シンボルの修辞学/エトガー・ヴィント

ダニエル・アラスの『モナリザの秘密』(書評)に続いて、同じ美術史家である エトガー・ヴィントの『シンボルの修辞学』を読んだ。 アラスの本がラジオ番組を元にして作られたこともあって非常に読みやすかったのに比べると、こちらの方がすこしむずかしくはあった。アラスが1944年生まれで2003年に亡くなっているのに対し、ヴィントはもうすこし前の時代の人で1900年にドイツで生まれ、1971年イギリス・ロンドンで亡くなっているということで、より時代背景的に身近なアラスのほうが共感しやすいというのもあるだろう。 でも、むずかしくはあるが、理解できないような本ではないし、ちゃんと読めばすごく面白くて、僕の関心ごとにどんぴしゃな本だった。僕がどれだけこの本を読んだのをきっかけに考えさせられたかは、すでに「プラトンにとって、芸術は一種の魔術だった」という記事でも紹介している。

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モナリザの秘密/ダニエル・アラス

さて、2017年。今年はできるだけ小出しに自分が考えたことを外に向けて言葉で表現していく年にしようと思う。 というわけで、手はじめに年末年始にかけて読んだ、ダニエル・アラスの『モナリザの秘密』という本を紹介したい。 ダニエル・アラスはイタリア・ルネサンスを専門とするフランスの美術史家。惜しくも2003年に59歳で亡くなっている。この本が僕にとっては最初のアラス体験だったが、読んでみて、すでに亡くなっていることを惜しいと感じた。そのくらい、僕にとっては、このアラスという人の考え方は興味深く好感をもてた。 さて、そんな感想をもったこの本は、そのダラスが死の数ヶ月前まで担当していたラジオ番組が元になっている一冊だ。ダラスは不治の病を悟って、この番組を担当することにしたそうだ。 講演集や対談集などもそうだが、しゃべったものを文字にした文章というのは比較的読みやすいものが多いと思う。この一冊もまさにそう。平易な言葉選びと、それほど複雑でない論理構造が、理解をしやすくさせていると感じる。 また、ラジオ番組という時間の枠が決まった中で1つの話をはじめ、完結させる必要があることもあり、25の章ひとつひとつがとてもわかりやすい流れではじまり、まとまっていく。そんな25の小分けの話がたがいにつながったり、つながらなかったりしながら、展開されていく構成は、読む側も肩肘張らずに気軽に読める感じがまた良い。 もちろん、そんな読みやすさを抜きにしても、僕にとってはアラスの思考自体がとても面白か…

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2015年に読んで面白かった視覚表現史に関する7冊の本

さて、2015年も今日で終わり。 最後に、今年読んだ本をいくつか紹介しておきたい。 特に、今年は「視覚表現史」とか「視覚表現の変遷を通じた思考の歴史」とでも呼べそうな本を集中的に読んだので、その中から面白かった7冊を紹介しておきたい。 紹介するのは、この7冊。 高山宏『アリス狩り』バーバラ・M・スタフォード『ボディ・クリティシズム』ユルジス・バルトルシャイティス『アナモルフォーズ』ピーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋』サイモン・シャーマ『レンブラントの目』マリオ・プラーツ『肉体と死と悪魔』ポーラ・フィンドレン『自然の占有』 では、1冊ずつ順を追って紹介。

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肉体と死と悪魔―ロマンティック・アゴニー/マリオ・プラーツ

すこし前に19世紀への興味について書きました。 19世紀というと、20世紀生まれの僕からすると、そんなに遠く感じない時代かなと思う一方で、デザインの文脈でいえば、アール・デコやバウハウス的なモダンデザインが登場する前、せいぜいアール・ヌーヴォーが19世紀の末に登場したくらいの時期であり、社会の見た目はいまとは大きく違ってもいた時代だったはずです。 特に、ヨーロッパの都市は衛生状態が劣悪で、貧困層を中心に多くの死者や病人を出すことが18世紀以来続いていました。ようやくパリで、1853年から1870年まで17年にわたって知事を務めたジョルジュ・オスマンによる大改造が行われ、都市環境が改善されはじめたのが19世紀の半ば。実際、このあと紹介していくように、18世紀から19世紀の前半にかけては、パリなどの都市部ではペストや天然痘、ハンセン病などの感染症が流行し、それがロマン主義文学や恐怖小説などの登場にすくなからず影響しています。 いま僕自身の関心は時代をすこし遡って18世紀に移っているのですが、この感染症の流行などもそのひとつであるように18世紀について知ることで、あらためて19世紀が見えてきた部分もあるので、そのあたりもふまえてすこし自分の整理のためにひさしぶりにブログを書いてみたいなと思います。 ということで、19世紀について何のとっかかりもなく書くのもむずかしいので、19世紀について知るために読んだ本のなかから1冊、マリオ・プラーツの『肉体と死と悪魔―ロマンティック・…

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本を読むときに何が起きているのか/ピーター・メンデルサンド

僕らはごく普通に「あの本はわかりやすい、この本はわかりにくい」などと言ったりします。 でも、そもそも「本がわかる」というのはどういうことなんでしょうか? 作者の綴る言葉から何がわかればわかったと感じ、わからない場合はどういう意味でわからないと感じるのでしょう。作者の言うことがそもそもわからないのか、何を言っているかはわかっても、だから何なのか?がわからないのか。 そして、わかりやすさやわかりにくさは、そもそも、それぞれの本がもつ特性なのでしょうか? ある本は、ある人にはわかりやすく、また別の人にはわかりにくいかもしれません。ある人にとってわかりやすい本でも、それがおもしろいかどうかはまた別物だったりするし、その面白さもまた人によって異なるでしょう。 百聞は一見にしかずと言いますが、本を通じてわかることは、何かを見てわかることと同じなのでしょうか。 複数の人が同じ何かを見た場合、その視線でとらえたものに大きな違いはないと思われますが(見た後の解釈は除けば)、本を読んで感じることは人によって大きな違いがありそうです。 名もなき一匹の猫は誰が見ても、そう大きな違いを生じずに同じ一匹の猫として認識されそうだけど、「吾輩は猫である、名前はまだない」と書かれた文章から想起する猫は読んだ人のあいだでまったくバラバラになりそう。まさに「百聞は一見にしかず」で言葉をどんなに積み重ねても、目で見て誰もがわかるのとように、文章を通じて誰もが同じようにわかる状態をつくりだすのはかなりむず…

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レンブラントの目/サイモン・シャーマ

17世紀の中頃、いよいよデザインという思考の形が人々の頭を支配しはじめたのがその時代であったと僕は考えています。 後に18世紀に入れなテーブル(表)にデータを並べる操作により、リンネにはじまる近代分類学という科学的な物の見方が生まれたり、さらにその1世紀後の19世紀には同じく品物をあるルールに基づき陳列することで、万国博覧会や百貨店という物の価値=意味を提示するための方法の創出にもつながっていくデザイン的思考によるさまざまな発明。 そんな風にさまざまなものを収集しレイアウトすることで意味=価値を生みだす視覚的イリュージョンが、17世紀の中頃から、それを行う人の思考さえもそれ以前とは大きく変えはじめます。その新たな思考の技法を駆使して、世界の見方を整え、理解を促そうという思考のあり方、つまり、デザインという思考のあり方が浸透しはじめた大きな変化のはじまりが17世紀中頃だったと僕はみています。 そんな17世紀中頃のまさに時代を変えた場所の1つであったアムステルダムという都市に生きた画家レンブラント。 その彼の生涯を、いや、それどころか、彼に先行するルーベンスの生涯どころか、その父親の生涯からたどることで、いかに17世紀のオランダやフランドル地方においてカトリックとプロテスタントの対立や、それと決して無関係ではないアムステルダムの経済的発展が、どのような形でルーベンスやレンブラントの芸術に影響を与えたのかをしっかりと描き出した700ページ、2段組の大著が今回紹介する歴史学…

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ヴィクトリア朝の宝部屋/ピーター・コンラッド

技術とその応用が人間というものを大きく変えます。 マクルーハンが「すべてのメディアは身体の拡張である」と語ったのと同じ意味で、あらゆる技術は単に人間の生活スタイルを変えるだけでなく、人間の思考や物事の捉え方自体を革新してしまいます。 ようするに、常に僕らの思考や価値観はいま現在用いられている技術の影響なしにはありえない、そういうことになります。また、過去に同じように人々の思考を変えた技術の影響に僕らの思考は囚われたままということでもあると思います。 ほとほと困ってしまうのは、僕ら自身がそのことをすっかり忘れがちだというでしょう。 僕らは、あたかも自分たちが自由に考えているように信じているし、普遍的な仕方で考えていると勘違いしています。それゆえに思考や価値観に関してはきわめてイノベーションが起こしにくい。ほかの分野のイノベーションの結果として、思考や価値観の革新が起こることはあっても、直接的に思考や価値観に革新を起こそうとするプロジェクトはどれもアジリティを欠いた状態に陥りやすく、いっこうに成果を生み出せません。 技術が思考や価値観に与える影響に無頓着な僕らは、過去の時代を振り返る際に、ある技術の登場によって生じた人間の思考や価値観の変化そのものを無視して、いまの思考や価値観を過去にも投影してしまい、まったく素っ頓狂な理解を過去に対して当てはめてしまいがちです。 その愚かな過ちを正すためには、いついかなる時代にどんな技術のインストールによって、僕らの思考に変化が生…

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夢十夜を十夜で/高山宏

いい本があるのではない。いい読書があるだけなのだと思う。 いい本があったら教えてくださいと言われることは多いけど、そんなことは教えられるものではないとなかなか教えられるものではないと思う。いい本かどうかは読書する人次第であって、結局は読む人が自分が読みたいと思う本を読む以外に、いい読書をする方法はないと思います。 勉強のために本を読む場合でも実はおんなじだ。 勉強したい分野にあわせて、読む本を選ぶのはいまどき間違いだと思う。 さまざまな領域で専門分野なるものが瓦解している現在において、ある領域の知を得るためにその領域の専門書を読むというのはナンセンスだということに早く気づいたほうがいいと思います。 本当に何かを学びたければ、好きな内容の本を読み、そこで感じたことを自分の学びたいこと、自分自身の生活や仕事、生き方、思考のほうに引き寄せればよい。はじめから読む本の領域と自分の側の領域があっていることを期待するような”閉じた”読み方をしようとしていたこれまでの発想が間違いです。 どんな本を読もうが、自分の側に引き寄せ、そこから自分にとって意味のあることを学び取る。 専門領域、専門知識なんてものにこだわっている限り、本から学びは得られません(単に頭のなかに学びというのなら別でしょうけど)。 さて、そんな意味で、領域などを超えた「本当の読書」を繰り広げた読書コラボレーションの軌跡が高山宏さん著となっている『夢十夜を十夜で』です。 「著となっている」としたのは…

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読書の歴史―あるいは読者の歴史/アルベルト・マングェル

考えるためには「知識」というリソースが欠かせません。 考えるということは、さまざまな知識を組み合わせ、組み立て、その集合・レイアウトから、新たなストーリーや価値、企画や謀略などを生み出す活動に他ならないのだから。その活動の質を左右するものの1つが、知識というリソースをどれだけ有しているか、また、有したリソースにどれだけ可用性を担保できているかということでしょう。 思考のための訓練には、日々、そうした知識のアーカイブをどれだけ進めているかということも含まれるはずです。 そうした観点において、知識をアーカイブし、かつ、その可用性を高く維持するものとしての書籍の地位は、現在においてもさほど低くはなっていないと感じます。 インターネット時代となり、いつでも手元で容易に情報が引き出せるようになっても、はたまた、さまざまなコミュニティにおいて開かれた形での勉強会やセミナー、ワークショップなどで知を有するもの同士がその知をつなげて新たな価値をその場でつくりだせるような時代となっても、知識を思考につなげるという観点においては、いまなお書籍というメディアの果たす役割はほかの何かに劣るようにはなっていないと思っています。 特に個人の思考力を高めるという観点においては、これほど強力なメディアはいまだ他にはないでしょう。 最近、あらためて「独学力を鍛えることが大事!」と思っているのですが、この独学力があるかどうかって、読書をどれだけできるか、読書をどれだけ思考につなげられるかということのほ…

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文学におけるマニエリスム/グスタフ・ルネ・ホッケ

ともすれば「何もかも飽和状態で、全部ある」ように見えて、それでいて、型(=既存の領域、枠組み)にはまった思考がそう感じさせるだけで、実は手つかずの隙間領域がそれを隙間と呼ぶのもはばかられるほど広大にある。 つまりは、現実は何も行き詰まっていないのに、凝り固まった思想がそう感じさせているという似非袋小路の状況。 それがいまの状況だろうということは、1つ前の記事で紹介した高山宏さんと中沢新一さんの対談集『インヴェンション』でも語られていました。 ▲今回読んだ、ホッケの『文学におけるマニエリスム』。分厚い。 そんな状況下で、似非袋小路を打破して面白いものをつくり出す(イメージできるようにする)ためには、2つあるものの間を来るインヴェンション、そして、まさに本来異質である2つのものを対置するためのアルス・コンビナトリア=組み合わせ術が必要なはず。 そんな似非袋小路の迷宮からの脱出を考えるための十分なヒントが、このマニエリスムを研究したホッケの書にはたくさん詰まっています。

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インヴェンション/高山宏、中沢新一

前回の記事で高山宏さんの本を紹介したら、なんだか高山さんの本が読みたくなって週末にAmazonで2冊ほどポチっとしました。届いてさっそく読みはじめて、さくっと読み終わったので紹介。 読んだのは、高山さんと中沢新一さんとの対談集で、わりと最近発売された『インヴェンション』。 高山宏さんと中沢新一さん。どちらも僕の好きな著作家なんだけど、はじめはこのお2人の対談と知って、正直ピンとこなかったんですね。あんまり2人が会話する際の接点みたいなものが思い浮かばなかったからです。 2人の友達がいて、1人1人とはよく話すんだけど、3人で会って話したことはない。だから、その2人が会ったら、どんな話をするのか想像もつかない。なのに、突然、その2人が話している状況に出くわした…。 この本を読んでいたときの僕の助教は、そんな状況に近いかもしれません。 高山さん、中沢さん、いずれの書く本も僕の興味をとてもそそる領域なのですが、どうもそれぞれが書く内容をうまく結びつけることができなかったのがこれまででした。僕はそれぞれ片方ずつとの会話しかしてきてなかったんです。 この本を読んでみるまでは…。 そんな2人が会話するところをはじめて目にする。これまで異なる領域に属するものと思ってたものが融合する瞬間に立ち会うようなものなんですね。 まさに、そういうところにこそ、インヴェンションが生まれてくる。インヴェンション=発明ね。 高山 発明という観念を、ちょっといまあらためて源内的に突き詰め…

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文学とテクノロジー/ワイリー・サイファー

テクノロジーが、世界でいま起こっていることの直接の現場へと人間が参加することを妨げる。 方法が、問題に正面から立ち向かおうとする人間にとって最大の障壁となる。 テクノロジーと方法は、そんな風に人を世界から疎外された存在としてきた。 科学においても、芸術においても…。 ワイリー・サイファーの『文学とテクノロジー』という本は、19世紀における行き過ぎたテクノロジー主義、方法主義が芸術家たちをいかに現実から引き離すことになったかというテーマを追った一冊です。 前回の「マニエラ(技法)の核心 ~僕らは結局、自分たちのこれからをスケッチしながら作っている、この「世界史的な危機のさなか」において~」という記事では、まさにサイファーが『文学とテクノロジー』のなかで扱っているのと同様の「技法」というもののもつ意味をあらためて考えてみました。 組み合わせ術にせよ、隠喩の技法にせよ、それは新しいものを創造を可能にする根本的技法であるにせよ、それは膨大なリサーチを行ったり、膨大なデータに向き合い、整理分類をしながら思考したりといった、ごくごく当然の創造のための苦悩を抜きにしては、何も生み出せないはずです。 技法というものがそういう苦悩に没頭することができる環境こそを用意してくれる発想の技であり、決して、苦悩から人を解放してラクに結果が生み出せるようにするものではないことを、僕らはしっかり受け止めて創造の技をふたたび手にする必要があるのではないでしょうか。 マニエラ(技法)の核心 …

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誰が世界を変えるのか ソーシャルイノベーションはここから始まる/フランシス・ウェスリーほか

昔から複雑系の科学の考え方が好きです。 たがいに関連しあう複数の要素がそれぞれ個々に局所的(ローカル)にインタラクションしあうなかで、大局的(グローバル)にもなんらかの振る舞いを創発させる複雑系は、その全体としての振る舞いが、個別の要因、部分からは明らかでないという不確実性、予想不可能性に、僕はとても惹かれます。 写真は、すこし前に3331 Arts Chiyodaでみた藤浩志さんの展覧会で撮った1枚ですが、藤さんが主催する、子供たちがおたがいにいらなくなったおもちゃを交換するソーシャルなシステム「かえっこ」で起こっていることも、ある意味、複雑系のシステムのなかの創発的な出来事のように感じます。 その意味では、もともとウェブの仕事に関わっていた経歴もあるし、長年、こうしてブログやソーシャルメディアを使ったコミュニケーションもしてきているので、そもそも現在のソーシャル的なものがグローバルにつながりあった複雑な社会と深く関係していることだとは感じていましたが、最近、デュポン社とマギル大学が共同で設立したソーシャルイノベーション・シンクタンクで、ソーシャルイノベーションについての研究を行ってきたフランシス・ウェスリー、ブレンダ・ツィンマーマン、マイケル クイン・パットンの3人がまとめた『誰が世界を変えるのか ソーシャルイノベーションはここから始まる』という本を読んで、さらにその考えが強くなりました。

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ワーク・シフト/リンダ・グラットン

ひさしぶりに書評記事を書いてみようと思います。 取り上げるのは、ロンドン・ビジネススクール教授のリンダ・グラットンが2025年をターゲットとして「働き方の未来」を考察した1冊『ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉』です。 とにかく必読だと思います。 この本に関しては、すでに十分すぎるほど話題にはなっていますし、いろんな方が紹介&絶賛している1冊です。販売のほうも好調のようです。 ですので、あらためて僕が紹介するまでもないと思わなくもありません。 けれど、この本が扱う「働き方の未来」というテーマに関しては、僕自身、積極的に考えたり、実践的に動いたりもしたいと思うと同時に、いろんな方と話をしていきたいと感じています。 だから、ここで書評記事という形をとって書いてみたいのは、単純な内容の紹介というより、この本を読みつつ、あらためて感じた「未来の生き方」についての僕自身の考えです。

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モナドの窓/ホルスト・ブレーデカンプ

普段、人間観察をしていて感じることの1つに「考えることが苦手な人というのはそもそも表現することが苦手な人である場合が多い」というのがあります。 表現のための素材としての言葉や情報を知らなかったり、素材はもっていてもそれを組み合わせて別のアイデアを生み出すための組み立て方、つまり編集術が拙かったりすると、自分自身が考えていることがうまくイメージできなくて、自分の考えを展開させて論理立てて構築していくことができなかったりします。 意外とみんな気づいていないのかな?と思うのは、考えることとはすなわち書く/描くことだということです。 書く/描くためには書こう/描こうという気持ちだけではなく、具体的に書く/描くための表現技術が必要です。表現するとは、他人に対して何かを伝えるために表現する以前に、自分が理解するために必要なものです。表現できないばかりに理解できず、表現できないばかりに考えを展開できないことというのは多々あります。 江戸時代までの人びとが使った表現の方法に「列挙」という方法がありますが、これは様々なものを並び上げ、数え上げる方法で、絵画の分野では「百○図」や「○○尽くし」といった絵として表現されるものです。ただ、この列挙の方法には実はいまの僕らにとっては当たり前な接続詞が使われず、接続詞によって表現可能な関係性が表現できないのです。 だから、列挙の表現を用いていた人びとには、理由や原因と結果だったり、所有や被所有という関係だったり、逆説や反論のような論理的な関係を考えることがで…

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King Of Vintage Vol.3 : Heller’s Cafe Featuring Larry’s …

ついに出ました。待ちに待ってました。 先日9月3日の土曜日に『King Of Vintage Vol.3 : Heller’s Cafe Featuring Larry’s Collections Part 2』が発売されました。 前作の『King of Vintage No.1:Heller’s Cafe』が販売後まもなく完売したという伝説をもつ、アメリカにおけるヴィンテージクローズディーラーの草分け的存在であるラリー・マッコインの膨大なコレクションを紹介する写真集の第2弾です。 今回も前回同様、ラリー氏のコレクションの中から厳選された218点の激レア・アイテムが並んでいますが、そのほとんどが19世紀後半から1940年代くらいのきわめて古いワークウェアでどれも個性的な表情をしていて魅力的です。 ラリー・マッコイン氏は、シカゴにHeller’s Cafeというショップを構える世界ナンバー1といわれるヴィンテージウェアのディラーです。日本では、WAREHOUSEとのコラボレーションで展開する同名ブランドヘラーズカフェ Heller’s Cafeでも知られています。

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アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育/バーバラ・M・スタフォード

分けることが分かることだとすれば、印刷文字以降の人びとの思考スタイルほど、紙の上でさまざまな物事を分けて配置し、その位置を定めることで物事を定義することに傾いた時代はない。 ある言葉は辞書に記された定義のように現実の世界を正確に映しているとでもいうように、人びとは実世界から切り離された涼しい会議室のなかで、あーでもないこーでもないと議論をし、定価で買える間違いも不良もないブランド品を求め、いつでも同じクオリティの品をいつでも同じ価格で購入できるようなモノ—記号の結びつきを疑わなかった。高いモノはいいモノで、価格はその品の価値を反映しているし、言葉はそれが指し示す対象をいつでもぶれることなく指し示しているかのように信じていた。 ところが、どうだろう? このあらゆるテクストが超高速でソーシャルメディアのTLやウォールの上を流れては消えるおしゃべり化する社会で、何かこれは確かなものだといえる。定義や定価があるだろうか? ある言葉はいつでもおなじことを指し示し、誰に話しても同じように理解されるような確かさをいまだに持ち続けているだろうか? そんな先行きが不透明であやふやになりつつある世の中で、インフォグラフィックスやプレゼンテーションスキルやユニバーサルデザインのような「わかりやすさ」のための手業を人びとが求めるのは、まさにそうした確かさの時代の終わりにさしかかった過渡期の世界の象徴的な反応ではなかろうか? 言葉のアクロバティックな応酬は見事な芸術と機械仕掛けの「いかさま芸」の間を…

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声の文化と文字の文化/ウォルター・J・オング

ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』。原題は"Orality and Literacy"。 当ブログではここ最近何度も取り上げてきたこの1冊を今日はあらためて紹介してみようと思います。 著者自身が「序文」で書いているように、この本の主題はオラリティー(声の文化)とリテラシー(文字の文化)の違いを明らかにすることです。 あるいは、すでに文字があることやそれを使って生きるということに親しみすぎてしまって、もはや文字がない生活や思考がどういうものなのか想像もできなくなっている僕ら現代人にも、文字のない声の文化における思考や言語表現がどのようなものであるかを知れるようにすることが本書の主題だともいえます。 実際、文字を使って思考し生きることに親しみすぎてしまっている僕らは、文字をもたない人びとがどれほど自分たちとは異なるかを想像することもできません。 例えば、こうやってブログを書くことに関してもそうです。文字がなければブログが書けないのは当然としても、実は文字がなければ文章でそれを表現できないどころか、同じような内容で考えることさえできないことを僕らは見過ごしています。 僕自身、実際、文字をたよりにせずに、いつも書いているように長文のブログと同じ内容を話せるかといわれると絶対無理だと思います。似たような事柄を含む話はできると思いますが、ブログで書いているような文体で話をすることはまず不可能です。よく実際に会ってみるとブログを読んでいる印象と違うと言われること…

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中世の覚醒/リチャード・E・ルーベンスタイン

長い間、西ヨーロッパから失われていたアリストテレスの著作は、レコンキスタでムスリムの支配から脱した12世紀のスペインで再発見されます。実に1000年近く、西欧の人々に忘れられていたギリシアの哲学者の思想は、当時のキリスト教者にとっては異教の敵であったはずのムスリムの人々の手で守られてきたおかげで、西欧の人々の視線のうちに復活したのです。 それが中世スコラ学を生む原動力ともなり、さらには近代の科学革命にもつながる西欧思想の源流ともなった「アリストテレス革命」のはじまりでした。同時に、それは古代と近代のはざまで実現した「信仰と理性が手を結んだ希少な時代」でもあったのです。 ヨーロッパ中世の歴史に疎い僕らはつい、ヨーロッパの中世というと「暗黒の時代」だと思い込みがちです。 しかし、実際には、本書で著者が明らかにしてくれたとおり、ヨーロッパ中世の1000年がまるごと暗黒に包まれた時代というわけではありません。少なくとも本書で「知の革新」「信仰と理性の蜜月」の時代として描かれた12世紀から13世紀に関しては、近代化を進めた啓蒙の時代とは別の考え方で、「蒙(くら)きを啓(ひら)いた」時代であったことが本書を読むとわかります。 アリストテレス革命を再現することによって、私たちはおのれがコペルニクス、ガリレイ、アダム・スミス、トマス・ジェファーソンの子どもであるにとどまらず、アリストテレスの子どもであることを理解する。そう、私たちは、近代的なるものの欠陥が明らかになるにつれてより興味深…

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知はいかにして「再発明」されたか/イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン

知を保存・蓄積し、他者や別の世代に伝えたり、あるいは知識を利用可能にすることで社会に働きかけることを可能にする「知の装置」。西洋の歴史においては、その知の装置が何度か刷新され、その度ごとに知識の価値に変化か起きているといいます。 今回紹介するイアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートンによる『知はいかにして「再発明」されたか』は、そんな西洋における知の保存や伝達、可用性を可能にするための装置の変遷とそれによる知の再発見の歴史を紐解いた一冊です。 知の生産や保存や伝達が、経済や文化や技術の広範な変化を受けて、根本から問い直されるのははじめてではない。わたしたちは今、どうすれば文化の再生産を確かなものにできるのだろう。 (中略) 知の総体を組織化して伝達するには、どのような制度を作らなくてはならないのか。 イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発明」されたか』 この一冊で著者らは、西洋の歴史に登場した6つの知の装置=制度の変遷に目を向けることで、「どうすれば文化の再生産を確かなものにできる」のかという問いに応えうる新たな「知の装置=制度」の可能性を考察するためのヒントを与えてくれています。

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