2015年06月27日

ヴィクトリア朝の宝部屋/ピーター・コンラッド

技術とその応用が人間というものを大きく変えます。
マクルーハンが「すべてのメディアは身体の拡張である」と語ったのと同じ意味で、あらゆる技術は単に人間の生活スタイルを変えるだけでなく、人間の思考や物事の捉え方自体を革新してしまいます。

ようするに、常に僕らの思考や価値観はいま現在用いられている技術の影響なしにはありえない、そういうことになります。また、過去に同じように人々の思考を変えた技術の影響に僕らの思考は囚われたままということでもあると思います。



ほとほと困ってしまうのは、僕ら自身がそのことをすっかり忘れがちだというでしょう。

僕らは、あたかも自分たちが自由に考えているように信じているし、普遍的な仕方で考えていると勘違いしています。それゆえに思考や価値観に関してはきわめてイノベーションが起こしにくい。ほかの分野のイノベーションの結果として、思考や価値観の革新が起こることはあっても、直接的に思考や価値観に革新を起こそうとするプロジェクトはどれもアジリティを欠いた状態に陥りやすく、いっこうに成果を生み出せません。

技術が思考や価値観に与える影響に無頓着な僕らは、過去の時代を振り返る際に、ある技術の登場によって生じた人間の思考や価値観の変化そのものを無視して、いまの思考や価値観を過去にも投影してしまい、まったく素っ頓狂な理解を過去に対して当てはめてしまいがちです。
その愚かな過ちを正すためには、いついかなる時代にどんな技術のインストールによって、僕らの思考に変化が生じたのかというバージョン管理をしていく必要があるのだけれど、ありとあらゆる分野で人はバージョン管理に悪戦苦闘しているのと同じように、このテーマにおいても同様のバージョン管理の失敗によって、不要な議論が繰り返されることになり、結果、先に述べたとおりアジリティが犠牲になっているわけです。

そろそろ、マクルーハンのメディア論的思考が当たり前になっていいと思うわけですが、なかなかそうはならないのは、やっぱり、そもそものところ、多くの人が自分たちの「思考」というものについて深く考えないからなんでしょうね。自分たちにインストールされた「思考」というソフトウェアについて。


「ヴィクトリア朝の宝部屋/ピーター・コンラッド」の続き
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2014年08月07日

夢十夜を十夜で/高山宏

いい本があるのではない。いい読書があるだけなのだと思う。

いい本があったら教えてくださいと言われることは多いけど、そんなことは教えられるものではないとなかなか教えられるものではないと思う。いい本かどうかは読書する人次第であって、結局は読む人が自分が読みたいと思う本を読む以外に、いい読書をする方法はないと思います。



勉強のために本を読む場合でも実はおんなじだ。

勉強したい分野にあわせて、読む本を選ぶのはいまどき間違いだと思う。
さまざまな領域で専門分野なるものが瓦解している現在において、ある領域の知を得るためにその領域の専門書を読むというのはナンセンスだということに早く気づいたほうがいいと思います。

本当に何かを学びたければ、好きな内容の本を読み、そこで感じたことを自分の学びたいこと、自分自身の生活や仕事、生き方、思考のほうに引き寄せればよい。はじめから読む本の領域と自分の側の領域があっていることを期待するような”閉じた”読み方をしようとしていたこれまでの発想が間違いです。

どんな本を読もうが、自分の側に引き寄せ、そこから自分にとって意味のあることを学び取る。
専門領域、専門知識なんてものにこだわっている限り、本から学びは得られません(単に頭のなかに学びというのなら別でしょうけど)。

さて、そんな意味で、領域などを超えた「本当の読書」を繰り広げた読書コラボレーションの軌跡が高山宏さん著となっている『夢十夜を十夜で』です。
「著となっている」としたのは、これが夏目漱石の『夢十夜』を題材に、高山宏さんと学生が創造的なコラボレーションを繰り広げた10の講義を元にした書き下ろしだから。この講義が文学部で単に文学作品を扱うという体裁をとらずに、明治期の日本を代表する作家・夏目漱石を「マニエリスム」という視点から、さまざまな領域を横断的に読み込んでいく様子がなかなかスリリングでおもしろい(ここで漱石という名を聞いて、「あー文学の話ね、おれ関係ないや」と思ってる時点で、時代遅れの専門領域の罠にはまってしまっています)。

ただの偶然、ひょっとしたら遊びと感じられるかもしれないが、表向きの言葉の各種の遊びを体系的、強迫観念のようにうみ出す文学をこの四半世紀、マニエリスムの文学と呼んできた。これからさまざまに見られた夢がいろいろに語られる文章を丁度我々に与えられた10コマにおさまるよう10個ばかり一緒に読んでみるが、この10篇を一貫してマニエリスムの文学とは何かを論じることになれば最大の目的は達せられる。

学生たちによる朗読、読んだあとのレポート、そしてレポートに対する高山さんのフィードバック、さらに『夢十夜』以外の本や芸術作品あるいは漱石が生きた時代の社会状況なども絡ませながら夢十夜を一夜ずつ読み進んでいく講義は、この上なく学びで満ちていたであろうことが想像できます。

そんな講義の記録である本書を今回はほんのすこしだけ紹介します。

「夢十夜を十夜で/高山宏」の続き
ラベル:夏目漱石
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2014年08月05日

読書の歴史―あるいは読者の歴史/アルベルト・マングェル

考えるためには「知識」というリソースが欠かせません。
考えるということは、さまざまな知識を組み合わせ、組み立て、その集合・レイアウトから、新たなストーリーや価値、企画や謀略などを生み出す活動に他ならないのだから。その活動の質を左右するものの1つが、知識というリソースをどれだけ有しているか、また、有したリソースにどれだけ可用性を担保できているかということでしょう。
思考のための訓練には、日々、そうした知識のアーカイブをどれだけ進めているかということも含まれるはずです。



そうした観点において、知識をアーカイブし、かつ、その可用性を高く維持するものとしての書籍の地位は、現在においてもさほど低くはなっていないと感じます。

インターネット時代となり、いつでも手元で容易に情報が引き出せるようになっても、はたまた、さまざまなコミュニティにおいて開かれた形での勉強会やセミナー、ワークショップなどで知を有するもの同士がその知をつなげて新たな価値をその場でつくりだせるような時代となっても、知識を思考につなげるという観点においては、いまなお書籍というメディアの果たす役割はほかの何かに劣るようにはなっていないと思っています。

特に個人の思考力を高めるという観点においては、これほど強力なメディアはいまだ他にはないでしょう。
最近、あらためて「独学力を鍛えることが大事!」と思っているのですが、この独学力があるかどうかって、読書をどれだけできるか、読書をどれだけ思考につなげられるかということのほかならないはずです。

学校で教えてもらうとか、複数人が集まる勉強会の場で学ぶとかいうのでは、独学力は身に付きません。
また、読書をするのでも欠いてあることをただ鵜呑みにしてるだけなら、同じく独学力は身に付かない。
では、どうすると読書を独学力につなげられるかというと、自身の現在につなげる方向で勝手な読み方をして、実際に読んで得た知識を自身の現在につなげる創造的な活動をしてみることです。

この勝手活動こそが独学です。
ほかの誰にも通じなくてもよい自分勝手な学びややり方を好き勝手に得たり、組立てたりすることが独学です。
この力を最近、なかなか、みんな持っていないんだよなーと感じます。勝手に自分流の方法を見つけ、磨いていく力が…。

「読書の歴史―あるいは読者の歴史/アルベルト・マングェル」の続き
ラベル:読書 読者 知識
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2014年07月11日

文学におけるマニエリスム/グスタフ・ルネ・ホッケ

ともすれば「何もかも飽和状態で、全部ある」ように見えて、それでいて、型(=既存の領域、枠組み)にはまった思考がそう感じさせるだけで、実は手つかずの隙間領域がそれを隙間と呼ぶのもはばかられるほど広大にある。

つまりは、現実は何も行き詰まっていないのに、凝り固まった思想がそう感じさせているという似非袋小路の状況。

それがいまの状況だろうということは、1つ前の記事で紹介した高山宏さんと中沢新一さんの対談集『インヴェンション』でも語られていました。


▲今回読んだ、ホッケの『文学におけるマニエリスム』。分厚い。

そんな状況下で、似非袋小路を打破して面白いものをつくり出す(イメージできるようにする)ためには、2つあるものの間を来るインヴェンション、そして、まさに本来異質である2つのものを対置するためのアルス・コンビナトリア=組み合わせ術が必要なはず。

そんな似非袋小路の迷宮からの脱出を考えるための十分なヒントが、このマニエリスムを研究したホッケの書にはたくさん詰まっています。

「文学におけるマニエリスム/グスタフ・ルネ・ホッケ」の続き
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2014年07月09日

インヴェンション/高山宏、中沢新一

前回の記事で高山宏さんの本を紹介したら、なんだか高山さんの本が読みたくなって週末にAmazonで2冊ほどポチっとしました。届いてさっそく読みはじめて、さくっと読み終わったので紹介。
読んだのは、高山さんと中沢新一さんとの対談集で、わりと最近発売された『インヴェンション』



高山宏さんと中沢新一さん。どちらも僕の好きな著作家なんだけど、はじめはこのお2人の対談と知って、正直ピンとこなかったんですね。あんまり2人が会話する際の接点みたいなものが思い浮かばなかったからです。

2人の友達がいて、1人1人とはよく話すんだけど、3人で会って話したことはない。だから、その2人が会ったら、どんな話をするのか想像もつかない。なのに、突然、その2人が話している状況に出くわした…。
この本を読んでいたときの僕の助教は、そんな状況に近いかもしれません。

高山さん、中沢さん、いずれの書く本も僕の興味をとてもそそる領域なのですが、どうもそれぞれが書く内容をうまく結びつけることができなかったのがこれまででした。僕はそれぞれ片方ずつとの会話しかしてきてなかったんです。
この本を読んでみるまでは…。

そんな2人が会話するところをはじめて目にする。これまで異なる領域に属するものと思ってたものが融合する瞬間に立ち会うようなものなんですね。
まさに、そういうところにこそ、インヴェンションが生まれてくる。インヴェンション=発明ね。

高山 発明という観念を、ちょっといまあらためて源内的に突き詰める必要が出てきたね。つまり、一見何もかも飽和状態で、全部あるのだけど、じゃここからどうするか。
中沢 イノヴェートというやつですね。
高山 イノヴェートというよりも、やっぱりインヴェントだね。いい言葉だよね。もとはインヴェニーレ、2つあるものの間を来るという意味だよね。
高山宏、中沢新一『インヴェンション』

イノベートよりインヴェント。
イノベーションよりインヴェンション。

「2つあるものの間を来る」という意味のインヴェント。
まさに、僕にとってそれぞれ別々に読んでいた高山さんと中沢さんの2つの間をとおって、新たなものがインヴェントされたという感覚をもったというのが、まずこの本を読んでの何よりの感想です。


「インヴェンション/高山宏、中沢新一」の続き
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2014年06月14日

文学とテクノロジー/ワイリー・サイファー

テクノロジーが、世界でいま起こっていることの直接の現場へと人間が参加することを妨げる。
方法が、問題に正面から立ち向かおうとする人間にとって最大の障壁となる。

テクノロジーと方法は、そんな風に人を世界から疎外された存在としてきた。
科学においても、芸術においても…。

ワイリー・サイファーの『文学とテクノロジー』という本は、19世紀における行き過ぎたテクノロジー主義、方法主義が芸術家たちをいかに現実から引き離すことになったかというテーマを追った一冊です。



前回の「マニエラ(技法)の核心 〜僕らは結局、自分たちのこれからをスケッチしながら作っている、この「世界史的な危機のさなか」において〜」という記事では、まさにサイファーが『文学とテクノロジー』のなかで扱っているのと同様の「技法」というもののもつ意味をあらためて考えてみました。

組み合わせ術にせよ、隠喩の技法にせよ、それは新しいものを創造を可能にする根本的技法であるにせよ、それは膨大なリサーチを行ったり、膨大なデータに向き合い、整理分類をしながら思考したりといった、ごくごく当然の創造のための苦悩を抜きにしては、何も生み出せないはずです。
技法というものがそういう苦悩に没頭することができる環境こそを用意してくれる発想の技であり、決して、苦悩から人を解放してラクに結果が生み出せるようにするものではないことを、僕らはしっかり受け止めて創造の技をふたたび手にする必要があるのではないでしょうか。

僕らは技法というものをすっかり捉え間違えていて、それが何らかの自動機械のように材料を入れてガラガラと回せば希望する成果が出てくる魔法の箱のように感じたりしてしまいがちです。
あるいは、成果などには最初から興味がなくて箱に材料を入れてガラガラ回すこと自体を楽しむ人たちもいます。
そのことによって、自分たちが求める目的=成果自体から疎外されているということにも気づかずに。

まさに、いまの僕らの状況と同じようなことが19世紀の芸術家たちのあいだにも起こっていたことを指摘したのがサイファーのこの一冊です。
サイファーは19世紀を「科学と芸術いずれの世界にあっても、絶対的なものと、一定の法則の上に基礎づけられた理論を帯びたすべての方法に没頭した時代」であったといいます。

すでに40年以上も前に書かれた本ですが、現代においても重要なキーワードであるはずの"参加"や、"自分ごととしての問題へのチャレンジ"といった課題について、テクノロジーや方法というものの使用について深く反省を促すことで、どうすれば参加できるのか?、どうすれば自分ごととして問題に向き合うことができるのか?ということを非常に本質的なレベルから考え直すきっかけを与えてくれています。「文学とテクノロジー/ワイリー・サイファー」の続き
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2012年09月25日

誰が世界を変えるのか ソーシャルイノベーションはここから始まる/フランシス・ウェスリーほか

昔から複雑系の科学の考え方が好きです。

たがいに関連しあう複数の要素がそれぞれ個々に局所的(ローカル)にインタラクションしあうなかで、大局的(グローバル)にもなんらかの振る舞いを創発させる複雑系は、その全体としての振る舞いが、個別の要因、部分からは明らかでないという不確実性、予想不可能性に、僕はとても惹かれます。



写真は、すこし前に3331 Arts Chiyodaでみた藤浩志さんの展覧会で撮った1枚ですが、藤さんが主催する、子供たちがおたがいにいらなくなったおもちゃを交換するソーシャルなシステム「かえっこ」で起こっていることも、ある意味、複雑系のシステムのなかの創発的な出来事のように感じます。

その意味では、もともとウェブの仕事に関わっていた経歴もあるし、長年、こうしてブログやソーシャルメディアを使ったコミュニケーションもしてきているので、そもそも現在のソーシャル的なものがグローバルにつながりあった複雑な社会と深く関係していることだとは感じていましたが、最近、デュポン社とマギル大学が共同で設立したソーシャルイノベーション・シンクタンクで、ソーシャルイノベーションについての研究を行ってきたフランシス・ウェスリー、ブレンダ・ツィンマーマン、マイケル クイン・パットンの3人がまとめた『誰が世界を変えるのか ソーシャルイノベーションはここから始まる』という本を読んで、さらにその考えが強くなりました。

「誰が世界を変えるのか ソーシャルイノベーションはここから始まる/フランシス・ウェスリーほか」の続き
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2012年09月14日

ワーク・シフト/リンダ・グラットン

ひさしぶりに書評記事を書いてみようと思います。
取り上げるのは、ロンドン・ビジネススクール教授のリンダ・グラットンが2025年をターゲットとして「働き方の未来」を考察した1冊『ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉』です。
とにかく必読だと思います。

ワーク・シフト

この本に関しては、すでに十分すぎるほど話題にはなっていますし、いろんな方が紹介&絶賛している1冊です。販売のほうも好調のようです。

ですので、あらためて僕が紹介するまでもないと思わなくもありません。
けれど、この本が扱う「働き方の未来」というテーマに関しては、僕自身、積極的に考えたり、実践的に動いたりもしたいと思うと同時に、いろんな方と話をしていきたいと感じています。
だから、ここで書評記事という形をとって書いてみたいのは、単純な内容の紹介というより、この本を読みつつ、あらためて感じた「未来の生き方」についての僕自身の考えです。

「ワーク・シフト/リンダ・グラットン」の続き
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2012年03月05日

モナドの窓/ホルスト・ブレーデカンプ

普段、人間観察をしていて感じることの1つに「考えることが苦手な人というのはそもそも表現することが苦手な人である場合が多い」というのがあります。
表現のための素材としての言葉や情報を知らなかったり、素材はもっていてもそれを組み合わせて別のアイデアを生み出すための組み立て方、つまり編集術が拙かったりすると、自分自身が考えていることがうまくイメージできなくて、自分の考えを展開させて論理立てて構築していくことができなかったりします。

意外とみんな気づいていないのかな?と思うのは、考えることとはすなわち書く/描くことだということです。
書く/描くためには書こう/描こうという気持ちだけではなく、具体的に書く/描くための表現技術が必要です。表現するとは、他人に対して何かを伝えるために表現する以前に、自分が理解するために必要なものです。表現できないばかりに理解できず、表現できないばかりに考えを展開できないことというのは多々あります。

江戸時代までの人びとが使った表現の方法に「列挙」という方法がありますが、これは様々なものを並び上げ、数え上げる方法で、絵画の分野では「百○図」や「○○尽くし」といった絵として表現されるものです。ただ、この列挙の方法には実はいまの僕らにとっては当たり前な接続詞が使われず、接続詞によって表現可能な関係性が表現できないのです。
だから、列挙の表現を用いていた人びとには、理由や原因と結果だったり、所有や被所有という関係だったり、逆説や反論のような論理的な関係を考えることができませんでした。
そうした論理的思考を欠いた状態では、とうぜん科学的思考は不可能です。科学的思考を可能にするためには、論理学を可能にする表現がすでに存在する必要がありました。絵画でいえば、「百○図」のような絵ではなく、前後や距離感の関係が描かれた遠近法的絵画表現が存在しているように。

1つ前の「「電子書籍」という概念を越えてテクストの新しい形を模索すること」で話し言葉、手書き文字による写本、印刷された書籍、電子書籍やWebページを含むインターネットを通じてアクセスされるデジタルドキュメントという流れのなかで、いかに人間の思考スタイルや社会の様式が変化してきたかに焦点をあてたのもまさにおなじことです。
デジタルドキュメントがあってはじめて可能な表現方法は、印刷本の時代とは別の思考を可能におり、その思考が確実に社会のあり方を変化させています。

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その思考とメディアの関係を明らかにした1人がメディア論のマクルーハンですが、それよりもはるか以前の17世紀後半から18世紀のはじめにかけて、すでにそのことに気づいてみずから実践的に思考や知的作業のための新しいメディア開発に注力していた人がいました。

17世紀後半から18世紀初頭にかけてデカルトやニュートンの同時代人として活躍した哲学者にして数学者であるゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツがその人です。

“ライプニッツによれば「マテリアルのイメージ、あるいは痕跡」を伴わない、かくも抽象的な思考は、存在しない。”

思考が必ず伴う「マテリアル、痕跡」の存在をライプニッツは決して見失わず、さまざまな痕跡の種類によって可能な思考が異なることを自覚していました。
本書は、そんなライプニッツが生涯を通して追求した、新しい知的メディア研究に関するプロジェクト「自然と人工の劇場」について論考した一冊です。

「モナドの窓/ホルスト・ブレーデカンプ」の続き
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2011年09月05日

King Of Vintage Vol.3 : Heller’s Cafe Featuring Larry’s Collections Part 2

ついに出ました。待ちに待ってました。
先日9月3日の土曜日に『King Of Vintage Vol.3 : Heller’s Cafe Featuring Larry’s Collections Part 2』が発売されました。

前作の『King of Vintage No.1:Heller’s Cafe』が販売後まもなく完売したという伝説をもつ、アメリカにおけるヴィンテージクローズディーラーの草分け的存在であるラリー・マッコインの膨大なコレクションを紹介する写真集の第2弾です。
今回も前回同様、ラリー氏のコレクションの中から厳選された218点の激レア・アイテムが並んでいますが、そのほとんどが19世紀後半から1940年代くらいのきわめて古いワークウェアでどれも個性的な表情をしていて魅力的です。

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ラリー・マッコイン氏は、シカゴにHeller’s Cafeというショップを構える世界ナンバー1といわれるヴィンテージウェアのディラーです。日本では、WAREHOUSEとのコラボレーションで展開する同名ブランドヘラーズカフェ Heller’s Cafeでも知られています。

「King Of Vintage Vol.3 : Heller’s Cafe」の続き
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2011年08月23日

アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育/バーバラ・M・スタフォード

分けることが分かることだとすれば、印刷文字以降の人びとの思考スタイルほど、紙の上でさまざまな物事を分けて配置し、その位置を定めることで物事を定義することに傾いた時代はない。
ある言葉は辞書に記された定義のように現実の世界を正確に映しているとでもいうように、人びとは実世界から切り離された涼しい会議室のなかで、あーでもないこーでもないと議論をし、定価で買える間違いも不良もないブランド品を求め、いつでも同じクオリティの品をいつでも同じ価格で購入できるようなモノ−記号の結びつきを疑わなかった。高いモノはいいモノで、価格はその品の価値を反映しているし、言葉はそれが指し示す対象をいつでもぶれることなく指し示しているかのように信じていた。

ところが、どうだろう? このあらゆるテクストが超高速でソーシャルメディアのTLやウォールの上を流れては消えるおしゃべり化する社会で、何かこれは確かなものだといえる。定義や定価があるだろうか? ある言葉はいつでもおなじことを指し示し、誰に話しても同じように理解されるような確かさをいまだに持ち続けているだろうか?
そんな先行きが不透明であやふやになりつつある世の中で、インフォグラフィックスやプレゼンテーションスキルやユニバーサルデザインのような「わかりやすさ」のための手業を人びとが求めるのは、まさにそうした確かさの時代の終わりにさしかかった過渡期の世界の象徴的な反応ではなかろうか?



言葉のアクロバティックな応酬は見事な芸術と機械仕掛けの「いかさま芸」の間をあざとく揺れる。自らの画技をこれ見よがしに見せつける絵の画像と同じように目くるめくような能弁に酔う曲芸じみたお喋りは悪趣味とされた。

まさにユーザーフレンドリーなUIや、聴衆を魅了してやまないプレゼンテーションなどが目指すところは、この機械仕掛けの「いかさま芸」と変わらない。ただ、その「目くるめくような能弁に酔う曲芸じみたお喋り」がここでスタフォード女史がいうような18世紀当時とは違って「悪趣味」とされないのは、まさに時代の矛先が正反対を向いているからではないかと思う。

既にして17世紀の宗教闘争の中で、北方プロテスタントたちが抽象的な読み書きを目指したのは、人をあざむく語、人を惑わせる聖像に拠る「ローマ的伝統」を打破しようとしてのことだった。

17世紀の北方プロテスタントたちが抽象的な読み書きを目指したのに対して、僕らの時代はその抽象的な読み書きの終わりに向かおうとしている。その先にあるのは、人をあざむくおしゃべりや人を惑わせるイメージの多様で豊穣な世界だと思われる。
「幾何学的な図形、抽象的なカテゴリーによる分類、形式論理的な推論手続き、定義、また、包括的な記述や、ことばによる自己分析」。こうしたものがテクストによって形づくられた思考スタイルと断じたのは、先日紹介したウォルター・J・オングである。そうしたテキスト偏重の思考スタイルが18世紀の末に葬った非テクスト的表現としての視聴覚的イメージがもっていた猥雑な力に光をあてるのが本書の著者バーバラ・M・スタフォード女史である。
テクストの力が衰え、世界を知る術を見失って人びとがうろたえ、困惑しつつあるいま、スタフォード女史が光をあてる視聴覚的イメージを最大限に活かしたエンターテイメントな視覚教育の力を見直すことも必要であるだろう。

「アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育/バーバラ・M・スタフォード」の続き
ラベル:視覚芸術 科学
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2011年08月19日

声の文化と文字の文化/ウォルター・J・オング

ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』。原題は"Orality and Literacy"。
当ブログではここ最近何度も取り上げてきたこの1冊を今日はあらためて紹介してみようと思います。



著者自身が「序文」で書いているように、この本の主題はオラリティー(声の文化)とリテラシー(文字の文化)の違いを明らかにすることです。
あるいは、すでに文字があることやそれを使って生きるということに親しみすぎてしまって、もはや文字がない生活や思考がどういうものなのか想像もできなくなっている僕ら現代人にも、文字のない声の文化における思考や言語表現がどのようなものであるかを知れるようにすることが本書の主題だともいえます。

実際、文字を使って思考し生きることに親しみすぎてしまっている僕らは、文字をもたない人びとがどれほど自分たちとは異なるかを想像することもできません。

例えば、こうやってブログを書くことに関してもそうです。文字がなければブログが書けないのは当然としても、実は文字がなければ文章でそれを表現できないどころか、同じような内容で考えることさえできないことを僕らは見過ごしています。

僕自身、実際、文字をたよりにせずに、いつも書いているように長文のブログと同じ内容を話せるかといわれると絶対無理だと思います。似たような事柄を含む話はできると思いますが、ブログで書いているような文体で話をすることはまず不可能です。よく実際に会ってみるとブログを読んでいる印象と違うと言われることがありますが、僕からすればそんなことは当たり前なんじゃないかと思うのです。文字で書くことと声で話すことはおなじようにことばを扱うのでもまったく修辞法が異なると思うし、修辞法が異なれば思考のスタイルは変わって当然だと思うからです。
とにかく僕はブログを書くように話すことはできません。何よりブログでやるような引用という方法を採ることができません。それは単に他人の言葉を記憶から正確に繰り返すことだけができないというのではなくて、たとえ思い出そうとする言葉が自分が過去に発したことであっても正確に反復することも不可能という意味です。

かつて歌われたもろもろの歌に対する口誦詩人の記憶力は活発である。「10音節の詩行を1分間に10行から20行」歌うユーゴスラヴィアの吟遊詩人に出会うのは「めずらしいことではない」。しかし、録音された歌をいろいろ比較してみると、それらは、韻律のうえでは規則的であるけれども、おなじやりかたでは二度と歌われなかったことがわかる。基本的には同一のきまり文句とテーマが何度も使われていた。しかし、そうしたきまり文句やテーマは、たとえ同一の詩人によって歌われるときでも、聴衆の反応、詩人の気分、その場の雰囲気などの社会的、心理的要因にあわせて、歌うたびごとに違ったふうに縫いあわされ、「綴りあわされた」のである。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

オラリティーの世界に生きる詩人は同じ歌を二度と歌わない。
もちろん、正確に同じ内容を歌うことは文字という記録の道具のない状況で記録のみを使って歌うことの限界もあってむずかしいというのもあります。ですが、それ以上に、正確に同じ内容であることに意味=価値があるのは、あくまで文字という記録の道具があることを前提にしているということを僕らは忘れがちです。同じように歌えないと同時に、歌う意味もないのです。吟遊詩人が同じように歌えない歌を、どんな聞き手があれとこれとは違うだとか同じだとか正確に判定することができるでしょう。
正確に同じであるということに、そもそも意味がないのです。

前のものと今のものが同じであるかどうかは、ある程度の長さをもったことばが対象になるのであれば、もはや文字の助けを借りなくては不可能な判断であるということを、文字に慣れ親しみすぎている僕らはわかっていません。引用のように同じことばを正確に反復することに意味を見出すのは、書き言葉以降、もっと言えば同じ本の私有が可能になった印刷技術以降の文化に生きる人びとだけなのです。

こうした例をはじめとして、僕らはあまりに文字があることに慣れすぎてしまっているがゆえに、自分たちの思考をどれだけ文字の影響を受け、それに限定しているかがわからなくなってしまっています。そうした自分たちの生活や思考に対する文字の影響を知るためにも、本書で明らかにされる文字のないオラリティーの世界で生きる人びとの思考に目を向けることは非常に価値あることだと僕は思っています。いや、今後、テキスト以外の音や映像によるコミュニケーションがますます盛んになる情報空間においては、こうした声の文化的なものも予想される以上、本書は必読の一冊だと思います。

そんな一冊を以下ではもうすこし紹介していきます。


「声の文化と文字の文化/ウォルター・J・オング」の続き
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2011年06月22日

中世の覚醒/リチャード・E・ルーベンスタイン

長い間、西ヨーロッパから失われていたアリストテレスの著作は、レコンキスタでムスリムの支配から脱した12世紀のスペインで再発見されます。実に1000年近く、西欧の人々に忘れられていたギリシアの哲学者の思想は、当時のキリスト教者にとっては異教の敵であったはずのムスリムの人々の手で守られてきたおかげで、西欧の人々の視線のうちに復活したのです。



それが中世スコラ学を生む原動力ともなり、さらには近代の科学革命にもつながる西欧思想の源流ともなった「アリストテレス革命」のはじまりでした。同時に、それは古代と近代のはざまで実現した「信仰と理性が手を結んだ希少な時代」でもあったのです。

ヨーロッパ中世の歴史に疎い僕らはつい、ヨーロッパの中世というと「暗黒の時代」だと思い込みがちです。
しかし、実際には、本書で著者が明らかにしてくれたとおり、ヨーロッパ中世の1000年がまるごと暗黒に包まれた時代というわけではありません。少なくとも本書で「知の革新」「信仰と理性の蜜月」の時代として描かれた12世紀から13世紀に関しては、近代化を進めた啓蒙の時代とは別の考え方で、「蒙(くら)きを啓(ひら)いた」時代であったことが本書を読むとわかります。

アリストテレス革命を再現することによって、私たちはおのれがコペルニクス、ガリレイ、アダム・スミス、トマス・ジェファーソンの子どもであるにとどまらず、アリストテレスの子どもであることを理解する。そう、私たちは、近代的なるものの欠陥が明らかになるにつれてより興味深く啓発的に思えてくる、中世の伝統の後継者なのだ。

アリストテレスを再発見し、それをキリスト教の信仰と同居させようとした中世のキリスト教者の知的格闘があればこそ、その後の知的発展があったのだということがこの本を読むと納得できます。
そして、著者もいう「近代的なるものの欠陥」が近代のはじめに中世的なものを無理やり捻じ曲げて忘れさせたことにも由来しているであろうことにも気づかせてくれる。そんな点で、西欧の中世からは遠く離れた僕たちにも、無縁とは思えない、とても興味深い一冊でした。


「中世の覚醒/リチャード・E・ルーベンスタイン」の続き
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2011年06月20日

知はいかにして「再発明」されたか/イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン

知を保存・蓄積し、他者や別の世代に伝えたり、あるいは知識を利用可能にすることで社会に働きかけることを可能にする「知の装置」。西洋の歴史においては、その知の装置が何度か刷新され、その度ごとに知識の価値に変化か起きているといいます。



今回紹介するイアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートンによる『知はいかにして「再発明」されたか』は、そんな西洋における知の保存や伝達、可用性を可能にするための装置の変遷とそれによる知の再発見の歴史を紐解いた一冊です。

知の生産や保存や伝達が、経済や文化や技術の広範な変化を受けて、根本から問い直されるのははじめてではない。わたしたちは今、どうすれば文化の再生産を確かなものにできるのだろう。
(中略)
知の総体を組織化して伝達するには、どのような制度を作らなくてはならないのか。
イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発明」されたか』

この一冊で著者らは、西洋の歴史に登場した6つの知の装置=制度の変遷に目を向けることで、「どうすれば文化の再生産を確かなものにできる」のかという問いに応えうる新たな「知の装置=制度」の可能性を考察するためのヒントを与えてくれています。

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ラベル:図書館 大学
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2011年03月15日

堕落論/坂口安吾

昭和21(1946)年4月、坂口安吾は『堕落論』を書きました。

半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。
坂口安吾『堕落論』

昭和天皇が玉音放送をもってポツダム宣言受諾を表明し、日本が降伏したのがその前年の8月15日です。

この本は戦争直後の社会で話題となりました。
先の引用したとおり、「半年のうちに世相は変った」ではじまる、この短いエッセイは、一夜にして価値観を変更させられた日本人の心を打ったのでしょう。

僕は昨夜、この安吾の『堕落論』をふと思い出しました。
この短いエッセイの後半に書かれた、

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
坂口安吾『堕落論』

ということばを。

もちろん、僕がそれを思い出したのは、いまの僕らもまた「一夜にして価値観を変更させられた日本人」に他ならないからでしょう。

「堕落論/坂口安吾」の続き
ラベル:坂口安吾 震災
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2011年03月09日

形の冒険 生命の形態と意識の進化を探る/ランスロット・L・ホワイト

形を思考すること。形を思考の対象にして、その形成がどのようになされるかに思考を集中させること。
この本の著者ランスロット・L・ホワイトが指摘しているのは、そのことです。

この場合の「形」とは、何も目に見える形ばかりを指しているのではありません。
目に見えにくいものも実は形を持っています。僕らはそれをつい日常見逃してしまいがちです。
でも、最近はソーシャルメディアの普及によって、「つながり」や「関係性」のような概念も普通の人が普通に捉えられるようになってきています。この概念というのも形です。

僕は「透明な形をデザインする」という表現をよく使いますが、人の動きを促すような作法やルールのような形もあります。
言葉は形ですし、思考や概念もまた形です。感情も、知識も、それぞれの形を持っています。

一方で、そうした形に対する思考がいま欠けていると感じます。

特に形を生み出すプロセスに対する思考は著しく欠けています。形を静止し固定したものとしてのみ扱い、思考や概念のような形がどのように生じてくるのか、感情や言葉という形がなぜ生まれるのかということを問わず、人の思考や感情を固定してあるもののように扱ってしまいがちです。
著者が指摘しているのもその点で、著者は結果としての「形態形成プロセス」に着目することが必要だと解きます。

基礎デザイン学を打ち立てた、向井周太郎さんは『デザインの原像―かたちの詩学2』のなかで、「形」ということばの「ち」を「いのち」や「いかづち(雷)」「をろち(蛇)」の「ち」同様の、自然の激しい根源的な力をしめす古語としての「ち(霊)」ではないかと言っています。おもかげや母型としての「型」に、自然の根源的な力=霊を宿したものが「形」というのですが、この型から形を生成するプロセスへの視点が僕らにはすこし欠けているところがあって、あたかも確固たる形ばかりが存在するかのような考え方ばかりが見受けられます。

そうした状況に対して、形を固定したものとしてばかり捉えたのでは、個別の形態の違いにばかり囚われてしまい、世界がバラバラに存在しているように感じられてしまうと失望を描いたのが、本書の著者であるランスロット・L・ホワイトです。

世界は現在、ばらばらに分裂している。国際的にも社会的にも調和は失われ、過去の伝統と現在の経験と生産的行動の3つのバランスも崩れている。知の統合もなく、人間自身に対する適切な洞察も欠けている。

いや、正確には、著者が失望したのは現在の状況に対してではありません。本書は、1954年に書かれているからです。つまり、今から60年以上も前に、形に対する視点の乏しさに失望しているのです。もちろん、その望みのなさは60年前以上に悪化しているように感じられます。

著者は単に失望するばかりではなく、先に書いた「形態形成プロセス」という用語を用いて希望を与えてくれます。

形が生まれてくる形態形成プロセスに着目することで、科学がまったく別のものとして看做してそれぞれに研究分野の異なる物質、生命、精神の分野を統合するような視点が生まれてくるだろうという仮説を提唱しているのが本書です。

「形の冒険 生命の形態と意識の進化を探る/ランスロット・L・ホワイト」の続き
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2011年01月21日

トマス・アクィナス 『神学大全』/稲垣良典

2011年も早1月21日になってしまいましたが、今年はじめてのエントリーです。
最初のエントリーを何にしようと迷っている間に、21日にもなってしまったので、もういい加減、何でもいいから書こうと思い、まずはこの本『トマス・アクィナス 「神学大全」』の紹介からはじめることにしました。

よりにもよって、何故トマス・アクィナスなのか?
13世紀を生きた、一般的には中世スコラ学の大成者として知られるトマス・アクィナスを、いま何故キリスト教などに関わりのない東の島国の21世紀を生きる僕が取り上げるのか?

それには2つの理由があります。

1つは、まだグーテンベルクの印刷革命がおこる以前で、建築物がポータビリティのない情報メディアとして存在していた中世という時代において、その時代において情報がもっとも集中していたであろう機関の1つである教会において、スコラ学が後世の文学に影響を与えたものの1つのジャンルとしての「スンマ(大全)」という百科全書的な知の形式の代表作である『神学大全』を著したのがトマス・アクィナスであるということが1つ。
印刷物としての書物はまだなく、写本と音読の時代であった中世において、教会という情報の伝達の場に属しながら、後の百科全書にもつながる大全という文学形式で知の模索を行なったトマスという存在を知ることで、この印刷時代もすでに超えた電子テキストの時代の知の偏りとその原因について何らかの理解が得られるのではないかと思ったのでした。

もう1つの理由は、昨年最後のエントリーとして紹介した「メディア論―人間の拡張の諸相/マーシャル・マクルーハン」の著者であり、今年生誕100周年を迎えるマクルーハンがその最後の著作である『メディアの法則』を、このトマスの『神学大全』に憧れて書いたのだと知ったから。マクルーハンの『メディアの法則』に関してはまた後日紹介したいと思っていますが、その優れた著作の憧れの対象としての『神学大全(スンマ)』とは何か? それを知りたかったというのが2つ目の理由です。

とはいえ、その『神学大全』なる書籍は、「第一部 神と神学について」「第二部 倫理と人間について」「第三部 キリストについて」の3部構成から成り、日本語版では45冊にもなる大著であり、しかも、1960年からはじめられた訳出作業がいまだ未完であり、現在も全巻が出版されていないという、おいそれと気軽に手は出せない代物です。

そこでまず手始めに読んだのが、この稲垣良典さんの『トマス・アクィナス 「神学大全」』
しかし、この本を読んで、トマスは僕のそれほど多くはない知的のヒーローのリストにすぐに加わったのです。

トマスの探求は、…近代思想の影響下に生きるわれわれが、操作や処理に便利な知の段階で探求を完結させようとする傾向があるのに対して、言語が一義的な明晰さを失う限界を超えてまで探求を徹底させるものである

といった一文などは、『神学大全』とはそのタイトルからして正反対の方向性をもつかのように感じられる『無神学大全』という著書もある僕のもうひとつの知的ヒーローであるジョルジュ・バタイユを彷彿とさせるものです。「言語が一義的な明晰さを失う限界を超えてまで」という知の探求の姿勢は、言語による理解ですべてが事足りるようなコンビニエンスな知の消費が当たり前になっている現代の知の在り方と比較すると何ともまぶしい限りで、それだけでも僕のトマス・アクィナスという人への興味は高まったのです。

「トマス・アクィナス 『神学大全』/稲垣良典」の続き
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2010年12月31日

メディア論―人間の拡張の諸相/マーシャル・マクルーハン

2010年大晦日。
今日は、1980年12月31日に亡くなった、カナダ出身の英文学者であり、文明批評家であるマーシャル・マクルーハンの没後30年にあたります。
そして、明日になれば、1911年生まれのマクルーハンの生誕100周年を迎える。

その節目の今日こそ、これまで何度となく取り上げてきたマクルーハンの『メディア論―人間の拡張の諸相』を紹介にふさわしいのではないかと思い、このエントリーを今年の最後のエントリーとして選びました。

本書でマクルーハンが「話されることば」や「書かれたことば」、「道路と紙のルート」、「数」、「衣服」、「印刷」、「漫画」、「印刷されたことば」、「写真」、「新聞」、「自動車」、「広告」、「タイプライター」、「電話」、「蓄音機」、「テレビ」などのさまざまなメディアの変遷を追いながら人類の歴史をひもとくようにして語るのは、一貫して「すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである」ということです。
この本はメディアという視点から捉えた人間の変化の歴史を描いたものであり、メディアによって拡張されることでそれ以前の人間とは異なる生物に変化する「ヒト」と総称される生物群の変化の様相を綴ったものだといえるでしょう。

そう。この本を読むと、あらためて「人間」と僕らが一言で呼んで、あたかもそのすべてが自分たちと瓜二つの思考や感じ方をするはずだと決め込んでいる生物群の多様さに驚かされます。
尻尾がある動物と僕らが異なるように、遠近法で世界を見るようになってしまった僕らがそれ以前の人間とことばるのだということを僕らは普段忘れてしまっています。そんな僕らが忘れてしまっている事柄をあらためて僕らに見せてくれるのが、この『メディア論―人間の拡張の諸相』という本です。

本書の「はしがき」でマクルーハン自身が書いているのですが、本書の出版時にマクルーハンは編集者にこんなことを言われたそうです。

編集者が困惑して言ったのは、「あなたの素材の75%が新しい。本として当たるためには10%以上新しいことがあるようではいけない」ということであった。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

その編集者の感じたことはいまなお多くの人が感じることではないでしょうか。
そう。この本に書かれたことはいまだに「75%が新しい」のではないかと。

それでは、すこし内容を紹介することにしましょう。

「メディア論―人間の拡張の諸相/マーシャル・マクルーハン」の続き
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2010年12月27日

ハーモニー/伊藤計劃

「僕らはきっと、とっとと個人であることをやめなくてはいけないのかもしれません」

そんなことを、僕は1つ前のエントリー「「個人」という古い発明品」で書きました。
そして、そんな一言が、僕をこの故・伊藤計劃さんの『ハーモニー』を読むことに誘ってくれました。

<theorem:number>
 <i:こどもがおとなになると、言葉になる>
 <i:おとながしびとになると、泡になる>
</theorem>

いや、それは正確じゃない。より正しく言うのなら、

<rule:number>
 <i:こどものからだは、おとなになるまで言葉にしてはならない>
 <i:おとばは死んだら、泡になるまで分解されなくてはならない>
</rule>

という禁止で語られるべき。」

そう。これはETML 1.2というマークアップ言語で書かれた本。
この”E”が何かはここでは明かしません。実際に読んでみて、自分で見つけて欲しいと思うから。

とはいえ、このETML 1.2でマークアップされているってことに、僕はそれほど興味がひかれたわけではありません。
僕はもうすこし違うところに興味をひかれて、この本を読み進めたのでした。

「ハーモニー/伊藤計劃」の続き
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2010年09月06日

経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ/エドワード・S・リード

「いわゆる情報化時代のアイロニーには、当惑をおぼえざるを得ない」。

この本の著者であり、アフォーダンス理論の創始者J.J.ギブソンの流れを引くエドワード・S・リードでそう書いて、「経験のための戦い」をはじめます。

情報を処理し伝達するためのテクノロジーはここ数十年で急速に進んだが、テクノロジーのこの進歩にもかかわらず、人々のあいだの、意味にみちたコミュニケーションは、はなはだ退化しつつある。

と続けながら。

この情報化時代にあって、人々が経験から積極的に意味を形作り、経験から知を獲得することから離れて、すでに加工済みのテキスト情報や動画情報などを受動的に受け取ることやその情報の加工や処理ばかりに、時間や労力を費やすことを、著者は問題にするのです。
それが日常生活のみならず、教育・学習の場である学校でも、知的生産の場であるはずの職場でもいえ、人々がますます意味を作り出すコミュニケーションから、あらかじめ意味が決定されたデータを右から左へ移動させることに終始するという、非生産的な活動の時間が増えることが問題だというのです。



ただ、著者のリードは「処理情報に本来まずい点はなにもない」とも書いているように、情報技術に対して戦いをはじめようとしているのではありません。そうではなく「まずいのは社会だ」とリードはいいます。

つまり、だれもがどこでも利用できるような類の、ほんのちっぽけな量の処理情報をつくるために、ひどく多額な金を費やし−また、測れないほどの時間をかけて人間の努力を費やしておきながら、われわれが独力で世界を探索する手助けを、いまだにほとんど、あるいは全くしていない社会はどうかしている。

というのです。

繰り返しになりますが、仕事の場でも、学校教育の場でも、さらに余暇の場の活動においても、いまの社会は個々人が直接世界を経験してインタラクティブに得る一次情報の取得を軽視しています。
その代わりにすでに固定され、一度触れればそれ以上の情報は得られない、誰かによって作られた二次情報を処理したり、右から左へ流したり、丸暗記したりすることに時間や労力を浪費することにますます価値を置いていくようになっています。リードはそのことに警鐘をならし、その要因となった17世紀からはじまるデカルト主義的な経験の捉え方に疑問を呈しているのです。

「経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ/エドワード・S・リード」の続き
ラベル:経験 情報
posted by HIROKI tanahashi at 23:57| Comment(1) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする