3月のスタイリングをカレンダーにまとめてみた

今日から4月になりましたね。春。衣替えです。 衣替えといえば、今年に入ってくらいからだったかと記憶していますが、その日、自分がしていた格好を写真に撮り、Facebookに投稿するというのが習慣になっています。 毎日実行しているとはいえませんが、その結果はこんな風に溜まっています。 今日のスタイル2010-11AW今日のスタイル 2011spring 暦的にいえば、衣替えは今日からなんでしょうけど、すでに3月に入って暖かい日は春めいた格好をする日もあったので、スプリングに分類されたアルバムもできてます。 三寒四温といいますが、実際、どのくらいの割当で、冬/春が入り混じってたのかなというのをなんとなく視覚的に確かめたいなと思い、以下のように撮りためた写真をカレンダー上に並べてみました。 今月は震災の影響もあって中旬以降、ほとんど客先訪問もなかったので、デニム着用率が高かったのが、この写真を見てもわかります。基本はオールドなワークスタイルが好みです。 パンツだけでなく、ジャケットやシャツもふくめて考えると、どこかしらにデニムのアイテムを身につけていない日は少なかったようです。 まあ、理想は毎日デニムを着ることなんですけど。 デニムをはいて、タフなワークブーツをはいて、毎日過ごすのが理想のライフスタイル。デニム以外の日もダックやシャンブレーなどのワークな素材が基本です。 あとベスト着用率も高いですが、それはデフォルト。 オンだろうがオフだろうがベストはかな…

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「所有」から「利用」へ

シェアのビジネスは、人びとのモノに対する態度を「所有」から「利用」へと変換します。 例えば、子供のおもちゃの「シェア」サービスであるBabyPlays.com。 このサイトで、使わなくなったおもちゃをもつ人と新たにおもちゃを欲しがっている人の間でおもちゃの所有権が移動するわけですが、これも「所有」よりも「利用」が重視されているからです。 買って買ってとねだられて買ったのに、すぐに飽きてしまう子供のおもちゃをゴミにしないために、賢くシェアする形にライフスタイルが変化します。 また、バッグやアクセサリーのレンタルサービスであるBagBorroworSteal.comでも同じです。 高くて買えないブランドもののバッグでも、レンタルなら手が届きます。しかも、気分に合わせていろんなブランドのバッグを利用することができる。バッグがたくさんありすぎて、置き場所に困るなんてこともありません。 そうです。これらのサービスの利用者にとっては、何を「所有」しているかではなく、自分が「利用」したいものを利用するために、どうモノにアクセスしているかが、彼らにとってのステータスになっています。 ブランドものを持っていてかっこいいという古い価値観ではなく、どう賢く自分が好きなものを利用していて、結果として環境にもやさしい生活をおくっていることが新しいかっこよさになりはじめているのです。

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ピア・ツー・ピアがデフォルトに

今日も毎週末恒例のファーマーズマーケットに行ってきました。もうなくなるなと懸念していたお米も無事ゲットでき、他にもスーパーでは品薄の食材を手に入れることができ、よかったなと。 ファーマーズマーケットへはいつも原宿の駅を降りて国連大学の前の会場まで表参道を歩いて行っています。 休日の表参道は、普段に比べればまたまだ人は少ないけれど、ちゃんと街の活気はあるところにはあるんだなと感じました。 ファーマーズマーケットでも同じようにことを感じたのですが、震災の影響による経済不安が囁かれたりもしますが、それはニュースの中や、オフィスの会議室の中の幻想じゃないかとも思えてきます。 僕自身、ちょっと意外だったんですが、地震の影響受けてAmazonのアフィリエイトも売れなくなるかな?と思ってたんですけど、むしろ、売れてるくらいなんですね。 そういうところだけ見ると、もしかすると地震で経済が縮小みたいな話って、需要の問題じゃなくて供給側が市場のニーズをわかってないからではないかと思えたりもします。単にいまの状況におけるウォンツに適した提案が供給側からできてないから景気が心配になるのであって、ウォンツ自体は変化しても量的にすくなくなっているわけではないんじゃないかと。そうなると、もはやそれは景気の問題ではなく、単純にマーケティングの問題です。 昨年あたりの若者の嫌消費の話と同じです。若者は消費が嫌なんじゃなくて、古い消費のスタイルが嫌なだけ。ちゃんと新しい消費をし…

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心の足場を作る

震災以降、TwitterやFacebookページへの投稿が増えています。 刻々と変化する環境の変化に、僕自身のことばのトーンも日に日に変化しているのが自分でもはっきりわかります。 土曜日にはさすがに自分のことばが素直に出せず、大きく戸惑っていたことがわかります。それに気づいて、外の空気に触れ、感じたままを書こうと思ったのが日曜日。ただ、それはまだ僕自身のなかに宙に浮いたような違和感を残したままでした。 そして、週も明け、仕事に向かった昨日。まずは朝から自分の動揺と不安を残した心と、世の中の見た目には普段とさほど変わらない光景のギャップにショックを受けました。 交通機関の運行状況の乱れが原因で駅は異様なほど大混雑はしていましたが、スーツにヒールにと普段と変わらないビジネス仕様の人ばかり。 こんなことが起きても何も変わらないのだろうか、心に残る不安や恐怖や戸惑いを形に表すことはできないのだろうかと、万が一に備えてタフな格好にタフなブーツを履いて出社に挑んだ僕は逆浦島太郎の気分にもなりました。 そんな気分を抱えたまま、会社のそばで小さな春を見つけたり。 小さなことも震災以前とはまったく違って感じられる僕がいることに、僕は気づいている。 ただ、その新しい僕がまだ古い僕の心との間にギャップを抱えたままだから、心の足下が固まらず、ゆらゆらと揺れているのがわかるのです。 僕はいま自分が普段以上にTwitterやFacebookに自分のことばを投稿しているのは、この状…

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必要以上のポジティブシンキングは他人の目には病的に映ることがある。 とりわけ自己や自己の周りのものに対する過剰なポジティブシンキングというのは情緒不安定に感じられる。 無理してポジティブに振舞おうとせず、ニュートラルでよいだろう。

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何も変えなくていい、何もしなくていい

最近、自分のなかで明らかに価値観が変わってきているのを感じます。 何も変えなくていい。無理して何かをしなくていい。むしろ、そうすることがかっこ悪く、おろかなことのように思えるのです。 「弱くていい」を書いた頃から、ずっとそれを感じています。1つ前の「お金がないと食べるものさえ手に入らないなんて」も結局はおなじ気持ちからの発露です。 もちろん、その兆候はもっと前からありました。 『フォークの歯はなぜ四本になったか』(書評)の解説を書いたときにすでにその自覚が見え隠れしています。その本で著者のペトロスキーは「完璧になった」人工物などありえない、と言っているのですが、それはデザインとは常に新たな欠陥、問題を生む術であるということでもあるということです。 「モノが1つ生まれれば世界が変わる」。 僕はそう解説で記していますが、その変化は良い方向にも悪い方向にも進みます。そして、その変化は実はコントロールできない。その意味では実は人間はデザイン=構想なんてできていないのです。 いや、僕がそういうことを感じ出したのは、もっと以前からです。 すでに『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』を書いている時点で、実は「○○が世界を変える」ということへの疑念がありました。その疑念が僕に「終わりに」で「デザインしすぎない」という文章を書かせていました。 それでも、『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』を書いている時点ではまだ、「いま自分たちが置かれた状況をすこ…

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お金がないと食べるものさえ手に入らないなんて

お金がないと食べるものさえ手に入らないなんて、実はとんでもなく異常なことではないかと最近思えるようになりました。 必要なものを手にいれるのにお金を払うのは当たり前だろ、と思われる方は多いでしょうが、本当にそうなのかが疑問に感じられるようになりました。

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丸若屋の印伝のiPhoneケース

誕生日プレゼントに丸若屋( http://shop.maru-waka.com/ )の印伝の iPhone ケースをもらいました。 これです。 表から見ると、こんな感じ。 これまでカバーなしの裸の状態で使ってましたが、晴れて裸族を卒業ですw

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美しい生活を探しに

ここ数日、美について考えている。 何が美なのかではなく、美は人間にとって、どんな価値なのだろうか、と。 美に関することが苦手な人は少なくない。自分には美的センスがないと頑なに信じている人がいる。 どうして、そんなに美を忌避するのだろうか?と思う。 美を感じるセンスは個性だから、教育などを通じて学ぶことはむずかしいともいう。 だが、それは答えになっていない。 美を感じるセンスは僕も個性だと思うが、では、ほかの知力や価値観や行動力はどうなのだと思うからだ。それらも個性以外のなにものでもないが、それらが美に対するような頑なな忌避の態度が示されたり、教育に対する絶望的な見解が示されたのをみたことがないからだ。 明らかに、美に対しては、他のものとは異なる何かが働いている。 そうした否定的な側の態度も含めて、美とは人間にとって、どんなものなのだろうか、と考えているのだ。 さて、当然ながら、こんな問題に最終回答はない。 答えがないと不安になる方には酷だが、そういうものだ。 だが、最終回答はないにしても、答えらしき仮説を紡ぎ出すことはできる。 そのいくつかをここで書いてみたい。

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ライフスタイル研究会「食文化に関するプロジェクト」1

これまで進めていたライフスタイル研究会もようやく、その活動の方向性が固まりつつある。 前回のミーティングで、台所まわりを中心とした食文化の見直しという観点で方向性を探っていこうとなり、その後、各自が活動の方向性についてさらに深く考えるために自主研究を進めることになったことは、このブログでもすでに紹介済み。 それがだいたい1ヶ月前。その間、僕自身は「台所空間学/山口昌伴」や「火の賜物―ヒトは料理で進化した/リチャード・ランガム」、「食とコミュニケーション」で紹介した柳田國男さんの『年中行事覚書』などの本や読んだり、イタリアの家庭料理について学ぶ機会をいただいたりした。 そうした、それぞれの充電を経て、メンバーが再び集まったのがおとといの土曜日。 それぞれが収集した情報を共有した上で、現在の食文化における問題点とその解決に向けた活動のアイデアをブレインストーミングで出し、KJ法的なまとめをした。 暗い照明のもと、iPhoneでの撮影なのでまったく何かわからないが、その結果がコレ。

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際立つ者に

際立つ。際に立つ。 真ん中にぬくぬくといたのではわからないことが、中心を逸れて、際に立つことで見えてくる。 世の中の際。領域/分野の境界。意識と無意識の境目。 自と他の交わり、混ざり合う際で、異質なモノと出会うことから何かがはじまる。逆にいえば、そうした際にこそ、はじまりはある。入学式も成人式も本来そうした際に立つ節目であるからこそ、そこから何かがはじまる可能性をもっていたはずだ。 中心からは何もはじまらない。 中心には予定調和だけがある。そこにいる限り、停滞が唯一の友達だ。 中心は多くの場合、自分である。 自然にしていたら、際からは常に離れていることになる。 だから、際立つためには、意図的に自分から離れないといけない。

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文化抜きの人間工学

山口昌伴さんの『台所空間学』からもう1つエントリーを。 前に書いた「姿勢と動作と気分、そして、モノの形」にも関連する、床坐と立ち姿勢と室内空間との関係について。 あるいは生活文化の方面から人間工学というものを再考するこころみのきっかけとして。

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食文化におけるクラウド

前回書評を書いた、山口昌伴さんの『台所空間学』を読んで感じたことをもう1つ。 それはいまコンピュータ関連の分野では話題になっているクラウドが、実は食文化においてはとっくに実現されているということである。 今更いうまでもなくクラウドコンピューティングにおいては、ユーザーは自分が所有するクライアント側には最低限の環境をもつだけで、必要なサービスはネットワーク(インターネット)経由で利用する形態となるが、それが実は食の分野においてはとっくに実現されてしまっているのだということに気づいて唖然としたのだ。

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計画のスパン

山口昌伴さんの『台所空間学』という本が非常におもしろい。 とにかくこれまで無意識に抱いていた台所観やるれ料理というものの捉え方が非常に狭いものだったと認識させられる。当たり前が当たり前でなくなるのだ。 まだ全部読み終えてはいないが、へーっと感じたことをひとつ紹介することにする。

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食とコミュニケーション

さて、以前にこのブログでも話題にしたライフスタイル研究会のその後。 実は(仮)もとれて、正式に「ライフスタイル研究会」として活動をスタートしている。 活動のテーマとしては、まず第1弾のプロジェクトとして、食やキッチンまわりのライフスタイルを考えていこうとなって、先週の土曜日にキックオフの会議を行った。 その中では、料理とかキッチンということを考える際には「料理を作る」というところにフォーカスするか、「料理を食べる」というところにフォーカスするのかで違いがありそうだねという話をしたり、料理のまわりに人が集まることによるコミュニケーションの形というのを考え直したいねという話になった。 「生の食材を調理(裁断、加熱、調味など)によって、人間が食べられる料理にする場所」というのが僕のキッチンの捉え方であると同時に、「料理を作る」というのは動物にはない人間に固有の行為だと考えている。 「食べる」行為は動物もするが、人間の場合、その前に「料理をする」がある。 その人間固有の作業としての「作る」という行為を考えるのはおもしろそうだと思っている。 また、料理のまわりに人が集まることによるコミュニケーションの形に関しては「シェアハウス」「ルームシェアリング」といった新しい居住形態が生まれつつあるなかで、家族や会社組織などとは別のコミュニティ、不定期に行われる料理を食べる会などでのつながりなど、新しいコミュニケーションが求められてきているようにも感じる。そうしたなかで料理や食とコミュニケ…

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最近の料理 2010-04-10

恒例になっていますが、最近つくった料理の写真をランダムに掲載。 まずは春らしく空豆のコロッケ。 普段、揚げ物などしないので、めずらしい。 いっしょに作ったのが鶏肉と新じゃがの白ワイン煮。 いっしょに写真を撮るのを忘れましたが、皿の白と黒のコントラストがいい感じでした。

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知っているということの呪縛

「抽象的/具体的という軸に対して消極的態度をとる」では、人は文章を読んでも、自分が知らないことはわからないと書いた。 よほど想像力を使って創造的な編集をしながら読まない限り、未知の事柄を理解するのはむずかしい。文章がわかりやすいという場合、知っている事柄が並んでいて、その既知の並びが総合的にみると、知らなかったことを語っているように思える場合だろう。人は知らない事柄を文章をなんとなく読むだけでわかることはできない。 とうぜん、このこと自体、教育とか学習のあり方を考える上では重要な事柄であるのは間違いないが、今日はその話ではない。 今日の話は、では、どうすれば未知の事柄を既知に変えることができるかということと、知っているということの呪縛に人がいかに囚われやすいかということの2点についてだ。

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他人の話の意を汲む

他人の話を聞いて、言葉そのまましか理解できないか、言葉で表現された以上に相手の意図を汲めるかどうかの差は大きい。 別に、それは相手の気持ちをわかるという話ではなく、相手が何かをお願いしてきたり、何かを話題にしてきた際に、なぜ相手がそのお願いや話題をいまするのか、なぜこの文脈のなかでしているのかということから構造的・論理的に想像できるかどうかという意味で。

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小鹿田焼の壺と嶋田窯の甕

これまでも持っている民藝の器や木工品などを掲載してきたが、今日はこれ。 小鹿田焼の壺(左)と嶋田窯の甕(右)。 いままでは食器ばかりで大物にはあまり興味をもたなかったのだけれど、2月に先に小鹿田焼の壺を買って以来、民藝の大物の品の魅力にはまっている。 大きさはどれくらいかというと、ブーツと比べるとこれくらい。 ブーツの高さが10インチだから25センチくらい。それよりすこし高さがあるのが小鹿田焼の壺。嶋田窯の甕は蓋込みで24センチで、容量は2升。

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流行りのことばを語るのをやめる

流行りのことば、話題になっている事柄を語るのをやめようと思う。ここ最近は十分にその傾向はあったとはいえ、今後は意識的にその傾向に拍車をかけたい。 流行りのことば、話題の事柄を語るというのは、ある面では他人のことばで語ること、他人の視点で見ることにほかならない。ニュースになっている事柄、ありきたりな言い回しで物事を語ることは容易い。語りのフレームワーク、物事の見方に関する枠組みが用意されているからだ。 もちろん、用意されたそのままを語るのではないにせよ、後だしじゃんけんには変わりない。何を出せばよいかは自分で考えるまでもなく決まっている。そんなじゃんけんは終わりにしたい。

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