2012年09月14日

ワーク・シフト/リンダ・グラットン

ひさしぶりに書評記事を書いてみようと思います。
取り上げるのは、ロンドン・ビジネススクール教授のリンダ・グラットンが2025年をターゲットとして「働き方の未来」を考察した1冊『ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉』です。
とにかく必読だと思います。

ワーク・シフト

この本に関しては、すでに十分すぎるほど話題にはなっていますし、いろんな方が紹介&絶賛している1冊です。販売のほうも好調のようです。

ですので、あらためて僕が紹介するまでもないと思わなくもありません。
けれど、この本が扱う「働き方の未来」というテーマに関しては、僕自身、積極的に考えたり、実践的に動いたりもしたいと思うと同時に、いろんな方と話をしていきたいと感じています。
だから、ここで書評記事という形をとって書いてみたいのは、単純な内容の紹介というより、この本を読みつつ、あらためて感じた「未来の生き方」についての僕自身の考えです。

「ワーク・シフト/リンダ・グラットン」の続き
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2012年03月05日

モナドの窓/ホルスト・ブレーデカンプ

普段、人間観察をしていて感じることの1つに「考えることが苦手な人というのはそもそも表現することが苦手な人である場合が多い」というのがあります。
表現のための素材としての言葉や情報を知らなかったり、素材はもっていてもそれを組み合わせて別のアイデアを生み出すための組み立て方、つまり編集術が拙かったりすると、自分自身が考えていることがうまくイメージできなくて、自分の考えを展開させて論理立てて構築していくことができなかったりします。

意外とみんな気づいていないのかな?と思うのは、考えることとはすなわち書く/描くことだということです。
書く/描くためには書こう/描こうという気持ちだけではなく、具体的に書く/描くための表現技術が必要です。表現するとは、他人に対して何かを伝えるために表現する以前に、自分が理解するために必要なものです。表現できないばかりに理解できず、表現できないばかりに考えを展開できないことというのは多々あります。

江戸時代までの人びとが使った表現の方法に「列挙」という方法がありますが、これは様々なものを並び上げ、数え上げる方法で、絵画の分野では「百○図」や「○○尽くし」といった絵として表現されるものです。ただ、この列挙の方法には実はいまの僕らにとっては当たり前な接続詞が使われず、接続詞によって表現可能な関係性が表現できないのです。
だから、列挙の表現を用いていた人びとには、理由や原因と結果だったり、所有や被所有という関係だったり、逆説や反論のような論理的な関係を考えることができませんでした。
そうした論理的思考を欠いた状態では、とうぜん科学的思考は不可能です。科学的思考を可能にするためには、論理学を可能にする表現がすでに存在する必要がありました。絵画でいえば、「百○図」のような絵ではなく、前後や距離感の関係が描かれた遠近法的絵画表現が存在しているように。

1つ前の「「電子書籍」という概念を越えてテクストの新しい形を模索すること」で話し言葉、手書き文字による写本、印刷された書籍、電子書籍やWebページを含むインターネットを通じてアクセスされるデジタルドキュメントという流れのなかで、いかに人間の思考スタイルや社会の様式が変化してきたかに焦点をあてたのもまさにおなじことです。
デジタルドキュメントがあってはじめて可能な表現方法は、印刷本の時代とは別の思考を可能におり、その思考が確実に社会のあり方を変化させています。

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その思考とメディアの関係を明らかにした1人がメディア論のマクルーハンですが、それよりもはるか以前の17世紀後半から18世紀のはじめにかけて、すでにそのことに気づいてみずから実践的に思考や知的作業のための新しいメディア開発に注力していた人がいました。

17世紀後半から18世紀初頭にかけてデカルトやニュートンの同時代人として活躍した哲学者にして数学者であるゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツがその人です。

“ライプニッツによれば「マテリアルのイメージ、あるいは痕跡」を伴わない、かくも抽象的な思考は、存在しない。”

思考が必ず伴う「マテリアル、痕跡」の存在をライプニッツは決して見失わず、さまざまな痕跡の種類によって可能な思考が異なることを自覚していました。
本書は、そんなライプニッツが生涯を通して追求した、新しい知的メディア研究に関するプロジェクト「自然と人工の劇場」について論考した一冊です。

「モナドの窓/ホルスト・ブレーデカンプ」の続き
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2011年09月05日

King Of Vintage Vol.3 : Heller’s Cafe Featuring Larry’s Collections Part 2

ついに出ました。待ちに待ってました。
先日9月3日の土曜日に『King Of Vintage Vol.3 : Heller’s Cafe Featuring Larry’s Collections Part 2』が発売されました。

前作の『King of Vintage No.1:Heller’s Cafe』が販売後まもなく完売したという伝説をもつ、アメリカにおけるヴィンテージクローズディーラーの草分け的存在であるラリー・マッコインの膨大なコレクションを紹介する写真集の第2弾です。
今回も前回同様、ラリー氏のコレクションの中から厳選された218点の激レア・アイテムが並んでいますが、そのほとんどが19世紀後半から1940年代くらいのきわめて古いワークウェアでどれも個性的な表情をしていて魅力的です。

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ラリー・マッコイン氏は、シカゴにHeller’s Cafeというショップを構える世界ナンバー1といわれるヴィンテージウェアのディラーです。日本では、WAREHOUSEとのコラボレーションで展開する同名ブランドヘラーズカフェ Heller’s Cafeでも知られています。

「King Of Vintage Vol.3 : Heller’s Cafe」の続き
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2011年08月23日

アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育/バーバラ・M・スタフォード

分けることが分かることだとすれば、印刷文字以降の人びとの思考スタイルほど、紙の上でさまざまな物事を分けて配置し、その位置を定めることで物事を定義することに傾いた時代はない。
ある言葉は辞書に記された定義のように現実の世界を正確に映しているとでもいうように、人びとは実世界から切り離された涼しい会議室のなかで、あーでもないこーでもないと議論をし、定価で買える間違いも不良もないブランド品を求め、いつでも同じクオリティの品をいつでも同じ価格で購入できるようなモノ−記号の結びつきを疑わなかった。高いモノはいいモノで、価格はその品の価値を反映しているし、言葉はそれが指し示す対象をいつでもぶれることなく指し示しているかのように信じていた。

ところが、どうだろう? このあらゆるテクストが超高速でソーシャルメディアのTLやウォールの上を流れては消えるおしゃべり化する社会で、何かこれは確かなものだといえる。定義や定価があるだろうか? ある言葉はいつでもおなじことを指し示し、誰に話しても同じように理解されるような確かさをいまだに持ち続けているだろうか?
そんな先行きが不透明であやふやになりつつある世の中で、インフォグラフィックスやプレゼンテーションスキルやユニバーサルデザインのような「わかりやすさ」のための手業を人びとが求めるのは、まさにそうした確かさの時代の終わりにさしかかった過渡期の世界の象徴的な反応ではなかろうか?



言葉のアクロバティックな応酬は見事な芸術と機械仕掛けの「いかさま芸」の間をあざとく揺れる。自らの画技をこれ見よがしに見せつける絵の画像と同じように目くるめくような能弁に酔う曲芸じみたお喋りは悪趣味とされた。

まさにユーザーフレンドリーなUIや、聴衆を魅了してやまないプレゼンテーションなどが目指すところは、この機械仕掛けの「いかさま芸」と変わらない。ただ、その「目くるめくような能弁に酔う曲芸じみたお喋り」がここでスタフォード女史がいうような18世紀当時とは違って「悪趣味」とされないのは、まさに時代の矛先が正反対を向いているからではないかと思う。

既にして17世紀の宗教闘争の中で、北方プロテスタントたちが抽象的な読み書きを目指したのは、人をあざむく語、人を惑わせる聖像に拠る「ローマ的伝統」を打破しようとしてのことだった。

17世紀の北方プロテスタントたちが抽象的な読み書きを目指したのに対して、僕らの時代はその抽象的な読み書きの終わりに向かおうとしている。その先にあるのは、人をあざむくおしゃべりや人を惑わせるイメージの多様で豊穣な世界だと思われる。
「幾何学的な図形、抽象的なカテゴリーによる分類、形式論理的な推論手続き、定義、また、包括的な記述や、ことばによる自己分析」。こうしたものがテクストによって形づくられた思考スタイルと断じたのは、先日紹介したウォルター・J・オングである。そうしたテキスト偏重の思考スタイルが18世紀の末に葬った非テクスト的表現としての視聴覚的イメージがもっていた猥雑な力に光をあてるのが本書の著者バーバラ・M・スタフォード女史である。
テクストの力が衰え、世界を知る術を見失って人びとがうろたえ、困惑しつつあるいま、スタフォード女史が光をあてる視聴覚的イメージを最大限に活かしたエンターテイメントな視覚教育の力を見直すことも必要であるだろう。

「アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育/バーバラ・M・スタフォード」の続き
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2011年08月19日

声の文化と文字の文化/ウォルター・J・オング

ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』。原題は"Orality and Literacy"。
当ブログではここ最近何度も取り上げてきたこの1冊を今日はあらためて紹介してみようと思います。



著者自身が「序文」で書いているように、この本の主題はオラリティー(声の文化)とリテラシー(文字の文化)の違いを明らかにすることです。
あるいは、すでに文字があることやそれを使って生きるということに親しみすぎてしまって、もはや文字がない生活や思考がどういうものなのか想像もできなくなっている僕ら現代人にも、文字のない声の文化における思考や言語表現がどのようなものであるかを知れるようにすることが本書の主題だともいえます。

実際、文字を使って思考し生きることに親しみすぎてしまっている僕らは、文字をもたない人びとがどれほど自分たちとは異なるかを想像することもできません。

例えば、こうやってブログを書くことに関してもそうです。文字がなければブログが書けないのは当然としても、実は文字がなければ文章でそれを表現できないどころか、同じような内容で考えることさえできないことを僕らは見過ごしています。

僕自身、実際、文字をたよりにせずに、いつも書いているように長文のブログと同じ内容を話せるかといわれると絶対無理だと思います。似たような事柄を含む話はできると思いますが、ブログで書いているような文体で話をすることはまず不可能です。よく実際に会ってみるとブログを読んでいる印象と違うと言われることがありますが、僕からすればそんなことは当たり前なんじゃないかと思うのです。文字で書くことと声で話すことはおなじようにことばを扱うのでもまったく修辞法が異なると思うし、修辞法が異なれば思考のスタイルは変わって当然だと思うからです。
とにかく僕はブログを書くように話すことはできません。何よりブログでやるような引用という方法を採ることができません。それは単に他人の言葉を記憶から正確に繰り返すことだけができないというのではなくて、たとえ思い出そうとする言葉が自分が過去に発したことであっても正確に反復することも不可能という意味です。

かつて歌われたもろもろの歌に対する口誦詩人の記憶力は活発である。「10音節の詩行を1分間に10行から20行」歌うユーゴスラヴィアの吟遊詩人に出会うのは「めずらしいことではない」。しかし、録音された歌をいろいろ比較してみると、それらは、韻律のうえでは規則的であるけれども、おなじやりかたでは二度と歌われなかったことがわかる。基本的には同一のきまり文句とテーマが何度も使われていた。しかし、そうしたきまり文句やテーマは、たとえ同一の詩人によって歌われるときでも、聴衆の反応、詩人の気分、その場の雰囲気などの社会的、心理的要因にあわせて、歌うたびごとに違ったふうに縫いあわされ、「綴りあわされた」のである。
ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』

オラリティーの世界に生きる詩人は同じ歌を二度と歌わない。
もちろん、正確に同じ内容を歌うことは文字という記録の道具のない状況で記録のみを使って歌うことの限界もあってむずかしいというのもあります。ですが、それ以上に、正確に同じ内容であることに意味=価値があるのは、あくまで文字という記録の道具があることを前提にしているということを僕らは忘れがちです。同じように歌えないと同時に、歌う意味もないのです。吟遊詩人が同じように歌えない歌を、どんな聞き手があれとこれとは違うだとか同じだとか正確に判定することができるでしょう。
正確に同じであるということに、そもそも意味がないのです。

前のものと今のものが同じであるかどうかは、ある程度の長さをもったことばが対象になるのであれば、もはや文字の助けを借りなくては不可能な判断であるということを、文字に慣れ親しみすぎている僕らはわかっていません。引用のように同じことばを正確に反復することに意味を見出すのは、書き言葉以降、もっと言えば同じ本の私有が可能になった印刷技術以降の文化に生きる人びとだけなのです。

こうした例をはじめとして、僕らはあまりに文字があることに慣れすぎてしまっているがゆえに、自分たちの思考をどれだけ文字の影響を受け、それに限定しているかがわからなくなってしまっています。そうした自分たちの生活や思考に対する文字の影響を知るためにも、本書で明らかにされる文字のないオラリティーの世界で生きる人びとの思考に目を向けることは非常に価値あることだと僕は思っています。いや、今後、テキスト以外の音や映像によるコミュニケーションがますます盛んになる情報空間においては、こうした声の文化的なものも予想される以上、本書は必読の一冊だと思います。

そんな一冊を以下ではもうすこし紹介していきます。


「声の文化と文字の文化/ウォルター・J・オング」の続き
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2011年06月22日

中世の覚醒/リチャード・E・ルーベンスタイン

長い間、西ヨーロッパから失われていたアリストテレスの著作は、レコンキスタでムスリムの支配から脱した12世紀のスペインで再発見されます。実に1000年近く、西欧の人々に忘れられていたギリシアの哲学者の思想は、当時のキリスト教者にとっては異教の敵であったはずのムスリムの人々の手で守られてきたおかげで、西欧の人々の視線のうちに復活したのです。



それが中世スコラ学を生む原動力ともなり、さらには近代の科学革命にもつながる西欧思想の源流ともなった「アリストテレス革命」のはじまりでした。同時に、それは古代と近代のはざまで実現した「信仰と理性が手を結んだ希少な時代」でもあったのです。

ヨーロッパ中世の歴史に疎い僕らはつい、ヨーロッパの中世というと「暗黒の時代」だと思い込みがちです。
しかし、実際には、本書で著者が明らかにしてくれたとおり、ヨーロッパ中世の1000年がまるごと暗黒に包まれた時代というわけではありません。少なくとも本書で「知の革新」「信仰と理性の蜜月」の時代として描かれた12世紀から13世紀に関しては、近代化を進めた啓蒙の時代とは別の考え方で、「蒙(くら)きを啓(ひら)いた」時代であったことが本書を読むとわかります。

アリストテレス革命を再現することによって、私たちはおのれがコペルニクス、ガリレイ、アダム・スミス、トマス・ジェファーソンの子どもであるにとどまらず、アリストテレスの子どもであることを理解する。そう、私たちは、近代的なるものの欠陥が明らかになるにつれてより興味深く啓発的に思えてくる、中世の伝統の後継者なのだ。

アリストテレスを再発見し、それをキリスト教の信仰と同居させようとした中世のキリスト教者の知的格闘があればこそ、その後の知的発展があったのだということがこの本を読むと納得できます。
そして、著者もいう「近代的なるものの欠陥」が近代のはじめに中世的なものを無理やり捻じ曲げて忘れさせたことにも由来しているであろうことにも気づかせてくれる。そんな点で、西欧の中世からは遠く離れた僕たちにも、無縁とは思えない、とても興味深い一冊でした。


「中世の覚醒/リチャード・E・ルーベンスタイン」の続き
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2011年06月20日

知はいかにして「再発明」されたか/イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン

知を保存・蓄積し、他者や別の世代に伝えたり、あるいは知識を利用可能にすることで社会に働きかけることを可能にする「知の装置」。西洋の歴史においては、その知の装置が何度か刷新され、その度ごとに知識の価値に変化か起きているといいます。



今回紹介するイアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートンによる『知はいかにして「再発明」されたか』は、そんな西洋における知の保存や伝達、可用性を可能にするための装置の変遷とそれによる知の再発見の歴史を紐解いた一冊です。

知の生産や保存や伝達が、経済や文化や技術の広範な変化を受けて、根本から問い直されるのははじめてではない。わたしたちは今、どうすれば文化の再生産を確かなものにできるのだろう。
(中略)
知の総体を組織化して伝達するには、どのような制度を作らなくてはならないのか。
イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発明」されたか』

この一冊で著者らは、西洋の歴史に登場した6つの知の装置=制度の変遷に目を向けることで、「どうすれば文化の再生産を確かなものにできる」のかという問いに応えうる新たな「知の装置=制度」の可能性を考察するためのヒントを与えてくれています。

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タグ:図書館 大学
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2011年03月15日

堕落論/坂口安吾

昭和21(1946)年4月、坂口安吾は『堕落論』を書きました。

半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。
坂口安吾『堕落論』

昭和天皇が玉音放送をもってポツダム宣言受諾を表明し、日本が降伏したのがその前年の8月15日です。

この本は戦争直後の社会で話題となりました。
先の引用したとおり、「半年のうちに世相は変った」ではじまる、この短いエッセイは、一夜にして価値観を変更させられた日本人の心を打ったのでしょう。

僕は昨夜、この安吾の『堕落論』をふと思い出しました。
この短いエッセイの後半に書かれた、

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
坂口安吾『堕落論』

ということばを。

もちろん、僕がそれを思い出したのは、いまの僕らもまた「一夜にして価値観を変更させられた日本人」に他ならないからでしょう。

「堕落論/坂口安吾」の続き
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2011年03月09日

形の冒険 生命の形態と意識の進化を探る/ランスロット・L・ホワイト

形を思考すること。形を思考の対象にして、その形成がどのようになされるかに思考を集中させること。
この本の著者ランスロット・L・ホワイトが指摘しているのは、そのことです。

この場合の「形」とは、何も目に見える形ばかりを指しているのではありません。
目に見えにくいものも実は形を持っています。僕らはそれをつい日常見逃してしまいがちです。
でも、最近はソーシャルメディアの普及によって、「つながり」や「関係性」のような概念も普通の人が普通に捉えられるようになってきています。この概念というのも形です。

僕は「透明な形をデザインする」という表現をよく使いますが、人の動きを促すような作法やルールのような形もあります。
言葉は形ですし、思考や概念もまた形です。感情も、知識も、それぞれの形を持っています。

一方で、そうした形に対する思考がいま欠けていると感じます。

特に形を生み出すプロセスに対する思考は著しく欠けています。形を静止し固定したものとしてのみ扱い、思考や概念のような形がどのように生じてくるのか、感情や言葉という形がなぜ生まれるのかということを問わず、人の思考や感情を固定してあるもののように扱ってしまいがちです。
著者が指摘しているのもその点で、著者は結果としての「形態形成プロセス」に着目することが必要だと解きます。

基礎デザイン学を打ち立てた、向井周太郎さんは『デザインの原像―かたちの詩学2』のなかで、「形」ということばの「ち」を「いのち」や「いかづち(雷)」「をろち(蛇)」の「ち」同様の、自然の激しい根源的な力をしめす古語としての「ち(霊)」ではないかと言っています。おもかげや母型としての「型」に、自然の根源的な力=霊を宿したものが「形」というのですが、この型から形を生成するプロセスへの視点が僕らにはすこし欠けているところがあって、あたかも確固たる形ばかりが存在するかのような考え方ばかりが見受けられます。

そうした状況に対して、形を固定したものとしてばかり捉えたのでは、個別の形態の違いにばかり囚われてしまい、世界がバラバラに存在しているように感じられてしまうと失望を描いたのが、本書の著者であるランスロット・L・ホワイトです。

世界は現在、ばらばらに分裂している。国際的にも社会的にも調和は失われ、過去の伝統と現在の経験と生産的行動の3つのバランスも崩れている。知の統合もなく、人間自身に対する適切な洞察も欠けている。

いや、正確には、著者が失望したのは現在の状況に対してではありません。本書は、1954年に書かれているからです。つまり、今から60年以上も前に、形に対する視点の乏しさに失望しているのです。もちろん、その望みのなさは60年前以上に悪化しているように感じられます。

著者は単に失望するばかりではなく、先に書いた「形態形成プロセス」という用語を用いて希望を与えてくれます。

形が生まれてくる形態形成プロセスに着目することで、科学がまったく別のものとして看做してそれぞれに研究分野の異なる物質、生命、精神の分野を統合するような視点が生まれてくるだろうという仮説を提唱しているのが本書です。

「形の冒険 生命の形態と意識の進化を探る/ランスロット・L・ホワイト」の続き
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2011年01月21日

トマス・アクィナス 『神学大全』/稲垣良典

2011年も早1月21日になってしまいましたが、今年はじめてのエントリーです。
最初のエントリーを何にしようと迷っている間に、21日にもなってしまったので、もういい加減、何でもいいから書こうと思い、まずはこの本『トマス・アクィナス 「神学大全」』の紹介からはじめることにしました。

よりにもよって、何故トマス・アクィナスなのか?
13世紀を生きた、一般的には中世スコラ学の大成者として知られるトマス・アクィナスを、いま何故キリスト教などに関わりのない東の島国の21世紀を生きる僕が取り上げるのか?

それには2つの理由があります。

1つは、まだグーテンベルクの印刷革命がおこる以前で、建築物がポータビリティのない情報メディアとして存在していた中世という時代において、その時代において情報がもっとも集中していたであろう機関の1つである教会において、スコラ学が後世の文学に影響を与えたものの1つのジャンルとしての「スンマ(大全)」という百科全書的な知の形式の代表作である『神学大全』を著したのがトマス・アクィナスであるということが1つ。
印刷物としての書物はまだなく、写本と音読の時代であった中世において、教会という情報の伝達の場に属しながら、後の百科全書にもつながる大全という文学形式で知の模索を行なったトマスという存在を知ることで、この印刷時代もすでに超えた電子テキストの時代の知の偏りとその原因について何らかの理解が得られるのではないかと思ったのでした。

もう1つの理由は、昨年最後のエントリーとして紹介した「メディア論―人間の拡張の諸相/マーシャル・マクルーハン」の著者であり、今年生誕100周年を迎えるマクルーハンがその最後の著作である『メディアの法則』を、このトマスの『神学大全』に憧れて書いたのだと知ったから。マクルーハンの『メディアの法則』に関してはまた後日紹介したいと思っていますが、その優れた著作の憧れの対象としての『神学大全(スンマ)』とは何か? それを知りたかったというのが2つ目の理由です。

とはいえ、その『神学大全』なる書籍は、「第一部 神と神学について」「第二部 倫理と人間について」「第三部 キリストについて」の3部構成から成り、日本語版では45冊にもなる大著であり、しかも、1960年からはじめられた訳出作業がいまだ未完であり、現在も全巻が出版されていないという、おいそれと気軽に手は出せない代物です。

そこでまず手始めに読んだのが、この稲垣良典さんの『トマス・アクィナス 「神学大全」』
しかし、この本を読んで、トマスは僕のそれほど多くはない知的のヒーローのリストにすぐに加わったのです。

トマスの探求は、…近代思想の影響下に生きるわれわれが、操作や処理に便利な知の段階で探求を完結させようとする傾向があるのに対して、言語が一義的な明晰さを失う限界を超えてまで探求を徹底させるものである

といった一文などは、『神学大全』とはそのタイトルからして正反対の方向性をもつかのように感じられる『無神学大全』という著書もある僕のもうひとつの知的ヒーローであるジョルジュ・バタイユを彷彿とさせるものです。「言語が一義的な明晰さを失う限界を超えてまで」という知の探求の姿勢は、言語による理解ですべてが事足りるようなコンビニエンスな知の消費が当たり前になっている現代の知の在り方と比較すると何ともまぶしい限りで、それだけでも僕のトマス・アクィナスという人への興味は高まったのです。

「トマス・アクィナス 『神学大全』/稲垣良典」の続き
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2010年12月31日

メディア論―人間の拡張の諸相/マーシャル・マクルーハン

2010年大晦日。
今日は、1980年12月31日に亡くなった、カナダ出身の英文学者であり、文明批評家であるマーシャル・マクルーハンの没後30年にあたります。
そして、明日になれば、1911年生まれのマクルーハンの生誕100周年を迎える。

その節目の今日こそ、これまで何度となく取り上げてきたマクルーハンの『メディア論―人間の拡張の諸相』を紹介にふさわしいのではないかと思い、このエントリーを今年の最後のエントリーとして選びました。

本書でマクルーハンが「話されることば」や「書かれたことば」、「道路と紙のルート」、「数」、「衣服」、「印刷」、「漫画」、「印刷されたことば」、「写真」、「新聞」、「自動車」、「広告」、「タイプライター」、「電話」、「蓄音機」、「テレビ」などのさまざまなメディアの変遷を追いながら人類の歴史をひもとくようにして語るのは、一貫して「すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである」ということです。
この本はメディアという視点から捉えた人間の変化の歴史を描いたものであり、メディアによって拡張されることでそれ以前の人間とは異なる生物に変化する「ヒト」と総称される生物群の変化の様相を綴ったものだといえるでしょう。

そう。この本を読むと、あらためて「人間」と僕らが一言で呼んで、あたかもそのすべてが自分たちと瓜二つの思考や感じ方をするはずだと決め込んでいる生物群の多様さに驚かされます。
尻尾がある動物と僕らが異なるように、遠近法で世界を見るようになってしまった僕らがそれ以前の人間とことばるのだということを僕らは普段忘れてしまっています。そんな僕らが忘れてしまっている事柄をあらためて僕らに見せてくれるのが、この『メディア論―人間の拡張の諸相』という本です。

本書の「はしがき」でマクルーハン自身が書いているのですが、本書の出版時にマクルーハンは編集者にこんなことを言われたそうです。

編集者が困惑して言ったのは、「あなたの素材の75%が新しい。本として当たるためには10%以上新しいことがあるようではいけない」ということであった。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

その編集者の感じたことはいまなお多くの人が感じることではないでしょうか。
そう。この本に書かれたことはいまだに「75%が新しい」のではないかと。

それでは、すこし内容を紹介することにしましょう。

「メディア論―人間の拡張の諸相/マーシャル・マクルーハン」の続き
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2010年12月27日

ハーモニー/伊藤計劃

「僕らはきっと、とっとと個人であることをやめなくてはいけないのかもしれません」

そんなことを、僕は1つ前のエントリー「「個人」という古い発明品」で書きました。
そして、そんな一言が、僕をこの故・伊藤計劃さんの『ハーモニー』を読むことに誘ってくれました。

<theorem:number>
 <i:こどもがおとなになると、言葉になる>
 <i:おとながしびとになると、泡になる>
</theorem>

いや、それは正確じゃない。より正しく言うのなら、

<rule:number>
 <i:こどものからだは、おとなになるまで言葉にしてはならない>
 <i:おとばは死んだら、泡になるまで分解されなくてはならない>
</rule>

という禁止で語られるべき。」

そう。これはETML 1.2というマークアップ言語で書かれた本。
この”E”が何かはここでは明かしません。実際に読んでみて、自分で見つけて欲しいと思うから。

とはいえ、このETML 1.2でマークアップされているってことに、僕はそれほど興味がひかれたわけではありません。
僕はもうすこし違うところに興味をひかれて、この本を読み進めたのでした。

「ハーモニー/伊藤計劃」の続き
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2010年09月06日

経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ/エドワード・S・リード

「いわゆる情報化時代のアイロニーには、当惑をおぼえざるを得ない」。

この本の著者であり、アフォーダンス理論の創始者J.J.ギブソンの流れを引くエドワード・S・リードでそう書いて、「経験のための戦い」をはじめます。

情報を処理し伝達するためのテクノロジーはここ数十年で急速に進んだが、テクノロジーのこの進歩にもかかわらず、人々のあいだの、意味にみちたコミュニケーションは、はなはだ退化しつつある。

と続けながら。

この情報化時代にあって、人々が経験から積極的に意味を形作り、経験から知を獲得することから離れて、すでに加工済みのテキスト情報や動画情報などを受動的に受け取ることやその情報の加工や処理ばかりに、時間や労力を費やすことを、著者は問題にするのです。
それが日常生活のみならず、教育・学習の場である学校でも、知的生産の場であるはずの職場でもいえ、人々がますます意味を作り出すコミュニケーションから、あらかじめ意味が決定されたデータを右から左へ移動させることに終始するという、非生産的な活動の時間が増えることが問題だというのです。



ただ、著者のリードは「処理情報に本来まずい点はなにもない」とも書いているように、情報技術に対して戦いをはじめようとしているのではありません。そうではなく「まずいのは社会だ」とリードはいいます。

つまり、だれもがどこでも利用できるような類の、ほんのちっぽけな量の処理情報をつくるために、ひどく多額な金を費やし−また、測れないほどの時間をかけて人間の努力を費やしておきながら、われわれが独力で世界を探索する手助けを、いまだにほとんど、あるいは全くしていない社会はどうかしている。

というのです。

繰り返しになりますが、仕事の場でも、学校教育の場でも、さらに余暇の場の活動においても、いまの社会は個々人が直接世界を経験してインタラクティブに得る一次情報の取得を軽視しています。
その代わりにすでに固定され、一度触れればそれ以上の情報は得られない、誰かによって作られた二次情報を処理したり、右から左へ流したり、丸暗記したりすることに時間や労力を浪費することにますます価値を置いていくようになっています。リードはそのことに警鐘をならし、その要因となった17世紀からはじまるデカルト主義的な経験の捉え方に疑問を呈しているのです。

「経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ/エドワード・S・リード」の続き
タグ:経験 情報
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2010年08月29日

メディアの発生―聖と俗をむすぶもの/加藤秀俊

旅に出たくなる本です。
また、僕らにはすっかり馴染みのなくなってしまった浪花節や盆踊り、落語などの芸能にも触れたくなる一冊です。

実際にこの本に登場した、香川県にある旧金毘羅大芝居「金丸座」を訪れてみました。

金丸座の舞台


日本最古の芝居小屋として国の重要文化財として指定されている芝居小屋で、いまも毎年春に、「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が開催されている場所です。歌舞伎小屋の原型であるばかりでなく、客席などの作りは相撲が行われる国技館などの原型ともなっているそうです。

さいしょに建設されたのが天保6(1835)年だというから、ずいぶん古い。こんな歴史的建造物があるのか、とわたしは感心して見物した記憶がある。(中略)毎年4月に名だたる名優がそろってこの「四国こんぴら歌舞伎」公園をおこなうことが年中行事となった。かんがえてみると、歌舞伎が大都市の劇場で連日講演される、などというのはごくさいきんのことで、むかしはこうして巡業の旅にでかけていたのがふつうだったのであろう。

地方を巡業して回る歌舞伎の一座。いまも4月の「四国こんぴら歌舞伎大芝居」では、東京から一座が大人数でこの地に来て2週間から20日程度の期間に芝居を行うのだそうだ。旅はこの本のひとつのキーワードです。

さて、正面と客席上の葡萄棚天井の写真も載せておきましょう。

金丸座の正面 金丸座の葡萄棚天井


実際に訪れてみて、一度はこの舞台で歌舞伎を見てみたいと思いました。

「メディアの発生―聖と俗をむすぶもの/加藤秀俊」の続き
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2010年08月16日

最近買った本 2010-08-16

あまりブログを更新していないので最近買った本をご紹介。

ウィリアム・モリス関連

まずは最近エドワード・S・リードの遺作『経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ』を読んで、19世紀末にアーツ・アンド・クラフツ運動を展開したウィリアム・モリス について、あらためて詳しく知りたいなと思ったので、以下の4冊を購入。

とりあえず、モリスの著書から2冊。


前者は詩人でもあったモリスによるフィクション。後者は晩年、書物のデザインに関わったモリスによる理想の本についての論文や講演録を集めたもの。



それから、こんな本も買いました。


前者はカラー図版が豊富だったので購入。後者は日本民藝運動との関係も知りたくて購入です。

 「最近買った本 2010-08-16」の続き
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2010年06月27日

10万年の世界経済史/グレゴリー・クラーク

後のダーウィンの進化論にも影響を与えたことで知られる、1789年の『人口論』で、イギリスの経済学者であったトマス・ロバート・マルサスは、人口と経済の関係について、幾何級数的に増える人口と算術級数的にしか増えない食糧供給量の差は必然的に貧困を発生させ、これは社会制度の改良などでは回避することができないと論じています。

いわゆる「マルサスの罠」と呼ばれているものです。
本書において、著者のグレゴリー・クラークは、この「マルサスの罠」が、人類が誕生して間もない古代社会から1800年までを貫く経済原理として働いていたこと、それゆえに古代社会と1800年直前の社会を比べて、大きな人口の変化が見られなかったし、人口一人当たりの所得も増えなかったことを指摘しています。
つまり、産業革命以前の経済社会は決して、古代社会よりも豊かではなかったと書いているのです。

と同時に、クラークは、本書で、1800年を境に社会が一変して決定的な格差社会が確立したことを扱っています。「大いなる分岐」と呼ばれる富める国と貧しい国の格差が生まれたのが、世界が「マルサスの罠」を脱して以降であることを論じているのです。

以上のことは、下のようなグラフで単純に表すことができます。



このグラフの説明に、上下2巻を費やしたのが本書です。

「10万年の世界経済史」という大仰なタイトルがつけられていますが、クラークは別に、10万年の経済史などは論じていません。
あくまで原題は“A Farewell to Alms”です。

どうして、こんな邦題になってしまったかはともかく、クラークが本書で明らかにしようとしているのは次の3点です。

  • マルサスの罠の時代はなぜかくも長く続いたのか?
  • その罠からのはじめての脱出が小さな島国であるイギリスで1800年ごろにはじまったのは何故か?
  • その結果として大いなる分岐が生じたのは何故か?

1つ目の問いの考察に上巻が割かれ、残りの2つの問いに下巻で答える構成となっています。

それでは、すこし中身を紹介していきましょう。

「10万年の世界経済史/グレゴリー・クラーク 」の続き
タグ:経済史
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2010年06月20日

江戸の本屋さん―近世文化史の側面/今田洋三

iPadの発売以来、急に電子書籍の話題が聞かれるようになりました。出版業界や印刷業界を中心に、具体的な動きも出始めています。

デジタルな本より紙の本のほうがいいなど、いろんな声も聞かれますが、紙の本がまったくなくなるという話ではないでしょうし、そもそもヘンリー・ペトロスキーの『本棚の歴史』書評)や港千尋さんの『書物の変―グーグルベルグの時代』書評)などを読んでもわかるように、本の形態などはこれまでの歴史のなかでも度々その形態を変化させています。

また、本の印刷、流通に関わる人々にとっては、電子書籍化は危機だといえるのでしょうけど、すくなくとも出版に関わる人にとっては実は危機とはいえないだろうと思います。

そもそも、出版や編集という仕事は、紙の本を商品として作る仕事ではないはずだからです。たとえば、江戸期の有名な出版人、蔦屋重三郎などは単に出版者であっただけでなく、歌麿や写楽、太田南畝や山東京伝を育て世に出した人でした。

そんなことを思いつつ、江戸期の出版について、いろいろと知らべてみようと思って、何冊か買った本のうちの一冊がこの今田洋三さんの『江戸の本屋さん―近世文化史の側面』でした。

江戸の出版業は田沼時代における、江戸をめぐる商業資本の発展、江戸住民の文化創造力の向上を背景として、画期的な発展を示した。画期的なという意味は、封建支配者の文化政策を分担したり、売れればよいというだけで自らの創造的見識をもりこむことの薄かった出版界で、出版が文化運動の一環としての意味をもつことを自覚しつつ経営を築く出版者があらわれてきたことである。須原屋市兵衛や蔦屋重三郎にそれが典型的にあらわれている。(中略)単なる商品生産者ではない、未来を切り開く文化思想の創造をすすめ、作者をも育てあげるという主体的経営は、まさに、近代出版の先駆と考えてよいであろう。

そう。「単なる商品生産者ではない、未来を切り開く文化思想の創造をすすめ、作者をも育てあげる」役割を担う意味での出版人。
そんな江戸期の出版人たちが躍動した歴史を追ったのが本書です。

「江戸の本屋さん―近世文化史の側面/今田洋三」の続き
タグ:出版 情報
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2010年06月15日

野菜の力 精進の時代/棚橋俊夫

この本は新しくライフスタイル研究会のメンバーになった方から紹介いただいた。
最近よい本との出会いが多いが、またしても、心に響く一冊である。
「生きる」ということはどういうことか、生きることと食あるいは農はどのような関係にあるのかを教えてくれ、美しく生きようという意欲を持たせてくれる。

ひとつ前に読んだ尾久彰三さんの『観じる民藝』書評)では、美を見つめる眼差しを養うためには日々の暮らしの中でモノを真っすぐに受け止める姿勢の大切さを考えさせられたが、この本では、さらにモノを美しく見せるためには、何よりもまず日々を生きる自分自身の姿勢そのものをいかに美しく保たれるかが大事だということを思い知らされた。



まったく読んでいて、自分の生活が恥ずかしくなる本である。
例えば、“私はこれまで「座す」ということに関してまるで夢を見ているような経験を二度しています”と述べたあとに紹介されるこんなエピソード。

1つは、私の英語の先生であるイギリス人とその友人、6名で座敷に通っていただいたときのこと。淡々と1つ残さずすべての料理を綺麗に召し上がっていただいた後で、私が食後の挨拶に顔を出すと、その六畳間はまるで由緒ある寺の本堂に導かれたかのような雰囲気でした。大柄な仏たちがきちっと座って、柔和な顔をしている。よく見ると彫りの深い青い目をした外国人なのですが、時空を越えて荘厳な異空間に入り込んだ気がしたのです。

食の姿勢が仏のように美しく観られるような生活を僕らはしているだろうか? それが精進料理屋という日常のケの空間とは異なる場所、体験であったとしても、僕らはそんな姿勢をとることができるだろうか?

「恥」という言葉が読みながら何度も思い浮かんだ一冊だった。
美しく生きなければという想いが幾度となく込み上げてきた本だった。

では、読んだ感想も交えつつ、すこし内容も紹介しよう。


「野菜の力 精進の時代/棚橋俊夫」の続き
タグ: 野菜 生活
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2010年06月08日

観じる民藝/尾久彰三

素敵な本だ。
本というよりも、むしろ、モノという雰囲気がある。
著者が集めた素敵な古民藝300点余りがカラー写真で収められた一冊は、美しい玉手箱を手にしているようなのだ(本物の玉手箱を観たことなんてないけど)。
「感じる」ではなく、「観じる」とはよく言ったもので、観ることの心地良さを再認識させてくれる。

本書の著者は、長く日本民藝館の学芸員をされた方である。
柳宗悦に私淑して富山で日本民藝運動を推進していた叔父の影響もあり、10代の頃からモノ集めに開眼したという。
高校生になってからは、月に2回ほど、叔父の飛騨高山での古民藝品収集に同行して、モノを観る眼を養った。はじめは何がいいのかわからなかったものも、そのうち、自分で気になるモノを手に入れるようになった。
長じてから日本民藝館の学芸員になったのは自然なことだったのかもしれない。
そんな著者が昨年、日本民藝館の学芸員の職を辞した。

この本には、永年かけて著者が日本国内だけでなく、海外からも集めた1000点あまりの古民藝のコレクションから厳選された300点あまりが掲載されている。
珠玉のコレクションといっていい。

僕自身は、この本を読んで(観て、といったほうがいいのかもしれない)、これまで民藝に対してもっていたイメージを大きく変えられた。

「観じる民藝/尾久彰三」の続き
タグ:民藝
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2010年06月05日

洞窟へ―心とイメージのアルケオロジー/港千尋

先史時代の洞窟は人間の脳である。

有名なラスコーやアルタミラなどに代表される、先史時代の洞窟壁画は、僕らが想像するような意味では絵画ではない。それは暗く狭い洞窟の壁に描かれており、僕らが美術館やギャラリーで絵を観るような観方で観ることを拒むのだそうだ。つまり、その狭く暗い洞窟の内部には観賞に適切な距離がない。しかも、その観賞用とは思えない壁画が、洞窟の深い深い最奥部を選んで描かれているという。

見てはいけないものなのか。真の理由を明らかにすることはできないだろうが、わたしは、これらの極度に「引き」のない部分や、洞窟の最奥部を選んで描かれている図像は、眼で見るのではなく、記憶で見るためのものではないかという印象をもっている。

では、観賞用に描かれたのではない、それらの洞窟はなぜ描かれたのか? 「記憶で見る」ことは、先史時代の人々にとって、どんな意味をもっていたのだろうか?

そうした洞窟壁画の謎に迫りつつ、先史時代の人々の心の進化を追っているのが本著である。

「洞窟へ―心とイメージのアルケオロジー/港千尋」の続き
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