民藝の器と料理

しばらく民藝の器と料理の写真の紹介をしていなくて、結構、たまっているので、今日は一気に載せておこうか、と。 時期的には去年末から最近までを。 では、クリスマスの1枚から。 普段に比べると、品数は多め。 クリスマスに民藝の器というのもなかなかよい。あっ、でも長い楕円のものは石垣島で買った作家ものか。

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創造的な過程としての読書

意識というのは結局のところ、行動の残滓のようなものではないかと思う。 ずっと前に紹介した脳神経科学者ジェラルド・M・エーデルマンの『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』(書評)には、こんな図を紹介した上で、 次のようなことが述べられます。 Cは、高次元の識別を反映し、ゆえにその高次元の識別をもたらすC'の存在なくしてCが生じることはない。Cは対応関係を反映するものであって、直接的にも場の属性を通しても、物理的に何かを引き起こすことはできない。しかし、C'は違う。C'の活動は次のC'の活動を因果的に引き起こす。そのC'に必然的に伴う、伴立するのがCというわけだ。 ジェラルド・M・エーデルマン『脳は空より広いか―「私」という現象を考える』 ここでエーデルマンが言っているのは、意識プロセスとしてのCは、あくまで外界の信号を受け取り、それに対して行動を起こし、さらにそのフィードバックを外界から受けるといった一連の因果関係をもった活動のプロセスであるC'を「現象変換」させたものにすぎないということです。 なぜ意識が物理的な肉体を動かすのか?という従来からの志向性の問題を、エーデルマンは逆転させる形で、意識プロセスを物理的・神経的プロセスの投影として、残滓として捉えている。僕はこの考え方にとても納得するところがあるので、自分でもこの考え方を仮説として採用しています。

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未知のものにどう接するか?

最近、バーバラ・スタフォードの『実体への旅―1760年-1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』を読みはじめた。 旅(特に観光旅行、物見遊山)というものが、民衆もするものとなった歴史的経緯について考えてみたいと思ったからだ。 未知のものや場所に対して赴く人間の姿勢を考えるうえで、知らない土地を人びとが訪れる際の行動についてあらためて考えてみたくなったからである。

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バイタリティのない男性たち

この1週間、ほとほと今の男性のバイタリティのなさにあきれ返らされました。 何があったかは詳しくは書きませんが(PS.誤解が多いようなので補足すると仕事関係の話ではありません。むしろ仕事以外の場でどうか?という話であることを追記)、おなじ状況にあっても、女性は自らの無力を認めつつ、そんな自分に何ができるのかを考えながら行動を移そうとするのに対して、男性のほうはぜんぜんダメな人がいて自らが置かれた状況を前にその状況が悪いと考え、御託を並べるか、思考停止になるか。おまけに自分が行動も思考もしてないくせに、こんな状況では行動も思考も無駄だという。 まったくあきれます。そう感じるなら自ら状況を変えるよう、行動や思考をすればいいだけなのに、それができずに自らの殻にとじこもる。御託と行動を一致できないのは自分の未熟さゆえなのに、それを認められないからよけいに未熟でみっともなくなる。自分の未熟さを認め、思考と行動が一致した形で前に進もうとする女性たちの対称さにあきれました。 なんで男性にこんなにも生きる力がなくなってしまったんだろう、と考えさせられます。まあ、一部の男性かなとも思いますが。

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興味と行動力

興味と行動力って相関関係があっていいものだと思っていましたが、どうも世の中の人びと的には必ずしもそうではないようです。 口では興味があるといいつつ、行動がともなわない人が意外と多い。よくマーケティングリサーチでは購買意欲と実際の購買行動には解離がありますが、それとおなじように「すごくそれに興味があります」という人が実際に、じゃあ、それについて調べたりするかというと必ずしもそうではないらしい。 ものを買うか買わないかという話なら意向と行動に解離があってもいいと思いますが、知識欲と行動の間の解離ってどうなんだろう?

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当事者意識

ヴィレム・フルッサーは、『サブジェクトからプロジェクトへ』のなかで、現代に生きる僕らはすでに法則の従属者(サブジェクト)ではなく、法則の投企者(プロジェクター)であると説いています。 神に従属し、自然法則に従属した僕らの祖先の時代から、僕らはすでに抜け出しており、何かに従うものから自らで自分たちの経済生活を、政治生活を、思想生活を投企する者に完全に変化しているのだといいます。そのとき、僕らは自分たちが決めたこと、デザインした物事に従うものであると同時に、自分たちが従っている物事自体を生み出す者でもあるわけです。 僕はこのことを意識できているかがとても重要なことに思います。 自分たちはもはや純粋な受け手であることができず、常にすでに物事の当事者であるわけです。ほとんどすべてが人工の物事に囲まれた現代の環境で僕らは自分たちを取り囲むすべての物事に関与する当事者、責任者となってしまったことを自覚しなくてはいけないのではないかと思っています。

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第1回 ライフスタイル研究会(仮)会議

昨日、2010年1月30日(土)に、第1回 ライフスタイル研究会(仮)会議を実施してきました。 会議の目的は、「ライフスタイル研究会(仮)での自分の関わり方をつかむ! 」ことと「会の活動の方向性を検討する」とし、研究会の準備室に参加していただいているメンバーのうち、関東近辺に住んでらっしゃる11名の方に参加いただきました。 会議の式次第は、こんな感じ。 ごあいさつ会の設立背景と主旨説明自己紹介休憩、おやつKJ法による会の方向性の検討休憩各チームからのKJ法の結果発表会の方向性についてディスカッション次回の活動について 14時スタートで、当初19時までの予定でしたが、やっぱりKJ法のところで時間がかかり、結局は20時まで行いました。

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運命

運命みたいなことを考えています。 人が自分ではどうしようもないものとしての運命。運命が決まってるか、決まってないかという話は割とどうでもよくて、むしろ決まってるかどうかがわからないことも含めて、人がどうにもできないものとしての運命を考えてます。 なぜ、そんなことを考えているかというと、人がどうにもならないものへの敬意とか、逆にどうにもならない運命の力を借りて進む他力本願みたいなものへの意識が足りないなと感じるからです。いや、正確にいえば、足りないどころか、人にはどうにもならないものを意識の外、社会の外に排除している。 排除しておいて、自分たち視点で何でも都合よく考える。自分たちができることの範囲で、できることとできないこと、あるいはできる人とできない人を順序づけています。 その方向性がなんともやるせないな、と。だって、人にはどうにもならない運命の前ではそんなできる/できないの順列はなんとも馬鹿馬鹿しいかぎりですから。

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わかりにくさ、あいまいさの必要性

最近よく思うこと。 理解されすぎちゃダメ。理解されるより理解しようというきっかけになることが大事だなって思う。 1つの固定した「理解」を伝えようとすれば、どうしても押し付けにならざるをえない面がある。けれど、実際の「理解」は決して1つではない。ある事象にはさまざまな「理解」があっていい。いや、ないといけないと思う。 いまって「理解」を固定することで、安心したがる傾向が強すぎるのではないか。すぐに答えを求めがちで、自ら答えをつくることしかないということに対して腰が引けてしまっているし、そんなこと考えてもみない人がいたりする。 そんな人に「理解」を安易に渡してしまうことに、僕は最近戸惑いを感じています。それは相手の思考停止の片棒を担ぐことになってしまうから。

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それは脚気ではない

打てども響かないというか、知的な意味での脚気なんじゅないかと思うくらい、リアクションのできない人がたまにいます。 いろいろ理由があるのですが、その場合、ひとつ困ったなと思うのは、本人が興味があると思っていることと実際に興味があることの間にギャップがあるのに本人が気づかないことが理由になっているケースがあるということです。 膝を叩いても反応しないのは脚気ですが、膝をくすぐって反応しないのは脚気とはいいません。単にくすぐりに対して感度がにぶいだけでしょう。 それと同じように、反応できないのは、そもそも対象となる刺激に対するセンサーを持っていないというケースが思っている以上にあると思うのです。つまり、そもそも興味がないから反応できないんだけど、本人はなぜか自分は興味があるのだと疑わず反応できないのは自分に反応するスキルが足りないから、反応はむずかしいからと思ってしまったりする。 こういうのって、スキルアップや勉強とかへの過度な意識のせいなのかなと思ってしまいます。単に興味がないからわからなかったり、自然に体や意識が反応しないだけなのに、それを自分はまだまだ勉強が足りないからとか、知識が少ない、スキル不足だとか考えてしまう傾向がいまってすごくあるんじゃないかなって思う。そういうことが情報リテラシーとか、知だとか思われてるフシがある。 でも、それって違うんだよね。自然に反射的に反応できない、自分の体がなにかしらのリアクションとしてのアウトプットを出さない対象って、単に興味の対象ではない…

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お気に入りのブーツたち―もうひとつの民藝として

さて、ひさしぶりに書評以外のエントリーをw。 僕が手づくりの民藝の品―陶磁器や染織物や木工品など―を好きなのは、このブログを読んでくださっている方は、すでにご存知だと思いますが、今日はそれ以外で僕がおなじようにこれも民藝の品と考えてよいだろうと思っている、お気に入りのブーツを紹介。 写真は、左上から時計回りに、レッドウイングのペコスブーツ、ラッセルモカシンのゼファーブーツ、おなじくラッセルモカシンのスポーティングクレイチャッカ、そして、サンダースのブローグブーツとチャッカ。 このうち、ラッセルモカシンのゼファーとサンダースのブローグブーツは昨年2月のエントリー「どうせ持つなら長く使えるものを」で、ラッセルモカシンのスポーティングクレイチャッカは9月の「2009-09-21:浜離宮恩賜庭園」というエントリーで、すでにブログ内にも登場してます。 ラッセルモカシンのゼファーとサンダースのブローグブーツはその時点でも結構味が出ていたのですが、さらに履きこんでいい感じになってきてます。レッドウイングのペコスとサンダースのチャッカに関しては昨年の10月、11月にそれぞれ購入したばかりなので、まだまだ試運転中。 ブーツって買ったときが一番格好わるいなと思ってるので、どんどん履きこんで味を出さないとって思ってます。

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人間がつくれないモノ

元旦の今日。夕暮れ時に外に出てみると、空がとても綺麗な色合いに染まっていました。 大きなマンションの建物が額縁のようで、空の色のグラデーション、夕陽を反射させた雲の複雑な色合いがすっかり主役となっていました。 最近、こうした夕暮れの空を眺めることが多い。冬の澄んだ空気がみせる夕暮れの空はわりと好きです。 さらに陽が暮れて暗闇に覆われた空に明るい月が浮かんでいるのも乾いた冬の空でみるほうが好きです。湿気をまとった朧ろ月よりも硬質な光りをみせる冬の月のほうが好きだと最近わかった。

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生産力よりも消費力

最近、世の中をみていて、いまの日本社会に必要なのは、これ以上、生産力の向上を目指すことよりも、消費力を引き上げることではないかと感じます。 それはいわゆる需要と供給という話とはすこし違って、単純な経済的な話でもないと思っています。自分たちの生活や生き方や人生の理想が描けなくなっているのではないか。そう感じるのです。 それも個々人が自分の理想を描けなくなっているということよりも、社会としての構想力やコンポジションが欠けていて、理想の世界を描けなくなっているということのほうが大きい。それが根本にあっての消費力の低下というのがあるのだろうと感じるのです。

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説明

やっぱり言葉が多すぎるのかもしれない。 いや、言葉だけが流通してしまう状態が多すぎるのかも。 その言葉ばかりを追いかけて、言葉漬けになってしまっている人は少なくないだろう。それは僕自身も含めて。 特に説明的な言葉ばかりに頼る身体になってしまっているのはよくない。 理屈や一般論だけで実態がないのに納得してしまったり、逆に実態がそこにあるのに説明がないと受け付けられなかったり。 論理性、合理的な説明がないとわからない、不安になるという状態はやはり疑問に思う。すべてを論理や合理によって説明可能であると疑わずに、なんにつけ、説明を求めてしまう姿勢はあらためていかなくてはいけないのではないか。

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自分がない

ネット上で誰かとコミュニケーションする。自分のブログを書く。電話で誰かと話す。手紙を書く。メールを書く。コミュニティでやりとりをする。 そうしたコミュニケーションを繰り返すことで、逆に失われていく自分というのがあると思います。コミュニケーションすることで生まれる自分と失われる自分がある。 特に、そうしたコミュニケーションのなかで、誰かや他の何かを否定したり批判したりが多かったりすると、徐々に自分が失われていく。見失われていってしまう。

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僕がライフスタイル研究会(仮)を立ち上げたいと考える理由

ライフスタイル研究会(仮)準備室に多くの方から申請をいただいています。 こんなに多くの人に賛同いただけるのは予想外のことで非常にありがたい。 ただ、僕の最初の投げ掛けがあいまいすぎたこともあって、僕のイメージしているものと、申請いただいた方が期待するもののイメージにギャップがある場合もあって、大変申し訳なく思いながら、すでに何人かの方には申請を却下させていただいています。 ですので、もうすこしギャップが生まれないよう、あらためてここで、僕がライフスタイル研究会(仮)を立ち上げたいと考える理由について整理しておこうと思います。

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続・ライフスタイル研究会(仮)

昨日、なんとなくアイデアベースで発信したライフスタイル研究会(仮)。 いろんな方から反響をいただいたので、 メンバー間のコミュニケーションや今後の方向性を探るディスカッションのために、 以下に準備室としてグーグルグループを作成しました。 http://groups.google.co.jp/group/life-lab こちらの参加は自由です。 また登録したからといって、そのまま研究会参加ということでもありませんのでとりあえずどんなことをやるんだろうと興味のある方は登録してみてください。 なお、参加希望の際は、簡単で結構ですので、下記を記入ください。 ・本名またはニックネーム ・職業や所属(可能な範囲で) ・どんな仕事をしているか? ・なぜ参加してみようと思ったか? ライフスタイル研究会(仮)という、これからの生活文化のあり方を研究し考えて、実現のためのモデルを提案していく活動をする(基本的には)非営利な組織結成のための準備室。 主軸にあるのは、地域性を活かした暮らしの提案や働き方、ものづくりの提案を企画し実現していくプロジェクト。 その意味では、研究会というよりはデザインプロジェクト。 ここは、そうしたプロジェクト開始の準備をするためのディスカッションを行う準備室です。 ライフスタイル研究会(仮)準備室 P.S. すみません。主旨がうまく伝わっていないところがあったようなので補足です。 下記をお読みになって、それでも参…

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ライフスタイル研究会みたいなもの

忙しくてブログもろくに書けてませんが、最近、なんとなく表題のような結社みたいなものを組織化できないかと考えてます。 これからの生活文化のあり方みたいなものを研究し考えて、実現のためのモデルを提案していくような活動をする(基本的には)非営利な組織。 主軸にあるのは地域性を活かした暮らしの提案や働き方、ものづくりの提案を生み出して、実現していくようなプロジェクト。その意味では、研究会というよりはイメージ的にはデザインプロジェクトのようなものになるといいな、と。 まあ、基本的にはいつもこのブログで書いてるようなことを現実化する方法や方向性を探るようなものかな。最初はゆるーくスタートできるといいなと思っていて、活動の具体的な内容も初期メンバーで話し合って決める形かな、と。 おもしろそう、参加したい、という方はいるでしょうか。 関連エントリー 自分の生活と仕事は一致しているだろうか"ほんもの"の生活?地域というインターフェイス

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自分の生活と仕事は一致しているだろうか

ふと思った。 何かといえば他人やモノを疑うばかりで、信じるということが自然にできなくなっているいまの時代。その原因のひとつに、自分がやっている仕事と自分たちの暮らしが大きくかけ離れてしまっているということがあるのではないか、と。 どうだろう。自分のやっている仕事が自分のライフスタイルをつくるのに、ぴったりとあっていると感じられている人はどれくらいいるのだろうか。自分たちの仕事が生み出すモノやサービスが自分たちの暮らしを豊かに(物質的な意味だけでなく精神的な意味でも)するものだと、ある程度の自信をもって感じられている人はどの程度存在するのだろうか。

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