2010年06月20日

江戸の本屋さん―近世文化史の側面/今田洋三

iPadの発売以来、急に電子書籍の話題が聞かれるようになりました。出版業界や印刷業界を中心に、具体的な動きも出始めています。

デジタルな本より紙の本のほうがいいなど、いろんな声も聞かれますが、紙の本がまったくなくなるという話ではないでしょうし、そもそもヘンリー・ペトロスキーの『本棚の歴史』書評)や港千尋さんの『書物の変―グーグルベルグの時代』書評)などを読んでもわかるように、本の形態などはこれまでの歴史のなかでも度々その形態を変化させています。

また、本の印刷、流通に関わる人々にとっては、電子書籍化は危機だといえるのでしょうけど、すくなくとも出版に関わる人にとっては実は危機とはいえないだろうと思います。

そもそも、出版や編集という仕事は、紙の本を商品として作る仕事ではないはずだからです。たとえば、江戸期の有名な出版人、蔦屋重三郎などは単に出版者であっただけでなく、歌麿や写楽、太田南畝や山東京伝を育て世に出した人でした。

そんなことを思いつつ、江戸期の出版について、いろいろと知らべてみようと思って、何冊か買った本のうちの一冊がこの今田洋三さんの『江戸の本屋さん―近世文化史の側面』でした。

江戸の出版業は田沼時代における、江戸をめぐる商業資本の発展、江戸住民の文化創造力の向上を背景として、画期的な発展を示した。画期的なという意味は、封建支配者の文化政策を分担したり、売れればよいというだけで自らの創造的見識をもりこむことの薄かった出版界で、出版が文化運動の一環としての意味をもつことを自覚しつつ経営を築く出版者があらわれてきたことである。須原屋市兵衛や蔦屋重三郎にそれが典型的にあらわれている。(中略)単なる商品生産者ではない、未来を切り開く文化思想の創造をすすめ、作者をも育てあげるという主体的経営は、まさに、近代出版の先駆と考えてよいであろう。

そう。「単なる商品生産者ではない、未来を切り開く文化思想の創造をすすめ、作者をも育てあげる」役割を担う意味での出版人。
そんな江戸期の出版人たちが躍動した歴史を追ったのが本書です。

「江戸の本屋さん―近世文化史の側面/今田洋三」の続き
ラベル:出版 情報
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2010年06月15日

野菜の力 精進の時代/棚橋俊夫

この本は新しくライフスタイル研究会のメンバーになった方から紹介いただいた。
最近よい本との出会いが多いが、またしても、心に響く一冊である。
「生きる」ということはどういうことか、生きることと食あるいは農はどのような関係にあるのかを教えてくれ、美しく生きようという意欲を持たせてくれる。

ひとつ前に読んだ尾久彰三さんの『観じる民藝』書評)では、美を見つめる眼差しを養うためには日々の暮らしの中でモノを真っすぐに受け止める姿勢の大切さを考えさせられたが、この本では、さらにモノを美しく見せるためには、何よりもまず日々を生きる自分自身の姿勢そのものをいかに美しく保たれるかが大事だということを思い知らされた。



まったく読んでいて、自分の生活が恥ずかしくなる本である。
例えば、“私はこれまで「座す」ということに関してまるで夢を見ているような経験を二度しています”と述べたあとに紹介されるこんなエピソード。

1つは、私の英語の先生であるイギリス人とその友人、6名で座敷に通っていただいたときのこと。淡々と1つ残さずすべての料理を綺麗に召し上がっていただいた後で、私が食後の挨拶に顔を出すと、その六畳間はまるで由緒ある寺の本堂に導かれたかのような雰囲気でした。大柄な仏たちがきちっと座って、柔和な顔をしている。よく見ると彫りの深い青い目をした外国人なのですが、時空を越えて荘厳な異空間に入り込んだ気がしたのです。

食の姿勢が仏のように美しく観られるような生活を僕らはしているだろうか? それが精進料理屋という日常のケの空間とは異なる場所、体験であったとしても、僕らはそんな姿勢をとることができるだろうか?

「恥」という言葉が読みながら何度も思い浮かんだ一冊だった。
美しく生きなければという想いが幾度となく込み上げてきた本だった。

では、読んだ感想も交えつつ、すこし内容も紹介しよう。


「野菜の力 精進の時代/棚橋俊夫」の続き
ラベル: 野菜 生活
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2010年06月08日

観じる民藝/尾久彰三

素敵な本だ。
本というよりも、むしろ、モノという雰囲気がある。
著者が集めた素敵な古民藝300点余りがカラー写真で収められた一冊は、美しい玉手箱を手にしているようなのだ(本物の玉手箱を観たことなんてないけど)。
「感じる」ではなく、「観じる」とはよく言ったもので、観ることの心地良さを再認識させてくれる。

本書の著者は、長く日本民藝館の学芸員をされた方である。
柳宗悦に私淑して富山で日本民藝運動を推進していた叔父の影響もあり、10代の頃からモノ集めに開眼したという。
高校生になってからは、月に2回ほど、叔父の飛騨高山での古民藝品収集に同行して、モノを観る眼を養った。はじめは何がいいのかわからなかったものも、そのうち、自分で気になるモノを手に入れるようになった。
長じてから日本民藝館の学芸員になったのは自然なことだったのかもしれない。
そんな著者が昨年、日本民藝館の学芸員の職を辞した。

この本には、永年かけて著者が日本国内だけでなく、海外からも集めた1000点あまりの古民藝のコレクションから厳選された300点あまりが掲載されている。
珠玉のコレクションといっていい。

僕自身は、この本を読んで(観て、といったほうがいいのかもしれない)、これまで民藝に対してもっていたイメージを大きく変えられた。

「観じる民藝/尾久彰三」の続き
ラベル:民藝
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2010年06月05日

洞窟へ―心とイメージのアルケオロジー/港千尋

先史時代の洞窟は人間の脳である。

有名なラスコーやアルタミラなどに代表される、先史時代の洞窟壁画は、僕らが想像するような意味では絵画ではない。それは暗く狭い洞窟の壁に描かれており、僕らが美術館やギャラリーで絵を観るような観方で観ることを拒むのだそうだ。つまり、その狭く暗い洞窟の内部には観賞に適切な距離がない。しかも、その観賞用とは思えない壁画が、洞窟の深い深い最奥部を選んで描かれているという。

見てはいけないものなのか。真の理由を明らかにすることはできないだろうが、わたしは、これらの極度に「引き」のない部分や、洞窟の最奥部を選んで描かれている図像は、眼で見るのではなく、記憶で見るためのものではないかという印象をもっている。

では、観賞用に描かれたのではない、それらの洞窟はなぜ描かれたのか? 「記憶で見る」ことは、先史時代の人々にとって、どんな意味をもっていたのだろうか?

そうした洞窟壁画の謎に迫りつつ、先史時代の人々の心の進化を追っているのが本著である。

「洞窟へ―心とイメージのアルケオロジー/港千尋」の続き
ラベル:美術 洞窟壁画
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2010年05月16日

官能の庭/マリオ・プラーツ

分厚い。
本がではない。本自体もそうだが、何よりここに描き出されたヨーロッパの歴史の厚みがだ。しかも、その厚みある歴史というものも、単なる一本道の直線的道のりではなく、マニエリスム芸術の蛇状曲線(フィギューラ・セルペンティナータ)のようにうねり錯綜しているし、そもそも、それが未知であるかどうかでさえ定かではない。むしろ、はっきりと刻まれた道ではないところにこそ、実は隠された厚みがある。

確かに本そのものの物理的な厚さも読み終えるのに苦労する程度には分厚いのだが、それよりもこの本を成す基盤としての知識の厚みに、まず唸る。ヨーロッパの積層した知識の厚みを、この1冊から感じずにはいられないのだ。



そして、何より、その分厚く積層した知識を、物理的にも分厚い1冊として編み上げ、展開するプラーツという人の編集的視点の凄さに驚く。

文学、芸術、音楽、工芸など、さまざまなカテゴリーに、あるいは国や地域ごとに分断された状態で堆く積まれた知識の断片、互いに無関係に見える諸事象を、その地下深く流れた根源的な水脈の同一性を発見することで結びつけ、誰も知らなかった流れを見事に綴り浮かび上がらせてみせる手腕はまさに「官能」的ですらある。

一見無関係なもの同士のあいだに類似を嗅ぎ取り、中世の神秘思想家のニコラス・クザーヌスであれば「反対物の一致( コインキデンティア・ポジトールム)」と呼んだであろう関係性を提示してみせる。本書に登場する人物の数の膨大さも圧巻だが、その無関係なもの同士を見事にひとつながりに繋いでみせるプラーツの手腕はさらに驚愕である。誰もが膨大な量の知識の断片の未整理状態を前にお手上げのなか、それを見事に関係付けて、見えない共通項を浮かび上がらせてくれるのだ。

のっけからして、プラーツ本人が、この書が書かれた当時のフランスでの「芸術における奇矯なものや異様なものに関する多くの書物が出版された」事柄に対して、

いまや、われわれが関心を寄せる領域は広大なものとなり、そして定義というものへのわれわれの信仰はあまりに希薄になっているため、これらの書物の大部分が人の目を唖然とさせるような珍奇なものの寄せ集めにすぎないとしても驚くことはない。
マリオ・プラーツ「ヒエロニムス・ボスの<奇妙な相貌>」『官能の庭』

と、その未整理状態に問題を投げかけると同時に、

カイヨワなら、ヒエロニムス・ボスが≪カナの婚礼(饗宴)≫で見せたあらゆる厚かましい悪魔のいらずらや系統だった混淆の創出を「ひそやかに奇妙な」と表現するだろう。実際、偏倚なものは、それがまさに偏倚なものであるがゆえに定義を拒むものである。
マリオ・プラーツ「ヒエロニムス・ボスの<奇妙な相貌>」『官能の庭』

と、ヘンリー・ダーガーらのアウトサイダー・アートあるいはアール・ブリュット(Art Brut、生の芸術)にもつながるような、偏倚なものの定義を超えでる力を指摘する。

15世紀後半から16世紀初頭にかけてのネーデルランドのルネサンス画家である、ヒエロニムス・ボスに焦点を当てていくのだが、その文中に先のアール・ブリュットを想起させることをはじめとした無数の補助線を引いていく手腕が見事なのだ。
その見事さは、Web上のハイパーリンクやSNSのネットワークなどの比ではない。その圧倒的な差に何より驚くのだ。

「官能の庭/マリオ・プラーツ」の続き
ラベル:芸術 編集
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2010年05月08日

火の賜物―ヒトは料理で進化した/リチャード・ランガム

ジョルジュ・バタイユは『エロティシズム』書評)のなかで、食べることと調理することは連続的な行為ではなく、その間には切断があることを指摘した上で「この切断が人間と動物を区別しているのです」といっている。「動物はすぐに媒介なしに食べ、その食べ方は貪欲」であるのに対し、人間は食べる前に「調理」という媒介的な行為を挟むことを対比する。この人間のみが行う調理というものが動物と人間を隔てる区別だという指摘だ。

この区別が単なる哲学的な思弁ではないことを、著者は本書で科学的に論述してみせる。

ヒトは確かに料理によって進化し、ほかの動物と区別される存在になったのだ、と。

「火の賜物―ヒトは料理で進化した/リチャード・ランガム」の続き
ラベル:進化論
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2010年05月04日

書物の変―グーグルベルグの時代/港千尋

1640年に開設されたパリの国立印刷所が政府の決定により縮小、移転が決まった時期。
港千尋さんは、そのことに対して本書『書物の変―グーグルベルグの時代』のなかで、次のように書いている。

しかしそれがEUの現実だということを、活字造りや組版の職人たちと毎日付き合いながら、わたしは知った。国の歴史を印刷してきた機関が犠牲にされるように、EUは、歴史的な価値を犠牲にしているのではないかと彼らは見ているのだ。おそらく見えないところで進行している消滅は多くの分野で進行中だろう。

歴史は書物がつくる。
書かれない歴史はない。歴史は記録されてはじめて歴史という価値をなす。書物というメディアはまさに歴史にとって不可欠なメディアである。

パリの国立印刷所というのは、グーテンベルグの時代から活版印刷のための活字をつくっていた場所なのだそうだ。それがEUという国境を越えたヨーロッパ統一の流れと経済の潮流のなかで消えていく。
まさに歴史をのせるメディアが消え、歴史が消えていく。

EUの傘を拡げるのはいい。しかし効率と競争力を至上とする流れにまかせれば、ヨーロッパの背景が溶けて崩壊してしまうのではないか。文明の危機が進行中だということを知っているのは、文明の基礎で働いている人間だろう。多くの人がそれぞれの現場で、そのことを感じている。文字を彫り、成形し、組み、刷ってきた人たちにとって、NとOの二文字は、歴史を存続させるために必要な文字だったのだろう。

書物の危機は、単なる紙に印刷された本というメディアのみの危機だろうか?
この『書物の変―グーグルベルグの時代』という本は、グーグルやキンドル、iPadの時代にそう問いかけている。

「書物の変―グーグルベルグの時代/港千尋 」の続き
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2010年04月28日

台所空間学/山口昌伴

計画のスパン」というエントリーでもすでに紹介しているが、やはり、この本はすごい。これまで台所というものをいかに誤解し、それゆえに台所や食に対する自らの考えを陳腐化していたかということが思い知らされる。
いや、それどころか、そもそも台所ということに限らず、ひとが生活のなかでモノをデザインし、作り、使用するということが本来どういうことなのかということをあらためて考えさせられた。
こんな本が10年以上も前に書かれていたことを知らなかったなんて、と思う。くだらないデザインメソッドの本を読んでいる余裕があったら、まずこちらを読むべきだ。目から鱗のはずである。

著者は、台所とは何なのか、それをデザインするためには何を考えればよいかの問いから、世界各地の台所をフィールドワークして回っている。

明治以前の台所のおもかげを残す日本各地の民家をはじめ、ネパール、エジプト、韓国、中国、フランス、アメリカのキッチン/台所、そして、冒頭に紹介されている広島県北部の中国山地にある帝釈峡と呼ばれる峡谷に残った縄文晩期の台所の原型まで。
そのフィールドワークを経て、著者自身の台所の固定観念が覆された結果生まれた新たな台所観、そしてさまざまな台所の問題や未来像を記録したのが本書、『台所空間学』である。

この本を読んでの収穫は、単に、台所に対する固定観念が覆されたということだけでなく、何より、いまの僕らの生活は「食べる」ということ以外においても、道具とそれを使う作法や背後にある思想との関係がもはや末期的なレベルで壊れた状態であることに気づけたことだ。

これではいくらモノを作ってもしかたがない。よく言われることだが、あらためてソフトの面の解決が必要だと強く思う。
長い間、僕らはあまりにハードオリエンテッドな思考に慣らされすぎてしまっており、作った物事で何を成すのか、どう成すのかというソフト面のオリエンテーションに頭や時間や労力を費やすことを怠けすぎてしまっているように思う。

では、そういう考えにいたるきっかけとなった本書について、以下ですこし紹介しておこう。

「台所空間学/山口昌伴」の続き
ラベル:台所 キッチン
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神の木―いける・たずねる/川瀬敏郎、光田和伸

椿、樟、槙、杉、梶、桂、檜、柞、松、白膠木、柳、欅。

日本では古来、さまざまな生活に役立てられ、歌にもうたわれ、神とあがめられることもあった12種類の木。

松山・伊予豆比古命神社の「椿」、高野山・金剛峯寺の「槙」、三輪山・大神神社の「杉」、鞍馬・貴船神社の「桂」、木曾谷・伊勢神宮林の「檜」などの神木のある地を訪れ、「神木とは何か」ととともに「日本のこころ」を問うた国文学者である光田和伸による文章と、これら12種の木(花)を活けわけた花人・川瀬敏郎による作品が、この本『神の木―いける・たずねる』には収録されている。

これまでも「日本の花とは何か」を強く意識して花をいけてきた川瀬さんが今回の神木の花には通用しなかった、といいます。松などはよくいけてきたが、はじめていけた木もあり、むずかしかった、と。
とはいえ、本人がそう言おうと、ここに掲載された12の花はどれも普段は人にみせない表情をみせている。さすがというほかない。

「神の木―いける・たずねる/川瀬敏郎、光田和伸」の続き
ラベル:
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2010年04月15日

エロティシズム/ジョルジュ・バタイユ

バタイユについて語ることはむずかしい。
このバタイユの著書『エロティシズム』についても同様である。

本書の冒頭において、バタイユは、「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えること」だと言っている。

バタイユは、生殖のための性活動を有性動物と人間に共通の事柄としながらも、その生殖のための性活動とエロティシズムに対立するものとしてみる。つまり性活動そのものが本来的にエロティックなのではないということだ。性活動がエロティシズムとなるには、別に理由が必要なのだ。

「本質的にエロティシズムの領域は暴力の領域であり、侵犯の領域である」というのが、バタイユが問題にするエロティシズムである。エロティシズムは禁止と侵犯という、人間以外の動物には与えられていない二重性のうえではじめて生起する。動物にエロティシズムはない。

その線上で、バタイユは死を存在の連続性と関係付ける。個体はほかの個体と異なっている。個体と別の個体のあいだには不連続な深遠がある。「私たちのあいだのいかなる交流も本源的な相違を消し去ることはできないだろう」とバタイユはいう。しかし、同時に「この深遠は
私たちを魅了することがある」ともいう。ある意味で、この深遠とは死であり、死が私たちを魅了するのだということをバタイユは示している。生によって個に分けられた各個体は死によって連続的な存在となる。

決定的な行為は裸にすることだ。裸は閉じた状態に、つまり不連続な生の状態に、対立している。裸とは交流の状態なのだ。それは、自閉の状態を超えて、存在のありうべき連続性を追い求めるということなのだ。
ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』

動物は着衣ではなく裸である。人間だけが裸を禁止している。だが、禁止しているからこそ、侵犯が可能になる。
人間だけにエロティシズムが生起するのだ。

むろん、事はそう単純ではない。

「エロティシズム/ジョルジュ・バタイユ」の続き
ラベル:バタイユ
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2010年02月20日

イデア―美と芸術の理論のために/エルヴィン・パノフスキー

イデア。
強引に簡略化してしまえば、個別の事物の背後に潜む本質であるイデア。

プラトンの哲学に端をなすイデアは、17世紀の初頭のマニエリスムの時代において、芸術家の精神のなかに形成された内的素描として、実際の作品の原型と捉えられるようになる。芸術家は自身の精神のなかであらかじめ形成された内的素描としてのイデアを自身の技術を用いて絵画や彫刻などの外的素描へと移し変える。
このような理論化を最初に行ったのが、マニエリスムの画家であり芸術理論家でもあったフェデリコ・ツッカーリであり、それは1607年の『絵画、彫刻、建築のイデア』という書物のうちにおいてなされたものであることは、すでに「ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)」で述べておいた。

ところが、本書の著者、パノフスキーによれば、そもそもイデアという哲学的概念を生み出したプラトンは決して「造形芸術に対する公正な審判者ではありえなかった」という。「プラトン哲学はやはり、芸術に敵対するとは言わないまでも、芸術に疎遠なものと呼ばれるのにふさわしいものであった」といいます。

その芸術に疎遠なはずのプラトン哲学のイデアがなぜ、マニエリスム期に至っては、芸術活動の根幹をなすものの地位を獲得するに至ったか?
古代から中世を介してルネサンス、マニエリスム、バロックの時代へと、イデアの歴史的変遷を辿ってみせるのが、このパノフスキーの『イデア―美と芸術の理論のために』という本です。
それは同時に、芸術の社会的地位や役割の変化を観察する試みにもなっています。

「イデア―美と芸術の理論のために/エルヴィン・パノフスキー」の続き
ラベル:芸術 イデア
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2010年01月08日

古代日本の月信仰と再生思想/三浦茂久

さてさて怒涛の年明け書評エントリー5連発の最後を飾るのは、三浦茂久さんの『古代日本の月信仰と再生思想』

この本はまさに最後を飾るのにうってつけなヤバい一冊。
なにしろこの国がある意味ずっと信じてきた日の国としての日本の太陽信仰を根底からくつがえす、日本は古代、月信仰であったという考えを明らかにしている一冊なんですから。
本居宣長や契沖のような江戸期の国学者も、柳田國男や折口信夫のような民俗学者も、土橋寛のような国文学者も、誰も根幹からは疑うことがなかった太陽信仰の日本というものを、月信仰の日本に全面的に書き換える試みを展開しているのだからヤバい。もちろん、「ヤバい」というのは危ないという意味ではまったくなく、すばらしい!という賞賛の意味でヤバいんです。

「古代日本の月信仰と再生思想/三浦茂久」の続き
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薔薇十字の覚醒―隠されたヨーロッパ精神史/フランセス・イエイツ

薔薇十字友愛団。
フリーメーソン同様、誰もが一度くらいは耳にしたことがあるであろう秘密結社。
17世紀初頭のヨーロッパに突然あらわれたこの秘密結社は、通称『薔薇十字宣言』と呼ばれる出版物―具体的には、1614年の『友愛団の名声 あるいは 薔薇十字のもっとも気高き結社の友愛団の発見』と、1615年の『友愛団の告白 あるいは ヨーロッパの全学者に宛てて書かれた、薔薇十字のもっとも立派な結社の称えられるべき友愛団の告白』という、ともに長いタイトルをもった、ドイツで出版された2つの小冊子―によって、「魔術(マギア)とカバラと錬金術(アルケミア)」を原動力とした独自のユートピア思想に基づく新時代の幕開けを高らかに告げた。

本書の著者フランセス・イエイツに関しては、昨年末に「記憶術/フランセス・A・イエイツ」と「世界劇場/フランセス・A・イエイツ」というエントリーで、2冊の著書を紹介しています。

1冊は、古代から中世を経てルネサンス期にいたる西洋の「記憶術」の変遷をおいながら西洋における思想と観念の流れに目を向けた『記憶術』
そしてもう1冊は、『記憶術』のなかでも触れられている、イギリス・ジェームズ朝期の思想家、ロバート・フラッドが記憶術を展開した『両宇宙誌』とシェークスピアの劇場「グローブ座」の関係をさらに詳細に論じ、エリザベス朝期の思想家、ジョン・ディーを貴店にロバート・フラッドや同じくジェームズ朝期の建築家・舞台美術家、イニゴー・ジョーンズへと展開される数学的技術―魔術、カバラ、錬金術を含む―を中心としたエリザベス朝からジェームズ朝にかけてのイギリス・ルネサンス思想に目を向けた『世界劇場』
ともにヘルメス主義、カバラ的な様相を色濃く示したルネサンス思想、文化の動向を浮かび上がらせた名著で、あの高山宏さんが「今、デザインを勉強しようとする人間でイエイツの『記憶術』(1966)とか『世界劇場』(1969)とか名さえ知らないなんてこと、ぼくが絶対に許しません」と断言していたのがまさにこの2冊です。

そして、その2冊に連なる1冊が本書『薔薇十字の覚醒―隠されたヨーロッパ精神史』

「薔薇十字の覚醒―隠されたヨーロッパ精神史/フランセス・イエイツ」の続き
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2010年01月07日

遊ぶ日本―神あそぶゆえ人あそぶ/高橋睦郎

ルネサンス様式の四段階―1400年〜1700年における文学・美術の変貌/ワイリー・サイファー」、「フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論/ヘンリー・ペトロスキー 」に続き、本年3冊目の書評。

今日、紹介するのは、高橋睦郎さんの『遊ぶ日本―神あそぶゆえ人あそぶ』
これは大傑作。
僕はこれを読んで、情報コンテンツがどんどん無料化していく時代において、なぜ「遊び」の要素をもった情報コンテンツのみが有料でいられるかだったり、ニンテンドーとソニーの差って「遊び」に対する姿勢からくるんだろうな、と思ったりしました。

遊び、大事です。
遊びがわかってないと、これからの時代、やばいなと思わせる一冊でした。

「遊ぶ日本―神あそぶゆえ人あそぶ/高橋睦郎 」の続き
ラベル:遊び 日本文化
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2010年01月06日

フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論/ヘンリー・ペトロスキー

以前から読みたかったヘンリー・ペトロスキーの『フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論』が文庫版にて復刊されます(1月9日発売です)。
そして、「読みたかった」この本の書評を発売前のこの時点で書いているのは、実は文庫版出版にあたり、光栄にも僕が巻末の解説を書かせてもらったからです。

ここに構想(デザイン)という考え方が登場する。Oxford English Dictionaryに英語としてdesignという単語が初出するのは一五九三年である。フォークはそんなルネサンスの文化の雰囲気のなかで登場し各国で使われるようになったのだ。それは単なる偶然の一致ではない。
『フォークの歯はなぜ四本になったか』「解説 失敗の発明」より

ヘンリー・ペトロスキーの著作に関しては、このブログでも以前に『失敗学―デザイン工学のパラドクス』書評)や『本棚の歴史』書評)を紹介させていただいてます。

拙著『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』では「あらゆる仕事はデザインの仕事である」という考えに基づきデザイン思考の仕事術を展開させていただきましたが、その考えのベースとなったのがペトロスキーの進化論的なイノベーションの見方であり、「モノがひとつ生まれれば世界は変わる」という捉え方です。
そして、解説でも「新たなモノが発明され暮らしのなかに浸透すれば、単にモノがひとつ増えたというだけでなく、人々の生活そのものが変化する。それが決して珍しいことではないことは本書の多くの事例が教えてくれる」と書かせていただいた通り、本書でもペトロスキーのその姿勢は変わりません。フォーク、食料品や飲料用の缶詰、ペーパークリップ、ファスナー、マクドナルドのパッケージなどの日常使われる実用品の進化のステップに光をあてながら、モノの形の変化の流れを紹介するだけでなく、それにともなって変化する人びとのライフスタイルや考え方もあわせて紹介してくれています。その丁寧に膨大な事例を調べ上げて論を展開していく姿勢は、僕などはまったく頭が下がるばかりです。

それでは、この良書をすこしでも多くの人に読んでもらえるよう、ここでもすこし本書の内容を紹介しておくことにしましょう。

「フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論/ヘンリー・ペトロスキー」の続き
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2010年01月05日

ルネサンス様式の四段階―1400年~1700年における文学・美術の変貌/ワイリー・サイファー

狭義のルネサンスからマニエリスムへ、そして、バロックを経て後期バロックへ。
15世紀から17世紀にかけてのルネサンスの流れを、このような4つの段階に分けて考察するのが今回紹介するアメリカの文化史家、ワイリー・サイファーの『ルネサンス様式の四段階―1400年~1700年における文学・美術の変貌』です。

この本を読んであらためて日本人って西洋のことをほとんど理解しないまま、西洋が生み出しグローバルに展開した近代のしくみに乗っかってしまっているんだなと感じました。
それがどういった状況で何を目指して生み出され、その結果、何がどう変わったのか。
さらにいえば、そうした近代のしくみが自分たち自身のいまの生活にどういう影響を与えているのか。
またその影響を認識して、それを嫌うにしても、根っこの部分でそれがどういうしくみであるのかをわからないから表面的な批判になってしまい、結局は懐の大きなそのしくみへと取り込まれてしまう。

「ルネサンス様式の四段階―1400年~1700年における文学・美術の変貌/ワイリー・サイファー」の続き
ラベル:ルネサンス 歴史
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2009年12月25日

未来のための江戸学/田中優子

ひさしぶりに田中優子さんの本を紹介したい。
紹介するのは、最新刊である『未来のための江戸学』です。

田中優子さんの本は、これまでも何度か紹介しています。
江戸の恋―「粋」と「艶気」に生きる」では、恋という切り口から江戸の生活や経済が描かれました。江戸時代の結婚はいまのように恋愛の先にあるものではなく、現実的実際的に生きていくために行われる手段であり、家族はあくまで生産の単位であるため結婚はいまの就職と変わらなかったこと、そして、それゆえに心中につながるような恋との矛盾も生じたことが紹介されていました。
また「江戸の想像力 18世紀のメディアと表象/田中優子」や「江戸はネットワーク/田中優子」では、平賀源内や上田秋成、鈴木春重(司馬江漢)、山東京伝らが活躍した江戸の町が、金唐革紙−金唐革によって、イタリア・ルネサンスのボッティチェルリや、はたまたヴァイオリンのストラディヴァリウスにもつながっているというグローバルな世界、そして、江戸のなかでそうした文化が連と呼ばれたネットワークから生まれてきたことを明かしてくれます。いわゆる鎖国なんて閉じたイメージが幻想であることを見事に暴いてくれていて痛快。
さらに「江戸百夢―近世図像学の楽しみ/田中優子」では江戸期の日本の絵画・彫刻だけでなく、同時代の朝鮮やオランダ(フェルメール)、イタリア(ベルニーニ)などの絵画・彫刻をひとつひとつ眺めながら、江戸期とその時代の世界の動きを探訪し、「江戸を歩く/田中優子」では今度はいまの東京を歩きながら、江戸のおもかげを呼び覚ましてくれます。この本を読んで僕はあらためて自分が住んでいる東京がかつて江戸と呼ばれた場所であったことに気づかされたくらいです。
そんな地理的な江戸を飛び出して、歴史的な時間としての江戸の生活を、農民や非差別民たちの生活、経済の面から描いたのが「カムイ伝講義」でした。江戸期に生まれた技術や技術に対する姿勢が明治、昭和の時代において、ものづくり大国・日本をつくる原動力になったということはよく知られていることですが、まさにその原動力となった江戸期の開発力のすごさを教えてくれる一冊でした。

こんな風に、さまざまな角度から時代劇や従来の歴史書が描いた江戸とはまるで異なる江戸の姿を垣間見せてくれる田中優子さんの本ですが、今回紹介するのは、これまでのアプローチとは違って、ダイレクトに江戸を現代の日本と対置している。その対置から「未来のための」というテーマを掘り下げているのが、この1冊。

そんな1冊をこの1年の終わりにすこし紹介しておこうか、と。

「未来のための江戸学/田中優子」の続き
ラベル:江戸
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2009年12月24日

身体感覚で「論語」を読みなおす。/安田登

能楽師(下掛宝生流ワキ方)である安田登さんによる『身体感覚で「論語」を読みなおす。―古代中国の文字から』

これはおもしろかった。
白川静さんが好きな僕には納得感もあった。

有名な「四十にして惑わず」も、「惑」という文字自体が孔子の時代になかったのだから、「40才になったら迷わない」という意味ではないだろう、と著者は考えます。

白川静さんも『漢字―生い立ちとその背景』で「人が神とともにあり、神とともに生きていた時代には、心性の問題はまだ起こりえなかったのであった」と言っているように、「心」という漢字自体が孔子が活躍する、ほんの500年前にできたにすぎない。「心」がついた「惑」は孔子の時代のさらに500年以上あとにようやく登場する。
であれば、孔子が「四十にして惑わず」などといったわけではないだろう、と著者は考えます。

「身体感覚で「論語」を読みなおす。/安田登」の続き
ラベル:論語 漢字
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2009年12月14日

円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」/M.H. ニコルソン

16世紀の終わりの日本で古田織部が沓茶碗で従来の茶碗のスタンダードであった円相を破壊したのとほぼ同時代、西洋では17世紀初頭、ケプラーが惑星の楕円軌道を発見し、西洋思想のスタンダードであった円環を破壊している。

後期ルネサンス期に芽生えた新しい科学の動向が人びとの考え方・世界の見方に与えた影響を、ジョン・ダンミルトンなどの17世紀英国の詩人や文学者の作品を読み解きながら考察する、M.H. ニコルソン『円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」』を読んで、僕の頭に浮かんだのはそうした東西の時代の符号でした。

東西でほぼ同時に起きた、円の破壊と楕円の登場。
いずれの世界においても、円は古くからの伝統的な思想を象徴し、楕円は新しい思想を象徴していました。円から楕円への移行は東西でほぼ同時期に起こった古い世界の見方から新しい世界の見方への移行を意味していたのです。

「円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」/M.H. ニコルソン」の続き
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2009年11月07日

世界劇場/フランセス・A・イエイツ

思考を具体的な形にすること。世界をどのようなものとして見るか、さらにまた、それを「よりよい」状態に近づけるかについて熟考された思考の結果を再び、形として世界へとフィードバックする。それが本来のデザインという活動の原型ではないだろうか?
世界を、宇宙を、そして、人間を注意深く観察し、それらの謎を思索し、よりよき状態を希求し、そうした活動の結果を具現化する技術を探る。そうした構想と呼ぶべき活動を背景にもつことをやめた、形ばかりのデザインを「デザイン」と名指すのはどうなのだろう?



シェイクスピアのグローブ座(地球座)を含む、イギリスにおける後期ルネサンスの公衆劇場に焦点をあてながらルネサンス期の科学的/魔術的思考とその思考が生みだした世界=歴史を考察する『世界劇場』は、先に紹介した『記憶術』に続くフランセス・A・イエイツによる一冊です。
『記憶術』に関して、僕は「自分がデザインに関わる仕事や勉強をしていると思っている人は必読!の1冊」と書きましたが、この続編として読むことができる『世界劇場』も、冒頭に書いたような意味で、世界に関する観察・思索との結びつきにおいてデザインというものを捉えた時代をきちんと知っておくべくためにも必読です。

「世界劇場/フランセス・A・イエイツ」の続き
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