堕落論/坂口安吾

昭和21(1946)年4月、坂口安吾は『堕落論』を書きました。 半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。 坂口安吾『堕落論』 昭和天皇が玉音放送をもってポツダム宣言受諾を表明し、日本が降伏したのがその前年の8月15日です。 この本は戦争直後の社会で話題となりました。 先の引用したとおり、「半年のうちに世相は変った」ではじまる、この短いエッセイは、一夜にして価値観を変更させられた日本人の心を打ったのでしょう。 僕は昨夜、この安吾の『堕落論』をふと思い出しました。 この短いエッセイの後半に書かれた、 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。 坂口安吾『堕落論』 ということばを。 もちろん、僕がそれを思い出したのは、いまの僕らもまた「一夜にして価値観を変更させられた日本人」に他ならないからでしょう。

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形の冒険 生命の形態と意識の進化を探る/ランスロット・L・ホワイト

形を思考すること。形を思考の対象にして、その形成がどのようになされるかに思考を集中させること。 この本の著者ランスロット・L・ホワイトが指摘しているのは、そのことです。 この場合の「形」とは、何も目に見える形ばかりを指しているのではありません。 目に見えにくいものも実は形を持っています。僕らはそれをつい日常見逃してしまいがちです。 でも、最近はソーシャルメディアの普及によって、「つながり」や「関係性」のような概念も普通の人が普通に捉えられるようになってきています。この概念というのも形です。 僕は「透明な形をデザインする」という表現をよく使いますが、人の動きを促すような作法やルールのような形もあります。 言葉は形ですし、思考や概念もまた形です。感情も、知識も、それぞれの形を持っています。 一方で、そうした形に対する思考がいま欠けていると感じます。 特に形を生み出すプロセスに対する思考は著しく欠けています。形を静止し固定したものとしてのみ扱い、思考や概念のような形がどのように生じてくるのか、感情や言葉という形がなぜ生まれるのかということを問わず、人の思考や感情を固定してあるもののように扱ってしまいがちです。 著者が指摘しているのもその点で、著者は結果としての「形態形成プロセス」に着目することが必要だと解きます。 基礎デザイン学を打ち立てた、向井周太郎さんは『デザインの原像―かたちの詩学2』のなかで、「形」ということばの「ち」を「いのち」や「いかづち(雷)」「をろ…

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トマス・アクィナス 『神学大全』/稲垣良典

2011年も早1月21日になってしまいましたが、今年はじめてのエントリーです。 最初のエントリーを何にしようと迷っている間に、21日にもなってしまったので、もういい加減、何でもいいから書こうと思い、まずはこの本『トマス・アクィナス 「神学大全」』の紹介からはじめることにしました。 よりにもよって、何故トマス・アクィナスなのか? 13世紀を生きた、一般的には中世スコラ学の大成者として知られるトマス・アクィナスを、いま何故キリスト教などに関わりのない東の島国の21世紀を生きる僕が取り上げるのか? それには2つの理由があります。 1つは、まだグーテンベルクの印刷革命がおこる以前で、建築物がポータビリティのない情報メディアとして存在していた中世という時代において、その時代において情報がもっとも集中していたであろう機関の1つである教会において、スコラ学が後世の文学に影響を与えたものの1つのジャンルとしての「スンマ(大全)」という百科全書的な知の形式の代表作である『神学大全』を著したのがトマス・アクィナスであるということが1つ。 印刷物としての書物はまだなく、写本と音読の時代であった中世において、教会という情報の伝達の場に属しながら、後の百科全書にもつながる大全という文学形式で知の模索を行なったトマスという存在を知ることで、この印刷時代もすでに超えた電子テキストの時代の知の偏りとその原因について何らかの理解が得られるのではないかと思ったのでした。 もう1つの理由は、昨年最後のエン…

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メディア論―人間の拡張の諸相/マーシャル・マクルーハン

2010年大晦日。 今日は、1980年12月31日に亡くなった、カナダ出身の英文学者であり、文明批評家であるマーシャル・マクルーハンの没後30年にあたります。 そして、明日になれば、1911年生まれのマクルーハンの生誕100周年を迎える。 その節目の今日こそ、これまで何度となく取り上げてきたマクルーハンの『メディア論―人間の拡張の諸相』を紹介にふさわしいのではないかと思い、このエントリーを今年の最後のエントリーとして選びました。 本書でマクルーハンが「話されることば」や「書かれたことば」、「道路と紙のルート」、「数」、「衣服」、「印刷」、「漫画」、「印刷されたことば」、「写真」、「新聞」、「自動車」、「広告」、「タイプライター」、「電話」、「蓄音機」、「テレビ」などのさまざまなメディアの変遷を追いながら人類の歴史をひもとくようにして語るのは、一貫して「すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである」ということです。 この本はメディアという視点から捉えた人間の変化の歴史を描いたものであり、メディアによって拡張されることでそれ以前の人間とは異なる生物に変化する「ヒト」と総称される生物群の変化の様相を綴ったものだといえるでしょう。 そう。この本を読むと、あらためて「人間」と僕らが一言で呼んで、あたかもそのすべてが自分たちと瓜二つの思考や感じ方をするはずだと決め込んでいる生物群の多様さに驚かされます。 尻尾がある動物と僕らが異なるように、遠近法で世界を見るようになって…

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ハーモニー/伊藤計劃

「僕らはきっと、とっとと個人であることをやめなくてはいけないのかもしれません」 そんなことを、僕は1つ前のエントリー「「個人」という古い発明品」で書きました。 そして、そんな一言が、僕をこの故・伊藤計劃さんの『ハーモニー』を読むことに誘ってくれました。 <theorem:number>  <i:こどもがおとなになると、言葉になる>  <i:おとながしびとになると、泡になる> </theorem> いや、それは正確じゃない。より正しく言うのなら、 <rule:number>  <i:こどものからだは、おとなになるまで言葉にしてはならない>  <i:おとばは死んだら、泡になるまで分解されなくてはならない> </rule> という禁止で語られるべき。」 伊藤計劃『ハーモニー』 そう。これはETML 1.2というマークアップ言語で書かれた本。 この”E”が何かはここでは明かしません。実際に読んでみて、自分で見つけて欲しいと思うから。 とはいえ、このETML 1.2でマークアップされているってことに、僕はそれほど興味がひかれたわけではありません。 僕はもうすこし違うところに興味をひかれて、この本を読み進めたのでした。

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経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ/エドワード・S・リード

「いわゆる情報化時代のアイロニーには、当惑をおぼえざるを得ない」。 この本の著者であり、アフォーダンス理論の創始者J.J.ギブソンの流れを引くエドワード・S・リードでそう書いて、「経験のための戦い」をはじめます。 情報を処理し伝達するためのテクノロジーはここ数十年で急速に進んだが、テクノロジーのこの進歩にもかかわらず、人々のあいだの、意味にみちたコミュニケーションは、はなはだ退化しつつある。 エドワード・S・リード『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』 と続けながら。 この情報化時代にあって、人々が経験から積極的に意味を形作り、経験から知を獲得することから離れて、すでに加工済みのテキスト情報や動画情報などを受動的に受け取ることやその情報の加工や処理ばかりに、時間や労力を費やすことを、著者は問題にするのです。 それが日常生活のみならず、教育・学習の場である学校でも、知的生産の場であるはずの職場でもいえ、人々がますます意味を作り出すコミュニケーションから、あらかじめ意味が決定されたデータを右から左へ移動させることに終始するという、非生産的な活動の時間が増えることが問題だというのです。 ただ、著者のリードは「処理情報に本来まずい点はなにもない」とも書いているように、情報技術に対して戦いをはじめようとしているのではありません。そうではなく「まずいのは社会だ」とリードはいいます。 つまり、だれもがどこでも利用できるような類の、ほんのちっぽけな量の処理情報…

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メディアの発生―聖と俗をむすぶもの/加藤秀俊

旅に出たくなる本です。 また、僕らにはすっかり馴染みのなくなってしまった浪花節や盆踊り、落語などの芸能にも触れたくなる一冊です。 実際にこの本に登場した、香川県にある旧金毘羅大芝居「金丸座」を訪れてみました。 日本最古の芝居小屋として国の重要文化財として指定されている芝居小屋で、いまも毎年春に、「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が開催されている場所です。歌舞伎小屋の原型であるばかりでなく、客席などの作りは相撲が行われる国技館などの原型ともなっているそうです。 さいしょに建設されたのが天保6(1835)年だというから、ずいぶん古い。こんな歴史的建造物があるのか、とわたしは感心して見物した記憶がある。(中略)毎年4月に名だたる名優がそろってこの「四国こんぴら歌舞伎」公園をおこなうことが年中行事となった。かんがえてみると、歌舞伎が大都市の劇場で連日講演される、などというのはごくさいきんのことで、むかしはこうして巡業の旅にでかけていたのがふつうだったのであろう。 加藤秀俊『メディアの発生―聖と俗をむすぶもの』 地方を巡業して回る歌舞伎の一座。いまも4月の「四国こんぴら歌舞伎大芝居」では、東京から一座が大人数でこの地に来て2週間から20日程度の期間に芝居を行うのだそうだ。旅はこの本のひとつのキーワードです。 さて、正面と客席上の葡萄棚天井の写真も載せておきましょう。 実際に訪れてみて、一度はこの舞台で歌舞伎を見てみたいと思いました。

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最近買った本 2010-08-16

あまりブログを更新していないので最近買った本をご紹介。 ウィリアム・モリス関連まずは最近エドワード・S・リードの遺作『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』を読んで、19世紀末にアーツ・アンド・クラフツ運動を展開したウィリアム・モリス について、あらためて詳しく知りたいなと思ったので、以下の4冊を購入。 とりあえず、モリスの著書から2冊。 ユートピアだより/ウィリアム・モリス 理想の書物/ウィリアム・モリス 前者は詩人でもあったモリスによるフィクション。後者は晩年、書物のデザインに関わったモリスによる理想の本についての論文や講演録を集めたもの。 それから、こんな本も買いました。 もっと知りたいウィリアム・モリスとアーツ&クラフツ アーツ・アンド・クラフツと日本 前者はカラー図版が豊富だったので購入。後者は日本民藝運動との関係も知りたくて購入です。  

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10万年の世界経済史/グレゴリー・クラーク

後のダーウィンの進化論にも影響を与えたことで知られる、1789年の『人口論』で、イギリスの経済学者であったトマス・ロバート・マルサスは、人口と経済の関係について、幾何級数的に増える人口と算術級数的にしか増えない食糧供給量の差は必然的に貧困を発生させ、これは社会制度の改良などでは回避することができないと論じています。 いわゆる「マルサスの罠」と呼ばれているものです。 本書において、著者のグレゴリー・クラークは、この「マルサスの罠」が、人類が誕生して間もない古代社会から1800年までを貫く経済原理として働いていたこと、それゆえに古代社会と1800年直前の社会を比べて、大きな人口の変化が見られなかったし、人口一人当たりの所得も増えなかったことを指摘しています。 つまり、産業革命以前の経済社会は決して、古代社会よりも豊かではなかったと書いているのです。 と同時に、クラークは、本書で、1800年を境に社会が一変して決定的な格差社会が確立したことを扱っています。「大いなる分岐」と呼ばれる富める国と貧しい国の格差が生まれたのが、世界が「マルサスの罠」を脱して以降であることを論じているのです。 以上のことは、下のようなグラフで単純に表すことができます。 このグラフの説明に、上下2巻を費やしたのが本書です。 「10万年の世界経済史」という大仰なタイトルがつけられていますが、クラークは別に、10万年の経済史などは論じていません。 あくまで原題は“A Farewell to …

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江戸の本屋さん―近世文化史の側面/今田洋三

iPadの発売以来、急に電子書籍の話題が聞かれるようになりました。出版業界や印刷業界を中心に、具体的な動きも出始めています。 デジタルな本より紙の本のほうがいいなど、いろんな声も聞かれますが、紙の本がまったくなくなるという話ではないでしょうし、そもそもヘンリー・ペトロスキーの『本棚の歴史』(書評)や港千尋さんの『書物の変―グーグルベルグの時代』(書評)などを読んでもわかるように、本の形態などはこれまでの歴史のなかでも度々その形態を変化させています。 また、本の印刷、流通に関わる人々にとっては、電子書籍化は危機だといえるのでしょうけど、すくなくとも出版に関わる人にとっては実は危機とはいえないだろうと思います。 そもそも、出版や編集という仕事は、紙の本を商品として作る仕事ではないはずだからです。たとえば、江戸期の有名な出版人、蔦屋重三郎などは単に出版者であっただけでなく、歌麿や写楽、太田南畝や山東京伝を育て世に出した人でした。 そんなことを思いつつ、江戸期の出版について、いろいろと知らべてみようと思って、何冊か買った本のうちの一冊がこの今田洋三さんの『江戸の本屋さん―近世文化史の側面』でした。 江戸の出版業は田沼時代における、江戸をめぐる商業資本の発展、江戸住民の文化創造力の向上を背景として、画期的な発展を示した。画期的なという意味は、封建支配者の文化政策を分担したり、売れればよいというだけで自らの創造的見識をもりこむことの薄かった出版界で、出版が文化運動の一環としての意…

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野菜の力 精進の時代/棚橋俊夫

この本は新しくライフスタイル研究会のメンバーになった方から紹介いただいた。 最近よい本との出会いが多いが、またしても、心に響く一冊である。 「生きる」ということはどういうことか、生きることと食あるいは農はどのような関係にあるのかを教えてくれ、美しく生きようという意欲を持たせてくれる。 ひとつ前に読んだ尾久彰三さんの『観じる民藝』(書評)では、美を見つめる眼差しを養うためには日々の暮らしの中でモノを真っすぐに受け止める姿勢の大切さを考えさせられたが、この本では、さらにモノを美しく見せるためには、何よりもまず日々を生きる自分自身の姿勢そのものをいかに美しく保たれるかが大事だということを思い知らされた。 まったく読んでいて、自分の生活が恥ずかしくなる本である。 例えば、“私はこれまで「座す」ということに関してまるで夢を見ているような経験を二度しています”と述べたあとに紹介されるこんなエピソード。 1つは、私の英語の先生であるイギリス人とその友人、6名で座敷に通っていただいたときのこと。淡々と1つ残さずすべての料理を綺麗に召し上がっていただいた後で、私が食後の挨拶に顔を出すと、その六畳間はまるで由緒ある寺の本堂に導かれたかのような雰囲気でした。大柄な仏たちがきちっと座って、柔和な顔をしている。よく見ると彫りの深い青い目をした外国人なのですが、時空を越えて荘厳な異空間に入り込んだ気がしたのです。 棚橋俊夫『野菜の力 精進の時代』 食の姿勢が仏のように美しく観られるような生…

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観じる民藝/尾久彰三

素敵な本だ。 本というよりも、むしろ、モノという雰囲気がある。 著者が集めた素敵な古民藝300点余りがカラー写真で収められた一冊は、美しい玉手箱を手にしているようなのだ(本物の玉手箱を観たことなんてないけど)。 「感じる」ではなく、「観じる」とはよく言ったもので、観ることの心地良さを再認識させてくれる。 本書の著者は、長く日本民藝館の学芸員をされた方である。 柳宗悦に私淑して富山で日本民藝運動を推進していた叔父の影響もあり、10代の頃からモノ集めに開眼したという。 高校生になってからは、月に2回ほど、叔父の飛騨高山での古民藝品収集に同行して、モノを観る眼を養った。はじめは何がいいのかわからなかったものも、そのうち、自分で気になるモノを手に入れるようになった。 長じてから日本民藝館の学芸員になったのは自然なことだったのかもしれない。 そんな著者が昨年、日本民藝館の学芸員の職を辞した。 この本には、永年かけて著者が日本国内だけでなく、海外からも集めた1000点あまりの古民藝のコレクションから厳選された300点あまりが掲載されている。 珠玉のコレクションといっていい。 僕自身は、この本を読んで(観て、といったほうがいいのかもしれない)、これまで民藝に対してもっていたイメージを大きく変えられた。

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洞窟へ―心とイメージのアルケオロジー/港千尋

先史時代の洞窟は人間の脳である。 有名なラスコーやアルタミラなどに代表される、先史時代の洞窟壁画は、僕らが想像するような意味では絵画ではない。それは暗く狭い洞窟の壁に描かれており、僕らが美術館やギャラリーで絵を観るような観方で観ることを拒むのだそうだ。つまり、その狭く暗い洞窟の内部には観賞に適切な距離がない。しかも、その観賞用とは思えない壁画が、洞窟の深い深い最奥部を選んで描かれているという。 見てはいけないものなのか。真の理由を明らかにすることはできないだろうが、わたしは、これらの極度に「引き」のない部分や、洞窟の最奥部を選んで描かれている図像は、眼で見るのではなく、記憶で見るためのものではないかという印象をもっている。 港千尋『洞窟へ―心とイメージのアルケオロジー』 では、観賞用に描かれたのではない、それらの洞窟はなぜ描かれたのか? 「記憶で見る」ことは、先史時代の人々にとって、どんな意味をもっていたのだろうか? そうした洞窟壁画の謎に迫りつつ、先史時代の人々の心の進化を追っているのが本著である。

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官能の庭/マリオ・プラーツ

分厚い。 本がではない。本自体もそうだが、何よりここに描き出されたヨーロッパの歴史の厚みがだ。しかも、その厚みある歴史というものも、単なる一本道の直線的道のりではなく、マニエリスム芸術の蛇状曲線(フィギューラ・セルペンティナータ)のようにうねり錯綜しているし、そもそも、それが未知であるかどうかでさえ定かではない。むしろ、はっきりと刻まれた道ではないところにこそ、実は隠された厚みがある。 確かに本そのものの物理的な厚さも読み終えるのに苦労する程度には分厚いのだが、それよりもこの本を成す基盤としての知識の厚みに、まず唸る。ヨーロッパの積層した知識の厚みを、この1冊から感じずにはいられないのだ。 そして、何より、その分厚く積層した知識を、物理的にも分厚い1冊として編み上げ、展開するプラーツという人の編集的視点の凄さに驚く。 文学、芸術、音楽、工芸など、さまざまなカテゴリーに、あるいは国や地域ごとに分断された状態で堆く積まれた知識の断片、互いに無関係に見える諸事象を、その地下深く流れた根源的な水脈の同一性を発見することで結びつけ、誰も知らなかった流れを見事に綴り浮かび上がらせてみせる手腕はまさに「官能」的ですらある。 一見無関係なもの同士のあいだに類似を嗅ぎ取り、中世の神秘思想家のニコラス・クザーヌスであれば「反対物の一致( コインキデンティア・ポジトールム)」と呼んだであろう関係性を提示してみせる。本書に登場する人物の数の膨大さも圧巻だが、その無関係なもの同士を見事にひ…

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火の賜物―ヒトは料理で進化した/リチャード・ランガム

ジョルジュ・バタイユは『エロティシズム』(書評)のなかで、食べることと調理することは連続的な行為ではなく、その間には切断があることを指摘した上で「この切断が人間と動物を区別しているのです」といっている。「動物はすぐに媒介なしに食べ、その食べ方は貪欲」であるのに対し、人間は食べる前に「調理」という媒介的な行為を挟むことを対比する。この人間のみが行う調理というものが動物と人間を隔てる区別だという指摘だ。 この区別が単なる哲学的な思弁ではないことを、著者は本書で科学的に論述してみせる。 ヒトは確かに料理によって進化し、ほかの動物と区別される存在になったのだ、と。

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書物の変―グーグルベルグの時代/港千尋

1640年に開設されたパリの国立印刷所が政府の決定により縮小、移転が決まった時期。 港千尋さんは、そのことに対して本書『書物の変―グーグルベルグの時代』のなかで、次のように書いている。 しかしそれがEUの現実だということを、活字造りや組版の職人たちと毎日付き合いながら、わたしは知った。国の歴史を印刷してきた機関が犠牲にされるように、EUは、歴史的な価値を犠牲にしているのではないかと彼らは見ているのだ。おそらく見えないところで進行している消滅は多くの分野で進行中だろう。 港千尋『書物の変―グーグルベルグの時代』 歴史は書物がつくる。 書かれない歴史はない。歴史は記録されてはじめて歴史という価値をなす。書物というメディアはまさに歴史にとって不可欠なメディアである。 パリの国立印刷所というのは、グーテンベルグの時代から活版印刷のための活字をつくっていた場所なのだそうだ。それがEUという国境を越えたヨーロッパ統一の流れと経済の潮流のなかで消えていく。 まさに歴史をのせるメディアが消え、歴史が消えていく。 EUの傘を拡げるのはいい。しかし効率と競争力を至上とする流れにまかせれば、ヨーロッパの背景が溶けて崩壊してしまうのではないか。文明の危機が進行中だということを知っているのは、文明の基礎で働いている人間だろう。多くの人がそれぞれの現場で、そのことを感じている。文字を彫り、成形し、組み、刷ってきた人たちにとって、NとOの二文字は、歴史を存続させるために必要な文字だったのだろう。 …

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台所空間学/山口昌伴

「計画のスパン」というエントリーでもすでに紹介しているが、やはり、この本はすごい。これまで台所というものをいかに誤解し、それゆえに台所や食に対する自らの考えを陳腐化していたかということが思い知らされる。 いや、それどころか、そもそも台所ということに限らず、ひとが生活のなかでモノをデザインし、作り、使用するということが本来どういうことなのかということをあらためて考えさせられた。 こんな本が10年以上も前に書かれていたことを知らなかったなんて、と思う。くだらないデザインメソッドの本を読んでいる余裕があったら、まずこちらを読むべきだ。目から鱗のはずである。 著者は、台所とは何なのか、それをデザインするためには何を考えればよいかの問いから、世界各地の台所をフィールドワークして回っている。 明治以前の台所のおもかげを残す日本各地の民家をはじめ、ネパール、エジプト、韓国、中国、フランス、アメリカのキッチン/台所、そして、冒頭に紹介されている広島県北部の中国山地にある帝釈峡と呼ばれる峡谷に残った縄文晩期の台所の原型まで。 そのフィールドワークを経て、著者自身の台所の固定観念が覆された結果生まれた新たな台所観、そしてさまざまな台所の問題や未来像を記録したのが本書、『台所空間学』である。 この本を読んでの収穫は、単に、台所に対する固定観念が覆されたということだけでなく、何より、いまの僕らの生活は「食べる」ということ以外においても、道具とそれを使う作法や背後にある思想との関係がもはや末期的なレ…

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神の木―いける・たずねる/川瀬敏郎、光田和伸

椿、樟、槙、杉、梶、桂、檜、柞、松、白膠木、柳、欅。 日本では古来、さまざまな生活に役立てられ、歌にもうたわれ、神とあがめられることもあった12種類の木。 松山・伊予豆比古命神社の「椿」、高野山・金剛峯寺の「槙」、三輪山・大神神社の「杉」、鞍馬・貴船神社の「桂」、木曾谷・伊勢神宮林の「檜」などの神木のある地を訪れ、「神木とは何か」ととともに「日本のこころ」を問うた国文学者である光田和伸による文章と、これら12種の木(花)を活けわけた花人・川瀬敏郎による作品が、この本『神の木―いける・たずねる』には収録されている。 これまでも「日本の花とは何か」を強く意識して花をいけてきた川瀬さんが今回の神木の花には通用しなかった、といいます。松などはよくいけてきたが、はじめていけた木もあり、むずかしかった、と。 とはいえ、本人がそう言おうと、ここに掲載された12の花はどれも普段は人にみせない表情をみせている。さすがというほかない。

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エロティシズム/ジョルジュ・バタイユ

バタイユについて語ることはむずかしい。 このバタイユの著書『エロティシズム』についても同様である。 本書の冒頭において、バタイユは、「エロティシズムとは、死におけるまで生を称えること」だと言っている。 バタイユは、生殖のための性活動を有性動物と人間に共通の事柄としながらも、その生殖のための性活動とエロティシズムに対立するものとしてみる。つまり性活動そのものが本来的にエロティックなのではないということだ。性活動がエロティシズムとなるには、別に理由が必要なのだ。 「本質的にエロティシズムの領域は暴力の領域であり、侵犯の領域である」というのが、バタイユが問題にするエロティシズムである。エロティシズムは禁止と侵犯という、人間以外の動物には与えられていない二重性のうえではじめて生起する。動物にエロティシズムはない。 その線上で、バタイユは死を存在の連続性と関係付ける。個体はほかの個体と異なっている。個体と別の個体のあいだには不連続な深遠がある。「私たちのあいだのいかなる交流も本源的な相違を消し去ることはできないだろう」とバタイユはいう。しかし、同時に「この深遠は 私たちを魅了することがある」ともいう。ある意味で、この深遠とは死であり、死が私たちを魅了するのだということをバタイユは示している。生によって個に分けられた各個体は死によって連続的な存在となる。 決定的な行為は裸にすることだ。裸は閉じた状態に、つまり不連続な生の状態に、対立している。裸とは交流の状態なのだ。それは、自…

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イデア―美と芸術の理論のために/エルヴィン・パノフスキー

イデア。 強引に簡略化してしまえば、個別の事物の背後に潜む本質であるイデア。 プラトンの哲学に端をなすイデアは、17世紀の初頭のマニエリスムの時代において、芸術家の精神のなかに形成された内的素描として、実際の作品の原型と捉えられるようになる。芸術家は自身の精神のなかであらかじめ形成された内的素描としてのイデアを自身の技術を用いて絵画や彫刻などの外的素描へと移し変える。 このような理論化を最初に行ったのが、マニエリスムの画家であり芸術理論家でもあったフェデリコ・ツッカーリであり、それは1607年の『絵画、彫刻、建築のイデア』という書物のうちにおいてなされたものであることは、すでに「ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)」で述べておいた。 ところが、本書の著者、パノフスキーによれば、そもそもイデアという哲学的概念を生み出したプラトンは決して「造形芸術に対する公正な審判者ではありえなかった」という。「プラトン哲学はやはり、芸術に敵対するとは言わないまでも、芸術に疎遠なものと呼ばれるのにふさわしいものであった」といいます。 その芸術に疎遠なはずのプラトン哲学のイデアがなぜ、マニエリスム期に至っては、芸術活動の根幹をなすものの地位を獲得するに至ったか? 古代から中世を介してルネサンス、マニエリスム、バロックの時代へと、イデアの歴史的変遷を辿ってみせるのが、このパノフスキーの『イデア―美と芸術の理論のために』という本です。 それは同時に、芸術の社会的地位や役割の変化を観察する試…

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