創造的な過程としての読書
意識というのは結局のところ、行動の残滓のようなものではないかと思う。
ずっと前に紹介した脳神経科学者ジェラルド・M・エーデルマンの『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』(書評)には、こんな図を紹介した上で、
次のようなことが述べられます。
Cは、高次元の識別を反映し、ゆえにその高次元の識別をもたらすC'の存在なくしてCが生じることはない。Cは対応関係を反映するものであって、直接的にも場の属性を通しても、物理的に何かを引き起こすことはできない。しかし、C'は違う。C'の活動は次のC'の活動を因果的に引き起こす。そのC'に必然的に伴う、伴立するのがCというわけだ。
ジェラルド・M・エーデルマン『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』
ここでエーデルマンが言っているのは、意識プロセスとしてのCは、あくまで外界の信号を受け取り、それに対して行動を起こし、さらにそのフィードバックを外界から受けるといった一連の因果関係をもった活動のプロセスであるC'を「現象変換」させたものにすぎないということです。
なぜ意識が物理的な肉体を動かすのか?という従来からの志向性の問題を、エーデルマンは逆転させる形で、意識プロセスを物理的・神経的プロセスの投影として、残滓として捉えている。僕はこの考え方にとても納得するところがあるので、自分でもこの考え方を仮説として採用しています。