2009年09月10日

バタイユ/酒井健

バタイユは、生を個体の問題としてではなく、生そのものの連続性として扱う。

酒井健さんの『バタイユ』を読んで、いちばんつよく感じたのはそのことでした。
そして、おそらく僕がバタイユに惹かれるのもそこに要因があるのだろうと思います。

脱自、共犯関係、見世物として恍惚や笑いなどの情動をひきおこす供犠、主体の半壊状態を通して得られる個を超えた交流的な体験。
こうしたキーワードによって、個―個人、私企業、国家―の延命に重点が置かれる近代が忘れ去った、個を超えた全体としての生の連続性に注目し、それを近代の世に知らしめようとことばを紡ぐバタイユに、僕はつよく惹かれるのです。

バタイユは、技術および技術が生みだした物品に「物の力」を見て警戒していた。ちょうど「言葉の力」を警戒していたように。イメディア(直接的な生の交わり)を欲しつつ、メディア(媒体・複製技術)の力を侮ってはいけない。夜のなかの生を語るバタイユの呻吟は私にそう教えている。

「物の力」「言葉の力」への警戒。
これだけでもバタイユが僕の思考と共感するのをなんとなく感じてもらえるのではないでしょうか?

それでは、すこし酒井健さんの『バタイユ』を紹介していこうと思います。

「バタイユ/酒井健」の続き
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2009年08月14日

古代研究―1.祭りの発生/折口信夫

世の中、お盆休みの真っ只中でしょうか。僕自身は普通に働いていますが。
そういうタイミングだからこそ、この本を紹介しておこうと思います。こういうタイミングにでも乗っておかない限り、いつまでたってもこの本のことを書けなさそうな気もしたので。
紹介するのは、折口信夫さんの『古代研究―1.祭りの発生』です。

さて、時期的にはいまは夏祭りの時期でもあるでしょう。
ただ、この夏祭り、実は四季の祭りのうちでは一番遅れてできたものだそうです。

もともと古代においては四季の祭りといえば、秋祭り・冬祭り・春祭りしかなかったといいます。
しかも、その秋祭り・冬祭り・春祭りは、なんと最初は一晩のうちにすべて行われていました。大晦日の宵から秋祭りをはじめ、続けて冬祭りを行い、次の元旦の朝が明けると春祭りを行ったのだそうです。
それゆえ、あき・ふゆ・はるがもつ意味も、中国より暦が伝わってくる前までは、いまのような四季の秋・冬・春とは違う意味だったと折口さんは書いています。

その年の収穫物を神に捧げ報告する刈上げ祭りが秋祭り
マレビトである常世神が訪れるのが冬祭り。この冬祭りは鎮魂式でもあり、天子の物忌みの期間でもあります。
そして、夜が明けるとともに天子は物忌みから開けて、高御座にのぼり、祝詞を宣る。この祝詞はあらかじめその年の祝福をする。ことほぎ=言祝によって、その年の豊作や健康をあらかじめ祝福する。これが春祭りです。

村には歴史がなかった。過去を考えぬ人たちが、来年・再来年を予想したはずはない。先祖の村々で、あらかじめ考えることのできる時間があるとしたら、作事はじめの初春から穫り納れに至る一年の間であった。
折口信夫「若水の話」『古代研究 1.祭りの発生』

春祭りで予祝されたことを、その年の終わりに報告するのが刈上げ祭りである秋祭りというわけで循環しているのです。

「古代研究―1.祭りの発生/折口信夫」の続き
ラベル:折口信夫
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2009年08月05日

死者の書/折口信夫

先日、藍染めの体験をしてみてあらためて感じたこと、それは一枚の布をつくるという一見単純に思える工程も実は複雑な工程の積み重ねなんだなということでした(「2009-07-26:藍染めをする」参照)。

糸を紡ぎ、その糸を織って布にする。その一方で糸や布を染めるための染料をつくる。
柳宗悦さんが『手仕事の日本』で、「もし歴史が後に控えていかなかったら、あの簡単に見える草履一つだって作るのに難儀するでありましょう。一枚の紙だとて、どうして作るか、途方にくれるでありましょう」と書いていますが、糸や布、そして、それらを染める染料も、長い歴史のなかで生み出された技術がなかったら「どうして作るか、途方にくれる」くらい実は複雑なものだと思うのです。

今日は、そんな紡績や染織に関わる方面から、折口信夫さんの小説・『死者の書』をみていきたいと思います。

「死者の書/折口信夫」の続き
ラベル:折口信夫
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2009年07月31日

遠くの町と手としごと―工芸三都物語/三谷龍二

『デザイン思考の仕事術』の出版から早1ヶ月が経ちました。ほんとにはやかった。

で、1ヶ月経って、僕自身が実感として感じていること。

あー、もう、デザイン思考とかについて語ることはないってこと。
それ以上に人間中心設計とかはもういいやって思ってます。内容はともかく、そのキーワードを使うのがもうヤだな、とw

仕事としては、もちろん今後も続けますけど、ブログに書いたり、本に書いたりはもういいかな、と。「使う側の立場にたって云々」という話は、そろそろ僕以外の誰かが語る番でしょって思ってます。
あとは僕よりも優秀な皆さんにおまかせしましたので、よろしく! 若い皆さんでがんばってくださいw

僕自身はいまはそれよりも、実際に使う人の視点にたってちゃんとものづくりをしている人たち自身の生活やそれを支える経済ということに関心が向いています

現にちゃんとしたものづくりをしている人たちが今後もそうしたものづくりを続け、できれば、そうしたものづくりの輪が広がっていくためには何が必要か。
その人たち自身の生活をどうしていくのか、その人たちのまわりの経済をどうすれば、今後もちゃんとしたものづくりの火を消さないようにできるか。
さらに、それに関して、僕ができることは何か。そうしたものづくりを巡る経済活動をサポートするために何らかのプロジェクトをプロデュースしていくとしたら、僕は何を身につけていくべきか。
そんなことに関心が移っています。

という関心のベクトルの変化もあって、正直、もう現時点でちゃんとしたものづくりをできていない人たちのために何か情報発信するのは打ち止めかな、と。東京圏内で毎月それなりにきっちりやるべき仕事さえ行っていれば、食うのに困らないサラリーマン(あるいはその予備軍としての学生)のために、情報発信するエネルギーはこれまでよりかはセーブして少なめにしていこうか、と。ってか、本来、そういう人は頭使ってナンボという仕事をするのがミッションなわけなんだから、他人の知恵をあてにしてないで、自分で考えなさいって思うしね。

そっちの方面はリアルな場で、気の合う人たちと現実のビジネスのなかでおもしろと思えることになるべく集中して実践していけばよいかと思っています。

それよりもやっぱりこの『遠くの町と手としごと―工芸三都物語』で描かれているような、地方を拠点とした、ちゃんとしたものづくりをサポートするという方向性を今後は徐々につよく打ち出していければと考えています。

「遠くの町と手としごと―工芸三都物語/三谷龍二」の続き
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2009年07月18日

FOLK TOYS NIPPON―にっぽんの郷土玩具

竹で編んだザルをかぶった張り子の犬―ざるかぶり犬

犬という文字に竹かんむりをつけると、笑という字になる。
そんな言葉あそびから生まれた玩具が、ざるかぶり犬。

FOLK TOYS NIPPON―にっぽんの郷土玩具


もともと犬は多産でありながら安産であることから、妊娠した女性や子供も守り神とされ、子供が生まれると犬の張り子を贈る風習が東京をはじめ各地にあったそうです。
そんな犬の張り子にザルをかぶせて「むずかる子を笑わせ機嫌を直す」という思いが、このざるかぶり犬には込められているそうです。

「FOLK TOYS NIPPON―にっぽんの郷土玩具」の続き
ラベル:郷土玩具 手仕事
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2009年07月14日

古代から来た未来人 折口信夫/中沢新一

1つ前の「生とは生の浪費のこと」というエントリーでは、いま夢中になっている2人のうちのひとり、バタイユのことを書きました。
もう1人の折口信夫さんのことは、今回、この中沢新一さんの本を紹介しつつ、すこし書いてみようと思います。



それにしてもこの本は読みやすい本でした。
折口信夫をここまで読みやすく語ってしまうのは、逆に罪なんじゃないかと思うくらいに、さらっと読めてしまう内容でした。
それでも6章の「心の未来のための設計図」あたりは折口さんを「未来人」とみる中沢さんらしい主張も含まれていて、おもしろかったです。
ただ、今日はそこには触れず、折口の学を紹介している前半部分をちょっと舐めてみる程度に。

「古代から来た未来人 折口信夫/中沢新一」の続き
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2009年07月11日

考えなしの行動?/ジェーン・フルトン・スーリ

静止した一点ではなく、動きのなかで物事を捉える視点。
点の思考、線の思考」で指摘したのは、物事にことばによるレッテルをはることで、それでその対象を理解したと勘違いしてしまう思考の危険性でした。

実際、現実はそうした言語データ化がむずかしいほど多くの意図されない意図を含んでいます
そうした意図されない意図にいかに気づき、そうした言語外の情報をいかに多く集め、並べ、それをデザインの発想として組み立てるか。それがデザインする人に求められる姿勢であり、能力ではないかと思っています。

「考えなしの行動?/ジェーン・フルトン・スーリ」の続き
ラベル:IDEO 観察
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2009年06月30日

2009年4月-6月で紹介した本のリスト

前に「2009年1月-3月で紹介した本のリスト」というエントリーを書いたので、4月-6月版も書いておこうか、と。



それにしても、1月-3月が合計17冊紹介していたのに対して、4月-6月は合計で9冊だけでした。すくなすぎますね。あきらかにGW明けの忙しさが影響してます。
次のクォーターはもうちょっとがんばろっと。

では、そのすくない9冊のリストを(リストのリンクは当ブログ内の書評エントリーです)。「2009年4月-6月で紹介した本のリスト」の続き
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2009年06月27日

身体としての書物/今福龍太

『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』を書き終えたばかり(しかも発売前)ですが、今度はインターフェイスに関する本を書きたいなと思っていて、構想を練りはじめています

インターフェイスといっても、いわゆるユーザーインターフェイスという狭い範囲の話ではありません。ましてやGUIだけについて書きたいわけではありません。
文字や本、絵画、それから食器やこれまで歴史的に登場した民具なども含めた、もっと広い意味での人間と外界とのインターフェイスについて書くことで、現在のユーザーインターフェイス(GUIもTUIも含めて)を超えたインターフェイスの可能性を開くことができると考えています。それは白川静さんの文字学や宮本常一さんらの民具の研究、そして、バタイユの「非−知」、ベンヤミンの「幼年期」なども取り込む形でのインターフェイス論になるだろうと思います。
そうしたインターフェイス論を書く必要がありそうだなと考えていて、なんとなく構想も頭にイメージできつつあります。



当然、そうした思考をまとめていくためには、『身体としての書物』のなかで「書物とは、ただ単にそこから必要な情報や教養を得るための便利な道具ではない」と書く今福龍太さんのように、書物というインターフェイスについても考えなくてはなりません。「本とは、必ずしも簡単にデータとして利用したりコンテンツとして消費したりすることのできるメディアではない、という点こそが重要なのです」ということばを念頭におきつつ、「本と自分との関係はもっと多様なものでなければならないし、本来そこには誰にとってもより自由で豊かで創造的な、柔軟性にみちた関係があった」という地点に立ち返る必要があります。

「身体としての書物/今福龍太」の続き
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2009年06月20日

もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る/川田順造

「モノとワザ」。書店でこのキーワードに惹かれて、僕はこの本を買いました。
買って読んでみて、買ってよかったなーと思いました。僕が触れてみたいと思っていたことが、この本には書かれていたから。

この本の著者、川田順造さんは文化人類学の大家、クロード・レヴィ=ストロースに師事した文化人類学者です。この本では、西アフリカ、フランス、そして、日本という3つの地域を「文化の三角測量」をしながら、モノとワザの関係に潜む「身体技法」に着目し、グローバリズムや情報資本主義によって失われつつある、各地域の文化に根差したモノとワザに焦点を充てています

文化とその地域のモノとワザの関係性ということでいえば、例えば、著者の師でもあり、日本文化に深い愛着と知識をもったレヴィ=ストロースは、西洋と日本の身体の使い方や文化の特徴を「遠心性」と「求心性」という対比でとらえています。

ノコギリをとってみても、西洋の押して切るノコギリと、日本の引いて切るノコギリの対比がある。「塩の道/宮本常一」でも紹介したように、日本の道具である鍬は引いて使います。船の櫂も腰を入れて引く。



道具のデザインに関してだけではありません。フランス人が「タバコを買いに行く」というに対して、日本人は「タバコを買いに行って来る」という。レヴィ=ストロースはこうした視点に立って、西洋の外に向かうベクトルと、日本の内に向かうベクトルを対比させています。

「もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る/川田順造」の続き
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2009年06月13日

民俗学の旅/宮本常一

おもしろかった。すごく。

これは必読でしょう。
特に、いままで会社を一度も辞めたことがない人、生きていくためにはビジネスの場に身を投じるしかないと信じて疑わない人、あるいは、将来の職をどうしようかと頭の片隅でぼんやり思いつつ学校に通う学生などには。

この『民俗学の旅』を読んではじめて知ったんですが、宮本常一さんという人はずっと定職につかなかった人であったらしい。師である渋沢敬三さんの家で54歳になるまで23年も食客生活をしていたという。武蔵野美術大学で講義をするようになってはじめて定職についたのは、その食客生活を終えたあとです。つまり60近くになるまで定職をもたなかった。

定職をもたずに何をしていたかというと、とにかく日本中を歩いてまわった。そして、さまざまな土地で生きる人びとの話を聞いた。それを『忘れられた日本人』などの名著として残している。歩いた量、話を聞いた量もとてつもないが、それを元に残した著作の数も膨大です。

「自分がどんな道を歩いて今日にいたったか。ふりかえってみると、長くたどたどしく、平凡な道であったと思う」と冒頭に書かれていますが、平凡なんてとんでもない、きわめて非凡な旅であったことが、この宮本さん自身の伝記的な一冊を読むとわかります。
伝記的、いや、旅行記的であるといったほうがいいかもしれません。
これは宮本常一さんの人生という旅の記録なのだから。

「民俗学の旅/宮本常一」の続き
ラベル:民俗学 生活
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芹沢_介の文字絵・讃/杉浦康平

芹沢_介さんは、日本民藝運動にも参加した染色作家で、型絵染(布の代わりに紙を型紙で染めたもの)の人間国宝にもなっている人です。その芹沢さんの作品には文字を主題にした作品も多い。

例えば、下は「山」という文字を主題にした2つののれん作品。



藍色ののれんに染めだされた山文字には木が生え、雲がたなびいています。
雲は雨を降らし、木々などの植物を育てます。それが山という文字を主題とした絵のなかに端的に表現されている。

こうした芹沢さんの文字絵作品の魅力を語ってくれるのは、20年以上にわたりアジアの人びとが生み出した造形美に着目し、さまざまな形(例えば、前に紹介した『宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き』など)で紹介してくれている杉浦康平さん。
杉浦さんには、昨年末に出版された『文字の美・文字の力』という本もありますが、本書
『芹沢_介の文字絵・讃』でも芹沢_介さんののれんや屏風、ときには着物にまで仕立てられた文字絵の魅力をアジアの図像にあらわれる文字との関連から紹介してくれています。

「芹沢_介の文字絵・讃/杉浦康平」の続き
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2009年06月12日

意味論的転回―デザインの新しい基礎理論/クラウス・クリッペンドルフ

すでに何度か紹介してきたクラウス・クリッペンドルフの『意味論的転回―デザインの新しい基礎理論』ですが、まとまった書評を書いていなかったので、あらためて紹介してみようと思います。

なんといっても、これからのデザインの意味、そして、今後の人間社会の意味を問い直すためには非常に有効な本だと思いますので。

さて、本書のなかでクリッペンドルフは、
デザインとは物の意味を与えることである。
と述べています。

また、別の箇所では、
デザインは他者に対し現実化可能な人工物を提案することである。
とも言っています。

「物の意味を与える」というのは、僕は人と物とのあいだにインターフェイスをつくることだと理解しています。
もちろん、ここでいうインターフェイスはコンピュータやデジタル機器のGUIのみを指しているわけではありません。包丁の柄と刃の境も、ペットボトルのフタのギザギザも、シャツのボタンとボタンの穴の関係もすべて、人に物の意味を理解できるようにするためのインターフェイスです。
そのインターフェイスの設計を通じて、人と物、人と技術、あるいは、人とビジネスをつなぐ仕事をデザインと定義したい。

ようするに、この本は、プロダクトデザインだとか、グラフィックデザインだとか、Webデザインだとか、最終的につくるアウトプットに依存したデザインの技術に関する本ではなく、サブタイトルにあるようにデザインの基礎を成す部分の方法―つまり「物の意味を与える」方法―に関する本であり、ビジネスそのもののデザイン、ストラテジーのデザイン、あるいは、コミュニケーションのデザイン、社会のデザインなど、より広い意味でのデザインも視野に入ってきます。

クリッペンドルフが「意味論的転回」というとき、その「転回」はデザインというものを人間にとっての「意味」を中心としたものとして捉えなおし、それによってデザインと社会や文化、人びとの生命の関わり方自体を捉えなおそう=転回しようということだと理解してよいと思います。
「意味論的転回―デザインの新しい基礎理論/クラウス・クリッペンドルフ」の続き
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2009年06月04日

塩の道/宮本常一

人間の生活やその環境・文化とデザインの関わり合いに関して、民俗学者の宮本常一さんは『塩の道』のなかで、こう書いています。

日本人は独自な美をわれわれの生活の中から見つけてきておりますが、それはじつは生活の立て方の中にあるのだといってよいのではないかと思います。生活を立てるというのは、どういうことなのだろうかというと、自分らの周囲にある環境に対して、どう対応していったか。また、対決していったか。さらにはそれを思案と行動のうえで、どのようにとらえていったか。つまり自然や環境のかかわりあいのしかたの中に生まれでてきたものが、われわれにとっての生活のためのデザインではないだろうかと、こう考えております。
宮本常一『塩の道』

残念なデザイン。」から「デザインをする人に求められる資質」まで、yusukeさんとやりとりさせてもらいながら、僕のデザインというものの捉え方をすこし書いてみましたが、基本的に僕の捉え方は、この宮本常一さんの捉え方とおなじです。

つまり、デザインは人間が生活をどう捉えたかということの中から生まれてくるものだと思っています。
それはyusukeさんが「意味と技術から物を作るってこと」で引用している深澤直人さんの、

そのものの内側から出る適正な力の美を「張り」といい、そのものに外側から加わる圧力のことを「選択圧」という。

ということばにもつながります。
物そのものが現実にあろうとする力が内からの「張り」となり、生活がそれに外から「選択圧」をかける。この内と外とのバランスを、人間の生活のなかでの意味の理解をもとに決定するのがデザインをする人の知的活動だと思っています。

「塩の道/宮本常一」の続き
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2009年05月11日

グラウンデッド・セオリー・アプローチ―理論を生みだすまで/戈木クレイグヒル滋子

フィールドワークやコンテキスチュアル・インクワイアリーなどの質的調査(定性調査)で集めたデータをいかに分析するかは、人間中心のデザインを進めるうえでもひとつの課題です。

僕自身は、ワークモデル分析や、KJ法(発想法)を使って、質的データの分析を行い、そこで明らかになったユーザーの利用状況や潜在的ニーズをペルソナなどの表現方法を用いて使っています。
ただ、KJ法はやり方がブラックボックスになってしまっているところがあり、いまひとつ初心者にやり方を説明するのに苦労していました。

そんなこともあって以前から気になっていたのが、グラウンデッド・セオリー・アプローチという質的データの分析の方法。そこで戈木クレイグヒル滋子さんの『グラウンデッド・セオリー・アプローチ―理論を生みだすまで』を読んでみることにしました。

「グラウンデッド・セオリー・アプローチ―理論を生みだすまで/戈木クレイグヒル滋子」の続き
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2009年04月24日

アブダクション―仮説と発見の論理/米盛裕二

昨日の「意味論的なデザインのアプローチへの転回」ではジェスパー・ホフマイヤーの『生命記号論―宇宙の意味と表象』という本を紹介しました。昨日も書いたとおり、ホフマイヤーの本はチャールズ・サンダース・パースの論理学・科学哲学をベースに生命を記号として捉えた非常にユニークな一冊です。

この機会にチャールズ・サンダース・パースについて、もうすこし紹介しておきたいなと思ったのですが、パースの著作は『パース著作集』『連続性の哲学』などでいちおは読めるものの、元々が断片的であるために理解しづらいところがあるのは否めないのです。

多読術/松岡正剛」でも書いたとおり、もちろん、そうした困難な壁にぶち当たっていくのも読書の醍醐味・楽しみ方のひとつだと思いますが、とっかかりとして紹介するには、思想そのもののむずかしさはともかく、文章としての読みやすさはあったほうがよいなと思いました。
そこで今回紹介するのは、先の『パース著作集』の翻訳者にも名を連ね、『パースの記号学』という著作もあるパースの研究者である米盛裕二さんの『アブダクション―仮説と発見の論理』という本にしました。

「アブダクション―仮説と発見の論理/米盛裕二」の続き
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2009年04月16日

多読術/松岡正剛

これはおもしろかった。すごくおもしろかった。
あとで詳しく書きますが「本はノートである」ですよ。服をコーディネートするように本もコーディネートするですよ。これはおもしろい。

『多読術』というタイトルですが、これは多読に関する本ではないと思います。
それどころか、読書に関する本として読む必要さえないと思います。

何か未知のものに触れるときの方法のひとつだという風にも読める。僕はそういう風に読みました。

読書は「わからないから読む」。それに尽きます。
本は「わかったつもり」で読まないほうがゼッタイにいい。
松岡正剛『多読術』

読書は旅のようなもので、「無知から未知への旅」と松岡さんはいいます。
無知からというのは当然として、その先にあるのが単なる知ではなく、未知であるところがいい。

僕も「デザインする人に必要な能力は?」で「知識があるから疑問をもつことができるのです。知識はわかるために必要なのではなく、わからないことを発見するために必要なのです」と書きましたが、知というのは未知へと向かっていくのが本当だと思います。「わかったつもり」になると、それが止まる。未知への旅を続けるのが不安だから、つい適当な場所で安住してしまう。

でも、そんな素振りは松岡さんからはまったく見られない。読んでいて気持よくなる一冊です。

「多読術/松岡正剛」の続き
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2009年03月29日

2009年1月-3月で紹介した本のリスト

なんとなく今年になって書評を書いた本のリストをまとめてみようかと。
まとめてみると、1月から3月までで17冊紹介しているようです。



そのうち、網野善彦さんの本が4冊、宮本常一さんの本が2冊。
このブログで常連となっているところでは、松岡正剛さん、柳宗悦さん、白洲正子さんを1冊ずつ。
これで計10冊なので、自覚はしていましたが、わりと同じ人の本を何冊も読む傾向があるのは確かなようです。

また17冊中半数を超える9冊に、タイトルまたはサブタイトルに「日本」が入っているのもこのブログらしいのかも。

では、以下、紹介した本のリストをだらだらと。

「2009年1月-3月で紹介した本のリスト」の続き
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2009年03月28日

東と西の語る日本の歴史/網野善彦

宮本常一さんの『日本文化の形成』で描かれていた東西で別々の国として存在していた日本に興味をもち、すでにまとめ買いしてあった網野善彦さんのこの一冊を読みはじめました。

ゆがめられた日本史イメージを問い直すという姿勢は網野史学に通底するテーマですが、この本では「同じ現代の日本人である沖縄人、アイヌ人に対する屈折した差別、さらに朝鮮人に対する長年のいわれのない差別は、間違いなく単一の日本民族、古代以来の単一な日本国家を前提とする歴史観にその根拠をもっている」という通説化した日本民族観、日本史像を再検討するため、宮本さんが取り上げた古代以来、歴史的に近い時代までみられた東日本と西日本の差異を主題として取り上げています。

「東と西の語る日本の歴史/網野善彦」の続き
ラベル:日本史 網野善彦
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2009年03月27日

日本文化の形成/宮本常一

最近、本は相変わらずのペースで呼んでいますが、なんとなく書評を書く気にはなれなかったのですが、ひさしぶりに。

紹介するのは、すこし前に『忘れられた日本人』という日本民俗学における名著を紹介させてもらった宮本常一さんの遺稿を死後編集し出版したもの。
『忘れられた日本人』を読めば感じられるとおり、日本列島を徹底的に歩き回った宮本さんが、『古事記』や『日本書紀』、『万葉集』、『風土記』などの古代の文献を読み返しながら日本文化論がこの一冊です。

「日本文化の形成/宮本常一」の続き
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