず髻(もとどり)を結わず垂髪、口髭や顎鬚を生やしていたといいます。成人になっても童形をした人びとにはほかにも、猿曳、鵜飼、鷹飼などの鳥獣を操る人のように「聖なる存在」として、人ならぬ力をもつと畏怖された人びとが多かったようです。とうぜん、本当の童である子どもも神に近い「聖なる存在」として受け入れられていました。 このほかにも、柿帷(かきかたびら)に六方笠、蓬髪、覆面、烏帽子や袴の未着用、高下駄、蓑笠、長い鉾や杖、大刀など、本来は禁制となっていた服装を身につけた人びとは「異類」または「異形」、あるいは両方を連ねて「異類異形」と呼ばれたといいます。

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